yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

伊達邦成公

2018-01-31 06:50:39 | 歴史
伊達邦茂公(くにしげ、1841~1904)は、伊達氏の一族、亘伊達氏の当主でしたが、明治維新の後、北海道・有珠に移住する道を選びました。
伊達邦成公は「三つの和」を大切にしました。これは家族の和、アイヌとの和、姫がつないだ和を指します。姫とは邦成公の義母、伊達安子であり、安子は邦成公とともに、有珠に移住していました。その地で藩主藩士が一丸となって開拓に従事し、小豆・甜菜・りんご・野菜などの栽培を軌道に乗せるなど苦難を乗り越え、北海道有珠の開拓を進めて、豊かな土地に変えました。現在の伊達市です。なお、邦成公は開拓の功を認められ、男爵に叙せられました。
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芭蕉と蕪村 正岡子規

2018-01-28 08:16:37 | 文学
芭蕉と蕪村の俳句を正岡子規が評論しました。

  さみだれをあつめて早し最上川    芭蕉

正岡子規は、この句を古今有数の傑作と思っていましたが、よくよく考えてみると、「集めて」という言葉は巧みすぎて面白くない。巧みすぎることを臭みと感ずるまでに、子規の句境は熟しはじめていましたが、おなじ五月雨を詠んだ蕪村の句を思いました。

  五月雨や大河を前に家二軒    蕪村

この句のほうがはるかに絵画的実感があるうえに、刻々増水してゆく大河という自然の威力
を、ことさらに威力めかしくうたうことをせず、ほんのひと筆のあわい墨絵の情景にしてしまい、しかもその二軒の心もとなさをそこはかとなく出しています。この二句を並べればはるかに蕪村がまさる、このように子規は考えました。子規は俳句と短歌において写生を重視し、説明することなく情景が思い浮かぶような詠み方を良しとしました。

  司馬遼太郎 「坂の上の雲 二」文春文庫

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褒めること

2018-01-25 16:58:46 | 文化
人間は褒められると嬉しいものです。不肖もその一人です。
さて、「どれくらいの頻度で褒められるといいのか」、アメリカの調査会社「ギャラップ」の調査結果があるそうです。それによれば、1週間に1回程度、褒められるのが適当、2週間以上だと間があき過ぎ。
 どのような観点で褒めるかというと、相手により異なるでしょうが、仕事、プライバシー、人生全般についてのどれか、といことです。(石川善樹先生)
 褒めたり、褒められたりして、人間関係がよくなる可能性は大きいと思います。
 「言って聞かせ、やって見せ、やらせてみせて、褒めてやらねば人は動かじ」という言葉もあります。

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歴史上の人物の名前の読み方

2018-01-22 06:39:15 | 歴史
幕末には旗本の教養が落ちてしまい、徳川家の重臣の井伊掃部頭、酒井雅楽頭を正しく読める者が少なくなったそうです。有名な井伊直弼は掃部頭であり、「かもんのかみ」と読みます。また、雅楽頭は「うたのかみ」と読みます。それぞれ、御所で設営や清掃を職掌する掃部寮(かもんりょう)の長官、雅楽を担当する雅楽寮の長官の意味ですが、この役職は徳川譜代の重臣の井伊家、酒井家が世襲しました。
河井継之助、永井玄蕃頭尚志、伊東甲子太郎は「かわいつぎのすけ」、「ながいげんばのかみなおゆき」、「いとうかしたろう」が正しい読み方のようです。
「かわいつぎのすけ」は「つぐのすけ」、「尚志」は「なおむね」、「甲子太郎」は「きねたろう」と、しばしば間違って読まれています。(日本歴史学会編 「明治維新人名辞典」など)
なお、河井継之助の出身地の長岡では、しばしば「つぐのすけ」と呼ばれています。永井玄蕃頭は、幕末に幕府若年寄や京都町奉行として奮闘し、後に函館で子息と共に奮戦した後、降伏しました。
伊東甲子太郎は一時、新選組に属していましたが、御陵衛士として独立したあと、新選組により粛清されました。

中村彰彦著『東に名臣あり』文藝春秋社

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功利主義に対するもの

2018-01-19 07:15:49 | 文化
昨今、功利性や合理性のみを善とする風潮が優勢のように見受けられますが、人の世は、それだけではなく、多様な価値観もあり、奥深いものとする文に出会いました。中野翠氏、「この世は落語」の中の文章はその一つです。

いまは「ためになる」とか「役に立つ」以外のものは存在しちゃいけないような風潮があるけれど、私はそれがどうにも不快なのです。
落語のいいところは、損得と関係なしに「存在を楽しく許している」ところ。ものごとには表と裏、底と天井、さらには抜け穴すらあって、それを覗かせながら笑いに転化させる落語は、心の機微の分かるオトナになるための格好の教材。損得より大事な物差しがある。

