大正天皇、明宮嘉仁(はるのみやよしひと)様(1879-1926)はご病弱であり、また、明治と昭和に挟まれた大正時代は僅かに11年でしたので、大正天皇への人々の印象は弱いといわれています。しかし、この天皇は文学に秀でられ、侍講、三島中洲(みしまちゅうしゅう)の指導のもとで、生涯に1367首もの漢詩を賦されました。この数は歴代天皇のうちでもだんとつの一位であり、後光明天皇(第110代)の98首、嵯峨天皇(第52代)の97首を圧倒されています。
明治29年5月に目黒村をご遊行され、ついで西郷従道(つぐみち)侯爵の別邸でご休息になった際に、目黒村のことを詠まれた七言絶句を以下に紹介します。
過目黒村
雨余村落午風微
新緑陰中胡蝶飛
二様芳香来撲鼻
焙茶気雑野薔薇
雨余の村落午風微なり
新緑陰中胡蝶飛ぶ
二様の芳香来りて鼻を撲(う)つ
茶を焙(い)るの気は雑(まじ)はる野薔薇に
この漢詩はきちんと韻が踏まれています。前半二句の導入の後に続く後半の二句の、茶を焙る香と野薔薇の香、この二つの異質の香のどちらも快い芳香である、という着眼は、閃きがあり秀逸であるといわれています。
さて、大正天皇の侍講、三島中洲(1831-1919、元備中松山藩士)は、初め備中の山田方谷に弟子入りをし、後に昌平黌に学び、漢学塾の二松学舎を創設し、その後に東京大学の漢学教授も務めました。南摩羽峰(なんまうほう、元会津藩士)、重野安繹(しげのやすつぐ、元薩摩藩士)とともに文章家として明治三大家と言われました。
石川忠久 「漢詩人 大正天皇」 大修館書店
明治29年5月に目黒村をご遊行され、ついで西郷従道(つぐみち)侯爵の別邸でご休息になった際に、目黒村のことを詠まれた七言絶句を以下に紹介します。
過目黒村
雨余村落午風微
新緑陰中胡蝶飛
二様芳香来撲鼻
焙茶気雑野薔薇
雨余の村落午風微なり
新緑陰中胡蝶飛ぶ
二様の芳香来りて鼻を撲(う)つ
茶を焙(い)るの気は雑(まじ)はる野薔薇に
この漢詩はきちんと韻が踏まれています。前半二句の導入の後に続く後半の二句の、茶を焙る香と野薔薇の香、この二つの異質の香のどちらも快い芳香である、という着眼は、閃きがあり秀逸であるといわれています。
さて、大正天皇の侍講、三島中洲(1831-1919、元備中松山藩士)は、初め備中の山田方谷に弟子入りをし、後に昌平黌に学び、漢学塾の二松学舎を創設し、その後に東京大学の漢学教授も務めました。南摩羽峰(なんまうほう、元会津藩士)、重野安繹(しげのやすつぐ、元薩摩藩士)とともに文章家として明治三大家と言われました。
石川忠久 「漢詩人 大正天皇」 大修館書店