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yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

「切る」「見切る」考

2025-05-31 06:16:28 | 将棋
  「切る」という言葉は、連結・結合しているものを刃物などで断つ、または離す意味に使います。
よく使われる言葉ですが、種々の分野でそれぞれ独特の使用法と意味があります。
医療分野: 手術をすること、患部を取り去ること
歌舞伎界: 「みえを切る」という独特の使用法があります。
種々の集団において: 重要な人物を排除するという意味に使います。
          ここには冷徹な措置という響きがあります。
トランプにおいて: カードの順をバラバラにすることや、大事なカードを捨てること。
将棋において: 飛車または角という大駒を捨てて弱い駒を取る時にのみに使います。

この他、似た言葉に「見切る」という言葉があります。見極める、見定める、見かぎる、見かぎって安く売る、というような意味です。
野球では: フォアボールを見極めること
剣術では: 相手との間合いを冷静に観察・判断し、捨て身の攻撃に出て、己の肉を切らせて相手の骨を断つ場合に使うようです。「間合いを見切る」のは剣の流派の奥義によくあるそうです。

「切る」も「見切る」も、ぎりぎりの場面で決断をして最強の手段に出る場合に用いるようです。



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次の一手

2025-05-28 06:30:52 | 将棋
不肖は、かつて、毎週、新聞紙上に出題される将棋の「次の一手」問題に挑戦して、約十年続けました。正解できたことが多いのですが、一年に1、2問失敗します。一年間に出題される問題は約100問ですから正解率は、約98.5%ということになります。
勝負や人生において「次の一手」を決断する場面が多々ありますが、その決断はいつも難しいものではないかと思います。
さて、ホリスティック医学(全人医学)を推進されている医師が書いたエッセイを読みましたら、彼の治療方針は次のようなものでした。
1. 歴史上の先例に学ぶ。
2. 平常心に立ち返る。
3. 戦局を一瞥する。
4. ひらめく。
5. 不屈の意志を以て遂行する。

上記は診察の極意を示したものと思いますが、将棋などの勝負の世界にも共通する指針ではないかと思いました。将棋の加藤一二三 元名人も「直感と精読」ということをよく言われています。日頃、過去の戦いを調べる研鑽を積んでいると、直感やひらめきが出るようになります。こうした直感によって閃めいた「次の一手」が妥当であるかを、深く詳しく読んで、「次の一手」を決めるということではないかと思います。歴史に学び、直感を磨いて新たな指針を決める、これは様々な事に言えるのではないでしょうか。

           帯津良一 「一瞥による直感」 学士會会報

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春夜喜雨 杜甫

2025-05-25 06:32:40 | 文学
盛唐の詩人、杜甫の五言律詩を紹介します。

 春夜喜雨

好雨知時節
当春乃発生
随風潜入夜
潤物細無声
野径雲倶黒
江船火独明
暁看紅湿処
花重錦官城

 春夜 雨ヲ喜ブ

好雨 時節ヲ知リ
春ニ当ツテ乃(すなわち)チ発生ス
風ニ随ツテ潜(ひそ)カニ夜ニ入リ
物ヲ潤シテ細ヤカニシテ声無シ
野径 雲ハ倶(とも)ニ黒ク
江船 火ハ独リ明ラカナリ
暁ニ紅(くれない)ノ湿(うるお)エル処ヲ看レバ
花ハ錦官城ニ重カラン
 
「訳」

よい雨は降るべき時節を知っており、春になると降りだして、万物が萌えはじめる。雨は風につれてひそかに夜まで降り続き、こまやかに音もたてずに万物を潤している。野の小道も雲と同じように真っ黒であり、川に浮かぶ船のいさり火だけが明るく見える。夜明けに、赤くしめりをおびたところを見るならば、それは錦官城に花がしっとりぬれて咲くいている姿なのだった。

「鑑賞」

35歳の杜甫は官を求めて都長安を出て放浪しましたが、48歳で四川省の成都に到り、浣花渓(かんかけい)のほとりに草堂を築いてしばしの安らぎを得ました。この詩は浣花草堂での春の雨をうたって、もの静かなうちにも喜びのあふれた作となっています。前半は春雨に育まれる自然を、後半は夜と翌朝の景をうたい、いさり火の一点の赤から紅の花びらへと拡散していく。詩句の中に「喜」の語は一つもないが錦官城(=成都)の町いっぱいに咲く花に目を細める姿が偲ばれます。

 石川忠久 「漢詩紀行」日本放送出版協会








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2=1 数学界で論議 ?

2025-05-22 06:39:10 | 科学
過日、友人から聞いた話です。 2と1が等しいことを証明したとされる論文が数学界で話題になっているそうです。ロシアのカラシニコフ通信が伝えたところでは、この論文の執筆者は国立ヨハネスブルグ大学教授のイワノフ・ボスコノビッチ博士です。博士が夢の中で見た式を枕もとのメモに書き残し、翌朝、それを少し変形したところ2=1という結論になったということです。「2=1」のはずがないですから、論文はどこかがおかしいはずですが、どこがおかしいのかが話題になっているということです。論文内容を下に記します。
a=b
a2=ab
a2―b2=ab-b2
(a+b)(a-b)=b(a-b)  4式
a+b=b          5式
2b=b
2=1

 上記の式の変形は中学生にもできそうに思えますが、結論は2=1。
不思議なことです。さて、どこがおかしいのでしょうか?

