yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

春風 白居易(再掲)

2021-02-28 05:38:14 | 文学
中唐の詩人、白居易の絶句を紹介します。

春風

一枝先発苑中梅
桜杏桃梨次第開
薺花楡莢深村裏
亦道春風為我来

一枝先ヅ発(ひら)ク苑中ノ梅
桜杏桃梨次第ニ開ク
薺花楡莢(ゆきょう)深村ノ裏(うち)
亦道(い)フ春風我ガ為ニ来ルト

「訳」
春風は宮中の庭の梅の一枝を最初に開花させ、ゆすらうめ・
あんず・桃・梨とだんだん花を開かせる。一方、山里では、なずなの花を咲かせにれのさやに吹きつける・だから、こちらのほうでも、わがために吹いてくれたと喜ぶのである。

「鑑賞」
桜は日本のさくらと同じではなく、ゆすらうめです。
白居易らしい平易な文字を使って春風の恵みをもたらして吹くことを詠っています。

「吟剣詩舞道漢詩集 続・絶句編」 日本吟剣詩舞振興会





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言語 考

2021-02-25 05:49:13 | 文化
現在、国連に加盟している国は196か国ですが、世界にはいくつの言語があるのでしょうか。学者によって数え方に違いはありますが、世界の言語の百科事典ともいえるEthnologueによると、現在、世界には6900ぐらいの言語があるといわれています。たとえば、ネパールのような小さな国でも、120以上の言語が存在しています。パプア・ニューギニアにいたっては840以上の言語があると言われています。オーストラリアにも、いわゆる原住民の言語を入れると、270以上の言語が存在すると言われています。なぜこのように多くの言語があるのでしょうか。「旧約聖書、創世記」には次のようにあります。
人が天に届くような塔を作りはじめた時、神は怒りました。彼らを地の全面に散らし、彼らはその塔を作る所から次第に離れていきました。それ故に、そこの名はバベルと呼ばれました。そこにおいてエホバは全地の言語を混乱させたからです。
これは言わば神話ですが、傲慢な人間に対する戒めとも考えられます。
ホモ・サピエンスは言語を獲得する事により、多人数が協力して狩猟を成功させ、また、社会を作り、大勢が協力した結果、今日の繁栄を築いてきました。言語が果たした役割はまことに大きいものでした。地球上の広大な空間と古代からの長い時間の中で、国境をも越えて多くの言語が生まれたのは、多様な集団がそれぞれに独自の欲望や必要性があったために、集団内の情報共有のため独自の言語を育ててきました。これが多数の言語が生まれた理由です。
次に世界の言語トップ12の言語と、それを話す人口を示します。
1.中国語  13.7億人
2.英語  5.3億人
3.ヒンディ-語 4.2億人
4.スペイン語  2.3億人
5.アラビア語  2.3億人
6.ベンガル語 2.3億人
7.ポルトガル語 2.15億人
8.ロシア語 1.8億人
9.日本語 1.27億人
10.フランス語 1.23億人
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ダチョウ抗体マスク

2021-02-22 06:47:02 | 文化
昨年11月始めに、注文してあったダチョウ抗体マスクが配達されてきました。(下 写真)日本でワクチン接種が開始された日に合わせたように到着したのは皮肉なものでした。
 しかし、このマスクは、新型コロナウイルスに効果があるとされている優れ物です。
京都府立大学の動物衛生研究室が、驚異的な免疫力を誇るとされたダチョウの卵から、各種病原体を不活性化する抗体(ダチョウ抗体)の大量作成に成功しました。新型コロナウイルスの一部(spike protein)は、コロナウイルスがヒトに感染する時に不可欠な分子ですが、ダチョウ抗体が結合することによって感染力が大きく抑制できます。研究室では2020年2月に実施したELISA試験により、開発したダチョウ抗体がspike proteinに強く結合することを確認したそうです。現在、海外の関連機関と共同で2019-nCoV臨床株を用いた感染実験、つまり生きたウイルスの「感染抑止実験」を行っています。また、死滅化した2019-nCoVウイルスをダチョウに免疫することで、さらなるダチョウ抗体のバ-ジョンアップも行って行くとのことです。





