今回の話題は科学です。<o:p></o:p>
昔、拡散方程式を勉強しました。<o:p></o:p>
粒子や熱や電圧が拡散する挙動を偏微分方程式にしたものです。1式です。<o:p></o:p>
粒子の濃度(C)、温度(T)、電圧(V)等の時間変化と位置変化を<o:p></o:p>
方程式で表しています。ここに使われる物性値は拡散係数Dだけです。<o:p></o:p>
(電圧の伝搬の場合は抵抗と静電容量の積RCだけ)<o:p></o:p>
一般の拡散方程式では1式の1/CR の替わりに拡散係数Dを書きます。<o:p></o:p>
x=0, t=0 でステップ電圧E0を加えた時、この方程式の解が解析的に解かれており、誤差関数を含む2式が知られています。<o:p></o:p>
これを図で表現したのが下の16・3図です。<o:p></o:p>
(関口忠著 電気回路Ⅱ オーム社より)<o:p></o:p>
粒子が出現した地点からいかに大きい距離xの所で見ていても、そこでは粒子がx=0の位置に出現した瞬間から僅かながらその影響が現れ始めます。これは粒子の<o:p></o:p>
速度が光速を超すことが可能であるということを意味します。<o:p></o:p>
このことはアインシュタインの特殊相対性理論、「物質や電気信号(V)は<o:p></o:p>
光速を越す速度で移動できない」という理論と合っていません。<o:p></o:p>
以前から、特殊相対性理論との不整合に気付いていましたが<o:p></o:p>
現在でも、私の中では解決できていない課題です。<o:p></o:p>
残念ながら、この不整合を関口先生に直接お尋ねする機会を逸してしまいました。
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上杉謙信は、名利を求めず、信義を何よりも重んじました。戦国時代を含めて日本史上希有の武将であり、戦では鬼神の如く連戦連勝、誠に「越後の竜」でありました。<o:p></o:p>
米澤には下記の家訓が残されています。<o:p></o:p>
・ 心に物なき時は、心廣く體泰なり (心が広々として体がゆったりする)<o:p></o:p>
・ 心に我儘なき時は、愛嬌失はず<o:p></o:p>
・ 心に欲なき時は、義理を行ふ<o:p></o:p>
・ 心に私なき時は、疑ふことなし<o:p></o:p>
・ 心に驕りなき時は、人を敬ふ<o:p></o:p>
・ 心に誤なき時は、人を畏れず<o:p></o:p>
・ 心に邪見なき時は、人を育つる<o:p></o:p>
・ 心に貧なき時は、人に絡ふことなし(ガツガツした心がない時はおべっかを使わないはずだ)<o:p></o:p>
・ 心に堪忍ある時は、事を調ふ<o:p></o:p>
・ 心に曇なき時は、心静なり<o:p></o:p>
・ 心に勇ある時は、悔むことなし<o:p></o:p>
・ 心賤しからざる時は願好まず<o:p></o:p>
・ 心に孝行ある時は、忠節厚し<o:p></o:p>
・ 心に自慢なき時は、人の善を知り<o:p></o:p>
・ 心に迷いなき時は、人を咎めず<o:p></o:p>
謙信公の言葉には重みと含蓄があります。<o:p></o:p>
「夜雨対床」は兄弟の仲が良いことをいう言葉です。雨の夜に枕を並べて語り合うことをいいます。<o:p></o:p>
唐の葦応物の句に初めて出てきます。<o:p></o:p>
「寧(いずくん)ぞ知らん風雨の夜、復た此に床(しょう)<o:p></o:p>
を対して眠らんとは」<o:p></o:p>
宋の蘇軾、蘇轍の兄弟は科挙に合格して官界にありました。蘇軾が<o:p></o:p>
罪を得た時、弟の蘇轍は赦免運動に奔走しました。夜雨対床を詠んだ二人の贈答の詩があります。<o:p></o:p>
蘇軾は有名な前赤壁の賦と後赤壁の賦を残しました。<o:p></o:p>
我が国では山川浩、健次郎兄弟の仲が緊密で、協力して、明治時代を生きました。會津の正義を訴える雪冤の書、「京都守護職始末」を兄弟で刊行しました。<o:p></o:p>
「常在戦場」は長岡藩(新潟県)の藩是です。参州牛久保、牧野氏の壁書きの第一条であり、河井継之助や山本五十六、小林虎三郎の話(米百俵)に出てくる言葉です。<o:p></o:p>
上杉謙信の日頃の心得とも言われます。<o:p></o:p>
牧野氏は家康麾下の徳川十七将の一人で参州牛久保に城を構えましたが、江戸時代初期より越後長岡藩を所領し、譜代大名として明治維新まで続きました。藩風は質実剛健でした。<o:p></o:p>
「常に戦場に在り」いくさの無い折にも常に戦場にある心構えで質実に生活し、いかなる困苦窮乏にも耐えよ、そして刻苦勉励の気風を保つこと。米百俵の精神でもあります。<o:p></o:p>
下の書は後の山本五十六連合艦隊司令長官が、昭和12年春に揮毫したものです。<o:p></o:p>
戊辰戦争で山本帯刀が會津で戦死して、山本家は絶家になっていましたが、牧野公の尽力で、高野五十六は大正5年に長岡藩第一の名家、山本家を再興し山本五十六となりました。
