yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

鋸山

2010-08-28 07:50:34 | 文化
千葉県には上総鋸山(標高329m)があります。JRの最寄り駅は南房総の浜金谷です。江戸時代には江戸の町の高台からよく見えたそうです。江戸時代、上総、房州で遊ぶことは江戸の文化人のあこがれだったそうです。小林一茶は、鋸山の麓、金谷にある華蔵院に14回も訪れ
ました。
    我上にふりし時雨や上総山
という俳句を残しています。
 与謝蕪村や正岡子規もこの山の俳句を残しています。夏目漱石は一高時代に房総旅行に出かけ、鋸山に登ったことを漢詩紀行文、「木屑録(ぼくせつろく)」にまとめました。日本画家、東山魁夷の出世作とも言われる「残照」は、金谷から見た夕日を受けた鋸山の雄大な自然を描いたものです。また、しばしば小説の舞台にもなっています。このように鋸山は昔から文化人を惹きつけてきました。
さて、私の郷里、長岡にも東山連峰の主峰、鋸山(765m)があります。私は山歩きが好きでしたので、小学生の頃から家族や友人と一日がかりで登りました。なにしろ雪の深い地帯の山なので残雪が多いのが特徴でした。
私が学んだ県立長岡高等学校(旧長岡中学)の第一校歌にも、「鋸山」が真っ先に登場します。
我が中学の其の位置は
構は八文字浮島の
兜の城と名も高き
旧城跡を前に見て峨々たる嶮峰鋸は
その東面に天を指し
本島一の大河なる
信濃川は其の西に
汪洋広野を浸しつゝ
北海さして流れ行く

以下五番まであります。先輩から厳しく叩きこまれましたので今でも正確に歌うことができます。運動会にはこの校歌を歌いながらグランドを行進しました。大時代的な歌詞なので今では気恥ずかしくなります。最後は
天晴れ有為の人となり
我が中学の誉れをば
末代までも伝へなん
と、結んでいます。
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お礼

2010-08-26 07:38:15 | 近況
いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。
お蔭さまで、昨日、アクセス数が90,000に到達いたしました。
平成18年の3月に書き始めてから約4年半と言うところです。
この間に90,000アクセスは、望外のハイペースではないかと思っております。
引き続き、ご愛読いただければ、有り難く存じます。なお、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。
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祝 興南高校 甲子園 春夏連覇

2010-08-24 06:18:10 | 文化
去る8月21日に全国高校野球選手権大会の決勝戦が行われ、沖縄県代表の興南高校が神奈川県代表東海大相模高校を13対1で破り優勝しました。これは沖縄県勢にとって初めての夏の大会の優勝でした。しかも春の優勝と併せて春、夏の二連覇でした。島袋洋奨(ようすけ)投手を擁する沖縄県勢が初めて夏の優勝を飾り、深紅の優勝旗が沖縄に渡りました。春夏の二連覇は史上六度目であり、1998年に快腕松坂大輔を擁する横浜高校以来12年振りの快挙でした。これは興南高校選手の投、打、守のすべてにわたる三拍子そろった卓抜した力と結束力によるところが大きいのですが、地元の熱い応援にも助けられたことでしょう。夏の全国制覇、春夏の二連覇は沖縄県民の悲願だったそうです。お祝いを申し上げます。
 思えば、半世紀以上も昔、1958年(昭和33年)に沖縄から初めて首里高校が出場しました。
その時は福井県の敦賀高校に敗れました。選手達は、試合終了後、甲子園の土を集めました。これを持ち帰って記念とし再帰を誓おうと思いました。ところが、甲子園の土を沖縄に持ちこもうとした那覇港において問題が起きました。当時アメリカの統治下にあった沖縄にとっては日本本土は「外国」であり、甲子園の土は植物防疫法に触れるため空しく那覇港に廃棄させられました。この話を聞いた「日本航空」の客室乗務員は甲子園球場周辺にあった海岸の小石を集めて消毒して首里高校に贈ったということです。このことと甲子園初出場を記念して首里高校の校庭には「友愛の碑」が建てられ、今もこの石が保存されているということです。
 「こんな叙情的なひろがりをもったスタジアムが世界中にあるだろうか」と詩人の谷川俊太郎さんは言っているそうです。
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漱石が貸した拾円

