yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

 海軍士官に学ぶ事

2024-07-15 06:17:01 | 歴史
リ-ダ-シップを考える時、海軍士官に学ぶことがあると、半藤一利氏が書いています。
        ・海軍次官室 士官心得
          一つ、「功は部下に譲り、部下の過ちは自ら負う」
          二つ、「部下につとめて接近し下情に通ぜよ。しかし部下に馴れしむるはもっとも不可である」
          三つ、「自分が出来ないからといって部下に強制しないのはよくない。部下の機嫌を取るが如きは絶対禁物である」
四つ、「悪いところは、その場で遠慮なく叱って正せ。しかし叱責するときは場所と相手を見てなせ。」
五つ、「世の中はなんでも<ワングラス(一目見)>で評価してはいけない」

        ・おいあくま
上の者としての心がけを示した言葉です。「おこるな、いばるな、あせるな、くさるな、まけるな」

        ・三ぼれ主義
         仕事にほれろ、任地にほれろ、奥さんにほれろ、

        ・3S
          SMART,STEADY,SILENT
「スマ-トで、目先が利いて、几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」

        ・五分前精神
          集合のときは定刻の五分前にはそこに居れ。遅刻厳禁

        ・業務前のABCDの実行
Aは当たり前のこと、Bはぼやっとするな、Cは、ちゃんとする。
Dはdirect、直接やれです。

        ・ダラリ追放
 ムダ、ムラ、ムリをなくそう。

   ・指揮官先頭
 日本海海戦において東郷平八郎司令長官(写真下)が、旗艦、三笠の艦橋に立って指揮するという手本を示しました。

      半藤 一利「日本型リ-ダ-はなぜ失敗するのか」文春新書

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開戦直前 勅語と奉答文(山本司令長官)

2024-07-12 06:20:01 | 歴史
「昭和天皇実録」の中に、太平洋戦争の開戦直前に昭和天皇が下された勅語と
   山本五十六司令長官の奉答文があります。昭和16年12月3日に山本五十六連合艦隊司令長官は、いよいよ出陣にあたり昭和天皇に拝謁し、勅語を賜りました。

    朕茲(ここ)ニ出師(すいし)ヲ令スルニ方(あた)リ卿ニ委スルニ聯合艦隊統率ノ任ヲ以テス
    惟(おも)フニ聯合艦隊ノ責務ハ極メテ重大ニシテ事ノ成敗ハ真ニ国家興廃ノ繋(かか)ル所ナリ
卿其レ多年艦隊錬磨ノ績ヲ奮ヒ進ンテ敵軍ヲ勦滅(そうめつ)シテ威武(いぶ)ヲ中外ニ宣揚シ以(もっ)テ朕カ倚信(いしん)ニ副(そ)ハンコトヲ期セヨ

  聯合艦隊司令長官は、勅語に対して奉答し、退下しました。

  昭和天皇は大元帥という立場から、責任重大の山本長官に励ましの言葉を与えた
のです。その後、城英一郎侍従武官を通じて山本長官の奉答文が天皇に届けられました。(その奉答文は下記です。)

      山本長官からの奉答文

     開戦ニ先(さきだ)チ、優渥(ゆうあく)ナル勅語ヲ賜リ、恐懼感激ノ至(いたり)ニ御座イマス。謹ンデ大命ヲ奉ジ、聯合艦隊ノ将兵一同、粉骨砕身、誓ツテ出師ノ目的ヲ貫徹シ、以ツテ聖旨ニ応ヘ奉(たてま)ツルノ覚悟デ御座イマス。

     天皇は、奉答文を、一度御朗読の後、三度ほど繰り返し熟読されました。翌四日、聯合艦隊司令長官の出発に際し、侍従武官鮫島具重(ともしげ)を海軍省に差し遣わし、「今回ハ真ニ重大ナル任務ニテ御苦労ニ思フ、充分成功シテ無事凱旋ヲ祈ル」との御沙汰を特に伝達せしめられました。

     山本長官に対する天皇の信頼と期待が充分に察せられます。そして最後の「特に」の文字に目が惹きつけられます。長官と同じ長岡中学の後輩としても嬉しい限りです。

   半藤一利、 他「「昭和天皇実録」の謎を解く」 文春新書

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徳川慶喜公の書         

2024-07-04 06:08:42 | 歴史
 先日、テレビ番組「開運なんでも鑑定団」に徳川慶喜公の書が出品されま
した。(写真 下)真筆、150万円と鑑定されました。幕末から明治にかけ  ては、書の世界でも大きく変わった時期。ところが十五代将軍慶喜公は江戸の書を習ってきており、古いスタイルの字ですが、実に巧みに書いている名品と、鑑定士が賞讃していました。

