yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

和算

2010-11-28 06:37:07 | 文化
和算は江戸時代には庶民の学問でした。日常の生活に役立つ数学の問題を解いたり、クイズとして頭脳の訓練をしたりするなど庶民に親しまれました。吉田光由は「塵劫記」という優れた和算の書物を著しています。その中からの問題です。
ここに一升升にいっぱい入った酒があります。空の7合升と3合升を使って1升の酒を5合二つに分けて下さい。
制限時間は5分です。皆様も挑戦してみませんか。なお、途中でこのお酒を飲んではいけません。
例えば以下のように10段階の操作で答が得られます。

各升の酒の量を段階を追って順に示します。(下記)
       1升升   7合升  3合升
最初         10      0     0
第一段階       7      0     3
第二段階       7      3     0
第三段階       4      3     3
第四段階       4      6     0
第五段階       1      6     3
第六段階       1      7     2
第七段階       8      0     2
第八段階       8      2     0
第九段階       5      2     3
第十段階       5      5     0

こうして1升升に5合、7合升に5合と分けることができました。

また、関孝和は「算聖」とも言われた江戸時代の和算の達人で、彼の研究は微積分や円周率を求めることにまで及びました。
さて、半径Rの球(下図の緑)の中に2個の球(茶)が縦にあるとします。この2個の球の間の首のような部分に、ネックレスのように、同じ大きさの球(青)を入れると何個入るでしょうか。
答は6個でその半径(r)を計算してみたら r=R/3 でした。外接球の半径の3分の1です。
これは「六球連鎖の問題」と呼ばれ、1822年に和算家が神奈川県秦野の寒川神社に「算額」(数学の問題と答を書いた額)にして奉納しています。それから約100年後に、イギリスのノーベル化学賞受賞者フレデリック・ゾディもこの問題を解きました。こちらは「ゾディの六球連鎖」として有名です。

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漢字の間違い

2010-11-25 06:51:51 | 文化
かつて、漢字力の低下を案じる文章を見たことがあります。「秋も段々深まりました。姉も段々色づいてきました。」という高校三年生の教え子から便りをもらった先生が一読、びっくりしたという話です。どうも「柿」と書くつもりが「姉」と間違えたらしいのです。この漢字力の低下を案じる文章を書いたその筆者にしても、何かの折りに「祖父」を「粗父」と書き、「年寄りを粗末にするな」とクラスで教師にからかわれたそうです。このように漢字力の低下は昨今の趨勢ではないかと思われます。つまりワープロや携帯電話が普及したので、自ら漢字を書く機会が減ったことが大いに影響しています。電子メールの文章には珍妙なのが沢山あります。先日もらった電子メールの中に「価値」のことが「勝ち」と書いてあり、しばし当惑しました。多分、私なども電子メールの中に度々間違った漢字を書いていることと思います。以前、「平伏する」と書くべきところを「平服する」と書いてしまいました。校正に強い家内が言うところでは、校正よりも校閲はさらに格上の能力がいるそうです。総合国語力と総合学力と広い知識と緻密な注意力。その上、間違いを直感する感性が必要であるとのこと。校閲能力は一種の技芸のようなもので、一朝一夕に身につくものではないようです。さすがに大出版社や大新聞社の校閲部にはプロと呼ぶにふさわしい実力を持っている方が多いようであり、その力に感嘆します。正しい日本文を守る砦のような任を果たしているのでしょう。仮名交り文は漢字と仮名があるので、わかり易く読めますし、表意文字の漢字があることによって、読みやすくなっているからでしょう。正しい日本語の文章を書くためには、日頃から日本語に対する感性を磨いて、正しく使う習慣が大切なようです。
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日昏レテ道遠シ

2010-11-22 08:07:42 | 文学
南宋の朱熹は儒教の新しい学問体系を再構築しました。これは朱子学として日本に伝わり江戸時代に武士の学問となり大きな影響を与えました。朱熹が賦した有名な漢詩、「偶成」を紹介します。
  少年易老學難成
  一寸光陰不可軽
  未覚地塘春草夢
  階前梧葉已秋聲

少年老ヒ易ク 學成り難シ
一寸ノ光陰軽ンズ可カラズ
未ダ覚メズ地塘春草ノ夢
階前ノ梧葉已ニ秋聲

若者を諭した詩です。時間は矢のように過ぎ去るものなので、夢を見ている時間はない。少しの時間をも無駄にすることなく勉学に励むようにと言っています。

さて、藤沢周平の「三屋清左衛門残日録」を読んでいましたら。隠居した三屋清左衛門の言葉として、残日(ざんじつ)とは「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」から採ったとありました。

この言葉の出典を調べましたら「史記列伝」の「伍子胥(ごししょ)」にあるとの事です。
また、「徒然草」の百十二段にもあります。

  一生は雑事の小節に障(さ)へられて空しく暮れなん。日暮れ途(みち)遠し。吾が生、既に蹉陀(さだ)たり。諸縁を放下すべき時なり。
「蹉陀」はつまづいて倒れること、ぐずぐずして時機を失うことです。
我が身につまされるような文です。古典は、人生において時間が大切であることを教えております。
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後の先、残心