2010-08-21 06:11:58 | 文学
明治時代に夏目漱石が正岡子規に拾円を貸したという話です。当時、松山で中学教師をしていた漱石の下宿「愚陀仏庵」に正岡子規は居候しながら病気療養をしていました。子規は故郷松山で過ごす間に病気が小康を得たので、奈良を経由して東京根岸に帰りました。この時、漱石は子規に旅費として拾円を貸したそうです。間もなく漱石は子規に拾円を貸したことも忘れ、子規も急いで返すつもりもなかったと思われます。当時の拾円の価値が現在どれくらいかはよくわかりませんが、当時、餡パン一個が1銭程度だったので、現在それが200円と仮定すると、当時の拾円は現在の二十万円程度と推定されます。しかし、素寒貧の子規が身分不相応にも奈良では屈指の名旅館、對山楼を宿として三日間、奈良を楽しんだことを思うと、子規にとってはそれ以上の価値があったのかも知れません。

   柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
   奈良の宿御所柿くへば鹿の鳴く
   渋柿やあら壁つづく奈良の町
   柿くふも今年ばかりと思ひけり   (亡くなる前年、明治三十年作)
などは、いかにも柿好きの子規らしい俳句です。

 以下は、漱石のご令孫、半藤末利子(はんどうまりこ)著の「漱石の長襦袢」に書いてあった話です。
「最近、奈良在住の正岡明氏から荷物が到来しました。中に見事な柿が入っていたのですが、封筒が添えてあり、その中にさらに小さいピンクの袋があって十円玉が入っていました。
  手紙には「百二十年前に御祖父漱石様から子規がお借りした拾円が気になって仕方がないのです。せめて元金だけはお返しせねばならぬと思い同封しました。利子だけは柿でお許し願えられそうなのでほっとしているところでございます。本当にありがとうございました。祖父になり代わりまして厚くお礼申し上げます。」
正岡明氏は子規の妹、律の孫にあたります。「何とまあ、明氏は義理堅く律儀なお方であろうか」と末利子氏は書いています。近いうちに雑司ヶ谷の漱石の墓に「確かに返していただきました」と報告に行こうと思っていると結んでありました。
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捲土重来

2010-08-18 05:43:29 | 文学
「けんどちょうらい」とか「けんどじゅうらい」と読みます。負けた者が再び勢いを盛り反し、意気込んで土を捲きかえして、ふたたび攻め戻って来ることを言います。
晩唐の詩人、杜牧の漢詩「烏江亭に題す」にもこの言葉があります。
  勝敗は兵家も期すべからず
  羞(はぢ)を包み恥を忍ぶは是れ男児
  江東の子弟豪俊多し
  捲土重来未だ知るべからず
 
 項羽が劉邦に敗れて南を目指す途中、烏江に至った時、烏江の亭長が項羽に江を渡って一旦逃れ、再挙することを勧めました。
 項羽は「我何の面目ありて江東の父兄に見(まみ)えん」と言って潔く自害したということです。杜牧は上記の詩により一代の英雄の最期を悼み、その霊を弔いました。

山本五十六連合艦隊指令長官の手帳にも戦死した部下の姓名と出身地がびっしり書きこまれてあり、「我、何のかんばせあって戦死者の父兄に見えん」といつも言いつつ戦場に散ったということです。

日本史においては足利尊氏が京都の抗争に敗れた後、一旦、九州に落ち、勢力を蓄え、再び都を目指して攻め上り、遂に政権を奪還しました。この事などが「捲土重来」の典型的な例です。
太平洋戦争の直後、全国高校野球選手権大会が復活し、甲子園の試合で敗れた選手が、甲子園の土を持ち帰り、家でその土を見ながら「捲土重来を期した」という作文を書き、その話が教科書に載る予定であったそうです。ところが完成した教科書には「捲土重来」という言葉が削除されていたということです。GHQが教科書を事前検閲した際に、復讐を示すこの言葉を教科書から削除したのではないかと、作者は推測したそうです。この作文の作者は往時を振りかえり、現代の球児達へのメッセージとして「平和な国で野球ができる事。そしてそれを支えてくれている先生、監督、地域の人達、家族、両親に感謝をする事を忘れてはならない」とテレビで語っていました。



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望湖水 惜春

2010-08-16 05:57:49 | 文学
松尾芭蕉が奥の細道の旅から帰った後、近江国、滋賀県辛崎あたりで、靄にけむった琵琶湖に舟を浮かべて、近江の人と行く春を惜しみました。ここで「湖水ニ望ミテ春ヲ惜シム」名句が誕生しました。時は元禄3年(1690年)芭蕉47歳の時でした。遙か近江の都を偲びながらの句ではないかといわれています。


行春を近江の人とおしみける    猿蓑(陸奥衛)
行春をあふみの人とおしみけり   蝶すがた(芭蕉句集・去来集)
行春やあふみの人とおしみける   堅田集(眞蹟)

     日本文學大系 「芭蕉句集」 岩波書店

同じ芭蕉の句であるにもかかわらず、上記のように三種類の句が伝わっています。
弟子の尚白が「行春は行く年にもかえられる」と言ったのに対して去来が反対し、芭蕉も去来の見解を良しとした、と「去来抄」にあります。このように俳句は、わずか十七字であるが故に、一字一字に大きな重みと違いがあることを示唆しています。

私はよくは分かりませんが、「猿蓑」に採られている句が最も自然で良いように思われます。「堅田集」の句は、「行く春や」で切れており、春を惜しむ詠嘆の気分がより濃厚ではないか  と思います。「蝶すがた」の句は「けり」で終っていて、やや平板な感じがします。

このようにいくつもの句が伝わっているのは、芭蕉が実際にいくつもの句を詠んだのかも知れませんし、弟子たちが芭蕉の句を本に編集した時に、記憶違いがあったり、好みの句を採った結果かも知れません。上に示した「陸奥衛」の著者は天野桃隣と言い、芭蕉没9年後に奥の細道の師の跡を辿り、「陸奥衛」を著しました。


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円周率 5兆桁

2010-08-13 05:54:12 | 科学
昨年9月18日の私のブログに、筑波大チームが数百億円規模のスーパー・コンピューターを使って、131日かけて世界で初めて円周率を2兆7000桁求めたことを書きました。それから1年足らずの8月2日、飯田市の会社員、近藤茂氏とアメリカのAlexander. J. Yee のチームが家庭用のパソコンで3か月かけて5兆桁を計算したという快挙が報道されました。計算に使ったパソコンは市販の部品で構成され、百数十万円でできたということです。
 このパソコンの主な仕様
     CPU:        インテルX5680(3.3GHz)X2
     メモリー:      96GB 
     ハードディスク:   22TB  Tは10の12乗
     OS:         Windows 64bit
計算プログラム        C++2008
計算式:           Chudnovsky(チュドノフスキー)の式    

これは普通のパソコンに比べて、ハードディスクの容量が巨大で、CPUも強力ですが、気張れば手が届きそうな物でした。早速、高級パソコンをお持ちの知人にお願いしてプログラムのダウンロードができることを確認していただきました。残念ながら、私のパソコンは能力不足(32bit)のため、すぐに計算に取りかかることができません。パソコンの能力が増強できて、プログラムの操作に習熟することができたら、私にも計算ができるかも知れないと思いました。
 円周率を5兆桁も求めて、どういう意味があるのかと疑問に思われる人が多いのではないかと思います。確かに、特段の意味は無いのですが、私は家庭内で「世界で初めてになる可能性のある仕事に参加できる」というところに魅力を感じます。
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船中八策

2010-08-10 06:25:44 | 歴史
司馬遼太郎が長編小説「竜馬がゆく」のあとがきに次のように書いています。「坂本竜馬は維新史の奇蹟、と言われる。同時代に活躍したいわゆる英雄、豪傑、志士と比べて型やぶりでした。幕末維新に生きた幾千人の志士たちの中で、一人も類例を見ない。日本史が坂本竜馬を持ったことは、それ自体が奇蹟であった。なぜなら、天がこの奇蹟的人物を恵まなかったならば、歴史はあるいは変わっていたのではないか。」
「薩長連合、大政奉還、あれぁ、全部竜馬一人がやったことさ」と勝海舟も言ったということです。
 不肖、私も竜馬の人間的な魅力に大いに共感します。それは、将来に対する明確で具体的なビジョンと思想を持っていたこと。周囲の人々を惹き付ける豊かな包容力と愛嬌があったこと。すさまじい行動力と、当時の人には乏しかった経済感覚と直感力があったことなどによります。

竜馬は大した学問もなく、多くの他の志士が持っていた藩士という身分や、藩の後援のない一介の浪人でした。しかし竜馬には北辰一刀流の免許皆伝、江戸の千葉道場の塾頭を勤めたという、当時普遍的とも言える輝かしい経歴があり、それが背骨となっていました。そして北辰一刀流に関わる豊富な人脈と共に、彼の活動上の強い支えになっていたと思われます。

周知のことでしょうが「船中八策」は、慶応3年(1867年)に坂本竜馬が長崎から大阪に向かう船の中で、土佐藩の参政の後藤象二郎に示したと言われる八ヶ条の策のことです。これは近代日本の骨格を決めることになった重要な策となりました。

第一 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出づべき事
第二 上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛せしめ、万機よろしく公議に決すべき事
   (明治政府は明治23年になってようやく貴族院、衆議院から成る帝国議会を開設しま
した。これが今日の参議院、衆議院です。)
第三 有財の公卿・諸侯および天下の人材を顧問に備え、官爵を給ひ、よろしく従来有名無実
   の官を除くべき事
第四 外国の交際、広く公議を採り、新たに至当の規約(新条約)を立つべき事
第五 古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事
第六 海軍よろしく拡張すべき事
第七 御親兵を置き、帝都を守備せしむべき事
第八 金銀物貨、よろしく外国と平均の法を設くべき事

後藤は、これを見て驚嘆したということです。当時の誰もが考えてもいなかった策であったからでしょう。この後、後藤は大政奉還の実現に向けて奔走しました。

この八策は竜馬が新政府に推挙した越前の由利公正(きみまさ)と土佐藩の福岡孝弟(たかちか)によりまとめられ、明治政府の基本方針「五箇条の御誓文」となりました。

一、 広く会議を興し万機公論に決すべし
一、 上下心を一にして、盛んに経綸を行ふべし
一、 官武一途、庶民に至る迄、各々其志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
一、 旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし
一、 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし

この御誓文は由利らが起草してから二か月後の慶応四年(1868年)三月に明治天皇が天地神明に誓うという形式で内外に発布されました。尚、ここには竜馬の「船中八策」の思想がことごとく盛りこまれていました。
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スイスのジョーク

2010-08-08 06:39:10 | 文化
スイス・ジョーク集から、思わず吹き出した話を紹介します。
下記はあくまでもジョークです。

スイスの農村に牛小屋がありました。その牛小屋の中は、とても臭いことで有名でした。その牛小屋に入った各国の人が「何分で出て来たか」という話です。まず、イギリス人が入りました。イギリス人は臭に閉口して、僅か1分で出て来ました。ドイツ人は5分で出て来ました。続いてスイス人が入りました。しばらくすると牛小屋から牛が出てきました。
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国民性

2010-08-05 09:12:29 | 文化
多分に誇張はありますが、各国の国民性を表すたとえ話です。

ヒマラヤの山中で、夕方、雨の中、登山隊が使用人にテントを建ててもらっています。

イギリスの登山者:雨に濡れながら直立して見守っている。リーダーの心意気。貴族的孤高。
ドイツの登山者: 傘をさして平然と見ている。合理的であり、プロに任せて素人は手出しをしない。やや尊大。
日本の登山者: 使用人と一緒になって濡れながらテントを張るのを手伝う。同志と協同して目的達成に向かう。人種的偏見も階級差別意識も少ない。

イタリアの登山者: 歌をうたって皆を励まし、楽しくなるようにする。こせこせしない。
自由奔放・陽気で楽天的。


皆様はどの国の国民性を好まれますか。私は典型的な日本人タイプ。農耕民族的人間です。
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