yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

南半球

2010-04-29 08:11:08 | 文化
ご承知の通り南半球のオーストラリアやニュージーランドでは、日本では想像できなかったことを体験します。夏と冬の季節が北半球と反対です。夜空に見える星座も北半球と異なり、南十字星やカノープスが見えます。しかし北極星は見えません。また、北向きの家が陽当たりのいい良い家ということになっています。
下の写真はオーストラリアで購入した世界地図です。南が上、北が下になっていますからオーストラリアが図面の上になっており、日本、中国、アメリカ、ヨーロッパ、ロシアなどの北半球の国は下のほうにあります。ところで日本がどこにあるかお分かりですか。見慣れていないと何とも奇妙に感じます。


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井上円了

2010-04-27 06:37:28 | 歴史
私の郷里の先人、井上円了は安政5年(1858年)に長岡藩(現在の長岡市越路町)に生まれ、長岡洋学校で学びましたが、学問に優れていたので、選ばれて国内留学生として上京して東京大学予備門に入学し、続いて東京大学文学部哲学科に進みました。卒業の後は哲学堂を拠点に活動しました。これは現在、中野区の哲学堂公園になっており、ここには円了が作った四聖堂が残っています。また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し「妖怪学講義」を著し、妖怪博士などと呼ばれました。明治20年には哲学館を設立しましたが、これが後に東洋大学になりました。「諸学の基礎は哲学にあり」という教育理念のもとに生涯を通じて著述と講演活動を続け、大正8年に他界しました。

ちなみに、井上円了が学んだ長岡洋学校は後に長岡高校となりましたがその校歌の一部には下記のようにあります。
一、 我が中学のその位置は構へは八文字浮島の
兜の城と名も高き旧城跡を前に見て
峨々たる嶮峰鋸は
其の東面に天を指し本島一の大河なる
信濃川は其の西に汪洋広野を浸しつつ
北海さして流れ行く

二、 清秀雄偉の山川の感化を受くる我が校は
   明治五年の冬の頃洋学校の開始より
   爾来変遷定めなき世の辛酸を凌ぎ来て
   各科の学士文武官
   民間官途の別ち無く名有る人物出ししは幾百人か数知れず
     (三、四番 省略)

五、 いでや是より諸共に学びの道に油断無く
互に励み励まされ心を磨き身を修め
あつぱれ有為の人となり世に大業を為し遂げて
我が中学の誉れをば末代までも伝へなん

大時代的な歌詞には、まことに気恥ずかしくなりますが、高校に入学した時に上級生から
たたき込まれましたので今でも間違えることなく歌うことができます。また歌詞に明治五年や洋学校とあるので、学校の成り立ちを忘れることもありません。

今でも郷里の大先輩、山本五十六元帥の命日である四月十八日前後には、毎年、同窓生が都内の某会場に集まり、皆で大真面目にこの校歌を歌います。しかし、中には会費を払って強制的に校歌を歌わされるとぼやく友人もいます。
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宇宙創生における人間原理

2010-04-24 07:03:27 | 科学
宇宙論で世界的に著名な佐藤勝彦教授が退官記念の最終講義をまとめた本の中で述べておられる話です。
宇宙は今から137億年前のビッグバンにより誕生した(佐藤教授が提唱)、というのが宇宙物理学の標準理論であると言われています。ところがそれから80億年経った時、すなわち今から57億年前に第二のインフレーションが始まり、今も膨脹を続けています。この宇宙開闢から80億年という時が特別な意味を持っているそうです。(地球の誕生は46億年前、生命の誕生は38億年前)
宇宙を支配している物理法則は、あたかも人間がちょうど誕生できるように、きわめて精密に調整されているように感じられます。それくらい精妙に、有機物質を作る主役の元素である炭素が宇宙の中で生成されました。すなわち、陽子や中性子を結合させて原子核を作る「強い力」の大きさを決めている結合定数も絶妙な値になっているとのことです。これらを説明しようとして登場したのが、1961年にロバート・ディッケが最初に唱えた「人間原理」です。彼は、「宇宙の年齢が137億年にくらべて10分の1でも10倍でも人間の存在はあり得ず、きわめて選ばれた存在である」と言いました。また、「この宇宙はきわめて平坦に調節されていなければ、ビッグクランチでつぶれてしまい、観測者である人間は存在できない」と主張しました。物理定数が絶妙に微調整されていないと人間が誕生しないことから、この条件を満たすような宇宙は、きわめて稀な存在だと言えます。すなわち、137億年という長い宇宙の歴史において
稀な偶然により人間が誕生したわけですが、しかし、偶然ではなくてビッグバンの時点で既に予定されていたという説もあります。
また一方、「人間原理」という言葉には誤解されやすい側面もあります。すなわち、「宇宙は人間が誕生するように創造されたという原理」と受け取られやすい側面があります。人間に代表される「知的生命体」は銀河系内の太陽系第三惑星に棲む人間に限るということではありません。佐藤教授は本来、科学的な研究を通じて求められるような物理量に対して、「人間原理」を安易に乱用すると、科学的研究を放棄することになりかねないと警告されています。

           佐藤勝彦 「宇宙137億年の歴史」 角川学芸出版
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最後の会津武士 町野主水(もんど)

2010-04-20 15:31:12 | 歴史
  町野家は豊臣秀吉の腹心であった蒲生氏郷の家来でした。天正18年(1590年)に氏郷が秀吉の命令で会津に入部した時に主君に従って会津に移ってきました。それが町野家の祖、町野左近助幸仍(ゆきなお)でした。ある時、主君氏郷から白柄で槍穂三尺の大身の槍、「宗近」(むねちか)の銘のある名槍を下賜されました。それを家宝として、保科正之が会津藩主になると槍を携えて保科家に仕えました。
さて町野家の久吉は若年ながら宝蔵院流の槍術の達人でした。久吉はこの「宗近」という名槍を兄の源之助から借り受けて、兄の任地の小出島(越後)に出陣しました。そこで、この先祖伝来の槍をもって松の木にぶらさがる懐紙を少しも微動させることなく突き、一瞬のうちに三つの穴を開けてみせ、人々を驚かせたという事です。ところが北越戦争において、三国峠(越後と上野の国境)の戦闘で久吉は十代の若さで討ち死にしてしまい、この槍の行方はわからなくなってしまいました。一方、兄の町野源之助は戊辰戦争の後は、名を主水とあらため、民政局取締という県の役職について、旧藩の人々の面倒をみたりして若松で暮らしていました。
ある時、長州出身で政府の顕官となった品川弥二郎子爵が福島県を視察する合間に若松に立ち寄り、東山温泉向滝旅館に町野主水を呼び出しました。品川弥二郎は「僕は戊辰戦争で戦死した尊皇攘夷の志士たちの遺品や資料を収集して京都に「尊譲堂」を建立しました。その過程で貴殿のご舎弟久吉殿が所持しておられたという槍が発見されました」と言いました。目の前に出された槍を主水が見ると、確かに「宗近」の銘がある大身の槍で町野家の家宝に間違いありませんでした。品川は続いて「これが会津藩町野家伝来の槍とわかり、貴殿が矍鑠としておいでとわかった上は、この槍を貴殿にお返しすべきと考えて出向いてきました。」と語りました。それに対する主水の返答は驚くべきものでした。
「御厚志はかたじけないが、それだけで充分でござる。戦場にて失いしものを、武士たる者が畳の上で受け取るわけに参らぬのだ。」
品川は唖然として主水のいかつい風貌を見つめました。しかし主水は、
「失礼いたす。」
と、ぶっきら棒に言い、悠然と退席しました。やがて、このやりとりは会津藩士の間に広まり「これぞ千古の快言である」「まさに会津武士道に徹した町野主水ならではの啖呵というものだ」と大評判になりました。そして町野主水に「最後の会津武士」いう異称がたてまつられました。
主水はこうした評判を耳にすると、むっつりとした面もちで妻のマツに言いました。
「おれは一介の武弁でむつかしいことは何もわからぬ頑固者にすぎぬ。おれが死んだら戒名は「無学院粉骨砕身居士」とな。」
さて主水の死後、若松警察の制止があったにもかかわらず、葬儀は遺言通りに行われました。先頭は主水の亡骸を莚でつつみ縄で縛り、次いで抜身の槍、抜身の刀、僧侶、家族の順で全員徒歩という壮絶なものでした。さすがに喪主の武馬は主水が自称した戒名は使わず、菩提寺の融通寺から頂いた別の戒名「武孝院殿顕誉誠心清居士」を使いました。会葬者も多く、町野家から融通寺まで続く葬列は盛大きわまるものであったということです。
戊辰戦争の後、討ち死にした会津藩士の遺体が埋葬を許されずに放置させられたことを、主水ら生き残った藩士はどれほど無念に思ったことでしょう。主水の葬列はそうした仕打ちに対する抗議の表現だったのでしょう。
なお、町野家の槍は現在、鶴ケ城の博物館にあるということです。
               中村彰彦 「その名は町野主水」 新人物往来社
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スマートグリッド

2010-04-17 08:48:23 | 文化
スマートグリッドは最近よく聞く言葉です。スマートなグリッド(送配電網)のことです。
双方向通信機能が重要な要素になっているのでインテルグリッドなどとも呼ばれ、次世代の電力技術を象徴するキーワードです。スマートグリッドの興りは、欧州における風力発電の発展や日本における太陽光発電の拡大と普及によるものであり、最近開発が進んできたプラグイン型ハイブリッド電気自動車(PHEV)、電気自動車(EV)、蓄電装置、自然エネルギーを利用した発電装置がスマートグリッドを構成する重要要素となります。電気は蓄えることが難しい上、究極のスマートグリッドにおいては中小規模の電源と需要者が近接しているので、私が長年携わってきた高電圧・大容量電力ケーブルの役割は重要要素では無くなります。また超高圧の架空送電線網も不要になるという、環境にもやさしい画期的なシステムと言えます。
日本では多くの太陽光発電装置などの新規の装置が、大量に既存の電力送配電網に接続するので、電力の品質(安定した電圧や周波数の維持と無停電の確保)や潮流を適切に維持・制御する技術の開発と運用が重要な課題になると思われます。

 横山明彦 「よりスマートなグリッドの構築に向けて(Ⅰ)(Ⅱ)」電気学会誌2,3月号
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クラウド

2010-04-13 07:21:58 | 文化
近頃、クラウドという言葉をよく耳にします。クラウドとはクラウドコンピューティング
のことで、雲のようなインターネットを使うことのようです。2月26日の「日本経済新聞」にクラウドコンピューティングの定義が書かれています。すなわち、「情報システムを利用する企業や個人が、ネットワーク経由でソフトウェアなどを利用できるサービス。自ら高性能のパソコンやサーバーを持つ必要が無く、効率的に情報システムを利用できる。」
Googleを見ると、Google Appsというソフトウェアを導入することによりITコストを削減でき、企業の社員の生産性を高めることができるとあり、Google社が提供するホスティング型アプリケーションサービスによりユーザーはブラウザからメール(Gmail)、スケジュール管理、ドキュメント(文書)の管理・編集、情報提供のためのウェブサイトなどが利用できるとしています。
 以前から外部にあるコンピュータ資源をネットワーク経由で使うということは行われていました。クラウド・コンピューティングと言っても特別に新しい要素は無いという意見もあります。私は詳しく理解しておりませんので、専門的には、新しい要素が沢山あるのかも知れません。
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お礼

2010-04-12 06:43:43 | 近況
いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。
お蔭さまで、昨日、アクセス数が7万5千に到達いたしました。
平成18年の3月に書き始めてから4年目に入ったところです。
この間に75,000アクセスは、望外のハイペースではないかと喜んでおります。
引き続き、ご愛読いただければ、有り難く存じます。なお、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。
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殉節の碑

2010-04-11 06:39:06 | 歴史
戊辰戦争は、慶応四年(1868年)一月に鳥羽伏見において始まり、同年九月の会津鶴ケ城の落城をもって終結しました。(翌年五月の函館五稜郭の落城をもって戊辰戦争の終結とする説もあります。)戊辰戦争の戦場は全国各地におよびましたが、とりわけ会津藩領内と越後方面の
戦闘は苛烈を極め、会津藩の死者は三千余名にのぼりました(会津弔霊義会資料)。「会津史学会」の宮崎十三八(とみはち)氏によりますと越後方面の戦い(北越戦争)は、慶応四年四月下旬から八月中旬まで約三ケ月半におよび、戦線は二十里(約80km)にも亘ったため、野戦、山岳攻防戦、市街戦、夜襲戦、渡河戦、舟艇戦、城の争奪戦などが入り乱れて展開され、戊辰戦争のうちでも殊に規模が大きい激戦でした。この間に越後各地で散った会津藩士の遺骸は、死後も長く野ざらしにされ、墓もほとんどありませんでした。
そこで明治二十三年(1890年)の二十三回忌に当たる年に、当時、生き残りの越後在住の会津藩士が、家宝の刀剣を売るなど苦しい生活の中から資金を出し合い、また地元越後の人たちの支援も得て、新潟大神宮の境内(現、新潟市中央区大畑町)に「殉節之碑」を建立しました。この碑は、時の経過と共に次第に人々の記憶から薄れ、その存在すら不明瞭になっていましたが、昭和六十三年に再確認されました。以後、「殉節之碑祀裔会」(会長・小島国人氏)により管理されており、毎年八月二十三日に慰霊祭が執り行われています。今年がこの碑の建立百二十周年にあたることから、その記念事業として、碑の修復整備を行うことになっております。なお越後戦線には会津藩の猛将であった槍の町野主水(もんど)や後に西南戦争で戦死した佐川官兵衛もいました。ちなみに町野主水の御令孫の井村刀自は、百歳を越しても今なお、お元気でいらっしゃいます。
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升田元将棋名人・語録

2010-04-08 07:24:12 | 将棋
NHKの日曜日の将棋講座を担当していた先崎学八段が、講義の合間に、将棋の元升田名人の思い出を語っていました。
若い時には雲の上の先生であった髭の升田さんのお宅にお邪魔して、囲碁を打ってもらったことがあります。升田先生は囲碁も強くアマ六段くらいの実力がありました。普通はこれ程強いと、私(先崎)のような囲碁の弱い者が相手では面白いはずが無いのですが、先生は何局でも打って下さいました。先生は現実的で、要するに勝てばご機嫌でした。ある時、私に次のようなことを言われました。「先崎君の碁は釘だな。」その心は「打てば打つほど下がって行く。」  これは升田さん独特のブラック・ユーモアでした。
将棋の棋士には囲碁も強い人が多くいます。故升田さん、故大山さん、引退された丸田さん、故真部さん。現役では河口さんなど多士済済。故芹沢八段や米長現将棋連盟会長も若い時に碁を好んだそうです。芹沢さんは、当時、米長さんより強かったので、例の毒舌で「米長よ、囲碁という遊びは智慧のあるほうが勝つのさ」と言ったそうです。米長さんはそれから発奮して大いに囲碁の勉強をしたのでしょう。しばらく経ち、米長さんは芹沢さんに時々勝つようになったということです。この頃になると、さすがの芹沢さんも「智慧があるほうが勝つのさ」という発言は止めたそうです。今頃は泉下で苦笑していることでしょう。
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大仏東漸

2010-04-05 06:46:47 | 歴史
紀元前5世紀にインドで生まれた仏教が、周辺に広まって行った幾筋もの道の中で、中央アジアからシルクロードを経て、中国から日本に伝わった道がありました。この道に沿って多くの仏教遺跡が築かれましたが、巨大な仏像、大仏もその一つです。
アフガニスタンのバーミヤンの断崖を利用して3~8世紀に高さ53mもの巨大な摩崖仏が作られました。(しかしこれらは惜しくも2001年にイスラム教徒の暴挙により破壊されました。)やがてタクラマカン砂漠の敦煌、莫高窟などに弥勒大仏(写真)などの仏教遺跡を残しつつ、唐代の中国にまで広まり、楽山・雲崗・大同・龍門の大仏群が造営されました。四川省楽山にある弥勒菩薩の摩崖仏は高さが71mもあり、世界最大の仏像と言われています。大仏造立の流れは海を渡って我が国にまで至りましたが、奈良の東大寺の大仏は、東の終着点に開いた大輪の花と言えるでしょう。この毘盧舎那仏は鎮護国家の象徴として、奈良時代743年の聖武天皇の勅願によって造立が開始され、当時の日本の人口約500万人の半分の延べ260万人の民衆の力が結集され、12年の歳月をかけて完成したものです。その後、幾たびも戦火に遭いましたが、その都度、信仰の篤い人々によって改修されて現在に至っています。インドから奈良まで約7500kmもありますが、信仰の力により大仏はこの道をはるばる伝わってきました。壮大な仏教の道でした。
 

       

                  

                 

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