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年輪思考

2021-02-19 06:14:16 | 文学
年齢を援用しながら、その年々の行動様式を論考する手法は、「年輪思考」とも呼ばれます。
幕末の儒学者、佐藤一斎の「言志四碌」は味わいのある本です。
「少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老いて学べば、則ち死して朽ちず。」また、別の言葉もあります。「余自ら視・観・察を翻伝して姑(しばら)く一生に配せんに、三十已下(いか)は、視の時候に似たり。三十より五十に至るまでは、観の時候に似たり。五十より七十に至るまでは、察の時候に似たり。察の時候には当(まさ)に知命・楽天・に達すべし。而して余の年齢今六十六にして、猶ほ未だ深く理路に入る能はず。而るを況(いわん)や知命・楽天に於てをや。余齢幾ばくも無し。自ら励まざる容(べ)からず。

一斎先生は、八十八歳で逝去されましたから、六十六歳で「余命いくばくもない」ということにはなりませんでした。それはともかくとして、人間の判断には、年輪が大きくモノをいうこと、そして一斎先生が老境に達しても絶えず自分のいたらざるところを反省しておられた謙虚な姿勢、この二つのことがよくわかる良い言葉であるにちがいありません。

           小島直記「逆境を愛する男たち」新潮社




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子沢山

2021-02-16 06:18:49 | 文化
子沢山になるのには、財力と精力が必要であり、男子として立派なこととも言えます。子沢山には、多少の羨望と人としての親しみを覚えます。古今の子沢山で、まず思い浮かぶのは、徳川11代将軍、徳川家斉(いえなり1773~1841)はチャンピオンかも知れません。大奥に入り浸って16人の側室を持ち、53人の子供をつくりました。これらの子供を全国の大名に配り、ファミリ-で統治を強固にしました。これは初代将軍、徳川家康(1543~1616)も似ており、家康も16人の側室の間に18人の子供を作りました。全国の要所に子供を配り、尾張、紀州、水戸、越前、その他をおさえました。ファミリ-で統治したのです。
また、明治時代の財政家、松方正義(1835~1920)も子福者でした。ある時、明治天皇に「子供は何人か?」と問われ、咄嗟には答えることができず、「調査の上、後日奏上します。」と申し上げました。子供は15男11女、合計26人でした。
渋沢栄一(1543~1616)も艶福家でした。最初の妻、千代を43歳の時に亡くすと、後妻の兼子と結婚し4男3女をもうけました。お妾さんも数多く持ち、その子供は30人以上いたとか。普段やかましく道徳を口にするわりには女性関係にだらしがないのは、渋沢家の女性達にとっては格好の攻撃材料となっていたようで、孫の華子も、「わたしの若いころは祖父をなんとヒヒじじいと軽蔑していた」と述べていますし、妻の兼子も「父さまは儒教といううまいものをお選びだよ。ヤソ教なら大変だよ」と皮肉交じりに語っていたといいます。栄一自身も晩年には、「婦人関係以外は、一生を顧みて俯仰天地に恥じない」とみずから語っていたといいます。その栄一が最後の子供を儲けたのは齢八十をゆうに超えていました。

  渋沢栄一「現代語訳 論語と算盤」ちくま新書






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木鶏

2021-02-13 07:17:50 | 文学
昭和14年の正月。安岡正篤老師は、欧州に向かう照国丸にのって、インド洋あたりを航海しておられた。ある日、船の電信係がやってきて、「先生、双葉山かららしいのですが、電文の意味がどうもよくわかりません」と言って、一通の電報を見せた。その電文の終わりには、「イマダモッケイニオヨバズ」とある。「そうか!」老師は思わず感嘆された。船員は、「これでいいんですか。一体何のことですか」としきりにたずねるので、老師は、これは連戦連勝の双葉山が、はじめて安芸ノ海に負けた知らせで、「モッケイ」は「木鶏」、荘子や列子にある闘鶏の話であることを説明されたのである。
 「木鶏」は荘子(外篇達生)や列子(黄帝篇)に出てくる闘鶏の話です。昔、紀悄(きせい)子という闘鶏を飼う名人が、王様のために一羽の鶏を育てていた。十日ばかりして、「もうぼつぼついいかな?」と王がきくと、「まだいけません。ちょうど空元気のさいちゅうです」との答。また十日ばかりして王は催促する。「まだいけません。相手を見ると興奮します」という答。さらに十日ほどたって、待ちかねた王が催促すると、「まだいけません。相手に対して何が此奴が、というふうに、カサにかかるところがあります」という答。また十日ばかりして、しびれをきらしている王に紀悄子はやっといった。「もうぼつぼつよろしゅうございましょう。相手が挑戦してもいっこう平気でございます。ちょっと見ると木彫の鶏のようで、その徳が完全なのでございます。どんな鶏だってもう応戦するものなんかございますまい。みな退却しましょう。」

