yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

「戦い」の表現

2024-08-23 06:32:45 | 歴史
「戦い」や事件を表現する言葉は多様です。
「役」「乱」「変」「寇」「戦」「戦争」「事件」などがあります。
「役」 民衆を徴集して兵として権力者が戦う戦、上から目線の表現です。
        前九年の役(1051~62)、後三年の役(1086~1088)
        文禄・慶長の役(1592~1597)

「乱」  戦により世の中がみだれることからこのように称するようです。
やはり上から目線の表現です。
        保元の乱(1850~1901)
        平治の乱(1159)
        応仁の乱(1467~1477)
「変」  乱と似ていますが、意外性や驚愕が感じられる表現です。
        承久の変(1221)
        本能寺の変(1582)
「寇」  外国に侵攻する戦いです。元寇、和冦
「戦」 普通の表現ですから、よく使われてます。
白村江(はくすきのえ、663)の戦
        桶狭間の戦(1560)
        川中島の戦(1553~1564)
        長篠の戦(1575)
        関ヶ原の戦 (1600)
「事件」一般的な表現ですから広く使われます
             元禄赤穂事件 (1701) 四十七士の討ち入り
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会津藩が支持された理由

2024-08-20 06:15:02 | 歴史
幕末に会津藩が西軍から攻撃されそうになった時、東北地方の雄藩である米沢藩と仙台藩が、会津藩を支持した理由がありました。それは両藩が、会津藩の藩祖の保科正之公に恩義があったからです。

米沢藩の場合:江戸時代初期、米沢藩の3代目藩主・上杉綱勝公が、世継ぎのないまま26歳で病死しました。通常なら御家断絶ですが、徳川4代将軍家綱の輔弼役であった保科正之公は上杉謙信公以来の名門の断絶を惜しみ、「上杉家は吉良家から養子を取ることに決めていたが、
幕府に養子届を出すことを忘れていた」ということにして、罰として石高を30万石から15万石に減らすことで、上杉家を存続させました。
仙台藩の場合:江戸時代前期、伊達宗勝(幼藩主・綱村の後見役)や原田甲斐(家老)と対立する伊達安芸(重臣)が藩内の事情を幕府に訴え出たところ、詮議が行なわれた大老酒井忠清邸で、突然、原田甲斐が伊達安芸を斬殺し、最後は自分も斬殺されました。この伊達騒動は保科正之公の尽力により、「原田家断絶、藩主お咎めなし、減封なし」で収束しました。


このような過去の恩義から、仙台藩と米沢藩は、西軍とともに会津藩を攻める気はなく、逆に会津藩を助けるために協議して、慶応4年5月3日に奥羽列藩同盟を成立させ、西軍と対峙しました。

       参考文献
          中村彰彦 『仙台藩の戊辰戦争』 NU7 学士会 
          山本周五郎 『樅の木は残った』 新潮文庫

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 秋月悌次郎の逸話

2024-08-17 06:11:18 | 歴史
  秋月悌次郎が第五高等学校(熊本)で教授の職にあった時のことです。明治26年(1893)1月の末に宮内省の顕官である高崎正風が秋月を訪ねて来ました。高崎は30年前の文久3年(1863)8月に京都で秋月を訪ね、會薩同盟締結を提案した薩摩藩士でした。その後、御歌所の長官を経て、この時には北白河宮第六師団長の副官になって熊本にいました。秋月を訪問したその夜は、漢詩の贈答などをしながら、往事を偲んで盃を傾けました。翌朝、いつものように黒い官服で第五高等学校の教室にあらわれた秋月悌次郎は、登壇して書物を包んである紫色の風呂敷を開けましたが、講義を始めようとしませんでした。かなり時間が経ってから
「実は昨晩、文久以来の友人が30年ぶりに訪ねて来たので、終夜、酒を酌み交してしまった。そのため、今日の講義の下調べができなかった。それ故、諸君には誠にすまないが、今日の講義は勘弁してもらいたい」
と、言うと、丁寧に一礼し教室を出てしまいました。
教授室でこの話を知った同僚が、辺りに悌次郎の姿が無いことを確かめてから言いました。
「それにしても漢学者というのは融通の利かないものだ。あれほどの大学者なら『論語』など暗誦しておられるだろうに。何とか講義ができなかったものだろうか。」
すると傍で聞いていた法文の教授、末広厳太郎(すえひろいずたろう、後に東京帝大教授)が反論しました。
「いや、そうじゃない。秋月先生のように良心的であって初めて、本当の先生になり得るのだ。私は今の話を聞いていて深く反省させられた。秋月先生は偉いと思うよ。」
ただ、「休講」と宣言してもよいところなのに、さらに言えば下調べをせずとも講義することは可能なのに、律義にこう述べて学生達に陳謝する。これが秋月という人間なのだ、ということを末広厳太郎はよく知っていました。