私は、少し考えてわかりました。
4式から5式に進んだのが誤りです。
4式において、左辺と右辺を各々(a―b)で割ると5式が得られるとして   
いるようです。しかし、これは錯覚であり、間違いです。  
(a―b)=0ですから0/0の計算をしています。 0/0の答は不確定、すなわち不定です。不定なのに、論文では、1と確定したのが誤りなのです。

しかし良く考えてみると、このように底の浅い問題を数学者が議論するはずがありません。私が友人から聞いた話自体がちょっとおかしいと思わざるを得ないようです。


     



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「風立ちぬ」余話

2025-05-19 06:40:06 | 文学
宮崎駿監督のアニメ「風立ちぬ」は良い作品でした。ゼロ戦を設計した堀越二郎(1903~1982)と、同時代の文学者 堀辰雄(1904~1953)の小説「風立ちぬ」の世界を融合した佳品です。さて、最近、この堀越二郎と堀辰雄が旧制の第一高等学校の理科で同期であったことを知りました。1921年に堀越二郎は理科甲類、堀辰雄は理科乙類にいました。当時の理科は東京帝大の工学部や医学部に進むコースで約200名でした。今日の理科一類、二類、三類の合計定員、1704名(平成25年度)と比べると当時は僅かに200名(現在の約1/10)ですから、いかに狭き門であったかがわかります。堀越二郎は群馬県藤岡市の出身で、旧制藤岡中学から一高に合格しました。
堀辰雄は東京生まれで東京府立三中(現・都立両国高校)を4年終了した時点で一高に合格し堀越二郎に追いつきました。(いわゆる飛び級)二人とも超秀才です。堀越二郎は工学部航空学科(現・航空宇宙工学科)に進み、卒業後、請われて三菱内燃機製造(現・三菱重工業)に入社してゼロ戦の設計に携わりました。学生時代から探求心が旺盛なため、「根ホリコシ、葉ホリコシ」と言われたそうです。一方、堀辰雄は、三中、一高の先輩である芥川龍之介の知遇を得て、芥川に傾倒し、文学部国文科に進学し、理科から文科に転進しました。堀辰雄、は結核の療養所で婚約者と生と死を見つめて過ごした日々を元に小説「風立ちぬ」を書いたということです。

   山田博政 「アニメ映画「風立ちぬ」余聞」 學士會会報 No. 905 2014―Ⅱ
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「雪山讃歌」とゴ-ルド・ラッシュ

2025-05-16 06:23:02 | 文学
「雪山讃歌」と「ゴ-ルド・ラッシュ」の両語は一見、無関係に思えますが、開拓者精神(フロンティア・スピリット)とメロディ-というキ-ワ-ドで大いにつながっています。

「雪山讃歌」は南極越冬隊長を勤めた西堀栄三郎氏(1903~1989)が作詞しました。西堀氏は京都帝国大学で、桑原武夫や今西錦司らと共に山岳部に属していましたが、1926年、群馬県嬬恋村の鹿沢温泉でテント合宿中に、舞う雪を見て「雪山讃歌」の詞を作りました。

       雪よ岩よわれらが宿り
俺たちゃ町には住めないからに
俺たちゃ町には住めないからに

テントの中でも月見はできる
雨が降ったらぬれればいいさ
雨が降ったらぬれればいいさ

シールはずしてパイプの煙
輝く尾根に春風そよぐ
輝く尾根に春風そよぐ

荒れて狂うは吹雪か雪崩
俺たちゃそんなもの恐れはせぬぞ
俺たちゃそんなもの恐れはせぬぞ

朝日に輝く新雪ふんで
今日も行こうよあの峰こえて
今日も行こうよあの峰こえて

さよならお山よごきげんよろしゅう
また来る時にも笑っておくれ
また来る時にも笑っておくれ


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5S

2025-05-13 06:12:55 | 文化
我が家に工務店が入り、家の保全、修繕作業などをやってもらっておりますが、工務点が立てている看板に、4Sと言う標語が書いてありました。「整理、整頓、清潔、清掃」を徹底するという意味のようです。そこで会社に勤めていた頃を思い出しました。会社では5S活動をしていました。すなわち、「整理、整頓、清潔、清掃、躾け」のことでした。5S活動では、毎週決まった時間に全員で職場とその周辺の清掃と塵拾いをしました。身の周りの5Sは大切なことだと思います。なお5Sに「しっかり」と「しつこく」を加えて7S活動を実施している会社もあるということです。
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おっす