「木鶏」とは木彫りの鶏のごとく、全く動じない強さを秘めた、最強の鶏のことを言います。
      双葉山は昭和13年、27歳で横綱になり、69連勝と勝ちを続けていましたが、昭和14年春場所4日目で安芸ノ海に敗れ、「イマダモッケイニオヨバズ」の電報を打ったのでした。双葉山は右目が見えず、その少年が命がけの稽古をして最高位に登りつめました。力水は一度しかつけない。待ったはしない。相手の声を受けて立つ。これは他の強制でもル-ルでもなく、自分でつくった自分の律でした。酒井忠正(元横綱審査会長)は、「おそらく彼の土俵上の自律は、その日常座臥、求道行路の一方便に過ぎなかったのであろう。双葉山黄金時代、その絶頂の時に、人気というものの空虚さを悟ることのできるような彼になっていた」とのべています。

        小島直記 「逆境を愛する男たち」新潮社
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スイスアルプスと外国語

2021-02-10 10:29:03 | 文化
不肖が敬愛する佐貫亦男教授は、第二次世界大戦の頃からヨ-ロッパアルプスを廻られていました。スイスを旅行するのに、ドイツ語、フランス語、イタリア語が必要であり、英語は要らないと言われました。確かに道路標示も切符も街中の看板も案内文も現地語表記です。新田次郎の著書『アルプスの谷アルプスの村』には、下記のように書いてあります。
「佐貫さんは、戦前ヨ-ロッパに滞在していたし、アルプスに関する外国図書はほとんど読破していた。ここに来たのも今回で七回目であった。アルプスのことならおそらくスイス人よりくわしく知っているだろうといわれるほどのアルプス通。ドイツ語、フランス語、イタリア語、英語の4カ国語を自由に話す。ツエルマットの遭難者墓地に行く。イタリア人の墓守よりも佐貫さんは墓のことに詳しい。観光客もそれと察して、しきりに話かける。英語、フランス語、ドイツ語の質問を快刀乱麻と、得意のスピ-チでやってのけるのは見事なもの。新田次郎と佐貫の二人は電車でチナ-ルの谷へ向かう。二人と老人夫婦とハイティ-ンの男女四人だけ。そのうちハイティ-ンの連中が傍若無人に騒ぎ始める。少年が窓を開けっ放しにする。冷たい風が吹きこむので、佐貫さんが立ち上がって閉めに行く。三度目に少年をつかまえ大きな声でどなりつける。お前たちは他の乗客の迷惑ということを考えないのか、窓を開けたらなぜそのあとを閉めないのだ。少年がとっちめられると、他のものも責任が自分たちにあると思ったのかしゅんとした顔をして黙りこんでしまう。『今日のことをよ-く憶えておくのだ、わかったか』佐貫さんとどめのひとこと、少年は姿勢を正してわかりましたという。」

ドイツ語でドイツ少年を説教する語学力には驚きます。一方、佐貫先生はスイスでは英語不要と言われますが、英会話も達人です。こんな逸話があります。
ロンドンの空港の税関を御夫婦で通った時、ミセス・サヌキの旅行カバンがミスタ-・サヌキよりかなり大きいのを職員に見咎められました。その時、佐貫先生は「ワイフは私よりずっとリッチだから」と英語で答えたので、税関職員は笑ってそのままお二人を通過させたそうです。そんなユーモアもお持ちでした。また、1954年に本田宗一郎氏が欧州とイギリスを訪問をした時には通訳もされています。



