yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

次の一手 三択問題

2010-01-30 10:09:44 | 将棋
  毎週木曜日に新聞紙上(およびインターネット上)に出題される将棋の次の一手問題(三択)に挑戦しています。1回につき2問が出題され、1問当たり10点が配点されます。特別な難問が出題されるということは少ないので、大抵は正解に到達することができますが、1年に1,2回くらいの割合で失敗しています。一昨日1月28日が丁度その失敗にあたりました。三択問題ですから候補手A,B,Cがあります。問題を見た時は、一目、候補手Bが正解ではないかと思いました。引続き考えていましたら、この手では勝つことが難しいと気付きました。さらに考えていましたら候補手Aが良いように思えて来ました。しかし、この着手でも相手に良い受け手が見えてきて難しいことがわかりました。
こうなると正解は残る候補手Cしかないと、その時に思い込んでしまいました。この時の心裡状態はCこそ正解と思い込み、相手からの反撃手段を冷静に検討する余裕を欠いていました。そこで自信を持ってCに応募しました。ところが正解の発表を見たらBでした。また正解に対する出題者の解説にも納得できなかったので、直ちに出題をした日本将棋連盟の免状部に、正解はCではないかと質問しました。回答は直ぐにあり、指導棋士K五段(プロ棋士)の丁寧な解説に納得しました。今まで将棋連盟の出題ミスを何回も指摘してきたこともあったので、久しぶりの自分の失敗に情けない思いをし、野球の野村克也元監督の言う「負けに不思議の負け無し」と言う言葉を思い出し、我が身の未熟を痛感しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春秋の筆法

2010-01-29 06:45:42 | 文学
「春秋」は中国春秋時代に関する編年体の歴史書で儒教の聖典、「四書五経」の一つです。孔子等により紀元前450年頃に書となったとされています。孔子の厳しい批判の態度が随所に表現されていると言われています。
「春秋の筆法」という言葉があり、批判精神に富むという意味もありますが、些事をとりあげて、大局との関係を説く論法であることから、間接的な原因を直接的な原因として表現する論法を指すことが多いようです。また一見、論理に飛躍があるように見えるが、一面の真理をついているような論法のことを言います。例えば、「日本軍の南方進出により、アジア諸国の独立が実現した」というのは一面の真理でもあり、「春秋の筆法」の一つではないかと思われます。 
さて春秋の筆法とは異なりますが、似たものとして、日本のことわざに「風が吹けば桶屋が儲かる」というのがありますが、これは江戸時代一流の洒落で、大いに論理の飛躍があるので、なぜだろうと思う人もいるのではないでしょうか。これには、大胆なこじつけを含む因果関係があります。風が吹くと土埃が舞い、目に入ります。すると目を患う人が増え、盲人は門付けなどをして糊口をしのぎます。門付けの盲人は三味線を弾きますので、三味線がよく売れます。三味線の胴は猫の皮で張ります。すると猫が減って鼠が繁殖します。鼠が増えると桶がかじられます。従って桶屋が繁盛して儲かるというのです。江戸っ子は、このような無理なこじつけをシャーシャと楽しんで笑い飛ばしていました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝三暮四

2010-01-26 07:07:04 | 文学
今期の国会の論戦の中で「朝三暮四」という四字熟語が登場しましたが、正しく理解して討論されていないのではないかと思われるふしがありました。この言葉は高校時代に学習したように思いますが、あらためて正確な意味を調べてみました。
出典は「列子(黄帝)」や荘子「齋物論篇」で、中国の春秋時代に宋の狙公(猿回しのこと)が猿に橡(とち)の実を分けてやりながら、こう言いました。「朝は三つずつ、夕方には四つ
ずつやろう。」すると猿共は歯をむいていきりたちました。そこで猿回しは「それならば朝は四つずつ、夕方に三つずつにしよう」というと多くの猿はキャッキャッと喜びました。
すなわち、「名実未ダ欠ケズシテ喜怒ハ用ヲ為ス。」朝三暮四も朝四暮三も結局同じ内容を異なる表現で言ったに過ぎず、実質には何の変化もないのですが、世俗の人々の愚かさは猿共とどれ程違うというのであろう。「是(ここ)ヲ以ツテ聖人ハ之(これ)ヲ和スルニ是非ヲ以ツテシテ天鈞(てんきん)ニ休(いこ)ウ」と荘子は言うのです。なお「天鈞」は、「絶対的一の世界」の意です。転じて「朝三暮四」は言葉巧みに人をだますことという意味に用いられます。
嘗て、舛添前厚生労働大臣が、くだらない質問をする人に対して「大臣は多忙である。小人に関わっている暇は無い」と喝破しましたが、総理も同じように「失礼な質問をする小人に関わっている暇はない」と一蹴しても良かったのではないでしょうか。
ご承知の通り、朝と暮を含む四字熟語に「朝令暮改」(朝に決めたことを夕方には変更してしまう)という言葉もあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