  中村彰彦「落花は枝に還らずとも 下」中央公論新社

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 古賀謹堂

2024-08-14 06:15:30 | 歴史
古 賀謹堂 (1868~1884)、名は謹一郎。
名門の儒者であり洋学者です。ペリー来航後の圧倒的な攘夷の風潮の中で、敢然として開国を主張、貿易による富国強兵策を提言しました。また東京大学の前身である洋学校蕃書調所を創設し、万民に開かれた近代的経営を行いました。維新後、新政府から大学大博士として召されましたが、薩長政府に仕える事を潔しとせず、一市井人として生涯を終えました。

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 数学研究の意味

2024-08-11 07:21:29 | 文化
世に数学の難問は色々あります。円周率を何桁も求めること、巨大素数を  
   求めることなどで、人類は今も挑戦を続けています。コンピュ-タ-の進歩により、円周率は100兆桁、巨大素数は2342万9425桁まで求められました。
   これを上回る巨大素数を求めると、10万ドルの懸賞金を与えるという人まで現れています。
    ところで、これらを求めて何の役に立つのかという疑問も湧いてきます。巨大素数は現代の文明を支えている情報技術分野で暗号の生成に必要なのだそうです。
また、難しい数学の難問を解いている時に、ふと疑問も湧いてきます。
     何でこんなことをやらねばならないのか、将来一体、役に立つのであろうかと。

     数学者の藤原正彦氏は、「数学者の言葉では」という著書の中に下記のこと を書いています。
      「役に立たない」というのは、「価値がないということではない」と、した上で、狡猾な答であるかも、と慎重です。「価値がないということではない」ということは、価値がないことを否定しているだけで、価値があるとは言っていません。価値があると言い切ってしまうと「どんな価値があるのか」という新たな追求が始まるでしょう。さらには「価値とは何ぞや」という難しいことにも発展しそうです。故に、あいまいな言葉で妥協を計っている狡猾な答だと、氏は謙遜されています。
フランスの有名な数学者、ポアンカレ-は、「真理の探究こそが人類の目標である。数学はそれを達成する手段の一つである」と、喝破しています。単純明快な答です。
       不肖は以下のように考えています。数学の勉強は論理的思考方法を身につける修練の場である。現に数学研究の進化は、物理学・工学・化学の進歩の基盤となっています。
       アインシュタインの相対性理論は、リ-マン幾何学、テンソルなどの高等数学を駆使して記述され、成り立っています。また、微分積分、フ-リエ変換、複素数、群論などの数学の発見と応用は、工学の進歩にも大いに貢献しています。
       
         藤原正彦「数学者の言葉では」 新潮文庫
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徒然草 百六十七段

2024-08-08 06:18:51 | 文学
兼好法師の文には味わいがあります。「徒然草」百六十七段を次に記します。

一道(いちだう)に携はる人、あらぬ道のむしろにのぞみて「哀れ我が道ならましかば、かくよそに見侍(はべ)らじものを」と言ひ、心にも思へる事、常のことなれど、よにわろく覺ゆるなり。知らぬ道のうらやましく覺えば、「あなうらやまし。などか習はざりけむ」といひてありなん。我が智をとり出(いで)て人に争ふは、角(つの)あるものの角をかたぶけ、牙あるものの牙をかみ出だすたぐひなり。
人としては善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他に勝ることのあるは大きなる失なり。品(しな)の高さにても、才藝のすぐれたるにても、先ても、人にまされりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心にそこばくのとがあり。慎しみてこれを忘るべし。をこにも見え、人にも言ひ消(け)たれ、禍(わざはひ)をも招くは、ただこの慢心なり。
一道にも誠に長じぬる人は、みづから明らかにその非を知る故に、志常に満たずして、終に物に伐(ほこ)る事なし。

慢心をいましめる文と思われます。

     「方丈記 徒然草」 日本古典文學大系 岩波書店
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 幕末の三舟

2024-08-05 06:38:19 | 歴史
山岡鉄舟 (1836~1888)
剣の達人で剣禅一如を唱えました。書も能くし、勝海舟らと徳川氏存続のために奔走し、静岡で西郷隆盛と会見、ここで山岡鉄舟の至誠が西郷を動かし、江戸城の無血開城の基をつくることになりました。維新後は明治天皇の侍従となりました。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業成し得られぬなり。」これは西郷隆盛が山岡鉄舟を指して語った言葉といわれています。

高橋泥舟 (1835~1903))
山岡市郎右衛門の次男ですが母の実家、高橋家に養子に行きました。泥舟は後年の号です。山岡家は槍の自得院流の名家で百石取り、精妙を謳われた長兄山岡紀一郎静山とともに槍を修行し、海内無双と呼ばれ、まさに神業に達したとの評を得るほどでした。妹の英子の婿養子に小野鉄太郎を迎えましたが、これが義弟山岡鉄舟です。泥舟は明治元年の江戸城の開城後も慶喜を護衛しました。新政府任官の誘いには、
「総理大臣にならなってもいいが」
と、断ったと言います。主君の前将軍が二度と世に出られない以上、自分は官職に上り新しい栄達や叙爵を求める事はできないという姿勢を貫きました。号の「泥舟」の由来を聞かれて、自分は狸ではないので、泥で作った舟などで、うかうかと海に漕ぎ出さぬ方が良いと、「かちかち山」の例を引いてとぼけたとのことです。

