yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

高適 除夜の作 霜鬢明朝又一年 (再掲)

2021-12-31 06:32:06 | 文学
毎年、大晦日になると決まって想い起こす漢詩、除夜の作(高適)です。

旅館の寒燈獨り眠らず 
客心何事ぞ轉た凄然
故郷今夜千里を思ふ 
霜鬢明朝又一年

詩人 高適(こうせき)は四川省成都に流浪して来た杜甫を温かく援助し親交を結びました。晩年は不遇でした.

結句 霜鬢明朝又一年    
白髪に又 一年がむなしく加わる、にしみじみとしたものを感じます。

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シクラメンのかほり

2021-12-28 06:42:58 | 文学
名曲「シクラメンのかほり」は小椋佳が作詞・作曲し、1975年に布施明が歌い、レコ-ド大賞など数々の受賞をしてミリオンセラ-となった曲です。この歌の歌詞にちなんで、園芸界では真綿色、うす紅色、うす紫色の香りの高いシクラメンが競って作られ販売されたそうです。「清しい」、「暮れ惑う」などの語を小椋氏は北原白秋の全集を参考にし、また、詞の構成はエルビス・プレスリ-を参考にしました。小椋氏本人は、借り物のこれがあまり気に入っていない歌の一つであったそうです。そして銀行業務でアメリカに海外赴任の最中に、日本でヒットしていることを同僚から聞き、驚いたそうです。小椋氏は銀行員と作曲作詞家という二足の草鞋をはく男として有名になりました。
「愛しき日々」、「遥かな轍」、「愛燦々」も名歌だと思います。奥様の名前を佳穂里ということを聞き驚きました。シクラメンのかほりは、奥様への「愛の賛歌」という説もあります。奥様とは幼稚園の頃から70年のつきあいだそうです。
 
真綿色した シクラメンほど
清(すが)しいものはない
出逢いの時の 君のようです
ためらいがちに かけた言葉に
驚いたように ふりむく君に
季節が頬をそめて 過ぎてゆきました
うす紅色(べにいろ)のシクラメンほど
まぶしいものはない
恋する時の 君のようです
木もれ陽あびた 君を抱(いだ)けば
淋しささえも おきざりにして
愛がいつのまにか 歩き始めました
疲れを知らない子供のように
時が二人を追い越してゆく
呼び戻すことができるなら
僕は何を惜しむだろう
うす紫のシクラメンほど
淋しいものはない
後ろ姿の君のようです
暮れ惑(まど)う街の別れ道には
シクラメンのかほ(お)り むなしくゆれて
季節が知らん顔して過ぎてゆきました
疲れを知らない子供のように
時が二人を追い越してゆく
呼び戻すことができるなら
僕は何を惜しむだろう





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戦後初めての御召列車

2021-12-24 06:17:43 | 文化
昭和20年(1945)11月12日午前8時、昭和天皇を乗せた5両編成の
御召列車が東京駅を発車しました。列車は東海道本線、関西本線、参宮線を経由し、伊勢神宮の下車駅である三重県の山田に向かいました。天皇が神宮を参拝するのは外宮と内宮の祭神に戦勝を祈願した42年12月以来で、今回は「戦争終息」すなわち敗戦を報告するのが目的でした。
戦前の行幸では、沿線の警備や天皇の護衛は厳重をきわめました。列車が通る駅のホ-ムに入れる資格をもった人々も制限されました。ところが、今回は天皇自身がそれらをいっさい撤廃するように命じました。敗戦の衝撃がまだ冷めやらなかった当時、警備や規制をなくせば何が起きるかは予想もつきませんでした。
しかし、列車に同乗した内務大臣の堀切善次郎が目にしたのは、不安を払拭する光景でした。「御召列車が名古屋に着いたときには、熱狂した歓迎の人波が駅頭にあふれ、列車の窓辺まで押し寄せ、その人たちの顔も声も、ただ感激そのものであったのです。」同乗していた内務大臣の木戸幸一もそれを日記に書きました。「沿道の奉迎者の奉迎振りは、何等の指示を今回はなさざりしに拘わらず、敬礼の態度などは自然の内に慎みあり、如何にも日本人の真の姿を見たるがごとき心地して、大いに意を強ふしたり」
戦前とは異なり、沿線では奉迎の必要がなかったのに、人々は自発的にホ-ムに集まったり、万歳をしたりした。たとえ天皇の姿が見えなくても、先頭の機関車に日の丸を交差させた列車が走るだけで戦前と同じ光景を再現できました。天皇の戦争責任を問う声はどこからも聞こえてきませんでした。翌1946年以降、御召列車は全国各地で運転されることになりました。
 