2010-11-19 06:38:39 | 文化
「後の先(ごのせん)」と「残心」は武道や芸能で使われる言葉です。「後の先」は相手の動きを見極めて受け止め、あるいは相手の動き予測して準備して、すばやく反撃に転じて攻め勝つことを言います。将棋にもよく使われますが、それは一旦受けに回り、次に攻勢に出る事を言います。横綱相撲にも「後の先」は有効とのことであり、横綱白鳳も双葉山の「後の先」を手本に稽古に励んだということです。家庭にあっても「後の先」は重要だと言った人もいました。
「残心」は、勝ちを納めても(あるいは成功しても)、そこで緊張を止めることなく、相手の反撃に備えたり、次の行動に移る準備をすることを言います。
「先手必勝」と言う有名な真理もありますが、「後の先」や「残心」にも味わいがあります。
さて余談ながら、将棋の中原誠永世名人や内藤國雄九段が若くしてタイトル戦に優勝していた頃、良く色紙に「残心」や「無心」という字を書いていました。それを見た兄貴分の芹沢博文九段が、「中原君、内藤君、色紙に書く時には、残心や無心の心の字の上にスペースを空けておくといいよ。そのスペースに 今 という字を書き加えると、残念、無念 になるからね」と言いました。これは芹沢流のブラックユーモアでした。
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木鶏(もっけい)

2010-11-16 18:20:06 | 文化
双葉山の連勝記録69を目指していた横綱白鵬が、11月15日に稀勢の里に敗れ、惜しくも連勝が63で止まりました。白鵬にとっては痛恨の敗北であり、私も惜しい気持ちで一杯になりました。しかし日本相撲らしい押し相撲をとった稀勢の里の堂々たる勝利も立派であったと思います。白鵬も稀勢の里もまだ充分に若いですから、これからの活躍が大いに期待されます。
かつて、双葉山が70戦目に敗れた時に、友人に打電した言葉が「未だ木鶏たりえず」でした。木鶏の故事は荘子「達生篇」にあり、師の安岡正篤から教わっていたとの事でした。
さて「木鶏」の故事は以下のようなことです。

紀せい子 王のために闘鶏を養う。
十日にして問う。 「鶏、已によきか」と。
曰く「未だし。方(まさ)に虚僑して気を恃む」と。
   (強がって威勢を張ること)
十日にして又問う。曰く「未だし。猶お、きょう景に応ず」と。
(他の鶏の影にも身構える)
十日にして又問う。曰く「未だし。猶お疾視して気を盛んにす」と。
(他の鶏を近づけると、未だぐっとにらみつけて気負いたつ) 
十日にして又問う。曰く「幾(つく)せり。鶏の鳴くもの有りと雖も、已に変ずること無し。
(動ずるところが無い)
之を望むに木鶏に似たり。其の徳全し。
   (完璧で、見ると木で作った鶏のようだ)
異鶏の敢えて応(あた)るもの無く、反り走らん。」と。 

紀せい子と周の宣王との闘鶏問答に託して、勝敗にとらわれぬ者こそ
無敵の強者、無心こそ最高の境地であることを述べています。

双葉山は心の面で今一歩ということを自覚していたそうです。
白鵬も、余裕を失って慌てて勝ちに行ったのが敗因と、冷静に敗北の原因を振り返っていました。
白鵬がわずか1年の間に、双葉山の記録に近づいたのは偉業であり、白鵬の力は依然として他の力士に抜きんでています。
大横綱白鵬が再び奮起し、再度、記録の更新に挑戦することを期待したいと思います。
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伯楽

2010-11-14 07:16:13 | 文化
伯楽(はくらく)は中国名の星座(危宿、洋名・ペガスス座)において天帝の馬を守る星であり、転じて、周代には馬を見分ける名人を指しました。人物を見抜き、その能力を引き出して育てるのが上手な人のことを言います。伯楽については荘子の馬蹄篇にも記述があります。
さて、現代の伯楽はというと、日本ではプロ野球の名監督や、シドニー・オリンピックのマラソンの金メダリスト、高橋尚子を薫陶した小出義雄氏などが挙げられます。アメリカではアップル社を創業したスティーブン・ジョブ氏が先ず挙げられます。アメリカの経済誌「フォーチュン」は2009年11月に「過去10年間の最も優れたCEO(最高経営責任者)にジョブ氏を選び」、マイクロソフト社のビル・ゲイツを上回る評価をしました。主に、携帯音楽プレーヤー iPodや携帯電話 iPhoneなどの成功が認められたものと思われます。ジョブ氏の功績はこれだけではありません。1972年頃、コンピューターは、大学や官庁のエリートだけが使える大型で使い勝手の悪い物でした。1979年のある日、ジョブ氏はゼロックス社のバロアルト研究所を見学する機会がありました。ジョブ氏がゼロックス社のコンピューター「アルト」の画面を見ていた時、ガイドの技術者が「マウス」を使ってコンピューターの画面上のアイコンを自由自在に動かしていました。これを見てジョブ氏はその便利さに腰を抜かす程驚いたという事です。その瞬間、ジョブ氏はマウスの技術を使えば今日のようなパソコンが創れることを直感したのでした。彼はコンピューター・マニア達を集めて、直ちにパソコンの開発を開始しました。このようにコンピューター・マニアを巧みに使い、時には過酷な開発・研究をやり抜いてアップル社はパソコン「マッキントッシュ」の開発に成功しました。アメリカのシリコンバレーには多くのベンチャー企業があり、IT技術を牽引して来ました。また、こうした会社では、当時は社風が自由で、ノーネクタイやカジュアルな服装でお構いなしということでした。インテル社もその一つで、平社員も役員も全員にストック・オプション(自社株優先購入権)が平等に与えられ、社員のやる気を引き出していたそうです。アップル社もこうした西海岸の企業の一つです。

