yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

漱石が貸した拾円

2022-08-31 06:18:09 | 文学
明治時代に夏目漱石が正岡子規に拾円を貸したという話です。当時、松山で中学教師をしていた漱石の下宿「愚陀仏庵」に正岡子規は居候しながら病気療養をしていました。子規は故郷松山で過ごす間に病気が小康を得たので、奈良を経由して東京根岸に帰りました。この時、漱石は子規に旅費として拾円を貸したそうです。間もなく漱石は子規に拾円を貸したことも忘れ、子規も急いで返すつもりもなかったと思われます。当時の拾円の価値が現在どれくらいかはよくわかりませんが、当時、餡パン一個が1銭程度だったので、現在それが200円と仮定すると、当時の拾円は現在の二万円程度と推定されます。しかし、素寒貧の子規が身分不相応にも奈良では屈指の名旅館、對山楼を宿として三日間、奈良を楽しんだことを思うと、子規にとってはそれ以上の価値があったのかも知れません。

   柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
   奈良の宿御所柿くへば鹿の鳴く
   渋柿やあら壁つづく奈良の町
   柿くふも今年ばかりと思ひけり   (亡くなる前年、明治三十年作)
などは、いかにも柿好きの子規らしい俳句です。

 以下は、漱石のご令孫、半藤末利子(はんどうまりこ)著の「漱石の長襦袢」に書いてあった話です。
「最近、奈良在住の正岡明氏から柿が到来しました。中に見事な柿が入っていたのですが、封筒が添えてあり、その中にさらに小さいピンクの袋があって十円玉が入っていました。
  手紙には「百二十年前に御祖父漱石様から子規がお借りした拾円が気になって仕方がないのです。せめて元金だけはお返しせねばならぬと思い同封しました。利子だけは柿でお許し願えられそうなのでほっとしているところでございます。本当にありがとうございました。祖父になり代わりまして厚くお礼申し上げます。」
正岡明氏は子規の妹、律の孫にあたります。「何とまあ、明氏は義理堅く律儀なお方であろうか」と末利子氏は書いています。近いうちに雑司ヶ谷の漱石の墓に「確かに返していただきました」と報告に行こうと思っていると結んでありました。

 120年以前の祖母の兄の借金10円を返す律儀な方に感心しますが、現代、身内の高々400万円の借金を返すことなく、28枚もの長過ぎる弁解の文書を公表して自説を主張する人もいます。そのような文書を書く時間があったら、まず、自分で400万円を工面し、返済を実行するのが、社会人の第一歩ではないでしょうか。
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仏教の十戒

2022-08-28 06:20:43 | 文学
曹洞宗の祖、道元禅師は大著「正法眼蔵」を著しましたが、これは95巻におよぶ長大な経典です。そこで、道元の教えの要約本ともいえる「修証義(しゅしょうぎ)」という経典が編纂されました。この中に、10の戒律があります。

第一 不殺生戒(ふせっしょうかい) 生命あるものをむやみに殺してはならぬ
第二 不偸盗戒 (ふちゅうとうかい)盗んではならぬ
第三 不邪淫戒(ふじゃいんかい) 愛欲によって人を犯してはならぬ
第四 不妄語戒(ふもうごかい) 嘘を言うな
第五 不酤酒戒(ふこしゅかい) 酒の売買はならぬ、酒に溺れるな
第六 不説過戒 (ふせっかかい)他人の過ちを責めるな
第七 不自讃毀佗戒(ふじさんきたかい) 自慢をし、かつ他人の心を傷つけるな
第八 不慳法財戒(ふけんぼうざいかい) 物でも心でも施すことを惜しむな
第九 不瞋恚戒(ふしんいかい)  他人にたいして怒ったり、恨んだりしてはならぬ
第十 不謗三宝戒(ふぼうさんぽうかい) 仏法僧の三宝に、不信の念を持ってはならぬ
 
     旧約聖書にもモ-ゼの十戒があります。その第六項、殺してはならぬ、第  七項、姦淫してはならぬ、第八項の盗んではならぬ、第九項の嘘を言うな、第十項の隣人を貪ってはならぬ、などは仏教の禁じ戒と同じです。仏教の禁戒もモ-ゼの十戒も、宗教の衣を脱いでも一般人の心得として、正しく守らなければならないことです。
 
渡邊三省 「人間 良寛」風濤社
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仙台育英高校 校歌

2022-08-25 06:24:58 | 文学
2022年夏の甲子園の全国高校野球選手権大会 決勝戦で、去る8月22日に下関国際高校と仙台育英高校が戦い、8対1で仙台育英高校が勝利し、東北勢が史上初の栄冠に輝きました。深紅の優勝旗が白河の関を超えたのです。(写真 下)戊辰の敗北か ら150年ぶりの東軍の快挙に拍手します。
 