2025-05-10 06:43:47 | 文学
「おっす」という挨拶がありますが、「押忍」という漢字が当てられるようです。空手道・柔道・剣道・弓道など日本古来の武道の世界の人や、応援団の団員の間でよく使われる、蛮カラな挨拶言葉です。もとは旧海軍の軍人が「おはようございます」という意味で使い、その後、文頭の「お」と、文尾の「す」だけが残り、「おす」となったともいわれます。「押忍」という字があてられたのは、自我をおさえて我慢する「押して忍ぶ」という自戒の意味があり、もとは、先輩が後輩に言う言葉でした。以前、知人に、歌を披露する前に「おっす」と言うK氏がいました。K氏が言うと迫力があって良いものでした。不肖も「おっす」と言ってみたくなりました。
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 追分

2025-05-07 06:01:51 | 歴史
小諸出てみろ浅間にヨー
今朝も煙が三筋立つ
碓氷峠のあの石車ヨー
誰を待つやらくるくると
浅間山さんなぜ焼けしゃんすヨー
裾に三宿(追分)持ちながら、、、以下略

有名な「追分馬子唄」ですが信濃追分宿でのみ「追分節」といわれ民謡の一ジャンルとしての地位を保っています。この地で生まれた追分節は、北上して新潟で越後追分、小木追分となり、山形で酒田追分、秋田で本庄追分となり、北前船で北海道松前に渡り、最後に有名な江差追分にまでなって主に北国で盛んに歌われました。
ところで、追分とは道の分岐点のことです。信濃追分宿は江戸から京に向かう中山道と、そこから分かれて越後に向かう北国街道の起点です。ここには、旧本陣「油屋」があり、昔ながらの建物であり立原道造などの文人に愛された宿があります。
私はかつて東京都文京区の本郷通りの近くに住んでいましたが、ここにも本郷追分がありました。江戸から日光東照宮に向かう御成街道と呼ばれた本郷通りと東大農学部前辺りから分かれて北西に向かう中山道の分岐点が本郷追分です。江戸時代には、この辺りに備後の阿部家の屋敷がありました。阿部家は幕末に老中、阿部正弘などを出した名門で学問好きの家でした。地元福山には誠之館(せいしかん)という藩校があったこともあり、現在でも本郷には誠之小学校という、番町小学校と並ぶ東京屈指の名門小学校があります。また、この辺りには八百屋お七の墓もあります。追分から御成街道をさらに300mほど北に行くと東大追分学寮がありました。「窓は夜露に濡れて、、、」と歌う「北帰行」を作詞した宇田博氏も東大文学部時代にはこの寮にいたと言うことです。この追分学寮は老朽化したため2006年に廃止されました
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奈良の宿 日吉館

2025-05-04 06:33:28 | 文化
「日吉館」は奈良の有名な宿です。奈良国立博物館の北側、東大寺の南西の一等地にありました。創業は1914年と古く、多くの学者、学生を格安の料金で泊めてきましたが、老朽化したため1995年に廃業し、三年後に名物女将、田村ヨシノさんが他界したこともあり、去る6月22日から取り壊されました。
宿帳に残る著名人は会津八一、久松潜一、和辻哲郎、志賀直哉、広津和郎、堀辰雄、亀井勝一郎、小林秀雄、水原秋桜子、平山郁夫、土門拳など際限がありません。戦前、戦中、戦後を通じて日本の文化と学問を支えてきた人々が、奈良に日本古来の文化や芸術の根源を探ろうとした時、「日吉館」を宿にしてきました。そして彼等の薫陶を受けた弟子、学生達もここに泊りました。採算などにこだわらない女将が、低料金で運営しており、早寝、早起きを客にも励行させ、テレビは学究の徒には要らないという主義を貫いた質素な宿でしたが、夕食にはしばしば肉がふんだんに入ったスキヤキが振舞われました。
玄関には会津八一が「旅舎 日吉館」と揮毫した堂々たる看板がありました。また平山郁夫(元 芸大学長)の絵の原点は奈良であると言われ、ここから中国、シルクロードを経て中央アジアにまで伸びて行っています。氏は「日吉館」を最後まで見つめ続けていました。

  さて、新薬師寺は「日吉館」の位置よりやや山側の、高畑という所にあり
ます。ここを亀井勝一郎は「高畑の道」という文で次のように描写していま
す。

新薬師寺を訪れた人は、途中の高畑の道に一度は必ず心ひかれるにちがいない。はじめて通った日の印象は、いまなお私の心に一幅の絵のごとく止まっている。山奥へ通ずるそのゆるやかな登り道は、両側の民家もしずかに古さび、崩れた築地に蔦葛のからみついている荒廃の様が一種の情趣を添えている。古都の余香がほのかに漂っている感じであった。

  昔「日吉館」を識らなかった私は、この高畑の道のほとりにあった奈良学
芸大(現 奈良教育大学)の桜寮に只同然の料金で泊めてもらい、連日、奈
良、大和路を歩き回りました。この寮は若草山に隣接して建っていましたの
で、朝方には庭に鹿がやってくる、まことにのどかな旅舎でした。
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