岸野正剛著 「エピソードでたどるパソコン誕生の謎」電気学会
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お礼

2010-11-13 06:57:00 | 近況
いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。
お蔭さまで、昨日、アクセス数が十万に到達いたしました。
平成18年の3月に書き始めてから4年半余りになりました。
当初は十万アクセスをいただける日が来るとは思っておりませんでしたので
とても嬉しく思っております。
引き続き、ご愛読いただければ、有り難いと存じます。なお、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。
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一万時間の法則

2010-11-10 06:19:29 | 文化
一廉(ひとかど)の能力を身につけるのには、それがどんな分野の能力であっても、一万時間の努力が必要であるというのが「一万時間の法則」です。つまり一日三時間の修練を十年間続けることに相当します。これだけの修練を積まないと、一人前の能力を身につけることができないという事を意味します。しかも他人に評価されて、賞をもらうような能力を身に付けたり、大きい業績を挙げられるのは僅か一握りの人だけです。そうした人には、努力を続けることができる環境に身を置くことができた幸運と、良い指導者に恵まれた事、そして天賦の才能があった事、また努力を続けることができる才能を持ち合わせた事などがあると思われます。
大天才アインシュタインでさえ「天才とは1%の才能と99%の努力」と言い、またトーマス・エジソンも「天才とは1%の霊感と99%の努力」と言ったということです。
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聖武天皇の愛劔

2010-11-07 05:15:20 | 歴史
明治時代の末に東大寺の大仏の膝の下から発見されていた宝剣が、最近の調査により、聖武天皇の愛劔だということがわかりました。東大寺では、大仏が安置されていた地面を鎮めるために埋められていた鎮壇具と考えて、保管していたということです。この劔は、奈良時代の天平勝宝8年(765年)6月21日、聖武天皇の七七忌に光明皇后により正倉院に納められたものです。この聖武天皇の遺愛品の目録が「国家珍宝帳」です。ここには陽寶劔と陰寶劔、二尺八寸と記されております。ところがこの寶劔が収納後、3年経って持ち出されました。光明皇后が、聖武天皇の愛劔を天皇ゆかりの東大寺の大仏に託されたのではないかと推測されます。
東大寺に保管されていた寶劔が、聖武天皇の愛劔と断定される決め手となったのは、刀身の柄近くにX線で確認された「陽劔」と「陰劔」の象嵌の文字と、刀身の長さ1mが「国家珍宝帳」に記載されていた長さと一致したことです。1245年前の事が、今日、明らかになったのです。これは聖武天皇を想う光明皇后の気持ちと共に、現代によみがえった壮大なロマンと言えるでしょう。鉄製の宝劔と、それを記録した文書が現代まで無事に残っていたことを知り、古い文化を大切にする日本人の奥ゆかしさに感動しました。
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状元、榜眼、探花

2010-11-04 06:23:19 | 歴史
昔、中国の科挙の首席及第者を状元、次席及第者を榜眼(ぼうがん)、三位及第者を探花(たんか)と言いました。
「榜眼」の「榜」は合格発表の掲示板の事、眼は二つあることから二を示すそうです。「探花」は花の名所をたずねることです。唐代、科挙の試験に合格した祝の宴を探花宴と称し、合格者のうち最年少者二人を探花使として、長安市内の名園を巡らせたということです。また探花使は長安のすべての邸宅に入ることが許されたとのことです。
 さて、科挙とは中国、隋代以後、清代末に到るまで1300年間も続いた高等文官資格試験で、多くの試験科目の結果をもって登用が決まったのでこの名となりました。南北朝時代にあった門閥尊重の弊風を打破し、有為の人材を採用するという目的で始められ、唐代に制度として完成し、以来、天下の人才の多くは、この登竜門をくぐって官吏になって国政に参与しました。このようにして科挙は中国の官僚制度の基礎となりました。しかし学問が、次第に科挙に合格することを目的としたものに変質したという弊害もありました。この制度は西洋の官吏試験や我が国の戦前の高等文官試験にも大きい影響を与えました。
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