鵜殿団次郎(うどのだんじろう、1831~1869)は、私の郷里の偉人です。長岡藩士、鵜殿長義の次男であり、後年「春風」と号しました。二十五歳のとき、江戸遊学を決意し、蘭学、英学を学びました。数学も得意としました。そして、親しく交際しいていた勝海舟の推挙により、番書調所(東京大学の前身)の教授になりました。西郷隆盛から薩摩招聘の話もありましたが、実現しませんでした。後に日清戦争で連合艦隊司令長官を務めた伊東祐亨(いとうすけゆき)も弟子の一人で航海術を伝授したそうです。団次郎と同時代の河井継之助(1827~1868)は好戦的であり、戊辰戦争・北越戦争で戦死しました。鵜殿団次郎は穏健派でしたが、戊辰戦争の後、間もなく病没しました、団次郎には、異母弟(長義の三男)白峰駿馬(しらみねしゅんめ)がいます。駿馬は亀山社中や坂本龍馬の海援隊に参加し、後に、日本造船界の先駆者となりました。
なお、本稿を書くにあたり参考にした文献は、戊辰戦争のあとに、長岡藩の「米百俵」を基に
設立された国漢学校の後身の小学校・阪之上小学校・編集のものです。
「わたしたちの悠久山」 長岡市立阪之上小学校編
なお、本稿を書くにあたり参考にした文献は、戊辰戦争のあとに、長岡藩の「米百俵」を基に
設立された国漢学校の後身の小学校・阪之上小学校・編集のものです。
「わたしたちの悠久山」 長岡市立阪之上小学校編