榎本脱走艦隊

2010-01-24 07:26:29 | 歴史
徳川幕府の最後の将軍慶喜が大政を奉還し、大坂から江戸に帰ったあと幕府の人事が刷新され、榎本武揚(えのもとたけあき1836-1908)は海軍副総裁になり、事実上海軍を掌握することになりました。陸軍総裁である勝海舟のやり方、すなわち彰義隊を見殺すなど幕臣に対する非情な処置に我慢ができなかった榎本は、1868年(明治元年)9月19日に幕府海軍を率いて品川沖を脱走しました。
脱走の前日、8月18日に書いた檄文の全文を以下に記します。
<檄文>
王政日新ハ皇国ノ幸福、我輩モ亦希望スル所ナリ。然ルニ当今ノ政体、其名ハ公明正大ト雖モ、其実ハ然ラス。王兵ノ東下スルヤ、我老寡君ヲ誣(し)フルニ朝敵ノ汚名ヲ以テス。其処置既ニ甚シキニ、既ニ其ノ城地ヲ没収シ、其ノ倉庫ヲ領収シ、祖先ノ墳墓ヲ捨テ丶祭ラシメズ、旧臣ノ采邑ハ頓ノ官有ト為シ、遂ニ我藩主ヲシテ居宅ヲサヘ保ツ事態ハサラシム。亦甚シカラスヤ。此一ニ強藩ノ私意ニ出テ、真正ノ王政ニ非ス。我輩泣イテ之ヲ帝平ニ訴エントスレハ、言語梗塞シテ事情通シス。故ニ此地ヲ去リ長ク皇国ノタメニ一和ノ基業ヲ開カントス。其闔国士民ノ鋼常ヲ維持シ、数百年怠惰ノ弊風ヲ一洗シ、其意気ヲ鼓舞シ、皇国ヲシテ四海万国ト比肩抗行セシメン事、唯此一挙ニ在リ。之我輩敢テ自ラ任スル所ナリ。廟堂在位ノ君子モ、水辺林下ノ隠士モ、苟モ世道人心ニ志有ル者ハ、此言ヲ聞ケ。
加茂儀一『資料榎本武揚伝』
まず、維新政府は一二強藩の私意により成立していて王政に非ずと断じています。恭順した徳川慶喜に朝敵の汚名をきせ、城地、財産を没収し、墳墓を祀ることを許さず、領地を官有とし、臣下の生計を奪ったとあります。旧幕臣の力で蝦夷を開拓し、併せて北辺の防備に当たり、長く皇国が世界の国々と肩を並べるようにすることを宣言した堂々たる檄文です。

