yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

蜀相(しょくしょう) 杜甫

2022-11-28 06:20:53 | 文学
詩聖・杜甫の七言律詩を紹介します。

  蜀相

丞相祠堂何処尋 
錦官城外柏森森
映階碧草自春色
隔葉黄鸝空好音
三顧頻繁天下計
両朝開済老臣心
出師未捷身先死
長使英雄涙満襟

         「読み方」

丞相ノ祠堂 何レノ処ニカ尋ネン 
錦官城外 柏(はく)森森
階ニ映ズルノ碧草 自カラ春色
葉ヲ隔ツルノ黄鸝(こうり) 空シク好音
三顧頻繁(ひんぱん)ナリ 天下ノ計
両朝開済ス 老臣ノ心
出師(すいし)未ダ捷(か)タザルニ 身 先ズ死シ
長ニ英雄ヲシテ 涙 襟ニ満タシム

    「訳」

   蜀の丞相諸葛孔明の祠堂は、どこに尋ねたらよいのだろうか。
   錦官城外、柏の木々がこんもり茂っている所がそれだ。
祠堂の階段に映える緑の草は、春の来るにまかせて美しく萌え、
葉かげの鶯は、聞く人もないままに美しい声で鳴いている。
昔、蜀の劉備は三度も孔明を訪ねて、天下を安定させる策を問うた。
孔明はこれに心動かされて、劉備・劉禅(りょうぜん)の二代に仕え、 
創業・守城にと老臣のまことをつくした。
しかし、魏を討とうと兵を出し、
まだ戦いに勝たないうちに、彼の命はつきてしまい、
長く後世の英雄たちに涙を流させ、襟を濡らさせることになった。
  

 「鑑賞」

「三顧」は、劉備が孔明の草堂を三度訪れて出馬を乞うたこと。「開済」は国を開き、民を済(すく)うこと。劉備とともに国の礎を築き、劉備の子の劉禅を補佐してよく国を治めたことをいいます。「出師(すいし」は出兵。孔明は魏討伐のため関中に出兵するに際し、有名な「出師の表」を劉禅に奉りました。先帝の遺志を継ぎ、漢王朝を復興すべく粉骨砕身しますが、魏軍と対峙中、業半ばにして五丈原の陣中に没しました。その諸葛孔明の誠忠が、杜甫自身の唐王朝に対するそれに強く共鳴したのでしょう。最後の二句は、特に諸葛孔明に対する杜甫の敬慕の情と深い感慨が込められた名句として、長く愛誦されています。

        石川忠久「ビジュアル漢詩 心の旅」世界文化社 
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良い友、悪い友

2022-11-25 06:19:41 | 文学
兼好法師は「徒然草 第117段」に友人について述べています。
 
友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人、四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵。六つには、虚言する人。七つには、欲深き人。
よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師。三つには、智恵ある友。
    吉田兼好(1283~1352)は鎌倉時代末期の人ですが、「徒然草」の内容は
    現代人にも共感されます。  
   
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春望 杜甫

2022-11-22 06:29:38 | 文学
詩聖 杜甫の五言律詩 を紹介します。

  春望

国破山河在
城春草木深
感時花涙濺
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵万金
白頭掻更短
渾欲不勝簪

        「読み方」

国破レテ山河在リ
城春ニシテ草木深シ
時ニ感ジテハ花ニモ涙を 濺(そそ)ギ
別レヲ恨ンデハ鳥ニモ心ヲ驚カス
烽火三月ニ連ナリ
家書万金ニ抵(あ)タル
白頭掻ケバニ更ニ短カク
渾ベテ簪ニ勝エザラント欲ス

  「訳」
  国都長安の町は、賊軍のためにすっかり破壊され、あとには山と川が昔 
のままにある。
荒れ果てた町にも春はやってきて、草や木が深々と生い茂った。
この戦乱のなげかわしい時節を思うと、花を見ても涙が落ち、
家族との別れを悲しんでは、鳥の声にも心が痛む。
戦いののろしは三か月もの長い間続き、
家族からの手紙はなかなか来ないので、万金にも値するほど貴重だ。
たび重なる心痛のため、白髪はかけばかくほど短くなり、
まったく冠をとめるピンもさせなくなりそうだ。
 「鑑賞」
755年11月、安禄山の乱が起こり、翌年6月、長安が落ち、玄宗皇帝は蜀に落ち延びました。杜甫は粛宗(玄宗の息子)のもとに駆けつけようとして、賊に捕らえられ長安に幽閉されました。この詩はその翌年、757年の春、幽閉生活のなかでの作。
第一・二句(首聯)は対句。国都長安では高殿や大きな家がみな破壊され、今まで建物の陰になっていた山が向こうにくっきりと見え、剥き出しになった川が滔々と流れている。春は人間の興亡におかまいなしに訪れ、草も木も春になれば生い茂る。なにげない表現だが、人の世の無常と自然の雄大さが蔵されています。
第三・四句(頷聯)も対句。普通ならば春に咲く美しい花を見ればうれしくなるはずが、今は戦乱の時。美しい花も涙のたねなのです。(中略)
第五・六句(頸聯)も対句。延々と三ヶ月燃え続けた秦の都・咸陽と眼前の荒れ果てた唐の長安とが二重写しになるところにおもしろみがあります。たまに来る家族からの手紙はたいへん貴重で、万金の価値がある。家族からの便りをまちわびる作者の気持ちが痛切に詠われています。
第七・八句(尾聯)は結び。「簪」とは、昔の役人が冠を髪にとめるピンのことです。それができないとは、もう役人勤めもできなくなりそうだ、ということの譬えです。戦乱によってもたされた失意、孤独感、望郷の念が自然を通して巧みに詠みこまれています。
特に、首聯は、芭蕉も「おくのほそ道」で引用しています。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」
夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡

