yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

水戸黄門と保科正之公

2008-06-26 06:50:12 | 歴史

テレビでお馴染みの水戸黄門と保科正之公はどちらも徳川家康の孫です。<o:p></o:p>

水戸黄門は水戸藩主頼房公(家康の十一男)の子、保科正之公は二代将軍秀忠の四男で、四代将軍家綱の補弼(ほひつ)役であり、会津藩主でもありました。<o:p></o:p>

二人は常時江戸詰めで、共に学問好きであったこともあり親密で、折々に往来があったとのことです。そうした中で、ある時は国家や学問に関する議論をし、また水戸邸で酒を嗜まれた時には、あまりに多く召し上がるので、給仕が盃の数を数えたら各々27盃ということもあったとのことです。<o:p></o:p>

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 正之公のほうが十七歳年上でしたので、水戸黄門は正之公を兄事していたとのことです。また将軍補弼役という職務から見ても、天下の副将軍は、正之公にこそふさわしい呼び方ではないかと思われます。<o:p></o:p>

しかし、この二人の人間観には決定的な違いがありました。『千載之松』という書物には次のような記述があります。<o:p></o:p>

「此時の物語は性善性悪の論にして、光圀卿頻りに性悪の説を主張せられしに、正之公の答に、性善の説は先賢の従ふ所、慮外ながら先賢の定説に従ひ工夫を積まれて然るべく、奇異なる御見識立てらるるは必ず御無用の由(よし)仰せられし。」<o:p></o:p>

 これは正之公が性善説をよしとするのに対し、光圀公は性悪説を唱え、それゆえに正之公からたしなめられたということです。<o:p></o:p>

 性悪説は荀子が唱えた説で、人間の本性は悪であるとした上で、一方では個人の能力主義を重視し、世襲制度や血縁制を否定する部分がありました。それゆえ将軍職を徳川家が世襲することによって成立している徳川幕藩体制にとっては危険思想の一つとみなされていました。<o:p></o:p>

 文治政治により徳川の平和(パクス・トクガワーナ)の基を築きつつあった正之公が性悪説を退けたのは当然のことでありましょう。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>中村彰彦著『保科正之言行録』中公文庫

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お礼

2008-06-25 20:32:45 | 近況

いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。<o:p></o:p>

お蔭さまで、本日、アクセス数が20,000に到達いたしました。<o:p></o:p>

平成18年の3月に書き始めて約2年と3か月が経過いたしました。<o:p></o:p>

この間に20,000アクセスは、望外のハイペースではないかと思っております。<o:p></o:p>

引き続き、お読みいただければ、有り難く存じます。もし、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。<o:p></o:p>

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祝 羽生 永世名人獲得

2008-06-23 12:22:21 | 将棋

将棋のプロ、羽生善治(よしはる)が6月17日に名人戦で森内前名人を下し、名人五期を取り、この度永世名人位の資格者となり、引退の後、第十九世名人を名告れることになりました。ここに戦後5人目の永世名人が誕生したことになります。<o:p></o:p>

関根金次郎十三世名人の大英断により、昭和21年に将棋界に実力名人制度が創設されて以来、永世名人の資格者は下記のわずか6名です。<o:p></o:p>

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 十四世名人 木村義雄<o:p></o:p>

 十五世名人 大山康晴<o:p></o:p>

 十六世名人 中原 誠<o:p></o:p>

 十七世名人 谷川浩司<o:p></o:p>

 十八世名人 森内俊之 <o:p></o:p>

 十九世名人 羽生善治<o:p></o:p>

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なお、羽生は将棋界の七大タイトルの内、既に、棋聖・王位・王座・棋王・王将の永世称号を持っており、この度の名人位を加えると、六つの永世称号を獲得したことになります。これは、故大山康晴と中原誠の永世五冠を抜いた快挙であります。初の永世七冠までには残る竜王を一つ残すだけとなりました。<o:p></o:p>

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思えば。将棋の名人制は江戸時代からあり、当初は大橋家と伊藤家からのみ選ばれた家元、世襲制でした。小野五平十二世名人の後を継いだ関根金次郎十三世名人が引退するに当たり、実力名人制度を創設しました。これが、現代の将棋界の活性化の原動力になり、全棋士は名人位を目指して戦う今日の形態が確立しました。このため関根金次郎は近代将棋の父と賞賛されています。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

ここに、羽生善治名人は、名実ともに棋界の頂点に立ったことを意味します。<o:p></o:p>

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最後の會津武士 町野主水(まちのもんど)

2008-06-15 08:59:02 | 歴史

會津武士、町野主水(1839-1922)の町野家は、戦国大名の蒲生氏郷の家来で代々、会津にありました。武を以て主君に仕えた家柄でしたが、主水は戊辰戦争の直後、埋葬することを許されなかった戦死者の骸(むくろ)を片づけるなど、同胞の世話に獅子奮迅の働きをしました。そしてその後、永く会津に残り、藩士達の面倒をよくみました。また大正11年に逝去するまで脇差を腰に差していたという武辺一筋の人でした。<o:p></o:p>