この書は、徳川光圀公が編纂に着手した大著、「大日本史」の序文の中の一節、「西山公語録」です。

 不有載籍虞夏之文不可得而見
不由史筆何以俾後之人有
所観感
           西山公語録     慶喜
 
 「読み方」
 
載籍有ラズンバ虞夏(ぐか)之文ヲ得テ見ルコト出来ズ
史筆ニ由(よ)ラズンバ何ヲ以(も)ツテ俾後(ひご)之人有ランヤ

観テ感ズル所


     書物が無ければ、中国古代の聖帝、舜禹(しゅんう)の事績を知ることができようか。歴史書が無ければ、後世の者が故人に感動することもないであろう。

     見て感ずる所。

徳川光圀語録(西山は徳川光圀公の号)       徳川慶喜



      
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 山吹 千代田 太田道灌

2024-05-01 06:09:49 | 歴史
太田道灌(1432-1486)は室町時後期に関東地方で活躍した武将で、武蔵守護代・扇谷上杉家の家裁です。摂津源氏の流れを汲む太田氏で諱は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍しました。太田氏は江戸城を築城し、武将としても学者としても一流という定評がありました。
ある時、道灌が城外に出ていましたが急な雨に見舞われました。そこで雨具の簔を借りようと、一軒の農家を訪れました。「簔を貸してくれ」と軒先で告げると、奧から少女が申し訳なさそうに山吹の花を道灌の前にそっと差し出して、何も言わず、引っ込んでしまいました。道灌は訳がわからず、また腹立たしくもあり、雨に打たれながら城に帰り、この話を家臣にしました。するとその家臣は、
「それは、“七重八重花は咲けども実の一つだに無きぞ悲しき”という有名な和歌にかけ、申し訳ありませんが家が貧しくて簔(実の)一つさえ持ち合わせがありませんということを暗に申し上げたのでしょう。」と答えました

      これを聞いた道灌は、あの少女の言わんとしたことを理解できずに腹を立てた自分の未熟さを大いに恥じ、以来和歌の勉強に一層励んだそうです。
なお、太田道灌(どうかん)が江戸城築城(1457)の時、そこには千代田・宝田・祝田(いわいだ)の3村がありました。後に江戸城を千代田城とも言いましたが、千代田には「千年もの間、田が栄える」というめでたい意味があります。



     



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「管見」 山本覚馬

2024-04-03 05:40:36 | 歴史
幕末の会津藩士、山本覚馬は、山本八重(新島襄夫人)の実兄です。八重より17才年長で、藩公の京都守護職就任に随行して京都に滞在中に、「管見」という文を著しました。拙い見解のことを「管見」というのですが、これは謙遜であり、覚馬の「管見」は、実は驚くような卓見であり、薩摩の小松帯刀、西郷隆盛、岩倉具視は、一読して深く感嘆し、明治政府でこれの実現を目指しました。覚馬は眼が不自由であったので上京しませんでしたが、京都府庁に出仕して、幕末動乱後の京都の発展に尽力しました。
 覚馬は、青年時代に江戸に遊学し、佐久間象山に洋学・砲術を学び、蘭学・英学を極めました。後年には読書から、あるいは西周・津田真道・神田孝平らの新進の学者と交わって、西洋の事情に通じ、国士ともいうべき諸藩の名士と往来し、その思想は実に当時の封建思想を超えていました。「管見」には、専ら対外的見地から政見が述べられています。

近年、防衛省の防衛研究所(東京)に、この原本が保存されていたことがわかりました。この事は政府において重要文書と認識されていたことを意味しているのです。
 「管見」は、延々数万言、次の23項目について論じていました。すなわち、政権・議事院、学校、変制、撰吏、国体、建国術、製鉄法、貨幣、衣食、女学、平均法、醸造法、条約、軍艦国律、港制、救民、髪制、変仏法、商律、時法、暦法、官医 などです。
日本の近代化の方策を具体的に述べたもので、その根幹は殖産興業を中心とする物づくりと教育による人づくりでした。当時、誰もが発想もしなかった女子教育にまで話が及んでいる先見性が特長です。  
次のようなエピソ-ドもあります。義弟の新島襄が同志社大学の建地を探していた時に、今出川の広大な薩摩藩邸の跡地を紹介しました。西郷隆盛が、かつて、覚馬に「好きに使ってよか」と許可していたというのでした。同志社大学の設立には西郷と覚馬の恩恵が大きく関わっています。

