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yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

キスカ 木村昌福提督

2025-06-22 06:33:32 | 歴史
昭和18年7月に北太平洋のキスカ島から将兵5200名を無傷で撤兵させた太平洋戦争における最大の奇跡と言われた作戦がありました。
これを指揮したのが木村昌福(まさとみ)提督です。この話は長い間知られていませんでしたが、1965年には映画にもなり、三船敏郎が木村を演じました。
この作戦の成功は木村提督のリーダーシップによる所が大きかったのですが、木村には豊富な戦場経験に基づいた冷徹な判断力、強烈な責任感、そして稀に見る強運がありました。
至難な大仕事をやり遂げたにもかかわらず、戦後、みずから功を語ることなく昭和35年に他界しました。驚くべきことですが、家族にも手柄話はしなかったようです。何と奥床しい人柄ではないでしょうか。いつも「こっぱずかしい」と言っていたそうです。
美髭を蓄えた木村は海軍では目立たない存在でしたが、このような地味な作戦をやり抜けるのは木村以外に居ないと期待されていました。
木村は兵学校当時は118人中107番であったとのことですが、学校の成績と軍人としての実績は無関係であることを示しています。木村の兄も弟も兵学校に入学したのですが、当時日本中の俊秀を集めた兵学校に兄弟3人が合格していることから見て木村の家系は優れた家系だと言えます。
映画「キスカ」を再度、見ました。三船が好演している木村提督は何と格好いい男でしょう。無口で無私な武人、日本の古武士を彷彿とさせてくれました。
木村昌福少将は海軍では「髭の木村」で通っていました。映画「キスカ」で演奏されるキスカマーチもいいです。
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 追分

2025-05-07 06:01:51 | 歴史
小諸出てみろ浅間にヨー
今朝も煙が三筋立つ
碓氷峠のあの石車ヨー
誰を待つやらくるくると
浅間山さんなぜ焼けしゃんすヨー
裾に三宿(追分)持ちながら、、、以下略

有名な「追分馬子唄」ですが信濃追分宿でのみ「追分節」といわれ民謡の一ジャンルとしての地位を保っています。この地で生まれた追分節は、北上して新潟で越後追分、小木追分となり、山形で酒田追分、秋田で本庄追分となり、北前船で北海道松前に渡り、最後に有名な江差追分にまでなって主に北国で盛んに歌われました。
ところで、追分とは道の分岐点のことです。信濃追分宿は江戸から京に向かう中山道と、そこから分かれて越後に向かう北国街道の起点です。ここには、旧本陣「油屋」があり、昔ながらの建物であり立原道造などの文人に愛された宿があります。
私はかつて東京都文京区の本郷通りの近くに住んでいましたが、ここにも本郷追分がありました。江戸から日光東照宮に向かう御成街道と呼ばれた本郷通りと東大農学部前辺りから分かれて北西に向かう中山道の分岐点が本郷追分です。江戸時代には、この辺りに備後の阿部家の屋敷がありました。阿部家は幕末に老中、阿部正弘などを出した名門で学問好きの家でした。地元福山には誠之館(せいしかん)という藩校があったこともあり、現在でも本郷には誠之小学校という、番町小学校と並ぶ東京屈指の名門小学校があります。また、この辺りには八百屋お七の墓もあります。追分から御成街道をさらに300mほど北に行くと東大追分学寮がありました。「窓は夜露に濡れて、、、」と歌う「北帰行」を作詞した宇田博氏も東大文学部時代にはこの寮にいたと言うことです。この追分学寮は老朽化したため2006年に廃止されました
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ご老公