世に言われる榎本脱走艦隊は、榎本がオランダに留学して設計段階から製造、完成まで立会い、オランダから江戸まで回航してきた開陽丸、そして回天丸、蟠龍丸、感臨丸、美嘉保丸、千代田型(日本初の蒸気機関船)神速丸、長鯨丸の8隻から成る大艦隊でした。艦隊は幕臣、彰義隊の残党、會津兵を収容しつつ房総、仙台を経由して北海道函館の東方の鷲ノ木海岸に上陸し、五稜郭を目指しました。そこで蝦夷共和国を建て、選挙で総裁となりました。
 明治2年には岩手県の宮古湾で宮古湾海戦を行いました。これは回天丸(旗艦)、蟠龍丸を主力として、新政府で最強の戦艦、甲鉄艦に接舷してそこに斬り込み隊を送りこみ、甲鉄艦を奪取することを目論んだ破天荒な海戦で、近代海戦では世界にもあまり例の無い海戦でした。榎本は回天、蟠龍を主力とする艦隊に荒井郁之助(指揮官)土方歳三等を乗りこませて送り出しました。3月25日 回天丸は敵艦に接舷する直前に艦旗を外国旗から日章旗に替えて、甲鉄艦に斬り込んで行きました。この接舷攻撃はアボルダージュ(フランス語 Abordage)と言われ、万国公法で認められていました。土方、甲賀等は抜刀して懸命に働きましたが、ガトリング砲には敵対かなわず、形勢が好転できないため、最後は宮古湾からの撤退を余儀なくされました。
 当時、新政府軍には砲術士官として東郷平八郎が乗艦していましたが、回天による奇襲攻撃
の衝撃を後々まで忘れず、「意外こそ起死回生の秘訣」として後の日露戦争の日本海海戦の勝利に繋げたと言われます。また、宮古湾海戦の際の勇敢な斬り込み隊を称えたとのことです。

榎本は、新政府に共和国の承認を求めましたが容れられなかったため、2年に亘って函館戦争を戦い、幕臣の意地を見せましたが政府軍に破れました。
戦後、榎本は獄中謹慎処分を受けましたが、黒田清隆等の奔走により死一等を減ぜられ、その後、海軍大臣、外務大臣、文部大臣、農商務大臣、逓信大臣など多くの要職を歴任しました。その輝かしい活躍にもかかわらず、この快男児は青少年時代、長崎伝習所時代、オランダ留学時代や函館戦争のことも含めて己の過去を語ることを殆どしなかったそうです。思うに、多くの同志、僚友、部下を死なせて生きのびたことを恥じ、口を閉ざしたのではないかと推察されます。様々な誹りに耐えつつ国家の求めに応じて、持てる才能を燃焼し尽す人生でありました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レイティング

2010-01-21 12:30:12 | 将棋
レイティングは二者で競う競技やゲームにおいて、競技者の強さを数値で表現する指標で、チェスや将棋には広く用いられています。将棋の場合、レイティングの持ち点と段位を関係付けて利用されています。アマチュアの将棋界、例えば「インターネット将棋道場」ではレイティングが常用されており、1000点で6級、1500点で1級、2000点で参段、2500点以上は六段などとなっています。プロの棋界ではレイティングを使っていませんが、例えば、最近の棋戦の結果から、羽生善治名人が2930点、渡辺明竜王は2733点、鈴木大介八段は2796点という計算をしている人がいます。ちなみにチェス界における世界チャンピオン、グランドマスターであったギャリー・カスパロフ氏は2800点、日本人のチェスの最強者、羽生善治氏は2382点と言われています。
チェスの世界でよく使われている「レイティング」の計算で、国際公式競技組織 DCI (Duelist Combocation International)で世界的に公認されているレイティング計算法があります。彼我のレイティングの持ち点差(DR)と期待勝率(ES)の関係、つまりロジスティック関数を利用しています。
ロジスティック関数とは、下記の式で表されます。

ES=1/(10^(DR/400)+1)
  ^は冪乗を示す記号です。
ES: 自分の期待勝率
  DR: 相手のレイティング-自分のレイティング
 
 DR=0 の時  (自分と相手の棋力が同等の時)     ES=0.5
 DR>>1の時  (相手が自分より大いに強い時)    ES=0 に漸近
 DR<<-1の時 (自分が相手よりが大いに強い時)  ES=1 に漸近
であり、合理的な関数式に思えます。

上記のロジスティック関数を使って、一連の競技が終わった後に新しいレイティングが計算されます。

「新しいレイティング」=「古いレイティング」+K(獲得ポイントーES)