        石川忠久「ビジュアル漢詩 心の旅」世界文化社 



   
       


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子夜呉歌 李白

2022-11-19 06:55:34 | 文学
詩仙・李白の五言古詩を紹介します。

  子夜呉歌

長安一片月 
万戸擣衣声
秋風吹不尽
総是玉関情
何日平胡虜
良人罷遠征


         「読み方」
長安一片ノ月 
万戸衣ヲ擣(う)ツノ声

秋風吹イテ尽キズ
総(す)ベテ是レ玉関ノ情
何レノ日ニカ胡虜ヲ平ラゲテ
良人遠征ヲ罷(や)メン


「訳」

長安の空には、満月が一つ冴え冴えと出ている。
その月光に照らされ、町のあちらこちらの家々から衣を打つ砧の音が聞こ えてくる。
秋風が吹いてやまない。
月や砧や秋風などのすべては、遠い西方の玉門関にいる夫をおもう心をかきたてるのである。
いつになったら夷どもを討ちはたして、夫は遠征をやめて帰ってくることだろう。
  

 「鑑賞」

もともと「子夜歌」は南方の民歌です。それを李白は、舞台を北方の都に移し、玉門関へ遠征する夫の留守をまもる女の歌に仕立てました。この詩は六句の古詩としたことで、原作のもつ素朴な味わいを活かしつつ、纏綿とした情緒を出すことに成功しました。そこに絶句とは異なる趣があります。

        石川忠久「ビジュアル漢詩 心の旅」世界文化社 

   


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琵琶湖周航の歌

2022-11-16 06:18:43 | 文学
不肖が特に好む歌です。大正六年に小口太郎(おぐちたろう)が作詞しました。第三高等学校の学生が歌い始め、現在まで歌い継がれているロマンと抒情に溢れた名曲です。加藤登紀子の歌唱でヒットしたのは周知のことです。

(一番) われは湖(うみ)の子さすらひの 旅にしあればしみじみと
       昇る狭霧やさざなみの 志賀の都よいざさらば

(二番) 松は緑に砂白き 雄松が里の少女子は
赤い椿の森蔭に はかない恋に泣くとかや

(三番) 波の間に間に漂へば 赤い泊火なつかしみ   
     行方定めぬ浪枕 今日は今津か長濵か
   
(四番) 瑠璃の花園珊瑚の宮 古い傳への竹生島   
     仏の御手に抱かれて ねむれ少女子やすらけく

(五番) 矢の根は深く埋もれて 夏草しげき堀のあと   
     古城にひとり佇めば 比良も伊吹も夢のごと

(六番) 西国十番長命寺 汚れの現世(うつしよ)遠くさりて
     黄金の波にいざこがん 語れ我が友熱き心   
     

大正六年六月、第三高等学校(現京都大学)の二部のクルーは学年末(当時は七月卒業)の慣例によって琵琶湖周航に出ていました。小口太郎ら一行は大津の美保ケ崎を漕ぎ出して一日目は雄松(志賀町近江舞子)に泊まり、二日目の六月二十八日は、今津の湖岸の宿で疲れを癒していました。その夜、クルーの一人が「小口がこんな歌を作った」と同行の漕友に披露し、その詞を、当時彼らの間で流行していた歌の節にのせるとよく合ったので、喜んで合唱したということです。「琵琶湖周航の歌」誕生の瞬間でした。
小口太郎は明治三十年生まれ。長野県岡谷市出身。第三高等学校に学び、後に東京帝国大学物理学科に進みました。「有線および無線多重電信電話法」の特許を取るなど多才でしたが僅か二十六才で他界しました。
ところが驚いたことに最近、平成七年になって、この歌の作曲者は吉田千秋だということが判明しました。吉田千秋は明治二十八年に歴史地理学者吉田東伍の次男として新潟県新津市に生まれました。東京農科大学(現東京農業大学)に入学しましたが体調を崩して一年ほどで退学、その後郷里で療養生活を送りましたが二十四才で他界しました。
大正四年に「音楽界」八月号に琵琶湖周航の歌の原曲となる「ひつじぐさ」を発表しました。ひつじぐさは睡蓮(Water Lily)の和名です。
千秋は音楽や文学に非凡な才能を持っていましたが、この歌が広く歌われていることを知ることもなく病気で夭折してしまいました。惜しいことでした。
作詞が小口太郎 二十才、作曲が吉田千秋 二十才、奇しくも同じ二十才でした。若い二人は青春の一瞬を煌めきましたが、その後二人とも余りに短い生涯を閉じました。しかし、この名曲は百年も愛唱され続けており、今後も歌われることでしょう。