2025-03-20 07:46:11 | 歴史
ご老公と言えば、日本中に知らない人がいないことになっている水戸黄門のことです。現在、放映している第43シリーズをもって、42年間続いた国民的長寿番組が、2011年12月に終了するということです。ご老公の威光をもってしても継続が叶わないらしいです。
私にとっては、月曜の夜の楽しみが一つなくなってしまいます。
黄門という役目は、中国の宮殿の門(禁門という)が秦や漢の時代に黄色に塗られていたことに由来し、ここを出入りする皇帝の側近のことを言いました。転じて、日本では中納言の唐名を黄門と言い、ご三家の水戸藩の藩主は代々中納言でした。
水戸光圀は徳川家康の十一男徳川頼房の三男でした。若い頃は部屋住みの身分であり、江戸の町でもよく遊んだと言われ、下情や庶民の生活に通じていたのは、この頃の体験に因るものでしょう。水戸藩の第二代藩主になり、名君でありましたが、兄頼常の次男、綱條(つなえだ)に家督を譲った後、水戸の西山荘に隠居して気儘に暮らし、「大日本史」の編纂事業に着手したりしています。助さんと格さんのモデルになった人物は実在しましたが、光圀公が全国を漫遊したという話は後世の創作と言われています。
弱い者を助け悪を懲らす話は、ワン・パターンのマンネリズムですが、人情味豊かで品格があり、三世代の家族が安心して見られるいい番組でした。
印籠の神通力はすばらしいので、私も長女から日光東照宮の土産にもらった「葵の印籠」のレプリカを持っております。(写真下)
テレビドラマの撮影に使っている印籠は、製作費、1個約百万円の逸品なので、それには到底及びません。しかも現代では、残念ながら、印籠の神通力も期待できません。



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徳川将軍の享年

2025-01-28 06:50:07 | 歴史
江戸時代に日本を牽引した徳川将軍の享年に注目しました。最長は最後の将軍、15代徳川慶喜公の77才で、最後の将軍が最長に驚きました
60代で逝去した将軍は僅か4人、脚気で逝去した将軍が3人いました。
下に享年と死因を記しました。

初代 家康 75才  食中毒
2代 秀忠 53才  寄生虫病
3代 家光 55才  脳卒中
4代 家綱 39才  心臓発作
5代 綱吉 63才  成人麻疹
6代 家宣 51才  インフルエンザ
7代 家継  8才  急性肺炎
8代 吉宗 68才  脳卒中
9代 家重 51才  尿毒症
10代 家治 49才  脚気
11代 家斉 68才  急性胃腸炎
12代 家慶 60才  熱中症
13代 家定 35才  脚気
14代 家茂 20才  脚気
15代 慶喜 77才  肺炎

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同田貫

2025-01-25 06:32:23 | 歴史
同田貫(どうたぬき)といっても狸の一種ではなくて、日本刀の名品のことで、時代劇や漫画などで大変人気のある刀の名前です。
 一般に日本刀の産地は五箇伝といわれる、大和(奈良)、山城(京都)、備州(岡山)、相模(相州・神奈川)、美濃(岐阜)が有名で、美術品としても価値があり、海外でも高く評価されています。同田貫は、九州の肥後(熊本)北部を支配していた菊池氏のお抱え刀工として山城国より招いた来派の分派が作った刀です。胴田貫とも書きます。田んぼに横たえた死体を試し切りすれば、胴を抜けて下の田んぼまで切り裂くことができるという由来があり、この字が当てられました。同田貫は質実な刀で、美術品としての価値は高くないのですが、剛直な刀であり、時代劇への登場は下記のようにまことに多く、剛刀、同田貫無くして時代劇は成立しない程です。悪を懲らす正義の刃として登場します。

荒野の素浪人:三船敏郎演じる「峠九十郎」の差料が同田貫です。
子連れ狼:北大路欣也演じる「拝一刀」の愛刀が胴田貫です。
お鑓拝借:竹中直人演じる「赤目小藤次」の愛刀も同田貫
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天皇の享年