木村芥舟 (1830~1901) 
江戸浜御殿奉行の子として生まれました。幕臣で名は喜毅。1856年に目付に就任し、長崎伝習所の監督となり、1859年、軍艦奉行に任じられました。翌年、アメリカへの使節派遣で、提督として咸臨丸に乗り込みました。帰国後、海軍の発展に努力するも、幕府解体とともに引退しました。「忠臣は不事二君、前朝の遺臣は新王朝に仕えず」
と、言って、新政府に任官しませんでした。
高橋泥舟と木村芥舟は風景の似た人物です。
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神を100としたら

2024-08-02 06:15:09 | 将棋
神を100としたら囲碁、将棋のトップ棋士はいくつくらいになるかに関して考える時に、参考として、故藤沢秀行と芹沢博文のエピソ-ドがあります。
藤沢名誉棋聖が名人位を獲った頃、彼は酒浸りだったと言われています。自分の事務所に若手の有望棋士である林海峰・石田芳夫・加藤正雄・竹宮正樹等を呼んで、酒を飲みながら藤沢は若手の碁を酷評していました。それを聞いていた藤沢と親交のあった将棋の故・芹沢博文(天才といわれた)が、次のように言いました。
「秀行さん、あんた若手の碁をぼろくそにこき下ろしているけれど、一体貴方は碁をどのくらい解っているんだ。」
すると藤沢さんも芹カモ(秀行さんは、芹沢をこのように呼んでいました)に、「お前も棋士の端くれなら、自分は将棋がどのくらい解っているか書いてみろ」と言いました。
そこで2人はお互いに、「神様が100だとしたらどのくらい解っているか」を紙に書いて見せ合うことにしました。その結果、藤沢は「6」、芹沢は「4か5」。2人とも「100のうちのそのくらいしか解っていない」と、書いた紙を見て笑い合ったということです。
それから20年後、ある出版社が囲碁と将棋の棋士の対談集を発刊し、「今だったらいくつ解っているか」を改めて問いました。藤沢は名誉棋聖という実績を積み上げていてもなお、「あの時は思い上がっていた。本当は6も解っていなかった。今だって6解っているかどうか自信はない」と話しました。藤井聡太五冠はいつも謙虚で誇大なことを言わない人ですが、一体どれだけ100に近いのか興味が尽きません。レ-ティングによれば、藤井七冠は将棋界で1人だけ2000点を超えていますが、神のレ-ティングは、はたして何点になるのでしょ
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常在戦場

2024-07-30 06:14:47 | 歴史
「常在戦場」は長岡藩の藩是です。三河牛久保の出の牧野氏の壁書きの第一条であり、河井継之助や山本五十六、小林虎三郎の話(米百俵)に出てくる言葉です。
上杉謙信の心得とも言われています。

「常に戦場に在り」
常に戦場にいる心構えで質実に生活し、刻苦勉励の気風を持つこと。
山本五十六連合艦隊司令長官は、よく「常在戦場」と揮毫しており、各地にその書が残っています。なお高野五十六(後の山本五十六)が養子に入った山本家は、戊辰戦争で当主の山本帯刀(たてわき)が會津で戦死したため、長い間絶家になっていました。その後、元長岡藩主・牧野公の尽力で、大正五年に長岡藩第一の名家、山本家は再興されています。
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外山脩造

2024-07-27 07:03:25 | 歴史
外山脩造(とやましゅうぞう)は、1842年に長岡近郊の栃尾村の庄屋の長男として誕生しました。幼名は寅太です。幼くして英才の誉れが高く、16歳にして江戸の清川八郎の塾に入門しました。その後、長岡で河井継之助を知り、師事することになりました。継之助が江戸に遊学したのを追って再び上京し、幕府の昌平黌にも合格しました。その後、長岡にもどり、藩の重役となった継之助を助けました。外山は河井継之助の従僕を勤め、戊辰戦争(北越戦争)に際して長岡藩家老で軍事総督の河井継之助は銃弾により負傷しましたが、常に彼の傍らに付き添い、その死没まで終始行動を共にしました。会津に落ちてゆく途中、継之助の症状が悪化して塩沢という所に留まりました。臨終の時に継之助は外山を枕元に呼び「武士の時代は終る。これからは実力のある者の世の中になる。戦争が終ったら商人になれ」と諭しました。その時、継之助は外山のために福沢諭吉にあてた添書を残していました。
その後、寅太は名を脩藏と改め、28歳で、その添書を携えて上京し、福沢諭吉の慶應義塾に入塾しました。在塾中に開成学校にも遊学し、卒業の後、大蔵省や秋田県官吏に出仕しました。大蔵省では国立銀行の創設に尽力した後、大阪の大阪国立銀行の初代支店長に就任し、大阪の財界に加わりました。先進国の状況をよく調査し、銀行や数多くの企業の創立に貢献しました。阪神電鉄の初代社長、朝日ビ-ル、大阪ガスの創設もしました。まるで、関西の澁澤榮一です。継之助の夢は外山脩造により実現したとも言えます。なお阪神タイガ-スの名は、外山の幼名「寅太」に由来するともいわれます。


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