「ある明治人の記録」會津人柴五郎の遺書 石光真人編著 中公新書 を読みました。
これは柴五郎の遺稿であり、思わず襟を正さざるを得ない内容でした。<o:p></o:p>
柴五郎は會津藩上級藩士の五男として1859年に會津若松に生まれました。會津戦争の際、祖母、母、姉妹が自刃、同時に一族に多くの犠牲者を出しています。落城後、俘虜として江戸に収容され、後に下北半島の火山灰の不毛の斗南に移封され、公表を憚るほどの悲惨な飢餓生活を続けました。薩長藩閥政府が華やかに維新を飾りたてた歴史から全く抹殺された暗黒の一節を著しています。脱走、下僕、流浪の生活を経て軍界に入り、藩閥の外にありながら、陸軍大将、軍事参議官の栄誉を得た逸材であり、中国問題の権威として軍界に重きをなした人です。<o:p></o:p>
東京を流浪中には一時、山川浩(元會津藩家老)の家に寄偶しました。浩の母堂と四女常磐の世話になり、米国留学中の咲子の古着の袖を短くして借り着をして寒さをしのいだというエピソードが感謝をこめて記してあります。この事からも山川家の温かい家風が偲ばれます。<o:p></o:p>
また義和団事件では、柴隊は北京に籠城し、その規律ある進退で世界各国の賞賛を得ました。後にこうした数々の功を誇ることは微塵も無く、「軍の一員として働いたまで」の一言あるのみでした。陸軍部内で尊敬を集めたのは生来の実直さと私心のない正確な判断力を維持し続けた「誠実の人」であったからです。<o:p></o:p>
柴五郎は昭和20年12月13日、祖国の最も惨めな姿を見るのを拒むかのように87才の生涯を閉じました。写真は軍装の柴五郎大将です。
<v:shapetype id=_x0000_t75 coordsize="21600,21600" o:spt="75" o:preferrelative="t" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" filled="f" stroked="f"> <v:stroke joinstyle="miter"></v:stroke><v:formulas><v:f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></v:f><v:f eqn="sum @0 1 0"></v:f><v:f eqn="sum 0 0 @1"></v:f><v:f eqn="prod @2 1 2"></v:f><v:f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></v:f><v:f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></v:f><v:f eqn="sum @0 0 1"></v:f><v:f eqn="prod @6 1 2"></v:f><v:f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></v:f><v:f eqn="sum @8 21600 0"></v:f><v:f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></v:f><v:f eqn="sum @10 21600 0"></v:f></v:formulas><v:path o:extrusionok="f" gradientshapeok="t" o:connecttype="rect"></v:path><o:lock v:ext="edit" aspectratio="t"></o:lock></v:shapetype><v:shape id=_x0000_i1025 style="WIDTH: 150pt; HEIGHT: 197.25pt" type="#_x0000_t75"><v:imagedata src="file:///C:DOCUME~1OwnerLOCALS~1Tempmsohtml11clip_image001.jpg" o:title="芝五郎"></v:imagedata></v:shape><o:p></o:p>
子曰、知之者不如好之者、好之者不如樂之者 「論語」にある言葉です。<o:p></o:p>
(子曰く、之を知る者は之を好む者に如かず、之を好む者は之を樂しむ者に如かず)<o:p></o:p>
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これは芸道、趣味、人生に通ずる言葉だと思います。<o:p></o:p>
上級を目指して勉学精進して知識技術を深める喜びが「之を知る」段階。<o:p></o:p>
その喜びが自分の嗜好に合って来るのが「之を好む」段階。<o:p></o:p>
人生の一部になって「之を楽しむ」のが達人の境地なのではないでしょうか。<o:p></o:p>
どんな事でもいいですが「之を楽しむ」ような境地に達することができたら素晴らしい事だと思います。<o:p></o:p>
犠牲と奉仕, Service and Sacrifice すばらしい言葉です。<o:p></o:p>
1918年 新生なったばかりの東京女子大学の全学集会で新渡戸稲造学長が語った言葉です。<o:p></o:p>
これは東京女子大学の校是あり、2つのSを組み合わせたシンボル
は同学の校章になっており、 <v:shapetype id=_x0000_t75 stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"> </v:shapetype>弱者や不幸な人々を支えるキリスト教の高邁な精神を表しています。現代に求められる美徳の一つだと思いますが、特に今の日本女性に忘れられようとしている点ではないかと危惧を覚えます。 <o:p></o:p>
昭和18年7月に北太平洋のキスカ島から将兵5200名を無傷で撤兵させた太平洋戦争における最大の奇跡と言われた作戦がありました。<o:p></o:p>
これを指揮したのが木村昌福(まさとみ)提督です。この話は長い間知られていませんでしたが、1965年には映画にもなり、三船敏郎が木村を演じました。<o:p></o:p>
この作戦の成功は木村提督のリーダーシップによる所が大きかったのですが、木村には豊富な戦場経験に基づいた冷徹な判断力、強烈な責任感、そして稀に見る強運がありました。<o:p></o:p>
至難な大仕事をやり遂げたにもかかわらず、戦後、みずから功を語ることなく昭和35年に他界しました。驚くべきことですが、家族にも手柄話はしなかったようです。何と奥床しい人柄ではないでしょうか。いつも「こっぱずかしい」と言っていたそうです。<o:p></o:p>
美髭を蓄えた木村は海軍では目立たない存在でしたが、このような地味な作戦をやり抜けるのは木村以外に居ないと期待されていました。<o:p></o:p>
木村は兵学校当時は118人中107番であったとのことですが、学校の成績と軍人としての実績は無関係であることを示しています。木村の兄も弟も兵学校に入学したのですが、当時日本中の俊秀を集めた兵学校に兄弟3人が合格していることから見て木村の家系は優れた家系だと言えます。<o:p></o:p>
映画「キスカ」を再度、見ました。三船が好演している木村提督は何と格好いい男でしょう。無口で無私な武人、日本の古武士を彷彿とさせてくれました。
右下写真は木村昌福少将、海軍では「髭の木村」で通っていました。
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千葉市の郊外ふるさと村にある登録有形文化財。東京広尾にあった旧スイス大使館を移築したものです。今の季節はサツキが美しい枯山水の庭園が見事です。
忠臣は不事二君という言葉があります。前朝の遺臣は新王朝に仕えないという意味です。幕臣で明治政府に任官しなかった人々。代表的なのが福沢諭吉、古賀謹堂、そして高橋泥舟、木村芥舟、栗本鋤雲、箕作阮甫などですが、皆、清貧で、潔くさわやかな生涯を送りました。これらの人物と対極にあったのが勝海舟と榎本武揚です。後年、福沢諭吉が「丁丑公論」において勝海舟等を公然と非難したのは良く知られています。<o:p></o:p>
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①至誠に悖るなかりしか
②言行に恥づるなかりしか
③気力に欠くるなかりしか
④努力に憾(うらみ)なかりしか
⑤無精に亘るなかりしか
現代の私共から見ても何とすばらしい内省の言葉ではないでしょうか。
特に五省の第一番にある「至誠に悖るなかりしか」がいいと思います。