      原 武史 「歴史のダイヤグラム」朝日新聞
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故郷の空 唱歌

2021-12-21 06:01:56 | 文学
有名な「故郷の空」は、明治時代にスコットランド民謡のメロディ-に大和田建樹が作詞をしました。

原詩はスコットランドの国民的詩人、ロバ-ト・バ-ンズ(「蛍の光」の原詩も彼の作)のcomin’ Toro’ the Rye (ライ麦畑を通って来る)でしたが、教科書の歌にはふさわしからず、ということで、大和田建樹が美しい文語の詩をつけました。ザ・ドリフタ-ズが歌った詞は原詩に似て「誰かさんと、誰かさんが麦畑、、、、」です。

 夕空はれて 秋風ふき
 つきかげ落ちて 鈴虫鳴く
 思えば遠し 故郷の空
 ああ、わが父母、いかにおわす
 
 すみゆく水に、秋萩たれ
 玉なす露は、すすきにみつ
 おもえば似たり 故郷の野辺
 ああ、我が兄弟(はらから)、たれと遊ぶ

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祝 大谷翔平 11冠 達成

2021-12-18 06:08:24 | 文化
大リ-グ エンジェルスの大谷翔平選手が、二刀流を実現させた上、11冠を達成されました。心よりお祝いします。11冠とは下記です。

① ア・リーグ最優秀選手(MVP)
② コミッショナー特別表彰
③ オールMLBチーム・ファーストチーム(DH部門)
④ 米野球専門誌『ベースボール・ダイジェスト』の年間最優秀選手
⑤ 米野球専門誌『ベースボール・アメリカ』のプレーヤー・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手)
⑥ 選手会の年間最優秀選手
⑦ 選手会のア・リーグ最優秀野手
⑧ シルバースラッガー賞(ア・リーグDH部門)
⑨ エドガ-・マルティネス賞
⑩ 米メディア『スポーティング・ニュース』の年間最優秀選手
⑪ オールMLB セカンドチーム(投手)


大谷選手はこのように大活躍をしても、偉そうな態度を全くとらず、いつも謙虚なのはなぜでしょうか。「謙虚が習慣になっている」と、スポ-ツ評論家は分析しています。高校時代の岩手県花巻東高校野球部監督の佐々木洋氏の指導と教育が良かったとも言われます。「ピッチャ-は謙虚であれ」と、常々教えたそうです。また「人の嫌がることをやれ」と言い、ゴミひろいと便所掃除をやらせたそうです。このようにして「謙虚が習慣となって」身についたということです。フォア・ボ-ルで一塁まで歩く途中でも大谷選手は紙くずを拾います。こうしたことを他の大リ-グの選手は誰もやりません。謙虚な人は、他人のアドバイスを聞くのでドンドン伸びます。性格が良いと、世界中の人から愛されます。益々の活躍を期待しています。


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飯沼貞吉

2021-12-15 06:30:36 | 歴史
会津戦争に備え、16歳・17歳の少年たちを中心に組織された部隊が白虎隊で、
中には13歳の幼い少年までも参加していました。白虎とは中国の伝説にある  
 方角を司るという霊獣である四聖獣の、北・玄武、南・朱雀、東・青龍、
西・白虎から用いられたものです。そのため会津藩では白虎隊の他にも玄武隊・朱雀隊・青龍隊も組織されていました。白虎隊は士中隊・寄合隊・足軽隊の約340名によって編制されました。しかし、装備された銃などの武器は旧式のものばかりであり、近代兵器を装備した新政府軍に対抗できる戦力には到底成り得なかったのです。それにもかかわらず、新政府軍によって逆賊の汚名を着せられた松平容保と会津藩は、もはや新政府への恭順の道も閉ざされ、藩の名誉と存亡を賭けた戦いへと突入していきました。

「白虎隊士たちの自刃の真実と、会津戦争を生き残った白虎隊士・飯沼貞吉のその後の生涯について」

これまで語り継がれてきた飯盛山で白虎隊士が自刃した理由は、会津藩の拠点である鶴ヶ城(若松城)とその城下周辺から戦闘によって上がった炎や煙を飯盛山から目撃した隊士たちが、それを城が陥落したためだと誤認し、絶望するとともに、会津藩への忠義から自ら命を絶ったとされています。つまり衝動的な感情による集団自殺とされているのです。しかし実際には鶴ヶ城はまだこの時点では陥落しておらず、会津藩降伏までには1ヶ月を要しています。この時に実に19名が命を落とし、喉を突いて自刃を図った飯沼貞吉だけが命を取り留めていました。その飯沼貞吉は、出発に先立って母から下記の一首をもらい、大いに喜び、短冊を軍服の襟に縫い込み決意を新たにして出陣しています。

 梓弓向ふ矢先はしげくとも引きな返しそ武士(もののふ)の道

しかし、この飯盛山の自刃から命を取り留めていたとされる白虎隊士・飯沼貞吉が残していた手記によると、これとは異なる真相が語られています。飯沼貞吉の証言から記された記録に飯沼が自ら修正を加えた「白虎隊顛末略記(びゃっこたいてんまつりゃっき)」には、白虎隊士の自刃は鶴ヶ城陥落による絶望という衝動的な自殺ではないと記されています。むしろ会津藩はまだ敗北していないことを信じていたというのです。そこでは隊士たちの間で、城に戻り鶴ヶ城を死守するために戦うことを主張する者、または最前線に乗り込み玉砕するまで抗戦することを主張する者とで激論が交わされたといいます。しかし、戦いで戦力を失い負傷し、命からがら飯盛山まで落ち延びてきた自分たちが参戦したところで、もとより負けを覚悟の上の戦いでしかない。武士として会津の足手まといになることを恥とし、少年たちは武士の本分なるものを明らかにするため、自ら自刃の道を選んだというのです。
自刃の後、会津藩士である印出新蔵(いんでしんぞう)の妻・ハツは飯盛山でまだ息のあった飯沼貞吉を見つけて救出したといわれています。ハツの介抱により一命を取り留めた貞吉は、後に新政府軍に捕らわれの身となりますが、会津と敵対していた長州藩士である楢崎頼三(ならさきらいぞう)に見込みがあるということで引き取られ、長州・長門国(現・山口県美祢市)の庄屋(高見家)に預けられ庇護されました。しかし、会津藩の少年を長州で庇護することは会津・長州双方にとって都合が悪かったのです。そこで会津では貞吉の母にのみにその事実を知らせ、長州でも楢崎の他には高見はじめごく限られた者以外にはこのことを隠したのです。
生き残った貞吉は飯盛山で自刃した仲間と共に死ぬことが出来なかった自分をゆるすことができず、その後も自殺を図るなど自ら命を絶つことを考える日々でしたが、それを思い止まらせたのも楢崎頼三だったといいます。
楢崎は「今の日本は諸外国からの脅威にさらされている。もはや会津や長州といって争っている時ではない。これからの日本は皆が心を一つにしてこの国を豊かで強い国にしていかなくてはならない。そして貞吉、その中心となるのはお前たち若者なんだぞ。貞吉、助けてもらった命を大事にしなさい。そして、これからの日本のために勉強しなさい」と言いました。それを聴いた貞吉は、生まれ変わったように勉学に励んだといいます。そして貞吉は名を「貞雄」と改名しました。
その後、飯沼貞雄は電信技師となり、東京の工部省技術教場、下関の赤間関、新潟の逓信省(郵便・通信を管轄する中央官庁)など各地での勤務を経て、日清戦争には大本営付の技術部総督として出征もしています。それから札幌郵便局工務課長、仙台逓信管理局工務部長に就任するなど、近代日本における電信電話の技術発展に大きく貢献しました。1931年(昭和6)2月12日、飯沼貞吉(貞雄)は宮城県仙台市にて77年の生涯に幕を閉じました。

飯盛山での白虎隊士自刃の真実は貞吉の残した記録にあったのか、それとも己に言い続けたのかは不明です。しかし彼がただ一人蘇生したために、白虎隊士が自刃に到った経緯が後生に伝えられることになりました。彼は戊辰戦争のことについては一切語ることなく、死に後れた辱めに耐えつつ苦しみの多い生を全うし、次の辞世を残しました。
すぎし世は夢かうつつか白雲の 空に浮かべる心地こそ知れ
白虎隊の友に遅れること六十三年にして、彼の遺骨は友の待つ飯盛山に埋葬されました。
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神田川 

2021-12-12 06:17:16 | 文学
 神田川(かんだがわ)は、東京都を流れる一級河川で、荒川水系の支流です。井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発して東へ流れ、台東区中央区を経て墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流します。流路延長24.6km、流域面積105.0km2と、東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず、全区間にわたり開渠であることは極めて稀です。
フォークグループ「かぐや姫」の楽曲「神田川」になり、ミリオンセラ-となったほど有名であり、不肖にとっても青年時の境涯と重なる処があって愛唱歌の一つです。
歌詞は次の通りです。

    神田川
  貴方はもう忘れたかしら
  赤い手拭マフラ-にして
  二人で行った横町の風呂屋
一緒に出ようねって 言ったのに
いつも私が待たされた
洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸カタカタ鳴った
貴方は私の身体を抱いて
冷たいねって 言ったのよ
若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ貴方の優しさが 怖かった

貴方はもう捨てたのかしら
二十四色のクレバス買って
貴方が書いた私の似顔絵
巧く書いてねって 言ったのに
いつもちっとも似てないの
窓の下には神田川
三畳一間の小さな下宿
貴方は私の 指先見つめ
悲しいかいって きいたのよ
若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ貴方のやさしさが 怖かった

1973年、喜多條忠(きたじょうまこと)氏は歌詞を発想し、手許のチラシの裏に書きとめました。僅か30分程度でした。電話で南こうせつ氏に伝えると、こうせつさんが5分後にはギタ-で曲をつけ終えました。歌詞に詠まれたのは喜多條氏自身の恋。東京・早稲田の学生街にある狭いアパ-トで同級生の女性との暮しでした。曲はミリオンセラ-となりましたので、南は「天から授かった曲」と言っています。
横町の風呂屋「安兵衛湯」は、今は廃業しているとのことです。三畳一間の下宿と神田川と言われている写真例は下です。
第24回の紅白歌合戦(1973)に出演候補になった際に、「24色のクレバス」が特定商標にあたるとNHKに言いがかりのようなクレ-ムをつけられ、「24色のクレヨン」に変更することを求められたのですが、レコ-ド会社はそれを拒否しました。その結果「神田川」の曲は紅白出場を逃しました。しかし、その19年後の第43回紅白歌合戦(1992)には出場を果たし、初出場の南こうせつ氏がソロでこの「神田川」を歌いました。自由奔放に生きた無頼派の詩人・放送作家の喜多條氏は去る11月22日に74歳で他界されました。ご冥福を祈ります。

        
   
               
               
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幕末の三舟

2021-12-09 06:23:20 | 歴史
山岡鉄舟 (1836~1888)
剣の達人で剣禅一如を唱えました。書も能くし、勝海舟らと徳川氏存続のために奔走し、静岡で西郷隆盛と会見、ここで山岡鉄舟の至誠が西郷を動かし、江戸城の無血開城の基をつくることになりました。維新後は明治天皇の侍従となりました。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業成し得られぬなり。」これは西郷隆盛が山岡鉄舟を指して語った言葉といわれています。

高橋泥舟 (1835~1903))
山岡市郎右衛門の次男ですが母の実家、高橋家に養子に行きました。泥舟は後年の号です。山岡家は槍の自得院流の名家で百石取り、精妙を謳われた長兄山岡紀一郎静山とともに槍を修行し、海内無双と呼ばれ、まさに神業に達したとの評を得るほどでした。妹の英子の婿養子に小野鉄太郎を迎えましたが、これが義弟山岡鉄舟です。泥舟は明治元年の江戸城の開城後も慶喜を護衛しました。新政府任官の誘いには、
「総理大臣にならなってもいいが」
と、断ったと言います。主君の前将軍が二度と世に出られない以上、自分は官職に上り新しい栄達や叙爵を求める事はできないという姿勢を貫きました。号の「泥舟」の由来を聞かれて、自分は狸ではないので、泥で作った舟などで、うかうかと海に漕ぎ出さぬ方が良いと、「かちかち山」の例を引いてとぼけたとのことです。

木村芥舟 (1830~1901) 
江戸浜御殿奉行の子として生まれました。幕臣で名は喜毅。1856年に目付に就任し、長崎伝習所の監督となり、1859年、軍艦奉行に任じられました。翌年、アメリカへの使節派遣で、提督として咸臨丸に乗り込みました。帰国後、海軍の発展に努力するも、幕府解体とともに引退しました。「忠臣は不事二君、前朝の遺臣は新王朝に仕えず」
と、言って、新政府に任官しませんでした。
高橋泥舟と木村芥舟は風景の似た人物です。

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早春賦  吉丸一昌

2021-12-06 06:39:15 | 文学
名歌「早春賦」は、吉丸一昌が作詞しました。中田章作曲です。
この曲は、長野県安曇野の早春をうたっています。

一、春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
  時にあらずと 声も立てず
二、氷解け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日もきのうも 雪の空
今日もきのうも 雪の空

三、春と聞かねば 知らでありしを
聞けばせかるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か 
 

吉丸一昌は豊後国、臼杵藩下級武士・吉丸角内の長男として生まれました。小学校高等科卒業までの成績は非常に優秀で、県から度々表彰を受けるほどでした。1889年大分中学に入学、1854年卒業。
その後第五高等学校に進学しました。教授に夏目漱石、湯原元一、小泉八雲などがおり、当時剣道に熱中しました。1898年、第五高等学校を卒業した吉丸は東京帝国大学国文科に進学。下宿先で「修養塾」という私塾を開き、その後生涯に渡り、地方からの苦学生と生活を共にして衣食住から勉学、就職に至るまでを世話しました。1902年、帝国大学を卒業し、東京府立第4中学校へ教師として赴任。当時の教え子の中には芥川龍之介もいました。また、この時、私財を投じて下谷中等夜学校を創立しました。そして1908年、東京音楽学校の校長に就任した恩師湯原元一は、吉丸を同校の倫理、歌文、国語の教授に抜擢ましした。吉丸はまた、同校の生徒監に任命されました。
1911年から1914年にかけて発行された、『尋常小学唱歌』編纂委員会の歌詞担任委員主任になって以降、本格的に作詞家としての仕事に取り組みました。『尋常小学唱歌』の歌詞編纂に際し、その多くを作詞したという伝聞のある高野辰之よりは、責任の高い位置にありまた。尋常小学唱歌の題名原案を作成したのは吉丸である。後に臼杵音楽連盟会長の吉田稔が吉丸についての研究を行い、『望郷の歌 吉丸一昌』(臼杵音楽連盟刊)を出版しました。その後も、尋常小学唱歌の中の「桃太郎」(作曲 岡野貞一)、「日の丸」、「池の鯉」、「かたつむり」などが吉丸の作詞であることを論証しました。ただし、これらの作詞者については異説もあります。
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前朝の遺臣は二君に仕えず

2021-12-03 06:17:01 | 歴史
「忠臣不事二君」という言葉があります。前朝の遺臣は新王朝に仕えないという意味です。幕臣で明治政府に任官しなかった人々。代表的なのが福沢諭吉、古賀謹堂、そして高橋泥舟、木村芥舟、栗本鋤雲、箕作阮甫などですが、皆、清貧で、潔くさわやかな生涯を送りました。これらの人物と対極にあったのが勝海舟と榎本武揚です。後年、福沢諭吉が「丁丑公論」において勝海舟等を公然と非難したのは良く知られています。勝海舟は、「行蔵(出処進退)は我に存す、毀誉(他人の論評)は我に与らず、関せずと存じ候。」すなわち、己の行動はおのれの責任、自分への評判は自分があずかり知らないことである、という意味でしょう。わかりにくい釈明であり、不肖には誠実な応答をしているとは思えません。
福沢諭吉は榎本武揚に対しても公然と批判をしました。澁澤榮一の元主君はやはり、徳川慶喜公であり、榮一は新政府の財政を担当しましたが、その功績があまりに偉大であったためか、二君に仕えたと非難されたという話は聞きません。

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