  中野翠 「この世は落語」 筑摩書房

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色彩のつく言葉

2018-01-16 06:23:13 | 文学
色彩のつく言葉は多くあります。身近で有名なのは、「目白・目黒」。これは、江戸時代に不動尊があった場所で、他に「目黄・目赤」もあるそうです。
「白虎・青龍・玄武・朱雀」は都を守護する神です。
赤は「明らかなこと」いう意味があるようで、真っ赤な嘘、赤誠、赤裸々、赤の他人、赤恥などと使います。
黒は、イメージが悪いことに使います。悪人・犯人のことを「クロ」、また「腹が黒い」などと言います。
黒の反対語が白。 
曖昧なのがグレーです。
「ブルーな気分」と言えば、憂鬱とか落ち込んでいる意味。

人間の赤ん坊は「緑児」、年が若くて未熟なことをあざけって、「黄色い声」とか「嘴が黄色い」と言います。また、若い人を「青い」とか「青年」と言います。

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藤井聡太四段のコメント

2018-01-13 08:23:40 | 将棋
去る1月5日に、将棋の羽生善治氏に対して、国民栄誉賞授与が決定したというニュースが報じられました。多数の人がこれにコメントしましたが、以下は藤井聡太四段のコメントです。

国民栄誉賞の受賞、誠におめでとうございます。羽生先生の探究心やチャレンジ精神溢れる姿にいつも感動をいただいています。永世七冠の獲得という偉業に続き、この度の受賞に心よりお祝い申し上げます。

 藤井四段の他にも、日本将棋連盟の会長などのコメントがありましたが、藤井四段のコメントは、完璧であると感じました。先輩の受賞を喜びつつ、自分
のことには触れない大人のコメント。(中学生のコメントとは思えませんでした。)
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「離合」という言葉

2018-01-10 08:30:46 | 文学
「離合」という言葉は、「広辞苑」には「離れたり集まったりすること」とありますが、日本全国で広く通用する言葉ではなさそうです。「離合集散」という四字熟語は、よく知られています。
ただし「離合」だけですと、関東、東北では、あまり通用していないようです。一方、北九州、関西では普通に通じるそうで、「交わらない」とか「すれちがう」という意味のようです。
内田康夫氏の「博多殺人事件」の中にも、博多の女性が言う「離合」が東京の浅見探偵に通じない場面がありました。
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はさみ将棋 最強者

2018-01-07 06:35:13 | 将棋
 はさみ将棋は将棋の駒を使って遊ぶボードゲームです。将棋盤内に先手は歩兵を最下段に一列に並べ、後手は「と金」を最上段に並べます(下図)。すべての駒の動かし方は飛車と同じで、縦横にいくつでも進むことができます。自分の駒で縦または、横方向一列に相手の駒を挟むとその駒を取ることができます。例えば、相手より3枚多く駒を取ると勝ちになります。
さて、「はさみ将棋」において、日本の最強者は誰でしょうか。元・永世棋聖であった故・米長邦雄氏とも言われています。2005年から2007年にNHK・BSで放送された、「はさみ将棋」の試合で3連覇を果したからです。
米長氏に敗れたのは、内藤國雄九段、谷川浩司九段、加藤一二三九段などです。はさみ将棋が強いのはやはり、一流の将棋のプロ棋士でした。プロ棋士は、盤面把握能力や先を読む能力が特別に優れているので、強いのは当然のことでしょう。はさみ将棋の盤面は9X9とは限らず、8X8や5X5もあり、勝ちを決めるルールなどにも色々とあるようです。「引き分け」や「千日手」を回避するためのルールも色々あるということです。


                
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西郷隆盛

2018-01-04 06:44:57 | 歴史
明治維新の功労者、西郷隆盛の人物像に関する逸話の一つを紹介します。江戸城・無血開城
の時の話です。

 いろいろむつかしい議論もありませうが、私が一身にかけて御引受けします。
西郷隆盛
 江戸城の明け渡しをめぐる談判で、官軍の将、西郷隆盛は、幕府の重臣、勝海舟の話に一点の疑念も浮かべず耳を傾けた後、こう述べたという。普通の将なら「いろいろ喧しく責め立てるに違ひない」ところ、西郷は万事を呑み込み、腹に収めて泰然としていた。正座した膝の上にじっと手を載せ、驕るところ微塵もなかったと、勝は回想する。

西郷のような将があって初めて、古今東西の奇蹟、江戸城無血開城という平和的な解決があったのでしょう。
         勝海舟 「氷川清話」
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