    甲子園に響いた仙台育英高校の校歌は加藤利吉(会津若松出身の高校創立者)が作詞しました。歌い出しは下記の通りです。

  南冥遥か天翔る鴻鵠棲みし青葉城、ああ松島や千賀の浦

「南冥」や「鴻鵠」という語から中国の故事を連想しました。
「南冥」の説明:「南冥」は南方の大海のことです。
「荘子 逍遙遊篇」より。

北冥ニ魚有リ 其ノ名ヲ鯤(こん)ト為ス、鯤ノ大イサ幾千里ナルヲ知ラズ。化シテ鳥ト為ル、其ノ名ヲ鵬ト為ス、鵬ノ背ノ幾千里ナルヲ知ラザルナリ、
怒(はげ)ンデ飛ブ。ソノ翼、垂天ノ雲ノ若シ、將ニ南冥ニ渉ラントス。南冥トハ天池ナリ。


「鴻鵠」の説明:「史記、陳勝世家」が出典です。
「鴻」はオオトリ、「鵠」はクグイ(白鳥)をいい、ともに大きな鳥であるため、転じて
大人物の志をいいます。
中国、秦 (しん)代の武将で、後に楚(そ)王となった陳勝(陳渉)は年少のころ、家が
貧しかったため作男として働かなければならなかったのですが、つねに大望を捨てず
「燕雀(えんじゃく)安(いずく)んぞ鴻鵠の志を知らんや」と自分の抱負を語り、嘆じた、
と伝える「史記」の故事があります。鴻鵠が燕雀を見下す語感もあります。逆境にあ
った照ノ富士関も鴻鵠の志を保って、横綱にまで上りました。

         福永光司 「莊子 内篇」 朝日新聞社



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飯給駅 小湊鉄道

2022-08-22 06:21:52 | 歴史
房総半島のほぼ中央に、市原市飯給村(いたぶむら)があります。小湊鉄道の飯給駅は、難読駅名の代表格です。地名の由来は、壬申の乱(672年)に敗れてこの地に落ち延びたとされる弘文天皇(大友皇子)にまつわる伝説により、飯給駅前の白山神社は弘文天皇を祭神としています。飯給という地名も、この地の人々が天皇の一行に食事をささげたことから、弘文天皇の3人の皇子が飯給の名を与え、それに由来すると言われています。
また、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の平定のためにここを通過した時、住人が食事を献上したことから飯給の地名がついたという伝説もあります。飯給駅は飯給の最寄り駅(写真 下)ですが、1日の平均乗降客はわずか4人という寂しい駅です。しかし、この駅から見える田園風景は大変素晴らしいと人気があります。



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「あほ」と「ばか」

2022-08-19 06:19:59 | 文学
関東弁で「ばか、好きにきまってるよ」を、兵庫弁で言うと
「あほ、好きにきまってるやねん」(女優、有村架純さん)

関東弁は、喧嘩を売っているように聞こえます。これに比べて兵庫弁は軟らかく聞こえます。
「好きだよ」は、北九州弁だと「好きとよ」となるそうですが、これはまた誠に情感が籠もっています。

関西では「うるさい」より「やかましい」と言うそうです。店で騒いでいると、大阪では臨席から「やかましいなあ」の声。が、そういう席のほうが実はやかましい。そして双方ますますにぎやかになる。京都の店では「お元気でよろしいな」の声。しかし顰蹙を買っているとはすぐには気づかない。その場限り、後に引かないのが大阪流。後でじんわり効いてくるのが京都流。ご近所なのに大差です。

あのまだるっこいような、圭角のとれた関西弁は、「論争」や「処断」に使う言葉ではなく、「話し合い」「座談」の時の言葉です。私には、関西弁は、やわらかく、洗練された言葉のようにも聞こえます。










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戒語 良寛

2022-08-16 06:22:36 | 文学
良寛は、他人にたいして積極的に説教をすることが無かったのですが、日常こころがけていたのは愛語でした。愛語と説教は同じように思われがちですが、
別のものです。良寛は説教を好まなかったのですが、他人から頼まれた場合には、ひきうけました。島崎の寄寓していた木村家の元右衛門の二女「おかの」に対する戒語が残っています。この娘は家庭にあっても、炊事や掃除や裁縫に一向手を出さない。それが今度結婚することになって、元右衛門は心配し、再三、良寛に願って書いてもらったものだと伝えられています。

一 あさゆふ おやにつかふまつるべき事
一 ぬひをり すべてをなごのしょさ つねにこころがくべき事
一 さいごしらひ おしるのしたてやう すべてくひもののこと しならふべき事
一 よみかき ゆだむすべからざること
一 はきさうじ すべき事
一 ものに さからふべからざる事
一 上をうやまひ 下をあわれみ しやうあるもの とりけだものにいたるまでなさけをかくべき事
一 げらげらわらひ やすづらはらし てもずり むだ口 たちぎき すきのぞき よそめ かたくやむべき事
右のくだり つねづねこころがけらるべし
 おかの どの