最近、主水の104歳になるご令孫の井村百合子刀自(会津会顧問)と、電話で長時間お話する機会に恵まれましたが、お祖父様の主水にとても可愛いがられたと述懐なさっていました。百合子様は町野主水の四女、キミのお子様で、幼少の頃は、町野家で養育されたとのこと、秩父宮勢津子妃とはお遊び仲間であったそうです。百合子様が小学生の時、出納係に選ばれ、集金した金子を自室で勘定していたのを祖父の主水が見て<o:p></o:p>

「町野家の娘が金の勘定をするとは何事であるか、そのような学校ならやめなさい」<o:p></o:p>

などと雷を落とされたということです。<o:p></o:p>

また、主水の弟の久吉が、三国峠の西軍との戦闘で町野家伝来の家宝の槍を失ってしまいました。それを入手した長州の品川彌二郎が、後に東山温泉の旅館の一室に席を設け、槍を返すという親切な申し出を主水にしたところ、主水は、<o:p></o:p>

「御厚志はかたじけないが、戦場で失いしものを、武士たる者が畳の上で受け取るわけには参らぬのだ。失礼いたす。」<o:p></o:p>

と言い、悠然とその場から退席しました。これを聞いた旧藩士たちは<o:p></o:p>

「これぞ千古の快言である。會津武士道に徹した町野主水殿ならではの啖呵というものだ」<o:p></o:p>

と大評判になったということです。<o:p></o:p>

 そして死期の近づいた町野主水は、家族に繰り返し葬儀の方法を遺言しました。<o:p></o:p>

1.    わが亡骸(なきがら)は筵(むしろ)につつみ、縄で縛って葬式を出すこと。<o:p></o:p>

2.    葬列は標旗、提灯、抜き身の槍、抜き身の刀、それから死骸、僧侶、家族の順とし、参列者は全部徒歩たるべき事。<o:p></o:p>

3.    戒名は「無学院殿粉骨砕身居士」とせよ。<o:p></o:p>

でありました。<o:p></o:p>

この遺言で主水は、戊辰戦争の時、埋葬することを許されなかった同胞のことを慮(おもんぱか)り、會津武士の心意気を示したかったのだと思われます。<o:p></o:p>

これを聞いた若松警察署が「もっと穏やかにやるように」と横槍を入れてきましたが、喪主で長男の陸軍少佐、町野武馬さんは、断固それを拒絶して親の遺言を守って忠実に葬儀を施行したということです。武馬さんも親譲りの硬骨漢でした。菩提寺である融通寺までの葬列は、参列者多数で、大変盛大なものであったそうです。<o:p></o:p>

ここに主水は、最後の會津武士としての真面目(しんめんもく)を世に示しました。<o:p></o:p>

中村彰彦著『その名を町野主水』新人物往来社<o:p></o:p>

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上杉家30万石の存続に尽力した保科正之公

2008-06-09 09:54:25 | 歴史

米沢藩30万石の藩主、上杉綱勝公は、1652年5月、跡取りを決めることなく江戸の上屋敷で急逝してしまいました。保科正之(ほしなまさゆき)公の長女、媛姫(はるひめ)が綱勝公の許嫁であったという縁で、この訃報は最初に正之公にもたらされました。またその媛姫が嫁ぐ前に不慮の他界をしてしまったこともあり、正之公は、「今こそ上杉家に借りをお返しする時」と考えて上杉家にやって来ました。それにもかかわらず、さすがの正之公にも手の打ちようがなく、一室に控えていました。お家断絶の危機でした。そこに、ある若侍が入って来て意外なことをうち開けました。<o:p></o:p>

「私は御前(綱勝)のお最期までお側にあった者です。御前は高家(こうけ)<o:p></o:p>

筆頭吉良上野介のご長男にて甥にあたられます三郎様を末期養子に、と苦しい息の下から仰せられました。この段、なにとぞお聞き届け賜わりますよう」<o:p></o:p>

「それは、まことか」<o:p></o:p>

と、正之公は問い返しませんでした。重臣たちさえ聞かなかったことを、近習ひとりだけにお告げになった、というのでは話の筋が通りません。しかし、この際大事なのは、この若侍の言明を前提として、上杉家の救済を考えることでした。<o:p></o:p>

正之公は直ぐに登城して、将軍家綱に拝謁しました。その功あってか、間もなく6月に米沢30万石に幕命が下りました。<o:p></o:p>

「吉良三郎に養子仰せつけられ、旧領から15万石を召し上げるもの也」<o:p></o:p>

上杉家は養子を取っていたのに、幕府に届けることを怠っていた。その怠慢の罪を責めて表高の半ばを削るが、三郎への家督相続は認める。家綱公と幕閣とは正之公の暦年の功に免じ、このような論理のもとに正之公の希望を入れたのでした。<o:p></o:p>