早乙女貢 「明治の兄妹」 新人物往来社


日本の近代化の方策を具体的に述べたもので、その根幹は殖産興業
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天皇の享年

2024-01-22 06:14:00 | 歴史
歴代天皇の享年を調査しました。神武天皇は、伝説上の天皇であり、1296才と言われている途方もない年齢です。綏靖(すいぜい)天皇から応神天皇まで天皇の享年も不確実な数値かも知れません。
女帝は概して御長寿であり、昭和天皇は最長の89才でした。

 初代 神武天皇  1296才
 2代 綏靖天皇    109才
3代 安寧天皇     57才
11代 垂仁天皇    139才
12代 景行天皇    144才
13代 成務天皇    106才
14代 仲哀天皇     52才
15代 応神天皇    109才
16代 仁徳天皇    110才
17代 履中天皇    69才
18代 反正天皇    74才
19代 允恭天皇    77才
20代 安康天皇    55才
21代 雄略天皇   72才
  中略
33代 推古天皇    72才
35代 斉明天皇    55才
40代 天智天皇    46才
40代 天武天皇    不詳
41代 持統天皇    58才
42代 文武天皇    26才
45代 聖武天皇    55才
46代 孝謙天皇    52才
50代 桓武天皇    69才
53代 嵯峨天皇    56才
56代 清和天皇    31才
72代 白河天皇    76才
74代 鳥羽天皇    53才

77代 後白河天皇   65才
82代 後鳥羽天皇   56才
84代 順徳天皇    45才
96代 後醍醐天皇   51才
100代 後小松天皇  56才
106代 正親町天皇  76才
108代 後水尾天皇  84才
109代 明正天皇  72才
121代 孝明天皇    38才
122代 明治天皇    60才
123代 大正天皇    47才
124代 昭和天皇    89才
125代 平成天皇  卒寿をお迎えになりました。
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徳川将軍の享年

2024-01-16 06:52:38 | 歴史
江戸時代に日本を牽引した徳川将軍の享年に注目しました。最長は最後の将軍、15代徳川慶喜公の77才で、最後の将軍が最長に驚きました。

60代で逝去した将軍は僅か4人、脚気で逝去した将軍が3人いました。
下に享年と死因を記しました。

初代 家康 75才  食中毒
2代 秀忠 53才  寄生虫病
3代 家光 55才  脳卒中
4代 家綱 39才  心臓発作
5代 綱吉 63才  成人麻疹
6代 家宣 51才  インフルエンザ
7代 家継  8才  急性肺炎
8代 吉宗 68才  脳卒中
9代 家重 51才  尿毒症
10代 家治 49才  脚気
11代 家斉 68才  急性胃腸炎
12代 家慶 60才  熱中症
13代 家定 35才  脚気
14代 家茂 20才  脚気
15代 慶喜 77才  肺炎

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戦後初めてのお召し列車

2024-01-07 06:08:46 | 歴史
昭和20年(1945)11月12日午前8時、昭和天皇を乗せた5両編成の御召列車が東京駅を発車しました。列車は東海道本線、関西本線、参宮線を経由し、伊勢神宮の下車駅である三重県の山田に向かいました。天皇が神宮を参拝するのは外宮と内宮の祭神に戦勝を祈願した12年12月以来で、今回は「戦争終息」すなわち敗戦を報告するのが目的でした。戦前の行幸では、沿線の警備や天皇の護衛は厳重をきわめました。列車が通る駅のホ-ムに入れる資格をもった人々も制限されました。ところが、今回は天皇自身がそれらをいっさい撤廃するように命じました。敗戦の衝撃がまだ冷めやらなかった当時、警備や規制をなくせば何が起きるかは予想もつきませんでした。しかし、列車に同乗した内務大臣の堀切善次郎が目にしたのは、不安を払拭する光景でした。「御召列車が名古屋に着いたときには、熱狂した歓迎の人波が駅頭にあふれ、列車の窓辺まで押し寄せ、その人たちの顔も声も、ただ感激そのものであったのです。」同乗していた内務大臣の木戸幸一もそれを日記に書きました。「沿道の奉迎者の奉迎振りは、何等の指示を今回はなさざりしに拘わらず、敬礼の態度などは自然の内に慎みあり、如何にも日本人の真の姿を見たるがごとき心地して、大いに意を強ふしたり」戦前とは異なり、沿線では奉迎の必要がなかったのに、人々は自発的にホ-ムに集まったり、万歳をしたりした。たとえ天皇の姿が見えなくても、先頭の機関車に日の丸を交差させた列車が走るだけで戦前と同じ光景を再現できました。天皇の戦争責任を問う声はどこからも聞こえてきませんでした。翌1946年以降、御召列車は全国各地で運転されることになりました。

      原 武史 「歴史のダイヤグラム」朝日新聞

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百年兵を養うは平和を守るため 山本五十六

2023-12-08 06:31:24 | 歴史
山本五十六連合艦隊司令長官はハワイに出撃する艦隊の全指揮官を集めて次のように言いました。「昭和15年12月X日をもって、米英に戦端をひらく。X日はいまのところ12月8日の予定である。しかし、いまワシントンで行なわれている日米交渉が成立したならば、12月8日の前日の午前1時までに、出動全部隊に即時引揚げを命ずる。その命令を受領したときには、たとえば攻撃隊の発信後であってもただちに収容し、反転、帰投してもらいたい。何があっても、である」
すると機動部隊司令長官南雲忠一中将が反対の声をあげました。「それは無理です。敵を目前にして帰ることなどできません。士気にも影響します。そんなこと、実際問題として実行不可能です」
二、三の指揮官が同調してうなずき合い、なかに「出かかった小便は止められません」と下世話なことをいうものもありました。
山本は、一瞬、キッとなった表情をして、かつてない激しい口調でいいました。
「百年兵を養うのは何のためだと思っているのか!一(いつ)に国家の平和を守らんがためである。もしこの命令を受けて帰ってこられないと思う指揮官があるのなら、ただいまより出動を禁止する。即刻辞表を出せ!」
山本がこの戦争に反対であることは幹部の人たちには知れ渡っていましたが、最後の最後まで強い信念で反対しているとは、だれも思っていなかったようです。全指揮官がこの強い言葉にシュンとなって、山本の顔を見守るばかりでした。
それにしても「百年兵を養うは平和を守らんがためである」とはじつにいい言葉でしょう。いまの日本にもそのまま通用します。自衛隊は文字どおり自衛のための兵力なのです。国家の平和を守るための存在であり、それで営々として陸海空の三自衛隊はこの国は養っているのです。こちらから他国へ攻めていくというようなことがあってはなりません。山本ではありませんが、一に国の平和を守らんがためなのです。
現実には、山本の願いも空しく日米交渉は結局は破綻しました。12月2日午後5時30分、山本五十六長官の名をもって出動している全艦隊にたいして電報命令が発せられました。「ニイタカヤマノボレ一二○八」12月8日、戦争は開始されました。「作戦どおりに全軍突撃せよ」ということ、この日の太平洋は終日南から烈風が吹き荒れていました。
 
     半藤一利「戦争というもの」PHP研究所

 
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孝謙女帝、明正女帝

2023-11-11 05:51:19 | 歴史
日本の天皇は男性に限るという古来の決まりはなく、既に7人の女帝がありまし た。歴代125代の天皇の内、女帝は9代7人です。すなわち、推古天皇(33代)、皇極天皇(35代)、斉明天皇(37代、35代皇極天皇が重祚)、持統天皇(41代)、元明天皇(43代)、元正天皇(44代)、孝謙天皇(46代)、称徳天皇(48代、46代孝謙天皇が重祚)、明正天皇(49代)、後桜町天皇(117代)です。
女帝は少数ではありますが、その御代は概ね穏やかで隆盛であったと言われます。
奈良時代、46代孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后の御子であり、後に重祚して48  代称徳天皇になりました。天皇の和歌に下記があります。

     この里は継ぎて霜や置く夏の野に吾が見し草はもみぢたりけり

この里にはいつも霜が降るのか、夏の野に私が見た草は、モミジのように黄葉していたよ


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