   意味は明瞭です。朝夕親に仕えよ、裁縫や織物の仕事はつねに忘れるな、食事
   の支度も、家の中の掃除も全部女の仕事であるぞ。この辺までは極く当たり前のことですが、つねに学問することを忘れるな。他人にたいして逆らってはならぬ。上を敬し下を憐れみ、生あるものは鳥・獣にまで情をかけよ、というのは極めて良寛的です。そして最後に、げらげら大口を開いて笑うな、ふくれっ面をするな、てもずり、即ち何の役にも立たぬことに手先を無駄に動かすことや、過度のおしゃべり、他人の言葉の盗み聞き、隙き間のぞき、他人にたいし顔を背けること等々、極めて通俗的な処世心得を説いています。良寛にもこのような一面があったのです。

     渡邊三省 「人間良寛」 風濤社
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詩経の心

2022-08-13 06:26:42 | 文学
ある歌人が講義の中で詩歌を詠む心得を「論語」を引用して述べました。「論語」の「為政篇」に「子曰ク、詩三百、一言以ツテ之ヲ蔽フ、曰ク思ヒ邪無シ」とありますが、これは「詩経の三百篇をただ一言で包みこめば思いに邪(よこしま)がないこと」を意味します。即ち「純な心で詠む大切さ」を作歌の心得とするようにと教えたそうです。
紀元前に中国で書かれた「詩経」「論語」を含む四書五経は後世に伝わり、朝鮮、日本など中国周辺の国家の倫理道徳の形成に多大な影響を与えました。このように、中国三千年の倫理道徳の古典が、今なお私共の心に受け継がれているのです。経済的に超大国となった中国の指導者層は、これらの尊い文化遺産の価値を深く認識し、誇りを持って、邪な思いの無い大国としての役割を果して欲しいものと思います。

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光岳小屋

2022-08-10 06:27:50 | 文化
不肖は学生時代、友人6人と南アルプス南部の高山を縦走しましたが、最後の目的地が光岳でした。標高2592メ-トルの高山で、「てかりだけ」と読みます。地味な山でしたが山頂の下に山小屋があり一泊しました。光岳を直接目指す場合は、長野県の易老渡(いろうど)登山口から急坂を徒歩10時間登る厳しい行程です。
ところで近頃、この小屋の主人が40年振りに替わり、女性の小宮山花さんという方になりました。彼女は「絶望のテカリ」と言われていた汚名を返上して注目されているようです。ソ-ラ-パネルと蓄電池で化石燃料を使わないエコハウス(写真 下)を作ったのです。食器洗いと入浴用の温水はこの太陽熱温水器を使用し、現在は食事もあるし、ベッドもあるということです。



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「戦い」の表現

2022-08-07 06:19:52 | 歴史
「戦い」や事件を表現する言葉は多様です。
「役」「乱」「変」「寇」「戦」「戦争」「事件」などがあります。
「役」 民衆を徴集して兵として権力者が戦う戦、上から目線の表現です。
        前九年の役(1051~62)、後三年の役(1086~1088)
        文禄・慶長の役(1592~1597)

「乱」  戦により世の中がみだれることからこのように称するようです。
やはり上から目線の表現です。
        保元の乱(1850~1901)
        平治の乱(1159)
        応仁の乱(1467~1477)
「変」  乱と似ていますが、意外性や驚愕が感じられる表現です。
        承久の変(1221)
        本能寺の変(1582)
「寇」  外国に侵攻する戦いです。元寇、和冦
「戦」 普通の表現ですから、よく使われてます。
白村江(はくすきのえ、663)の戦
        桶狭間の戦(1560)
        川中島の戦(1553~1564)
        長篠の戦い(1575)
        関ヶ原の戦 (1600)
「事件」一般的な表現ですから広く使われます
             元禄赤穂事件 (1701) 四十七士の討ち入り
             池田屋事件(1864)
             寺田屋事件(1862)
 たかが、戦の表現ですが、豊臣秀吉が朝鮮を攻めた文禄・慶長の役は、朝鮮側から見ると
 日本の侵略であり、朝鮮では、自国の年号を用いて「壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱」といわれているそうです。
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徒然草 百六十七段

2022-08-04 06:20:12 | 文学
兼好法師の文には味わいがあります。「徒然草」百六十七段を次に記します。

一道(いちだう)に携はる人、あらぬ道のむしろにのぞみて「哀れ我が道ならましかば、かくよそに見侍(はべ)らじものを」と言ひ、心にも思へる事、常のことなれど、よにわろく覺ゆるなり。知らぬ道のうらやましく覺えば、「あなうらやまし。などか習はざりけむ」といひてありなん。我が智をとり出(いで)て人に争ふは、角(つの)あるものの角をかたぶけ、牙あるものの牙をかみ出だすたぐひなり。
人としては善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他に勝ることのあるは大きなる失なり。品(しな)の高さにても、才藝のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人にまされりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心にそこばくのとがあり。慎しみてこれを忘るべし。をこにも見え、人にも言ひ消(け)たれ、禍(わざはひ)をも招くは、ただこの慢心なり。
一道にも誠に長じぬる人は、みづから明らかにその非を知る故に、志常に満たずして、終に物に伐(ほこ)る事なし。

慢心をいましめる文と思われます。

     「方丈記 徒然草」 日本古典文學大系 岩波書店
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