yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

地熱発電

2011-05-30 06:14:55 | 文化
地熱発電は地中のマグマの熱を利用する発電で、石油などの化石燃料を使用しないクリーンな発電方式です。日本は火山国ですからアメリカ、インドネシアに次いで世界第3位の地熱資源を持っています。将来、石油は枯渇しますが、マグマは枯渇することは考えられず、また地中に大量にありますから、日本では無料で入手可能なエネルギー資源なのです。地震などで地熱発電所が損壊しても人体に無害な蒸気が漏れるだけですから、原発とは異なり本質的に安全です。
さて、地熱発電はマグマの熱を利用してその蒸気で発電機を回して発電するものですが、我が国では、(株)富士電機などが世界的にも一流の高度な技術を持ち、実に世界の地熱発電容量の70%のプラントを供給しているそうです。
世界の地熱発電は24カ国で実施されておりその内容は次のようなものです。
アメリカ    2534MW
フィリピン   1930MW
メキシコ     953MW
インドネシア   797MW
イタリア     790MW
ニュージーランド 435MW
アイスランド   172MW
日本        54MW  世界第八位(原発は1基で約800MW)
途中略
オーストラリア    1MW
つまり日本地熱発電量は世界の総発電量の0.2%にすぎません。地熱発電所としては、
九州電力の八丁原地熱発電所、東北地方の八幡平地熱発電所などがあり、発電コスト
は7-8円/kWhと比較的小さいものです。原子力は5-6円/kWh、火力は10-17円/kWhです。
現在まで、日本に地熱発電があまり普及しなかったのは、下記のようないくつかの理由がありました。
地熱発電に適した場所が国立公園内や森林の中に多く、環境面から見て官庁の許可
が得られなかったこと。近くに温泉を経営する観光地が多く、地元の理解が得られにくかったこと。建設コストが高く、井戸を掘っても蒸気を得られないリスクもあったことなどが
挙げられます。
 原子力に替わる将来の日本のエネルギーは自然エネルギーに頼らざるを得ない現実がありますから、このためには、地熱発電の上記の問題は官民が一体となって回避する努力が必要であり、解決が可能なのではないでしょうか。地熱資源が豊富で、その発電プラントを製造する世界一の技術を持つ我が国にとって、地熱発電は大変魅力のあるエネルギーであると思われます。
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震災で変わった今時の若者

2011-05-27 05:35:25 | 文化
東日本大震災は、我々の従来のライフ・スタイルと価値観を大きく変えました。
不肖、私の世代が生きてきた昭和の高度成長時代は、幸いにも雇用が保証されており、懸命に働けば、誰でもそれなりに有る程度豊かな生活が可能であったように思います。こうした昭和のライフ・スタイルが、いつまでも続くとは限らないことがはっきりしました。つまり現在は、働く意思があっても雇用される機会が十分に無く、働く場があっても一生同じ仕事を続けられる保証もありません。今時の若者は、こうしたささやかな希望すら実現が難しいのです。しかし、彼等は自分がやりたい事のみを求めているわけではありません。東北地方の被災者や、心ならずも不幸な状態に陥った人々に対して、今、自分に何ができるかと問い、ボランティア活動をする人が後を絶ちません。「日本人は皆仲間である」と言う若者もいます。こうした若者が大勢いる日本の将来は明るいと思います。大きいビジョンを示して、こうした若い力を結集させて、日本の復興に役立てて行くしくみや道筋をつけるのが、今、政治に求められているのでしょう。以上のように堀田力さんやNHKの大越キャスターも言っておられましたが、全く同感です。
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不平文学

2011-05-24 06:40:03 | 文学
「史記」の著者、漢の司馬遷は、「任少卿に報ずる書」で述べています。
蓋(けだ)し文王は拘(とら)われて「周易」を演(の)べ、、仲尼(孔子)は厄(やく)して「春秋」を作り、屈原は放逐せられて乃(すなわ)ち「離騒」を賦し、左丘は明を失って蕨(そ)れ「国語」有り。「詩経」三百篇は、大底(たいてい)聖賢の憤りを発して為(つく)る所なり。

時代が下って唐の文豪、韓愈は「孟東野を送る序」で同じ趣旨の事を書いています。

大凡(おおよそ)物は、其の平(へい)を得ざれば則ち鳴る。艸木(そうもく)の声無きも、風之を撓(たわ)めば鳴る。水の声無きも、風之を蕩(うご)かせば鳴る。(中略)人の言に於けるも亦然り。凡そ口より出でて声を為す者は、其れ皆平らかならざる者有るか。(中略)楚は大国なり。其の亡ぶや屈原を以って鳴る。

両書とも屈原の「離騒」を不平文学の代表としています。
詩聖・杜甫も多くの詩を賦していますが、憤りと批判がその根底にあります。幕末の漢詩「會津三絶」も、憤りと悲哀の思いを賦しています。不遇や社会の不条理が、詩人(文学者)の魂を創作にかき立てるようです。
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我が家の節電

2011-05-21 06:11:53 | 文化
電力を自由にいくらでも使うというライフスタイルを改めなければならない時代になってきました。家庭における節電だけでは、夏場の電力供給不足に応えることにならず、焼け石に水のようなものかも知れません。既に皆様方も実行中かと存じますが、ささやかながら我が家の実行例を次に列挙しました。
1. 照明はこまめに消す。
2. 冷房温度は28度に設定。
3. 電気湯沸かし器を止めて、昔ながらのやかんを使いガスで沸かす。
4. 白熱電灯からLED電球と蛍光灯に替える。
5. 便座の電源を切る。(春夏のみ)
6. 冷蔵庫2台のうち、一台の電源を切る。(今後実行の予定)
7. 洗濯はまとめて行い、洗濯機を使う回数を減らす。
8. 毎月の電力の使用量と支払額を一覧表にして、常時「見える化」し、成果を確認している。(これは節電のモチベーションの向上につながります。)
なお、この一覧表を見ると、昨年の同時期に比べ、今年の4月と5月は約10%支払額が減少していることがわかりました。政府から要請されている夏場の15%削減には今のところ届いていませんが、これからさらに工夫したいと思っています。
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我が言貌(げんぼう)

2011-05-18 07:59:24 | 文化
宋の黄山谷(こうさんこく 1045―1105)は蘇東坡と併称され、東坡、山谷、味噌醤油と禅宗五山の寺院の僧侶にも愛重(あいちょう)されました。その黄山谷の書に次のようにあります。
士大夫(したいふ)三日書ヲ読マザレバ則チ理義胸中ニ交ハラズ。便(すなわ)チ覚ユ、面目・憎ムベク、語言・味ナキヲ。
理は事物の法則、義は行為を決定する道徳的法則(筋目)のことです。顔に一切が書いてある。言葉に全てが表れる。「どの面(つら)下げて」とよく言われますが、思えば、自分の面構えが気になることです。
アメリカでの話になりますが、リンカーン大統領に、彼の友人がある人物を推挙しました。しかるに、リンカーンは一向にそれをとりあげませんでした。いささか癪に障った友人は、「どうしてあれだけの人物を取り上げないのか」と詰問しますと、リンカーンは「あの男の面が気に入らない」と言いました。「これはまた何と失敬な言葉か」と憤慨して、「面構えなどで人物をとやかく言うのは以つての外ではないか」と詰めよると、リンカーンは、「いや、人間四十にもなれば、己の顔に責任があるのだ。と言いました。」人相だけで人物を軽々しくは判断できませんが、こちらが虚心で経験を積んでいればかなりわかるもの、ということです。それよりも自分の良心が一番よく自分の顔を判断するものだそうです。自分の顔に責任をもつ、大変なことです。相撲の世界には初入幕で九連勝を挙げた魁聖(かいせい)関がいます。闘志を秘めた精悍な面構えをしています。テレビの解説者も賞めていました。

           安岡正篤  「百朝集」 福村出版
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家康式長寿法

2011-05-15 05:24:15 | 歴史
家康は緊迫した戦国時代に生きた武将でありながら、長寿でした。こうした武将に毛利元就75歳、伊達政宗72歳、豊臣秀吉62歳、徳川家康75歳など。当時の平均寿命は37、8歳ということですから、これらの武将達は驚く程、長命だったと言えるでしょう。豊臣秀吉は贅沢三昧の馳走に明け暮れましたので、晩年は臓器不全になって寝たきりでしたが、家康は最後の子供(市姫)を66歳でもうけています。人生の目標に「長寿」を掲げた家康は、長寿の秘訣として天海僧正に粗食を勧められました。「平日は軽味がよく、美味は月に1、2度あればよい」と常々言っていたということです。軽味とは、麦飯、そして野菜たっぷりの味噌汁、それに漬物が付く程度の粗食のことで、麦飯は朝夕二回で五合も食べていました。家康の麦飯は、半搗き玄米に麦三割のものでした。麦はビタミン、鉄分、繊維質に富み、玄米は蛋白質に富みます。麦飯は腹にもたれず、噛むことで脳が刺激されて老化を防ぐといわれています。東海三県は、信長、秀吉、前田利家、加藤清正、明智光秀などの出生地ですが、彼等は皆、地元産大豆100%の味噌を常食し、鰯の干物も食べていました。鰯の干物は抗酸化成分が含まれていて免疫力が高まるので戦場でも病気にかかりにくかったということです。この家康ですが、ある時、天ぷらを食べ過ぎて体調を崩し、突然世を去ったということです。九仞の功を一簣(いっき)に虧(か)いたともいえます。しかし、健康で長寿であったが故に天下を統一し、徳川三百年の礎を築き、多くの子孫を残して徳川家を盤石にし、長い泰平の江戸時代を開くことができたと言えましょう。
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お礼

2011-05-12 06:13:00 | 近況
いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。
お蔭さまで、一昨日、アクセス数が13万に到達いたしました。
平成18年の3月に書き始めてから5年を少し過ぎました。
引き続き、ご愛読いただければ、有り難く存じます。なお、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。
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日本人のDNA

2011-05-11 05:45:23 | 文化
最近の「朝日新聞」の記事によれば、アフリカに出現した人類が日本に到達した経路を、DNAの研究から知ることができるそうです。人類の祖先は約20万年前にアフリカを出てユーラシア大陸に広がって行き、現生人類(ホモ・サピエンス)として地球全域に現在住んでおります。   そのアフリカを出た人類の祖先は約6、7万年前には中東・南アジアに到達しました。そして一部は約4.5万年前に欧州にも到達しました。一方、中東から東に向かった群は、朝鮮半島ルートで日本に到達しました。北に向かった群は約4万年前にシベリアに到達し、日本の北から4、5万年前に日本に入りました。これを北方ルートといいます。中東から南に行った群は5、6万年前に東南アジアに到達し、ここから日本には南方ルートとして入ってきました。東南アジアから出た群の一部は約5万年前にオーストラリアに到達しました。
ここでDNAの調査方法を述べます。プラスチックの棒を口に入れ、頬の内側を何回かこすり、棒の先端にあるブラシに付いた粘膜組織を研究所に持ち込みますと、1日後にDNAの解析結果が出るそうです。DNAは細胞核とミトコンドリアの両方にあります。この内、核DNAは約30億もの塩基対から成るのに対して、ミトコンドリアDNAは約1万6千と数が少ないので解析が容易です。母親のミトコンドリアDNAだけが、子供に受け継がれることからこれから母方のルーツがわかります。一方、核DNAの中でY染色体のDNAは男性のみが持つので、このDNAから父方のルーツがわかります。塩基対には、A、T、G、Cなどのアルファベット名が付いており、これが列にならんでいます。例えば、16257番目の塩基がA、16259番目がTですとN9aというグループに入ることがわかります。
朝鮮半島ルート: B5、M8、G、A、D4、N9a
北方ルート  : N9b、Z、Y
南方ルート  : B4a、M7a、F、B4a
などとなっています。私は新潟出身なので自分のルーツは北方ルートかアイヌ系ではないかと思っていますが、本当の自分のDNAを知りたい気もします。ネット上で費用を検索しましたら29,000円という例がありました。
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源氏長者

2011-05-08 06:08:57 | 歴史
日本の歴史において源氏は大きい役割を担って来ました。鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏、戦国大名では駿河の今川氏、甲斐の武田氏、常陸の佐竹氏、出羽の最上氏、また江戸時代には肥後を治めた細川氏など枚挙に暇がありません。彼等はみな清和天皇を祖とする清和源氏です。徳川家康もこれに倣い、清和源氏の新田氏の子孫と自称しました。豊臣秀吉は源氏ではなかったので、財力と行動力に物を言わせて関白という高位を得ましたが、とうとう武家の頭領である征夷大将軍になることはできませんでした。
こうした源氏一族全体の氏長者を源氏長者と言います。原則として源氏の中で最も官位の高い者が源氏長者になります。源氏長者は源氏の中での祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの権利を持ちました。初代の源氏長者は嵯峨源氏出身の源信でした。やがて村上源氏の源師房が源氏長者になりました。時代が下って後醍醐天皇の時には「神皇正統紀」を書いた北畠親房が源氏長者になりました。武家源氏で初めて源氏長者になったのは清和源氏の足利義満です。以後、足利将軍家が継ぎました。
徳川家康が天下を統一すると徳川将軍家が源氏長者になり、以後徳川家がこれを独占しました。徳川家康は、征夷大将軍と源氏長者を一身に兼ねることにより、実質上の日本国王の権威を手に入れ、公家と武家を共に掌握することに成功しました。源氏長者とは、このように大きな権力でした。
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六中観(りくちゅうかん)

2011-05-05 07:02:16 | 文学
安岡正篤が説いている教えに「六中観」というものがあります。

死中・活有り
苦中・楽有り
忙中・閑有り
壺中・天有り
意中・人有り
腹中・書有り

絶体絶命の事態にあっても、なお生きる道がある。絶望してはならない。
苦労の中にも楽しみがある。
多忙な中にも閑な時間、ゆっくり考える時間を持つべきである。
世俗の生活の中に在って、それに限定されず、独自の世界すなわち別天地をもつこと。
心の中に常に私淑する人物、人生を共にする伴侶、社会の要路などに推薦し得る人材をもつ
こと。
心に良書を持つこと。

  安岡正篤 「百朝集」福村出版
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