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以下は、中村彰彦著 「山川家の兄弟」 学陽書房 から多くを採りました。
山川唐衣(1817-1889) 山川浩、健次郎、咲子等兄妹の母堂。本名は艶、唐衣(とうい)は歌号です。會津藩重臣山川重固に嫁ぎ二男五女を育てました。唐衣の妹文子は白虎隊(白虎二番士中隊)の生き残りとなった飯沼貞吉の母でした。
長男浩が、京都守護職となった藩主に随って上洛する際には、はなむけに次の歌を贈っています。
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天が下轟く名をばあげずともおくれなとりそもののふの道<o:p></o:p>
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冬の夜などは子供達や奉公人を集めて太閤記、信長記、水滸伝などの面白い為になる小説を毎晩2時間位読んで聞かせたということです。次男健次郎の述懐によれば、「母には非常に厳格な処があり、道に背いた行いに対しては容赦なく之を戒めました。当時の士族の妻は懐剣を帯びてゐましたが、母の懐剣の袋は短くて剣の丈だけの長さでしたから、いざという時には直ぐに抜ける樣になってゐました。これは些細な事ですが、母の平常の心掛けを幾分現はしてゐたと思ひます。」
戊辰戦争で鶴ケ城に入城する際に、一家は死を覚悟していました。落城の後、斗南の地で
厳しい生活を生き抜いた末、青森県士族として東京に居を移しました。
山川家の二男五女は、それぞれの道を歩んでおり大成に向かっていました。<o:p></o:p>
長男 浩 軍において国家に功労があり後に男爵に叙せられます。<o:p></o:p>
次男 健次郎 後に、東京、京都、九州帝大の総長を歴任し、男爵に叙せられます。<o:p></o:p>
長女 二葉 東京女高師(現・お茶の水女子大学)の舎監兼教官を勤めます。<o:p></o:p>
次女 美和<o:p></o:p>
三女 操 ロシアに留学して露語、仏語を学び昭憲皇太后の権掌侍通訳を勤めます。<o:p></o:p>
四女 常磐<o:p></o:p>
五女 咲子 11才で米国への初めての留学生として津田梅子等と渡米し、米国の大学を卒業した初めての日本人女性となりました。後に大山巌元帥と結婚し、堪能な語学力を生かして西欧人と接し、鹿鳴館の華として社交界をリードしました。また、津田梅子を援けて女子英学塾の運営に当たり、女子教育に尽力しました。<o:p></o:p>
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子供達の行く末に安堵したかのように、明治22年に73歳で永眠しました。<o:p></o:p>
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我ながらなにに名残を惜しむらむ思ひおくべきこともなきよに
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會津武士の妻として逆風の時代をひたむきに生きた女性。淡々とした作柄の辞世です。<o:p></o:p>
會津藩の藩士の男子子弟は六歳になると全員「什」(じゅう)という組に入りました。什とは十人を一単位とする遊び仲間です。毎日当番の者の家に集まり、最年長の什長の指示によって遊びや勉強をしました。
什の誓いは次のようもので、毎日大声で唱和しました。
一、 年長者の言うことに背いてはなりませぬ。
二、 年長者に御辞儀をしなければなりませぬ。
三、 虚言(うそ)を言うてはなりませぬ。
四、 卑怯な振舞をしてはなりませぬ。
五、 弱い者をいじめてはなりませぬ。
六、 戸外で物を食べてはなりませぬ。
七、 戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。
八、 ならぬことはならぬものです。
第七項以外は今日でも立派に通用します。什の誓いを破った者には制裁がありました。これを「無念を立てる」と言い、軽いものから重い制裁までありました。
そして十歳になると藩校日新館に通学しました。藩校では漢学、武道、水練など文武両道を学びました。
このようにして、藩士の子弟は少年時代に厳しい教育を受けて會津武士となり、江戸時代には珍しい凛烈な藩風が形成される基になりました。
什の誓いは會津武士道の根幹となりました。<o:p></o:p>
三国志の英雄として周知の人です。
至誠尽忠の人です。
家訓「誡子書(かいししょ)」と言うものを残しています。
優れた人は静かに身を修め、徳を養う。
無欲でなければ志は立たず
穏やかでなければ道は遠い。
学問は静から、才能は学から生まれる。
学ぶことで才能は開花する。
志がなければ学問の完成はない。
約2000年前の言葉ですが、時代や国の枠を越えて
諸葛孔明が多くの人々に感銘を与え尊敬されている所以です。