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辻村伊助

2021-02-09 06:25:25 | 文化
辻村伊助は園芸家、登山家。明治(1886年)に小田原の素封家の二男として出生。開成中学、一高、東京帝国大学理学部と進み、農業化学科を卒業した秀才です。一高時代に日本山岳会に入会し、日本アルプスの登山をしましたが、1913年には渡欧して、スコットランドやスイスの山に挑みました。1914年1月、スイスの名峰、ユングフラウ、メンヒに厳冬期の初登頂をして世界に注目されました。ついで8月1日に、近藤茂吉や2人のガイド(フォイツ、ヘッスラ-)と共に、グロ-ス・シュレック・ホルン(大恐山、4078m)の登頂に成功しました。ところが下山の途中に雪崩に遭い、一行、全員が重傷を負いました。近藤茂吉とヘッスラ-は足を骨折、辻村伊助とフォイツは全身打撲でした。辻村はインタ-ラ-ケンの病院で療養しましたが、この時に出会ったナ-ス、ロ-ザ・カレンは辻村の生涯の伴侶になりました。帰国した辻村は箱根の広大な土地に高山植物園を作るなど事業も順調に進み、3人の子息にも恵まれ幸福の絶頂にありました。しかし、1923年9月1日に起きた関東大震災で、裏山が崩壊し、一家5人もろとも土砂に埋没しました。後に掘り出された遺骨は比叡山延暦寺に納められました。登山家の槇有恒は後に、「生涯を温かい家庭と友との中に山を思ひ山に登りそしてまた山の美しい植物を友として送られた」と辻村を追悼しています。辻村伊助の著書には、『スウィス日記』と『ハイランド』がありますが、特に『スウィス日記』は名著で、今日までアルピニストのバイブルになっています。(下 写真」)

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天に事(つか)う

2021-02-06 07:21:53 | 文学
佐藤一斎の『言志録』に「天に事(つか)う」という言葉があります。

不自分欺 謂之事天

自分ヲ欺カズ  之レヲ天ニ事フト謂(い)フ

「訳」
 自分で自分をあざむかない。これを「天に事(つか)うる」と言うのだ。
        天に事うるとは、人間以上のものを相手にするということである。
        
「西郷南洲遺訓」に
        「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽して人をとがめず。我が誠の足らざるを尋ぬべし」とあります。「誠」とは、自ら欺かざるの心です。

          川上正光 訳注 「言志四録(四)」







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グリンデルワルドと日本人

2021-02-03 05:51:24 | 文化
スイスの山岳リゾ-ト、グリンデルワルドと日本人には多くの交流があります。スイスのグリンデルワルドから見えるウェッタ-ホルン(3701m)は、アイガ-(3970m)の西にあり、グリンデルワルドのシンボルとも言える山です。(下 写真) 因みに、ウェッタ-ホルンは、標高3701メ-トルのハリスユングフラウと、3704メ-トルのミッテホルンと3689メ-トルのロ-ゼンホルンの3峰の総称です。
1854年にイギリスのA・ウィルスが初登頂し、1929年には日本の浦松佐美太郎が西南稜からの初登頂に成功しました。ウェッタ-ホルンは「天気の角(つの)」という意味です。頂上に雲がかかる事が多いのですが、この雲を見て天気予報ができるそうです。また、1921年に槇有恒は3人のガイドと共に、アイガ-のミッテルレギ稜(東南稜)からのアイガ-初登頂に成功しました。これを記念して、槇有恒はスイスに1万フランを寄贈しました。グリンデルワルドのガイド連盟はこの基金を元に1924年にミッテルレギヒュッテを建設しました。(下 写真)
次に、あまり知られていない話ですが、大正15年(1926)、昭和天皇の弟君の秩父宮雍仁殿下は、マッタ-ホルン(4478m)に登頂されました。お供は槇有恒、松方三郎、松本重治等でした。一行はまずグリンデルワルドに入り、ウェストンの出迎えを受けた後にツェルマットに移動して、マッタ-ホルンの登攀に成功しました。不肖が敬愛するエッセイスト、アルプニストの佐貫亦男教授は、第二次世界大戦の頃からヨ-ロッパ・アルプスを巡り、グリンデルワルドも訪れ、親交のあったガイドのエミ-ル・シュトイリが経営するホテル・ベルビュ-を常宿としました。槇有恒は後に日本山岳会の会長、マナスル登山隊長を務めています。現在、長野県松本市はグリンデルワルドの姉妹都市になっています。後に『スウィス日記』を書いた登山家、辻村伊助は、1916年に近藤茂吉とグロ-ス・シュレックホルンに登り、下山中に雪崩に巻きこまれて重傷を負いました。辻村は入院先のナ-ス、ロ-ザ・カレンと結ばれ、帰国後、小田原で暮らしましたが、1923年の関東大震災の土砂崩れに遭い、夫人を始め3児と共に惜しくも落命しています。
  



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