2025-01-22 06:40:13 | 歴史
歴代天皇の享年を調査しました。神武天皇は、伝説上の天皇であり、1296才と言われている途方もない年齢です。綏靖(すいぜい)天皇から応神天皇まで天皇の享年も不確実な数値かも知れません。
女帝は概して御長寿であり、昭和天皇は最長の89才でした。

 初代 神武天皇  1296才
 2代 綏靖天皇    109才
3代 安寧天皇     57才
11代 垂仁天皇    139才
12代 景行天皇    144才
13代 成務天皇    106才
14代 仲哀天皇     52才
15代 応神天皇    109才
16代 仁徳天皇    110才
17代 履中天皇    69才
18代 反正天皇    74才
19代 允恭天皇    77才
20代 安康天皇    55才
21代 雄略天皇   72才
  中略
33代 推古天皇    72才
35代 斉明天皇    55才
40代 天智天皇    46才
40代 天武天皇    不詳
41代 持統天皇    58才
42代 文武天皇    26才
45代 聖武天皇    55才
46代 孝謙天皇    52才
50代 桓武天皇    69才
53代 嵯峨天皇    56才
56代 清和天皇    31才
72代 白河天皇    76才
74代 鳥羽天皇    53才

77代 後白河天皇   65才
82代 後鳥羽天皇   56才
84代 順徳天皇    45才
96代 後醍醐天皇   51才
100代 後小松天皇  56才
106代 正親町天皇  76才
108代 後水尾天皇  84才
109代 明正天皇  72才
121代 孝明天皇    38才
122代 明治天皇    60才
123代 大正天皇    47才
124代 昭和天皇    89才
125代 平成天皇  卒寿をお迎えになりました。
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ニ桃三士

2025-01-07 06:45:53 | 歴史
桃で三人の豪傑が倒せるとは、考えにくいのですが、中国の書「晏氏春秋」に「ニ桃三士を殺す」という逸話があります。奇策、鬼謀をさした言葉です。

中国・春秋時代にあった「斉」という国に、公孫接・田開疆・古冶子という三人の豪傑がいましたが、同時に疎まれてもいました。そこで斉の君主景公は、宰相晏嬰の進言により、三人を集めて桃を二つ渡し、「武功の優れているものから食べろ」と命じました。公孫接と田開疆の二人が先に桃をとると、古冶子が「自分には武功が無いというのか」と憤激、公孫接と田開疆は真っ先に桃をとった欲深さを恥じて自害し、古冶子は自分が文句をつけたことで二人を死なせたことを悔やみ、後を追って自害しました。あえて三人に罪を着せることなく自ら進んで自害させたということで、名宰相晏嬰の名はいよいよ高まり、「二桃三士を殺す」は「策略を仕掛けて他人を自滅させること」の意味で使われるようになりました。
己の言行を恥じたら死をも辞さない、士という身分の人が中国の古代に存在したことがわかります。この士は日本のサムライに通じるようにも思われます。
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殷鑑不遠(いんかんとおからず)

2024-12-20 07:09:50 | 歴史
先日、読んでいた本の中に「殷鑑遠からず」という言葉がありました。意味を度忘れしており、一瞬戸惑いました。実はこれは有名な故事で、出典は「詩経」です。「殷鑑遠カラズ夏后ノ世ニアリ」。この意味は、「殷の人が戒めとすべき手本は、遠い過去にあるのではなく、すぐ前代の夏王朝が桀王の暴政によって滅びたことにある。」すなわち、他人の失敗を自分の戒めとすること。また、やはり「詩経」を出典とする「他山之石、以ツテ玉ヲ攻(みが)ク可シ」も、自分にとって参考になるような他人の悪い例(反面教師)を指しています。
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百年兵を養うは平和を守るため 山本五十六