   獲得ポイント  勝利の場合 : 1
           引分けの場合: 0.5
           敗北の場合 : 0
レ-ティングが自分より100だけ少ない相手(DR=-100, ES=00.6401)と4回試合をして2勝1敗1引分けの時、獲得ポイントは、2+0.5+0=2.5となります。

   K値      対戦マッチ毎に(試合の種類やレベル)毎に、レイティングの増減
           幅を定める係数で、32とか24とか16が選ばれます。
           アマチュアの大会では16が使われることが多いようです。
   この例の場合、自分のレーティングの増加分は式から29.76と計算されます。
   自分が新たに得たレイティングの増加分と相手が失ったレイティングの減少分は等しく
   なっています。
   新しいレイティングを使って、絶えずレイティングを更新し、レイティングの値と
   実際の勝率の関係が妥当な所に収斂することが期待されています。
    ロジスティック関数を使った上記のレイティング計算法は代表的なものですが、
    これ以外の計算法もあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鵜殿兄弟

2010-01-16 07:04:19 | 歴史
今回は私の郷里長岡の先覚者をご紹介します。長岡藩で幕末に活躍した鵜殿兄弟の話です。
長岡藩の中級藩士に鵜殿瀬左衛門という人がいました。瀬左衛門の次男が鵜殿団次郎(1831-1868)、三男が鵜殿豊之進(1847-1909)、後の白峰駿馬です。
鵜殿団次郎は学問に優れ、長岡藩の崇徳館において小林虎三郎、三島億二郎らと共に俊才を以って聞こえ、江戸に上って蘭学や英学を修め、1862年に蕃書調所(東京大学の前身)の教授にまでなりました。彼は長岡藩の軍制改革を進言するなど、藩政のためにも尽力しましたが、惜しくも戊辰の北越戦争の直前に38歳で他界しました。春風と号していた通りの穏やかな人柄と思想の持ち主で、盟友の河井継之助が過激であったため、藩政においてしばしば対立しました。もし北越戦争の頃まで鵜殿春風が存命であれば、西軍と徹底抗戦することを回避し、長岡が焦土と化することを免れたかも知れません。鵜殿春風ほどの逸材を亡くしたことは長岡藩にとって大きな損失でした。
弟の鵜殿豊之進は1864年に長岡藩を脱藩して江戸に向かい、兄と異なる道を歩みました。脱藩後は長岡藩士の身分を隠すため、白峰駿馬(しらみねしゅんま)と名告りました。彼は江戸では勝海舟の知遇を受け、勝に従って幕府の様式海軍の元となった神戸海軍操練所に参加しました。しかしこれが解散すると坂本龍馬とともに長崎に行き、亀山社中・海援隊に加わって、太極丸の船将を勤めるなど大いに活躍しました。隊長の龍馬が京都の近江屋で暗殺された時には現場に急行しました。龍馬が亡くなったため、海援隊も解散を余儀なくされましたので、駿馬は1869年にアメリカに渡り、ラトガース大学やニューヨーク海軍造船所で造船技術を学びました。1874年に帰国した後、1878年には日本の民間では初めての白峰造船所を設立し、我国の造船事業の礎を築きました。後に勲六等瑞宝章を受け、61歳で他界しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Candor とTaste

