yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

鹿児島 加冶屋町

2020-09-28 06:07:30 | 歴史
鹿児島市内、甲突川が彎曲している土堤下に、やや低湿地気味の一郭を加治屋町という。ここは下級武士の団地というべきところで、平地が一戸百坪ぐらいに碁盤の目に区切られ、七、八十戸の武家屋敷がならんでいました。この七、八十戸の郷中(ごじゅう)から、西郷隆盛、大久保利通、西郷従道、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛が出ました。いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものです。江戸時代、薩摩藩には郷中(ごじゅう)という青少年教育組織がありましたが、この教育制度の成果の一つでもあったのではないかと考えられます。

郷中は、青少年を『稚児』(ちご)』と『二才』(にせ)に分けて、勉学・武芸・山坂達者(やまさかたっしゃ、今でいう体育・スポーツ)などを通じて、先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする組織でした。
西郷隆盛はあまりに人望が厚かったのでリ-ダ-を何度も務めました。 

司馬遼太郎「この国のかたち 六」文春文庫

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関羽

2020-09-25 05:58:57 | 歴史
関羽(?~220)は、後漢末期の将軍。字は雲長。蜀漢の創始者である劉備
玄徳に仕え、その人並み外れた武勇や義理を重んじた人柄で、敵将の曹操や多くの同時代人から称賛されました。「三国志」の登場人物の中で、不肖も諸葛孔明と関羽を特別に好ましく思います。 小説「三国志演義」では雲長あるいは関公、関某と呼ばれて愛されており、大活躍する場面が、壮麗に描かれているなど、関羽信仰に起因すると思われる特別扱いを受けています。また、見事な髭をたくわえていたため、髭殿とか美髯公と呼ばれました。戦死した後、神格化され、関帝、関聖帝君、関帝聖君と呼ばれて、関帝廟が建てられて人々に信仰されています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新井白石の父

2020-09-22 06:09:34 | 歴史
新井白石(1657~1725)は江戸時代の儒者、歴史家、政治家です。六代将軍
徳川家宣に仕え、正徳の治という時代をもたらしました。著書に「折りたく柴の記」がありますが、その中に父の事を記しています。
白石の父は、名を正済(まさなり)といい、31歳のとき、土屋利直という小さな譜代大名に召し抱えられました。当時はまだ戦国の殺伐な余風が残っていました。土屋の家の者で、三人の徒士(かち,軽輩)が夜盗を働きました。三人は主君の命で、陣屋の門の上の櫓に押しこめられました。「そのほう、あの三人を預れ」と、土屋の殿は新参の父に命じました。しかし、櫓には牢格子はなく、容疑者と同室せねばなりませんでした。三人の容疑者がその気になれば番人を殺し、破獄してしまう。父は利直に請い、三人を帯刀のままにし、自分は腰の大小を手拭いで縛ってころがし、丸腰になりました。その上で父は三人にいいました。「我は一人、わぬしらは三人、敵すべきにあらず。にげたければわが首を斬りて行け」
十日ほどして強盗の件は無実とわかりましたが、土屋家ではもともと素行のわるい三人を追い放ちました。そうきまったとき、三人は「いったんわぬしを殺そうかと思ったが、無刀のわぬしを殺したのでは、われらはやはり取るに足らぬ者であったかと世間に思われる。幸いわぬしの情けにより、大小もとりあげられず、牢中も武士の対面を保った」と礼に似たような口説(くぜつ)を残して去りました。父は相手の誇りを重んずることで、一命を保ちました。
父は日頃、喜怒哀楽をあらわさず、笑うときも大声を立てませんでした。人を叱るときも、あらあらしいことばは使わず、いつも静かでした。ひまなときは、居間をみずから掃除し、壁に古画を掛け、花瓶に季節の花をすこし挿して、それにむかってじっとすわって時間をつぶしていました。絵が好きで、ときに描く。彩色をしませんでした。また自分のことは自分でして人を使いませんでした。江戸初期のひとつの武士像です。


 司馬遼太郎「この国のかたち 四」文春文庫




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七福神

2020-09-19 05:45:40 | 文化
七福神を宝船に乗せた日本的な絵(写真 下)が江戸時代以後に流行しました。
七福神(しちふくじん)とは、福をもたらすとして日本で信仰されている七柱の神です。七柱は一般的には、恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天とされており、それぞれがヒンドゥー教、仏教、道教、神道など様々な背景を持っています。
唐末の乱世に、明州(寧波)付近の岳林寺に籍をおく契比という奇僧がいました。いつも袋を背負ってあたりを乞食してまわったため、人々から「布袋」とよばれました。ところが、死後、この僧は弥勒菩薩の化身だったという人があらわれ、その生前の姿を鋳(い)て、寺に寄進する人も出、大いに流行しました。中国の民間信仰である道教は、仏教とも習合していました。弥勒を布袋さんとして福神にしました。道教は現世利益の体系で、福と禄と寿という三大希求をもっていて、この希求から頭が長くて体が小さく杖をついた福禄寿という神がつくられました。別に寿老人という神もつくられました。

これらの福神に対して毘沙門天は唯一武装しています。
毘沙門天(びしゃもんてん、梵名: ヴァイシュラヴァナ)は、仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神であり、四天王では多聞天として表わされます。また四天王としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の広い地域でも、独尊として信仰の対象となっています 毘沙門天は民間での信仰が広まると、とても多くのご利益がある神様として祀られるようになりました。そのご利益は、商売繁盛、金運、財運向上、武運長久、勝運、開運長久などがあります。

弁財天は七福神の中では紅一点。古代インドで、ガンジス川などの大河が神格化されてこの女神になりました。豊穣と技芸の神であり、やがて福徳の利益をもたらす徳をも兼ねました。

七福神は、ほとんどが異国の神です。その中にあって、なにやら日本的な風貌をもつ神として大黒天があります。ところが、この大黒天、もとはインドの神でした。インドにあっては三面六臂、忿怒相で、髪が逆だち、全身は黒い。平安時代初期、最澄が渡唐して請来し、叡山の政所の大炊屋(台所)に安置するうち、諸国の寺々もこれにならい、ついにはひろく台所の神としてあがめられるようになりました。途中、日本神話の大国主命と習合し、容貌もにこやかになり、江戸期、打出の小槌をもって二俵の米俵に乗るという姿になりました。恵比寿、大黒と併称されます。インドや中国という異国由来の神でもどんどん受容する、いかにも日本人らしい行動パタ-ンの結果ともいえます。

 司馬遼太郎「この国のかたち 三」文春文庫






         
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 士

2020-09-16 06:22:35 | 文化
「士」という字の由来は「おとこ」です。「論語秦伯 第八」の第六と第七に明快に書いてあります。
第六
曾子曰、士可以託六尺之弧
可以寄百里之命、臨大節而不可奪也、君子人輿。君子人也。

曾子曰ク、士ハ以ツテ六尺之弧(りくせきのこ)ヲ託スベク
以ツテ百里之命ヲ寄スベク、
大節ニ臨ンデ奪ウベカラズ、君子人カ、君子人ナリ。

「訳」
曾子がいわれた、「幼君を託して諸侯の国の運命をまかすこともでき、大事にあたってもその志を奪うことができない。これこそ君子であろうか。確かに君子である。」

「論語秦伯 第八」の第七には、

曾氏曰、士不可以不弘毅
任重而道遠、
仁以為己任
不亦重乎、
死而後已、
不亦遠乎


曾子曰ク、士ハ以テ弘毅ナラザルベカラズ
任重クシテ道遠シ
仁以ツテ己ガ任ト為ス、
亦タ遠カラズヤ
死シテ後已(や)ム
亦タ遠カラズヤ

「訳」
曾子がいわれた、「士人はおおらかで強くなければならない。任務は重くて道は遠い。仁をおのれの任務とする、なんと重いじゃないか。死ぬまでやめない、なんと遠いじゃないか。」

 吉川幸次郎は『論語』(「中国古典選」)のなかで、士のことを、原義としては「家老でない若手の官吏をさす」としつつ、この場合、「ひろく教養ある人物と解していいであろう」という。中国では、読書階級を士または士大夫といいました。
中国の古典には「士は窮しても義を失わず」(孟子)とか「士にして居を懐(おも)うは、以て士と為すに足らず」「論語 憲問第十四」の第三
「訳」
士人でありながら安住の場を慕っているのでは、士人とするには足りない。


日本では、江戸時代に、189万人もの武士がいて、社会の倫理規範を支えていました。
江戸初期の朝鮮通信使が林大学頭(だいがくのかみ)に、「武士には捕吏が要らないというのは本当か」と、質問しました。縄目の恥辱を避けるため、その前に切腹してしまうからである。林大学頭は、「それは薩摩の風だ」と、答えています。