2024-12-11 06:19:57 | 歴史
山本五十六連合艦隊司令長官はハワイに出撃する艦隊の全指揮官を集めて次のように言いました。「昭和15年12月X日をもって、米英に戦端をひらく。X日はいまのところ12月8日の予定である。しかし、いまワシントンで行なわれている日米交渉が成立したならば、12月8日の前日の午前1時までに、出動全部隊に即時引揚げを命ずる。その命令を受領したときには、たとえば攻撃隊の発信後であってもただちに収容し、反転、帰投してもらいたい。何があっても、である」
すると機動部隊司令長官南雲忠一中将が反対の声をあげました。「それは無理です。敵を目前にして帰ることなどできません。士気にも影響します。そんなこと、実際問題として実行不可能です」
二、三の指揮官が同調してうなずき合い、なかに「出かかった小便は止められません」と下世話なことをいうものもありました。
山本は、一瞬、キッとなった表情をして、かつてない激しい口調でいいました。
「百年兵を養うのは何のためだと思っているのか!一(いつ)に国家の平和を守らんがためである。もしこの命令を受けて帰ってこられないと思う指揮官があるのなら、ただいまより出動を禁止する。即刻辞表を出せ!」
山本がこの戦争に反対であることは幹部の人たちには知れ渡っていましたが、最後の最後まで強い信念で反対しているとは、だれも思っていなかったようです。全指揮官がこの強い言葉にシュンとなって、山本の顔を見守るばかりでした。
それにしても「百年兵を養うは平和を守らんがためである」とはじつにいい言葉でしょう。いまの日本にもそのまま通用します。自衛隊は文字どおり自衛のための兵力なのです。国家の平和を守るための存在であり、それで営々として陸海空の三自衛隊はこの国は養っているのです。こちらから他国へ攻めていくというようなことがあってはなりません。山本ではありませんが、一に国の平和を守らんがためなのです。
現実には、山本の願いも空しく日米交渉は結局は破綻しました。12月2日午後5時30分、山本五十六長官の名をもって出動している全艦隊にたいして電報命令が発せられました。「ニイタカヤマノボレ一二○八」12月8日、戦争は開始されました。「作戦どおりに全軍突撃せよ」ということ、この日の太平洋は終日南から烈風が吹き荒れていました。
 
     半藤一利「戦争というもの」PHP研究所
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飯沼貞吉

2024-09-21 06:41:21 | 歴史
飯沼貞吉(いいぬまさだきち)は、会津戦争に備え、16歳・17歳の少年たちを中心に組織された部隊が白虎隊員で、
中には13歳の幼い少年までも参加していました。白虎とは中国の伝説にある  
 方角を司るという霊獣である四聖獣の、北・玄武、南・朱雀、東・青龍、
西・白虎から用いられたものです。そのため会津藩では白虎隊の他にも玄武隊・朱雀隊・青龍隊も組織されていました。白虎隊は士中隊・寄合隊・足軽隊の約340名によって編制されました。しかし、装備された銃などの武器は旧式のものばかりであり、近代兵器を装備した新政府軍に対抗できる戦力には到底成り得なかったのです。それにもかかわらず、新政府軍によって逆賊の汚名を着せられた松平容保と会津藩は、もはや新政府への恭順の道も閉ざされ、藩の名誉と存亡を賭けた戦いへと突入していきました。

「白虎隊士たちの自刃の真実と、会津戦争を生き残った白虎隊士・飯沼貞吉のその後の生涯について」

これまで語り継がれてきた飯盛山で白虎隊士が自刃した理由は、会津藩の拠点である鶴ヶ城(若松城)とその城下周辺から戦闘によって上がった炎や煙を飯盛山から目撃した隊士たちが、それを城が陥落したためだと誤認し、絶望するとともに、会津藩への忠義から自ら命を絶ったとされています。つまり衝動的な感情による集団自殺とされているのです。しかし実際には鶴ヶ城はまだこの時点では陥落しておらず、会津藩降伏までには1ヶ月を要しています。この時に実に19名が命を落とし、喉を突いて自刃を図った飯沼貞吉だけが命を取り留めていました。その飯沼貞吉は、出発に先立って母から下記の一首をもらい、大いに喜び、短冊を軍服の襟に縫い込み決意を新たにして出陣しています。

 梓弓向ふ矢先はしげくとも引きな返しそ武士(もののふ)の道

しかし、この飯盛山の自刃から命を取り留めていたとされる白虎隊士・飯沼貞吉が残していた手記によると、これとは異なる真相が語られています。飯沼貞吉の証言から記された記録に飯沼が自ら修正を加えた「白虎隊顛末略記(びゃっこたいてんまつりゃっき)」には、白虎隊士の自刃は鶴ヶ城陥落による絶望という衝動的な自殺ではないと記されています。むしろ会津藩はまだ敗北していないことを信じていたというのです。そこでは隊士たちの間で、城に戻り鶴ヶ城を死守するために戦うことを主張する者、または最前線に乗り込み玉砕するまで抗戦することを主張する者とで激論が交わされたといいます。しかし、戦いで戦力を失い負傷し、命からがら飯盛山まで落ち延びてきた自分たちが参戦したところで、もとより負けを覚悟の上の戦いでしかない。武士として会津の足手まといになることを恥とし、少年たちは武士の本分なるものを明らかにするため、自ら自刃の道を選んだというのです。
自刃の後、会津藩士である印出新蔵(いんでしんぞう)の妻・ハツは飯盛山でまだ息のあった飯沼貞吉を見つけて救出したといわれています。ハツの介抱により一命を取り留めた貞吉は、後に新政府軍に捕らわれの身となりますが、会津と敵対していた長州藩士である楢崎頼三(ならさきらいぞう)に見込みがあるということで引き取られ、長州・長門国(現・山口県美祢市)の庄屋(高見家)に預けられ庇護されました。しかし、会津藩の少年を長州で庇護することは会津・長州双方にとって都合が悪かったのです。そこで会津では貞吉の母にのみにその事実を知らせ、長州でも楢崎の他には高見はじめごく限られた者以外にはこのことを隠したのです。
生き残った貞吉は飯盛山で自刃した仲間と共に死ぬことが出来なかった自分をゆるすことができず、その後も自殺を図るなど自ら命を絶つことを考える日々でしたが、それを思い止まらせたのも楢崎頼三だったといいます。
楢崎は「今の日本は諸外国からの脅威にさらされている。もはや会津や長州といって争っている時ではない。これからの日本は皆が心を一つにしてこの国を豊かで強い国にしていかなくてはならない。そして貞吉、その中心となるのはお前たち若者なんだぞ。貞吉、助けてもらった命を大事にしなさい。そして、これからの日本のために勉強しなさい」と言いました。それを聴いた貞吉は、生まれ変わったように勉学に励んだといいます。そして貞吉は名を「貞雄」と改名しました。
その後、飯沼貞雄は電信技師となり、東京の工部省技術教場、下関の赤間関、新潟の逓信省(郵便・通信を管轄する中央官庁)など各地での勤務を経て、日清戦争には大本営付の技術部総督として出征もしています。それから札幌郵便局工務課長、仙台逓信管理局工務部長に就任するなど、近代日本における電信電話の技術発展に大きく貢献しました。1931年(昭和6)2月12日、飯沼貞吉(貞雄)は宮城県仙台市にて77年の生涯に幕を閉じました。

飯盛山での白虎隊士自刃の真実は貞吉の残した記録にあったのか、それとも己に言い続けたのかは不明です。しかし彼がただ一人蘇生したために、白虎隊士が自刃に到った経緯が後生に伝えられることになりました。彼は戊辰戦争のことについては一切語ることなく、死に後れた辱めに耐えつつ苦しみの多い生を全うし、次の辞世を残しました。
すぎし世は夢かうつつか白雲の 空に浮かべる心地こそ知れ
白虎隊の友に遅れること六十三年にして、彼の遺骨は友の待つ飯盛山に埋葬されました。



   
     
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