 

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絶句 杜甫

2022-11-13 06:21:34 | 文学
詩聖 杜甫の五言絶句 を紹介します。

  絶句

江碧鳥愈白 
山青花欲然
今春看又過
何日是帰年

       「読み方」

江碧(みどり)ニシテ鳥愈(いよいよ)白ク 
山青クシテ花然(も)エント欲ツス
今春看(みすみす)又過グ
何(いず)レノ日カ 是レ帰年ナラン

        
錦江の水は深い碧色に澄み、そこに遊ぶ水鳥はますます白く見える。
山の木は緑に映え、花は燃えださんばかりに真っ赤である。
今年の春もみるみるうちに去ってしまおうとしている。
いったい、いつになったら故郷に帰れる時がやってくるのであろうか。

 「鑑賞」
杜甫、成都での作です。成都の自然の美しさに打たれつつ、故郷に思いをはせ 帰郷を願いました。

なお、島崎藤村は名歌「椰子の実」の中で「いずれの日にか国に帰らん」と歌っています。

       漢詩界の重鎮、石川忠久先生は、去る7月12日に90歳でご逝去されました。
       謹んで哀悼の意を表します。

        石川忠久「ビジュアル漢詩 心の旅」世界文化社 
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孝謙女帝、明正女帝

2022-11-10 06:30:36 | 歴史
日本の天皇は男性に限るという古来の決まりはなく、既に7人の女帝がありまし た。歴代125代の天皇の内、女帝は9代7人です。すなわち、推古天皇(33代)、皇極天皇(35代)、斉明天皇(37代、35代皇極天皇が重祚)、持統天皇(41代)、元明天皇(43代)、元正天皇(44代)、孝謙天皇(46代)、称徳天皇(48代、46代孝謙天皇が重祚)、明正天皇(49代)、後桜町天皇(117代)です。
女帝は少数ではありますが、その御代は概ね穏やかで隆盛であったと言われます。
奈良時代、46代孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后の御子であり、後に重祚して48  代称徳天皇になりました。天皇の和歌に下記があります。

     この里は継ぎて霜や置く夏の野に吾が見し草はもみぢたりけり

この里にはいつも霜が降るのか、夏の野に私が見た草は、モミジのように黄葉していたよ

752年の作で『万葉集』にもあります。ヒヨドリバナという植物がウイルスに感染し、黄色の斑文が浮かんだ様を詠まれたそうです。「植物のウイルス病を詠んだ詩文としては世界最古とされています」と大阪府立大学准教授の望月知史氏は言います。孝謙天皇は歴史に名高い女帝でありましたが、ウイルスという概念すらなかった時代に詠んだ和歌が1200年もの時を経てウイルス研究者の関心を呼ぶとは思わなかった事でしょう。
時代が下って、明正天皇(めいしょうてんのう)は江戸時代の女帝(1624~1696)です。後水尾天皇の第二皇女で、母は徳川2代将軍秀忠と江与の娘、和子(まさこ、東福門院)です。明正の2文字は元明天皇と元正天皇から採ったといわれます。徳川3代将軍の時代であり、公武合体した隆盛の時代といわれます。

現代の日本では、明治22年に制定された「旧皇室典範」により男子が天皇になると定められています。しかし皇位継承者を確保するためにも、この見直しを考慮する動きもあると聞きます。

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カレーライス 考

2022-11-07 06:28:19 | 文化
日本では今や国民食と言っても良いようなカレーライスの話です。
カレーライスを最初に食べた日本人は、NHK大河ドラマ「八重の桜」の中にも出てきた、山川健次郎と言われています。明治維新の後、アメリカに留学する船中で、洋食に慣れていない健次郎は船医に食事をとるように言われ、「ライスカレー」を注文する。しかし、ご飯にかけるゴテゴテしたものを食べる気になれない。そこでアンズの砂糖漬けをおかずにしてご飯を食べ、餓えをしのいだという。山川健次郎は帰朝の後、明治の学界、教育界で活躍し、東京帝大、京都帝大、九州帝大の各総長を歴任しました。(異例にも東京帝大総長は2回務め、後に白虎隊総長と言われました。東大理学部、物理学科の基礎を築き、田中館愛橘や長岡半太郎らの俊秀を育てました。)彼の人となりは、外国人からもtrue and brave (至誠で勇猛)と称賛されました。
大学の講義では始業の鐘が鳴り終わらないうちに姿を現し、終業の鐘が鳴ると同時に講義をやめました。また、健次郎は「熱学」の講義を大声で行いましたので、その講義風景を次のような狂歌に詠まれました。(東大にある胸像 写真 下)