司馬遼太郎「この国のかたち 四」文春文庫





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

典型

2020-09-13 06:48:43 | 文化
人物類型において人格が明白で、その名を聞いただけで、人となりがわかる、という典型的な人物がいます。大抵は偉人です。

太閤殿下    裸一貫から己の才覚だけで天下を取る。
        元首相、田中角栄は「今太閤」と言われました。
織田信長、ナポレオン  際立った革新を成し遂げる。
徳川家康    忍耐を重ねて天下を取る。
水戸黄門    権力の象徴のような印籠を持つ、天下のご意見番。
大久保彦左衛門   清廉、剛直、武人、天下のご意見番。
 なお、元衆議院議長、渡部恒三氏は「政界の水戸黄門」とも言われました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本と仏教

2020-09-10 06:12:00 | 文化
不肖にとっては、意外であった、仏教に対する司馬遼太郎の解釈を紹介します。
本来の仏教というのは、じつにすっきりしている。人が死ねば空に帰する。教祖である釈迦には墓がない。むろんその十大弟子にも墓がなく、おしなべて墓という思想すらなく、墓そのものが非仏教的なのである。
仏教においては世間でいう「霊魂」という思想もなく、その「霊魂」をまつる廟も持たず(釈迦廟などはない)、まして「霊魂」の祟りを恐れたり、「霊魂」の力を利用したりするなどといった思想もない。
幽霊というものも、本来の仏教には存在しない。ここで、「霊魂も怨霊も幽霊も祟りも、仏教の教義として存在しない」といいたいところだが、残念ながら仏教には一大体系としての教義がないのである。
キリスト教やイスラム教のように、預言者がコトバをもって説いた宗教(啓示宗教)なら教義が存在する。
ところで、本来の仏教には神仏による救済の思想さえない。解脱こそ究極の理想なのである。
解脱とは煩悩の束縛から解きはなたれて自主的自由を得ることである。(そういうことが凡人に可能かとなると、話は別になる。解脱など、百万人に一人の天才の道ではあるまいか)。
ともかくも、本来の仏教はあくまでも解脱の「方法」を示したものであって「方法」である以上、戒律とか行とか法はあっても、教義は存在せず、もし存在すれば解脱の宗教とはいいがたい(教義を読んで解脱できれば、こんなラクなことはない)。

ヨ-ロッパにおける宗教改革は16世紀だったが、日本は13、4世紀の鎌倉時代がそれにあたる。
鎌倉仏教はその後の日本人の思想や文化に重大な影響をあたえるのだが、その代表格はなんといっても親鸞における浄土真宗と禅宗にちがいない。禅宗はともすればあいまいになりがちだった仏教を、本来の解脱的性格にもどした点で、まことにかがやかしい。
これに対し、浄土真宗は「本家離れ」してキリスト教に似た救済性をもった。救済の思想は、釈迦がひらいた本来の仏教には存在せず、その没後、数百年をへて出現した大乗仏教のなかにあらわれる。13世紀の親鸞は、大乗経典にある救済思想だけを抽出し、他の夾雑物をすてるほどに純粋希求のつよい思想家だった。
親鸞は大乗経典のなかでも「阿弥陀経」のみを自分の体系の根本経典とし、阿弥陀仏をGodに似た唯一的存在と考え、その本質を光明(キリスト教の用語でいう愛)としてとらえた。


 司馬遼太郎 「この国のかたち 一」 文春文庫





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倜儻不羈(てきとうふき)

2020-09-07 06:12:32 | 文学
倜儻不羈(てきとうふき)、漢字も読みも難しい四字熟語です。
  倜(てき) … すぐれていて、拘束されないこと
儻(とう) … 志が大きくてぬきんでていること。
羈(き)  … 馬を制する手綱。
不羈(ふき) … 拘束されないこと。