2010-01-13 06:58:56 | 科学
日本が科学技術立国となるためにはCandor とTaste が大切であると江崎博士は書かれています。江崎玲於奈氏は1925年生れ、旧ソニーに勤務していた時代にエサキダイオードを発明され、固体でのトンネル効果を初めて実証し、物理学に大きい貢献をされたことで1973年にノーベル物理学賞を受賞されました。その後、アメリカにおいて長い間研究生活を送られました。
ところでエサキダイオードは極めて特異な特性のある不思議な半導体部品で、私も使用したことがありますが、残念ながら商品としては、あまりヒットしなかったようです。
 英語にはCandorという単語があります。公平無私、虚心坦懐という意味で、出身大学とか、何々教授の弟子であるとか、国籍によって人を評価することをしない態度です。アメリカでは当たり前のことですが、日本ではCandorな態度が少ないと言われています。またTasteも重要です。Tasteは味とか趣という意味が第一義ですが、鑑識眼という意味もあります。科学・技術は優れた鑑識眼によって厳しく評価されなければなりません。アメリカでは、優れた評価が行われている傾向が強く、筋の良い研究には、優れた研究者と多くの資金が集まり、益々研究成果が挙がる可能性があるそうです。また科学技術白書によると、政府の科学技術研究費はアメリカが44兆円・日本が18兆円・ドイツが8兆円・フランスが5兆円・イギリスが4兆円だそうです。一方ノーベル賞受賞者の数は、総数約800人の内、アメリカが300人、イギリスが80人、フランスが50人で我が国はわずかに15人です。アメリカに次いで多くの研究予算を投じているにもかかわらず、15人とは不思議なことと思わざるを得ません。これは日本では新しいものを生みだす研究に成果が挙がっていないという見方もできます。江崎博士は「世界一のコンピュータを作ることも大事ですが、Tasteを磨き、評価の鑑識眼を高めて科学技術を発展させるリーダーを育てることが大切」と仰っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の殿様 林忠崇公

2010-01-08 16:46:58 | 歴史
請西藩(じょうざいはん 上総 木更津)1万石の林家は清和源氏の流れをくむ名家で徳川家康の先祖、松平親氏の代からの譜代の家臣でした。このため徳川幕府においては、小藩ながら一目を置かれる存在でした。元日には家臣の中から請西藩主が最初に兎の吸物と杯を賜る習わしでした。また家紋が一という文字であったため一文字殿と言われていました。
林忠崇(ただたか1848-1941)公は請西藩の第三代藩主です。戊辰戦争が起こった時、紀尾彦と言われ徳川家と特に縁が深かった諸大名(紀州藩と尾張藩は御三家、彦根藩は譜代大名の筆頭)がこぞって西軍に就き、徳川宗家に刃向かいました。これを見て忠崇公は大いに憤慨し彼等を討つべしと考えました。しかし、直ちに西軍と事を構えると将来、請西藩にお咎めがあり、林家や藩士、藩民に災いが振りかかる恐れがあると忠崇公は考えました。そこで、藩主でありながら自ら脱藩して藩士約60名と遊撃隊に加わりました。遊撃隊は、人見勝太郎、伊庭八郎を中心に旗本や旧幕臣から成っていました。伊庭八郎は剣の心形刀流の伊庭(いば)道場の御曹子で、八郎は伊庭の小天狗と言われた剣の達人で、門人には江戸に住む幕臣が多数いました。伊庭八郎は箱根での戦闘の際に左手首を失いましたが隻腕で戦い続け、隻腕の剣士と言われました。後に榎本武揚艦隊に合流して人見勝太郎と共に函館に渡り、彼の地で戦死しました。人見勝太郎は後に赦免されて実業界に転じました。
遊撃隊は房州館山から相模真鶴に渡り、ついで韮山、甲府、沼津、福島などを転々として新政府軍と戦い、最後には奥州仙台まで行きました。この頃、徳川宗家が駿河において徳川家達(いえさと)を当主として相続を許されることに決まりました。この報に接して、忠崇公は西軍に対して徹底抗戦する大義が最早無くなったと認めて矛をおさめることに決め、函館に向かう伊庭八郎、人見勝太郎らと仙台で決別しました。しかし、江戸時代の全300藩の内、徳川家に最後まで忠義を貫いた請西藩のみが唯一つ取り潰しになりました。後に忠崇公は蝦夷の開拓民になったり、流転と困窮の生活を送りましたが、これを見かねた旧重臣が私財を投じて林家の家格の再興に奔走したのが功を奏し、明治の半ばになってようやく林家は華族に列せられました。反骨と剛直の殿様でしたが、剣道や絵や和歌に親しみ、飄々とした人生を送りました。次のような俳句が残っています。

   琴となり下駄となるのも桐の運

忠崇公は太平洋戦争の直前に他界しましたが、最後の殿様と言われています。ちなみに現在の当主は元帝京大学教授林忠昭氏です。

          中村彰彦著 『遊撃隊始末』 文藝春秋社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする