yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

春夜桃李の園に宴するの序

2008-01-31 08:36:12 | 文学

詩仙と言われている盛唐の詩人、李白。この李白が書いた名文です。<o:p></o:p>

ある春の夜に兄弟や親族と共に桃や李(すもも)が花盛りの園で宴会をして各自が詩を賦して遊んだ時に作った有名な文です。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

夫()れ天地は萬物の逆旅(げきりょ)。光陰は百代の過客にして浮生は夢の若(ごと)し。歓を為すこと幾何(いくばく)ぞ。古人燭をとって夜遊びしは良(まこと)に所以(ゆえ)あるなり。況(いわん)や陽春我を招くに煙景を以ってし、大塊我に假すに文章を以ってするをや。<o:p></o:p>

桃李の芳園に會して天倫の樂時を序す。群季の俊秀なるは皆恵連たり。吾人の詠歌は独り康樂に慚()づ。幽賞未だ已まず、高談転(うた)た清し、けい筵を開いて以って花に座し、羽觴(うしょう)を飛ばして月に酔ふ。佳作有らずんば、何ぞ雅懐を伸べん。()如し詩成らずんば、罰は金谷の酒数に依らん。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

松尾芭蕉はこの文の書き出しを解釈し、それを基に「奥の細道」に日本文にしています。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

井原西鶴の「日本永代蔵」にも<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

されば天地は萬物の逆旅。光陰は百代の過客、浮生は夢幻といふ。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

とされています。<o:p></o:p>

中国はもとより、江戸時代の文人の琴線にも触れた名文です。<o:p></o:p>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

酔古堂剣掃

2008-01-28 07:50:01 | 文学

剣掃はけんそうまたはけんすいと読みます。剣の刀身を見て心を掃き清めることを言います。<o:p></o:p>

中国の明末、清初の約150年間は、小品文学の黄金時代でした。その一翼を担うものとして、アフォリズム文学(清言語録)が隆盛を極めました。陸紹こう(雅号を 酔古堂と言います)が書いた <o:p></o:p>

酔古堂剣掃もその中の一つで代表的な著作です。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

書を読みて倦む時は、すべからく剣を看るべし。<o:p></o:p>

英発の気、磨せず。<o:p></o:p>

文を作りて苦しむ際は、詩を謌(うた)ふべし。<o:p></o:p>

鬱結の懐(おも)ひ、随って暢()ぶ<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

書物を読んで倦み疲れたときは、ぜひ刀を看るがよい。英発する元気の消磨していないことがわかるからである。<o:p></o:p>

文章を作って苦しむときは、詩を吟ずるがよい。むすぼれた懐いが次第に暢やかになるからである。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

友に交はるには、すべからく三分の侠気を帯ぶべく、人と作()るには要(かな)らず一点の素心を存すべし。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

友人と交わるには必ず三分の侠気を帯びるべく、人間たるには一点の純真な心<o:p></o:p>

を保つべきである。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

などの良い文に出会います。<o:p></o:p>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勢津子妃と松平恒雄

2008-01-23 07:46:52 | 歴史

松平恒雄は會津藩主松平容保の4男で、勢津子妃は恒雄の次女です。その勢津子妃の娘時代の話です。<o:p></o:p>

関東大震災の翌年頃(1924年)勢津子妃がある晩、勉強を終わって遅く、帰宅し座敷の襖を開けて部屋に入ろうとされたところ、父、恒雄は正座して抜き放った刀身を電灯の光にかざしてじっとその波紋を眺めていました。<o:p></o:p>

勢津子妃が<o:p></o:p>

「あら、なんだか怖いみたい」<o:p></o:p>

と思わず言うと、恒雄は間髪を入れず<o:p></o:p>

「その言葉はなんだ! 武家に生まれた娘が、會津の血が流れている人間が、刀を見て怖いなどと言うものではない」<o:p></o:p>

と娘を叱ったそうです。あわてて、その場にかしこまって座った娘に対して恒雄は<o:p></o:p>

「會津の落城の時は、お前ぐらいの年端のいかぬ娘でも立派に母親や弟妹と一緒に<o:p></o:p>

お祖父(じじ)さまのために自刃して死んだのだ。お祖父さまのご無念や會津の人々が苦労したことを忘れてはならない」<o:p></o:p>

勢津子妃はその時、普段は見せることのない父の心の底の會津魂にじかに触れた<o:p></o:p>

思いがしたのを今もはっきり覚えております。<o:p></o:p>

と、書かれています。

<o:p>

     秩父宮妃勢津子著 『銀のボンボニエール』 主婦の友社 より<o:p></o:p>

</o:p>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安部井政治と會津三絶

2008-01-20 08:35:51 | 歴史

會津藩士、安部井政治(あべいまさはる・1845-1869)は生まれつき聡明で学問を好み、16才にして日新館の大学に及第し、俊才を以て藩より江戸に上り、江戸昌平黌に入学して、卒業後は日新館の教授に任じられました。温厚、篤実な人柄であり日新館では主に朱子学を修め、また詩文も能くしました。 <o:p></o:p>