「すべては肥後守、正之公の御威光ゆえのこと」<o:p></o:p>

上杉家の面々は感謝することしきりでしたが、正之公は家老の田中三郎兵衛のみにひそかに言いました。<o:p></o:p>

「これで、お媛にも顔が立った」<o:p></o:p>

なお米沢上杉家は、この後、会津松平家と将軍家への恩を忘れることなく、現代にいたるまでその絆は存続しているとのことです。<o:p></o:p>

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              中村彰彦著『名君の碑』文春文庫<o:p></o:p>

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江戸を救った二人の女性

2008-06-03 09:07:42 | 歴史

明治維新の時、江戸と徳川家を救った二人の女性がいます。<o:p></o:p>

公武合体の証として第14代将軍家茂に嫁いだ和宮・静寛院宮と、島津斉彬公の尽力で薩摩から第13代将軍家定に嫁いだ篤姫・天璋院の二人です。<o:p></o:p>

この時、二人は共に夫を亡くしていましたが、西軍による江戸総攻撃の回避と徳川家の存続に全力を尽くしました。言わば江戸と徳川家の恩人です。<o:p></o:p>

朝廷と縁が深い静寛院宮と、薩摩や西郷隆盛とも縁があった篤姫の連携プレーが功を奏したと言えます。何よりも、私心を捨てて平和を願った二人の信念に負う所が大であったのではないでしょうか。<o:p></o:p>

 戊辰戦争が諸外国の政変の時のように本格的な内戦にならず、また、諸外国の介入を受けることなく収束したのは殆ど奇跡的なことと言えます。これは、独り、勝海舟と西郷隆盛達の力によるものだけではなく、二人の女性の大変な努力の賜物でした。この史実が昨今、忘れられているのは残念ですが、NHKの大河ドラマ「篤姫」はまさにこれらの事を描いております。<o:p></o:p>

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この話は徳川恒孝(つねなり)氏著『江戸の遺伝子』PHP研究所 を参考にさせていただきました。<o:p></o:p>

徳川恒孝氏は徳川宗家の第18代の御当主でいらっしゃいます。<o:p></o:p>

この本は昨年3月に出版されましたが、11月には第6刷に達する人気作です。<o:p></o:p>

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山川健次郎 米国留学時のエピソード

2008-06-01 12:06:40 | 歴史

山川健次郎がアメリカのエール大学で本格的に物理学を勉強し始めた頃のことです。当時日本からの留学生がアメリカで不品行な生活を送っていたことが、日本で問題になりました。彼等の多くは雄藩の子弟で遊学というようなものでした。日本人だけで群れているので英語力も向上せず、勉強もせずに酒を飲んだり、売春宿に入り浸るなど、その所業は目に余るものでした。明治7年に日本政府は文部省輔、九鬼隆一を派遣して実態調査に乗り出しましたが、実情の把握は困難でした。そこで、国費留学生は成績に関係なく一旦、全員帰国させるという乱暴な結論が出され、帰国命令が出されました。<o:p></o:p>

 健次郎はピンチに立たされました。妹、捨松をおいて学業半ばで帰国するわけには行かないという事情もありました。困った健次郎はクラスメイトに窮状を訴えました。その話を聞いた同級生のロバート・モリスは、直ちに大富豪の叔母、ハンドマン夫人に面会することを薦めてくれました。<o:p></o:p>

ハンドマン夫人は健次郎の窮状を聞くや<o:p></o:p>

 「心配しないで下さい。私が援助します。但し条件があります。証文を書きなさい。」<o:p></o:p>

「学業を終えて帰国したならば、心を込めて国のために尽くすことを誓うのです」<o:p></o:p>

と言いました。<o:p></o:p>

健次郎は<o:p></o:p>

「自分は科学技術を学んで祖国のために役立ちたいと思って勉学に励んでいます。自分は日本のために尽くすつもりです。決して嘘偽りはありません」<o:p></o:p>

と言い、証文を書きました。<o:p></o:p>

夫人はにっこり笑って健次郎の手を握り<o:p></o:p>

「頑張りなさい」<o:p></o:p>

と、快く学費の援助を承諾しましたので、健次郎は留学生活を続けることができました。そして以前にも増して勉学に励みました。<o:p></o:p>

後の健次郎の功績を見ると、ハンドマン夫人が健次郎に差し伸べた温かい援助により、後の日本の教育の発展にもたらされた恩恵には量り知れないものがあります。<o:p></o:p>

 そもそも、山川健次郎が国費留学生の一人になることができたのは、会津の秋月悌次郎の周旋により、長州の奥平謙輔と前原一誠の知遇を受け、彼等の援助で留学の機会を与えられる幸運に恵まれたからです。これには薩摩の黒田清隆の配慮もあったと言われます。<o:p></o:p>

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                 星亮一著『山川健次郎伝』平凡社<o:p></o:p>

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