   打つ鐘のあとよりはいる山の川 声ぞ積もりて熱となりぬる

さて、その後、カレーライスの味も洗練されたせいか、昭和天皇は、かつて箱根の「富士屋ホテル」でカレーライスを召しあがり、おかわりを所望されたということです。現・天皇陛下、皇太子殿下もカレーライスを好まれるということです。
南極探検隊に同行した篠原洋一氏は、南極での料理人を務めました。毎週、金曜のランチ・メニューをカレーライスと決めていたそうです。帰国後、日本郵船グループ主催の豪華クルーズ船「飛鳥Ⅱ」で14年間シェフを務めましたが、元来、ドライカレーは日本郵船に伝わる伝統のメニューであったそうです。
また、日本海海戦の旗艦、「三笠」にちなんだ「海軍カレー」は、横須賀のレストランで現在も提供されているということです。
不肖、私も小学校の給食以来、カレーライスが好きです。現代の小学生の間でもカレーライスは人気メニューだそうです。

         星亮一 「山川健次郎伝」 平凡社




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数字クイズ

2022-11-04 06:21:22 | 文化
数字を提示して、その意味を質問する形式のクイズ問題があります。
ある人気のテレビクイズ番組を参考にしました。

46755 m2(平方メ-トル)とは?東京ド-ムの広さであり、例えば。東京ドーム何個分の面積というように良く使われます。
23.9944時間は? 1日の長さです。普通24時間と覚えてい
ますが天文学的にはこれが正しいそうです。23時間56分6秒、これを366倍すると1年の長さになります。つまり、地球は1年に366回自転しているのです。
9460730472580800メ-トルとは? 意味は1光年の距離。光が1年間に進む距離です。
147800点とは? ピカソが生涯に書いた絵の点数です。
 0.013秒とは?。「刹那」という僅かな時間の長さで、75分の1秒と同じです。

220,000,000,000ユーロとは?1917年に提示されたサッカーのネイマ-ルの移籍金の金額です。
219355人とは?。東京タワ-の工事に携わった人の数です。

上記の問題は、一般正解率0%から数%の難問です。こうした難問をほとんど瞬時に、すなわち数秒で解くクイズの達人がいることにビックリします。






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対馬 宗氏

2022-11-01 06:33:08 | 歴史
宗氏は、鎌倉時代から明治維新期まで長崎県対馬を支配した北九州の豪族です。
出自は、勇猛であった平知盛の子孫という説もありますが、太宰府の官人、惟宗(これむね)氏の一族のようです。対馬との関係では、文永11年(1974)にこの地にいた宗資国(そうすけくに)が最古の記録です。宗資国は鎌倉時代、対馬の地頭代でした。
文永11年(1274)10月5日に対馬国府の八幡宮仮殿からおびただしい炎が上がり、人々が焼け失せるかと驚きましたがそれは幻でした。その日の午後、対馬の西の海は一面に蒙古の軍船に覆われました。(文永の役の始まり)16時頃、蒙古の船は対馬下島西岸の佐須浦(現:対馬市厳原町小茂田浜)に接岸し、船450艘、3万人の軍勢が来襲しました。18時頃に国府の地頭所に連絡があり、対馬の地頭で守護少弐景資の代官でもある宗資国は、80余騎を率いて岩山の夜道を佐須浦へ馳せ向かいました。翌朝、通事(通訳)を使者として蒙古人に事情を尋ねたところ、蒙古軍は7、8艘の船から1000人ばかりが降り立ち、激しく矢を射かけて攻撃を始めました。資国らは急遽陣を立て直して応戦したものの、資国をはじめ、子息の右馬次郎、養子の弥次郎、他に庄の太郎入道、肥後国の御家人田井藤三郎など全員が戦死しました。
蒙古軍は佐須浦に火をかけて焼き払いました。小太郎と兵衛次郎いう2人が博多へ船を走らせ、事の顛末を知らせました。資国主従の亡骸を埋めた場所は、現在の対馬市厳原町小茂田地内に「御首塚」「御胴塚」として現存しています。宗氏は後に守護になり、我が国の朝鮮担当外交顧問として重用されました。明治以後は伯爵に列せられて今日に至っています。




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