 彼は鶴ケ城落城の後、函館戦争に参戦し、會津藩遊撃隊指図役として活躍しましたが、惜しくも戦陣に散りました。後に、榎本武揚は<o:p></o:p>

「箱館戦争での戦死者の中、最も惜しむべきは、会津の安部井政治であった。彼の才幹、学識は他に類が無く、得がたいものがあった。もし生き残っていたなら、明治政府にあって重要な地位を占めただろうに、誠に惜しい人物であった」<o:p></o:p>

と、語ったとのことです。<o:p></o:p>

また安部井政治の漢詩、「海潮枕に到り」は「會津三絶」の一つと言われています。<o:p></o:p>

海潮到枕欲明天<o:p></o:p>

感慨撫胸獨不眠
一劍未酬亡国恨
北辰星下送殘年

<o:p></o:p>

海潮枕に到り天明けんと欲す<o:p></o:p>

感慨は胸を撫し独り眠れず<o:p></o:p>

一劍未だ亡国の恨みを酬いず<o:p></o:p>

北辰の星下 残年を送る<o:p></o:p>

また、明治2年正月には次の漢詩を作っています。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

回首交朋半委塵<o:p></o:p>

豈圖此地獨迎春<o:p></o:p>

燈前暗灑幽懷涙<o:p></o:p>

不是尋常惜歳人<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

首を回らせば交朋半ば塵に委(まか)す   <o:p></o:p>

豈圖らんや此地で獨り春を迎へんとは<o:p></o:p>

燈前暗に灑ぐ幽懐の涙<o:p></o:p>

是れ尋常歳を惜しむの人ならず<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

振り返ってみると朋友の半ばは塵のように亡くなってしまった。<o:p></o:p>

この北国の地で一人春を迎えようとは思いがけないことだ。<o:p></o:p>

灯を前にして秘かに人知れず涙を流している。<o:p></o:p>

これは、普通に時を過ごす人とは言えない。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

という意味であろうかと思います。「海潮枕に到り」の詩と合わせて読むと、安部井は、秘かに死に場所を探していたのではないかと思われます。後に、この安部井政治は、榎本の會津人に向けた失言に怒り、矢不来(やふらい)の激戦の時に敵陣に斬りこんで討死にしました。明治2年4月29日のことでした。<o:p></o:p>

惜しいことに、あたら有為な人材を戦争で失ってしまいました。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読者の皆様に

2008-01-18 07:51:27 | 近況

いつも、このブログをご覧いただきありがとうございます。<o:p></o:p>

お蔭さまで、本日、アクセス数が10,000に到達いたしました。<o:p></o:p>

平成18年の3月に書き始めて約2年が経過いたしました。<o:p></o:p>

この2年間で10,000アクセスは、望外のハイペースではないかと思っております。<o:p></o:p>

引き続き、お読みいただければ、有り難いと思います。<o:p></o:p>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王羲之 王献之

2008-01-17 08:35:32 | 文化

(307-365)東晋の書家です。山東省の名家の出身で、長じて官吏になりましたが、早くして官吏を辞め悠々自適の生活に入りました。当時、まだ成熟していなかった楷書、行書、草書の三体を芸術的に立派な書体に完成させました。<o:p></o:p>

「楽毅論」、「蘭亭序」などが彼の代表作で書聖と言われ、子供の之と共に<o:p></o:p>

二王と称されます。<o:p></o:p>

之には七男一女がありましたが、第七男の(344-386)が人物も書も最も優れているとの評判でした。ある時、の友人の謝安が<o:p></o:p>

「君の書はお父上と比べてどうだね」<o:p></o:p>

に尋ねました。王之は答えました。<o:p></o:p>

「もちろん違います。」<o:p></o:p>

謝安はさらに聞きました。<o:p></o:p>

「世間の評判は、まるっきり反対だろう。」<o:p></o:p>

彼は<o:p></o:p>

「世間に何がわかりましょう」<o:p></o:p>

と答えたと言います。<o:p></o:p>

当時、世間では父子の書はよく似ていて、甲乙つけ難いと評判でした。<o:p></o:p>

現在まで残っている法帖を見ると、王之の方が筆が少し細く、運びも軽いようです。<o:p></o:p>

一見すると王之の書の方がわかり易いですが、父、王之の人柄は<o:p></o:p>

「飄々として浮かんだ雲のごとく、猛々しいことは龍のようだ」<o:p></o:p>

との評価もあり、王之の方が今日に至るまでより有名です。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝負師の心構え