信念と独立心に富み、才気があって常軌では律しがたいこと。
確固たる信念を持って自分の責任のもとに独立し、常識や権力に拘束されることのない自由な人間を言います。

 この言葉は、同志社大学の創設者新島襄が示した大学創立の理念の言葉でもあります。
国禁を犯してアメリカへ密航して留学生となった新島襄。
黒船に乗り込もうとした吉田松陰然り。脱藩して日本中を駆け回った坂本龍馬然り。幕末から明治の激動の中で自由な考え方を持ち、実行に移した稀有な男達を形容しています。
早稲田大学を創立した元・佐賀藩士の大隈重信は、佐賀藩の教育制度、ガリ勉主義を批判して「一藩の人物を悉く同一の鋳型に入れ、為に倜儻不羈の気象を亡失せしめたり」と慨嘆しました。


              

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大概大概(テゲテゲ)

2020-09-04 06:02:41 | 文学
鹿児島県には大概大概(テゲテゲ)という方言があるそうです。「テゲ」でも良く、「将たる者は部下の者にテゲにいっておく」といった使い方をします。薩摩の旧藩時代、上級武士にとって配下を統御する上で、倫理用語というべきほどに大切な言葉でした。上の者は大方針のあらましを言うだけでこまごまとした指図はしないのです。そういう態度をテゲとかテゲテゲと言いました。たとえば、大将(薩摩語で差引)を命じられた者は、命令はテゲテゲにし、細部はすべて下級者にまかさねばならないとされました。例を挙げます。戊辰戦争の時に薩軍をひきいた西郷隆盛や、日露戦争のとき野戦軍の総司令官だった大山巌、また日露戦争で連合艦隊を統率した東郷平八郎という三人の将領の共通点がテゲテゲです。
このことは薩摩の風土性というよりも、日本人ぜんたいの風(ふう)であるらしく、テゲには、いいかげんとかちゃらんぽらんといった語感はありません。語意の説明に、上記の三人ほど、好例はないでしょう。かれらはマスタ-・プランを明示したあとは部署部署をその責任者にまかせてしまい、自身は精神的な-高貴な-象徴性を保つだけで終始します。もっとも西郷は自分の象徴性を高く置きすぎて失敗者になりました。ほどよく西郷を模倣した大山と東郷のほうは、その事において大きく成功しました。ついでながら大山は西郷の従弟で、東郷は近所の少年でした。かれらにとって西郷は身近な師表でした。

ちなみに不肖の郷里(越後)にも、小大概(こていげ-)という意味のよく似た方言があります。

       司馬遼太郎 「この国のかたち 一」 文春文庫




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お地蔵さん・道祖神

2020-09-01 06:09:20 | 文化
「お地蔵さん」は、大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々を、その無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされます。日本における民間信仰では道祖神としての性格を持つと共に、「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶ菓子が供えられています。一般的に、親しみを込めて、「お地蔵さん」「お地蔵様」と呼ばれます(下 写真)。不肖には意外だったのですが、地蔵菩薩は、閻魔大王の化身だそうです。地獄で、死者は三年を過ごし、十王のすべてに審判を受け、死者はその行き先を決められるのです。地獄に落ちた者にも、やはり救いはあります。閻魔さまは地蔵菩薩となり、地獄にあって子供や亡者を鬼から守り、地獄の釜から人を救い上げます。

また、道祖神(どうそじん)は不思議な神様です。形は、自然石から、性器をアレンジしたもの、男女が仲良く手をつないだ姿(下 写真)、肩を組んでいる姿、抱き合った姿、笏( しゃく) と扇を持っているタイプ、まれに一人の場合もあります。いずれにしても地方色や個性の強い形が多く、そして道端にまつられています。
道祖神の名のとおり、道を守る=道中安全、村や町に邪気や悪霊が入るのを防いだり、男女一対の形から、夫婦円満、子孫繁栄、縁結びなど、ご利益は多彩です。ときには道祖神が悪霊だと考えられる例もあるそうです。
名前も、祖神、行神、路神、道神、勝軍神、遮軍神、守公神、塞神、幸神、岐神、石神、船戸神、障神、衢神(くしん)、八衢神(やちまたのかみ)、道俣神など多くの呼び名があります。ただし厳密に言うと、名前によっては道祖神そのものではなく、同系の別の神様を指すようです。道の神様としての道祖神は中国にその原型があり、旅好きの人が神格化したようです。それに日本の神話の同じような雰囲気を持った部分が結びつき、日本独自の道祖神が生まれました。
日本の神様は、ある範囲の土地を守るために祀られ始める事が多く、自分たちの領域を守る=侵入者を防ぐことは、農耕社会ならば害虫から作物を守ることになり、それは豊作へとつながります。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする