yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

椰子の実

2009-10-29 06:51:15 | 文化
明治31年(1898年)の夏、東京帝大の2年だった柳田國男(後に民俗学者)は愛知県渥美半島の突端の伊良湖岬に1か月滞在しました。岬に隣り合う恋路が浜で、風の強かった翌朝に黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ流れ着いたのを発見しました。そして岬付近の潮の流れから見て、「日本民族の故郷は南洋諸島である」と確信し、これを親友の島崎藤村に話しました。この浜を訪れたわけでもない藤村は、この話から詩想を得て、椰子の実の漂泊の旅に己の憂を重ね、名詩「椰子の実」を詠みました。
  
名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る椰子の実ひとつ
故郷(ふるさと)の 岸をはなれて
汝(なれ)はそも 波にいく月

旧(もと)の樹(き)は 生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる
われもまた 渚を枕 
孤身(ひとりみ)の浮寝の旅ぞ

実をとりて 胸にあつれば
あらたなり 流離の憂
海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思ひやる 八重の汐々(しほじほ) 
いづれの日にか 国に帰らむ

後に昭和11年 日本放送協会の依頼で大中寅二が曲を付けて以来、「国民歌謡」として
広く親しまれ、日本の抒情歌謡の代表的な作品になったばかりでなく、伊良湖岬の名も有名
なりました。
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米長流 闘病哲学

2009-10-26 10:24:58 | 将棋
今回は、米長邦雄日本将棋連盟会長の闘病が話題です。
米長さんは昨年の春に癌の宣告を受けましたが、入院して適切な治療を受け、最近めでたく退院しました。第一線で活躍して来た勝負師らしく、現実を冷静に見つめて闘病生活を送られました。癌の宣告を受けた時点で、勝負にたとえれば「既に形勢不利」、どのような手を使っても勝利を得るのは難しい。どんな手を指しても悪いのは当たり前。将棋の対局と同じで、他人任せにせず、自分で考え、自分で決断して、なおかつ笑いを忘れないことが大切、と語ったとのことです。米長さんは、将棋においては、鋭い切れ味を発揮したので「さわやか流」と言われましたが、一方では、形勢が悪い時でも戦線を拡大して、自分の土俵に相手を引っ張り込んで逆転勝ちを狙うこともあり、「泥沼流」とも言われました。49歳11ケ月で名人位につき、日頃唱えていた「50歳名人」という偉業を成し遂げました。また米長さんは、大変、才気とユーモアに溢れており、テレビに出演した時、司会者に「あなたはオランウータン」に似ていると言われると、すかさず「違います。アラン・ドロンに似ています」などと切り反しました。






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趙治勲本因坊 執念の勝利

2009-10-22 07:00:27 | 将棋
今回は囲碁における本因坊の勝利が話題です。
去る10月8日、記録的な大型台風18号が関東地方を直撃し、そのため交通機関は大変乱れ、朝の通勤に大きな支障が出ました。当日東京市ヶ谷の日本棋院で対局予定があった棋士4人も、とうとう間に合わず不戦敗になりました。梅沢由香里女流棋聖もその1人でした。趙治勲二十五世本因坊も本来なら1時間前に着いていなければならなかったところ遅れてしまい、あと数秒で不戦敗になるところでした。彼は59分遅刻ということになり、持ち時間は、規定により3時間から遅刻分の3倍、すなわち177分を引かれて、僅かに3分になってしまいました。そして持ち時間3分対3時間の前代未聞の対局が行われました。趙本因坊は秒読みに追われながらも戦い続け、遂に勝ちをおさめました。趙本因坊の強さが卓越していたのは言うまでもありませんが、負けた棋士も不戦勝直前に到着した相手との対局においては平常心を失っていたのかも知れません。対局への遅刻を認めない現行のルールは少し厳しすぎるようにも思えます。さて、勝負における秒読みは辛いものです。本因坊は延々とノータイムの着手を打ち続けたと思われますが、多分、殆どの着手が最善手であったのでしょう。
将棋の若手棋士の間では10秒将棋という練習法がありますが、直感を鍛える一つの手段です。私などはチェスクロックなどにより時間に追われると普段にくらべて半分くらいしか力が出せなくなります。

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反則負け

2009-10-18 08:44:58 | 将棋
  今回は将棋における「反則負け」が話題です。
去る10月14日に女流王位戦五番勝負の第二局が戦われました。この対局の終盤で石橋女流王位は、自分の歩を飛び越して角を動かして敵陣に成りこみました。石橋さんは挑戦者の清水女流二冠にそれを指摘されて錯覚に気付き、しばらく呆然としてショックで言葉も無かったそうです。少し前からほぼ勝ちの局面になっており、数手前から詰め筋を読んでいて、自信満々で指した手が実は錯覚だったのです。

日曜日の午前に放映されているNHK杯戦でも2004年に豊川六段が二歩の反則で負けたのを見たことがあります。豊川六段は相手の田村五段に詫びて、潔く投了しました。
また、敵陣から自陣に角を移動すると竜馬に成ることができますが、自陣内で角を移動した場合は成ることができません。それをうっかり成ってしまったプロの反則負けもあります。角という駒は斜めにいくつでも動くことができて動く範囲が広いので、こうしたミスが起こる可能性が高いと言えるかも知れません。
不肖、私も、かつて会社間の対抗戦に出場した時に反則負けをした苦い経験があります。相手に王手をかけたところ、王将が逃げたので詰める最後の手を指しましたら、動いた王将の向こうに香車があって私の王将に当たっていました。すかさず相手の右手が伸びて来て私は王将を取りあげられ、貴重な一勝を進呈してしまいました。恥ずかしい不注意でした。
ほかにも、パソコンを相手に将棋を指している時などには、二歩の反則や、自分の王将が王手になっているのをうっかり見過ごして負けることがあります。王手をされたら逃げるか合駒などの対応手段を採らなくてはいけないのに、それを怠ったということで反則負けになります。将棋において王将は詰めるものであり、取るものではない、という言い訳は通用しません。
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星条旗よ永遠なれ

2009-10-12 06:14:10 | 文化
「星条旗よ永遠なれ」はアメリカ合衆国の国歌です。

 O say can you see, by the dawn’s early light,
What so proudly we hail’d at the twillight’s last
gleaming,
Whose broad stripes and bright stars through
the perilous fight

O’er the ramparts we watch’d were so gallantly
streaming?
And the rocket’s red glare, the bombs bursting in
air,
Gave proof through the night that our flag was still
There,
O say does that star-spangled banner yet wave
O’er the land of the free and the home of the brave?
以下略

以下は「世界の国歌総覧」に載っている別宮貞徳の見事な邦訳です。

 おお、朝まだき暁の光のなかに見ずや、
 夕暮れの残照に誇らしく見あげしもの。
 その太き条(すじ)とかがやく星、あやうき戦いのあいだも
 砦のうえに雄々しくひるがえるをわれらは見たり。
 のろしの朱(あか)き光、宙にはじける砲弾は夜を徹してわれらの
 旗がそこにあるをしめせり。
 おお、星かざりたるあの旗はいまもひるがえるか、自由なる
 民の地、勇者の故郷のうえに。

 アメリカ合衆国の国歌は4番までありますが、上記の1番のみが広く歌われています。
18世紀末のフランス革命の余韻が醒めやらない時代背景の故でしょうか、勇壮と自由が強調されている格調の高い歌です。
 1812年に始まった米英戦争の際、弁護士のフランシス・スコット・キー(1779-1843)は英国に捕らわれた米軍捕虜の解放交渉に臨んでいました。その時、英軍の砲撃に耐え忍んだマクヘンリー砦にはためく星条旗の姿に感動して書いたのがこの歌です。
曲は既存のメロディーが当てられ、愛国の歌として慕われて定着していきましたが、やがて国歌に制定されました。王や皇帝が無く、歴史遺産が少ない新興・他民族国家のアメリカでは、星条旗と国歌は、スポーツや戦争の際に国民の統合と団結の象徴として、とても大きい役割を果たしています。
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お礼

2009-10-11 06:40:45 | 近況
いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。
お蔭さまで、昨日、アクセス数が6万に到達いたしました。
平成18年の3月に書き始めてから約3年半になりました。
この間に6万アクセスは、望外のハイペースではないかと思っております。
引き続き、ご愛読いただければ、有り難く存じます。なお、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。
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内田康夫と浅見家

2009-10-07 19:44:39 | 文学
  ミステリー作家、内田康夫は、1934年に生まれ、コピーライター、テレビCM制作会社
経営を経て、1980年に「死者の木霊」という作品でデビューしました。その後、次々に作品を発表し、今日まで150余の作品を執筆しました。2007年までには1億冊を売り上げ、翌年には日本ミステリー文学大賞を受賞しました。
ところで全作品の約70%、106冊には名探偵、浅見光彦が登場しています。本業はフリーのルポライターながら、一般の刑事を遙かに上回る捜査能力と謎に迫る根性を持ち、事件の全貌を想像する飛躍的な発想と、ストーリーの構築能力は古今の名探偵と比べても特に優れており、天才的な資質の持ち主ではないかと思われます。
さて内田家と小説の中の浅見家は、ともに東京都北区西ケ原にあります。内田康夫の父が浅見家の主治医であったことから両家は親しい関係にありました。浅見家の男子は、代々内務省か大蔵省に勤める高級官僚の家で、浅見光彦の父、浅見修一氏は大蔵省の局長でしたが次官就任の直前に急逝しました。長男、陽一郎は秀才の誉れ高く、浅見家のホープとして育てられ東大法学部に進み、学生時代に司法試験に合格し、首席で大学を卒業した後、警察庁に勤務しており、刑事警察機構のトップである刑事局長の要職にあります。次男の光彦は、常に賢兄、陽一郎の影に隠されざるを得ず、学校の成績は落ちこぼれ同然で浅見家の愚弟の位置に甘んじていました。二流大学の博士課程を卒業の後、会社勤めも経験しますが。そういった事が続かずに、内田康夫の紹介でルポライターをして日本中を旅しながら「旅と歴史」に寄稿をして愛車ソアラのローンの支払いに汲々としています。長身でハンサムで上品ですから小説の中ではいつもヒロインと良い線まで行くのですが、最後の押しが決まらず、未だに33歳の独身で浅見家の居候を続けています。
浅見光彦には妹が2人いて、すぐ下の祐子は「後鳥羽伝説殺人事件」の物語の中で崖崩れ事故に紛れて殺害されましたが、光彦は犯人を追い詰めて、きっちり敵討ちをしました。次の妹、佐和子はニューヨーク住まいで物語にはあまり登場しません。光彦の母の雪江未亡人は浅見家の中心で、光彦にとっては浅見家を牛耳る恐怖の母親です。
またお手伝いの吉田須美子は新潟県長岡市の出身で献身的に勤めています。先代のばあや、村山さんの後を嗣ぎ、次男の光彦を大事にしており、光彦坊ちゃまに女性が近づくのを懸命に阻止する癖があります。浅見家の家族同然ですが嫁に行く気配がまったくありません。光彦が探偵の最中にしばしば警察官とトラブルが起こしますが、警察庁の刑事局長の実弟という事実が判明すると、警察官の態度がコロッと変わります。水戸黄門の葵の印籠も負けそうです。
さて、内田康夫氏は内田家のドラ息子とご本人は謙遜して書いていますが、現在、長野県南軽井沢の塩沢に住んでいて、浅見光彦の事件簿を次々に発表して浅見家のプライバシーを暴露するものですから、浅見家のお手伝いの須美子からも「軽井沢のセンセ」などと軽んじられています。しかし彼は多芸、多才でピアノやチェロを弾く他に、囲碁は六段で文壇における不動の名人の位置にいます。彼の軽井沢の自宅の近くには「浅見光彦倶楽部」という建物があって、ファンで賑わっています。かつて、私も覗いたことがあり、光彦の小学校時代の通信簿なども見ることができました。光彦がよくかぶるという白い帽子を購入して近所を散歩する際に愛用しています。当然のことながら美貌のヒロインと近づくチャンスはまったく無いようです。
                内田康夫 「ぼくが探偵だった夏」 講談社
 
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金子みすゞ

2009-10-02 07:12:11 | 文学
  童謡詩人 金子みすゞは、本名金子てる。明治36年(1903年)に山口県長門市仙崎漁港に生まれ、そこで育ちました。その地で、彼女は下記の有名な詩を書いています。

    お魚
  海の魚はかはいさう。
  お米は人につくられる、
  牛は牧場で飼はれてる、
  鯉もお池で麩を貰ふ。

  けれども海のお魚は
  なんにも世話にならないし
  いたづら一つしないのに
  かうして私に食べられる。

  ほんとに魚はかはいさう。

    大漁
  朝やけ小やけだ
  大漁だ。
  浜は祭のやふだけど
  海のなかでは
  何万のいわしのとむらひ
  するだろう。

    わたしと小鳥とすずと
わたしが両手をひろげても、
  お空はちつともとべないが、
  とべる小鳥はわたしのやふに、
  地面(ぢべた)をはやく走れない。
  
  わたしがからだをゆすつても、
  きれいな音はでないけど、
  あの鳴るすずはわたしのやふに
  たくさんなうたは知らないよ。

  すずと、小鳥と、それからわたし、
  みんなちがつて、みんないい。

上記は金子みすゞの代表的な詩ですが、子供の心で作った純真な詩です。彼女は大正末期に優れた作品を発表して、西条八十に「若き童謡詩人の巨星」とまで賞賛されました。しかし、実際には書いても、書いても、発表の邪魔をされたりしたようで、古書店に勤めながら細々と生計をたてていました。作品が発表されない事を悲観したこともあって26歳の若さで自ら命を絶ちました。まことに薄幸の生涯でした。死後、約500の作品は散逸しましたが、五十余年の時を経てその作品の全貌が明らかになり、今では天才詩人と注目されるようになりました。
  

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