2008-01-15 08:21:53 | 将棋

将棋の木村一基(かずき)八段(34才)は、今、名人戦のA級順位戦で大いに活躍しています。<o:p></o:p>

彼が最近の講演会において、精神面での勝負師の心構えとして<o:p></o:p>

「勝った時はその気分を持続し、負けた時は忘れる」

と言っていました。<o:p></o:p>

日々、勝負を続けているプロにとっては、負けた事にくよくよして落ち込んだり考え込んで萎縮するよりも、何事もポジティブ指向で考え、楽観的に行く方がいい、と言っているのだと思います。<o:p></o:p>

私共にも直ぐに、応用可能ないい心構え、ではないかと感心しております。<o:p></o:p>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エベレスト初登頂 ヒラリー氏他界

2008-01-13 06:50:37 | インポート

エベレストに初登頂したエドモンド・ヒラリー氏が1月11日に他界しました。88才でした。ヒラリーはニュージーランド、オークランドの近郊で養蜂業を営んでいましたがイギリスの第9次エベレスト遠征隊に参加して、1953年5月29日未明にネパール人のシェルパ、テンジン・ノルゲーと8848mの世界最高地点に到達しました。このニュースはエリザベス女王の戴冠式の前夜にロンドンに伝えられお喜びの女王から、ヒラリーは騎士(サー)の称号を授与されました。また、1995年には英国の最高勲章であるガーター勲章を授与されています。<o:p></o:p>

初登頂の後はネパール大使を務めたり、登山者の増加でヒマラヤの環境破壊が進んだことに心を痛め、自然保護については晩年まで積極的に発言を続け<o:p></o:p>

ました。<o:p></o:p>

彼はニュージーランドでは国民的英雄で、「サー・エド」と親しみをこめて呼ばれており、5ドル紙幣の肖像にもなっています。<o:p></o:p>

クラーク首相はヒラリー氏他界の公式発表の中で、「サー・エドは自分自身を能力も人並みしかない一般的なニュージーランド人の1人にすぎないと語っていたが、実際のところ、彼は巨人であり、英雄的でエベレストを征服した男の範疇でくくれないものを持っていた。決断と謙虚、寛大の人であった」とその死を悼みました。<o:p></o:p>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

升田幸三語録 その2

2008-01-11 07:21:35 | 将棋
<o:p>

将棋の升田幸三九段の語録をもう一つ紹介します。<o:p></o:p>

アマチュアとの指導対局の後の話です。2枚落ち(上手が飛車と角を引く)での指導対局の後で、下手が、<o:p></o:p>

「升田先生、下手はどの辺で形勢を悪くしたのでしょうか」<o:p></o:p>

との質問に対して升田は<o:p></o:p>

「そうだな、駒を並べた所では下手が必勝でした。」<o:p></o:p>

つまり、駒を動かし初めてから、下手は悪い手ばかり指したと、辛辣に指摘しているのです。<o:p></o:p>

相手が升田大先生では、下手たる者はぐうの音も出ません。<o:p></o:p>

</o:p>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

将棋指しの歴史に残る名せりふ

2008-01-10 07:35:44 | 将棋

昔の棋士、将棋指しの言動は闘志むき出しで自由奔放でした。<o:p></o:p>

そのいくつかを紹介します。<o:p></o:p>

東京と関西の対抗意識が強かった頃、<o:p></o:p>

東京の木村義雄八段(後に十四世名人になりました)が大阪の神田辰之助八段と対局中に<o:p></o:p>

木村が<o:p></o:p>

「その手は何だ」<o:p></o:p>

と言い、神田の不味い手を貶しました。神田は一瞬ぎくっとしながらも、とっさに言いました。<o:p></o:p>

「これか。これは手だ。」<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

終戦後間もない頃、<o:p></o:p>

升田幸三九段が挑戦相手の木村名人に向かって言いました<o:p></o:p>

「名人名人と偉そうに言うが、名人なんて塵(ごみ)みたいなもんだ」<o:p></o:p>

木村がむっとして言い返しました。<o:p></o:p>

「なにい、名人が塵ならきみはなんだ。」<o:p></o:p>

升田<o:p></o:p>

「その塵にたかるはえさ。」<o:p></o:p>

絶妙な切り返しでした。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

また、もう一つ、升田語録<o:p></o:p>

「好調というのは力の無い者がたまたま勝っていることを言う。<o:p></o:p>

わしの場合は順調と言うのが正しい」<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

今時、こんな発言をする棋士は見当たりません。<o:p></o:p>

多分、どこの世界にもいないことでしょう。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

<o:p></o:p>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする