yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

ダークマター

2010-09-28 06:36:59 | 科学
ダークマター(Dark Matter)は宇宙に存在すると考えられる暗黒物質のことです。薄暗い事件のことではありません。ダークマターは光を出すこともなく光を遮ることも無いので、
その存在は長い間知られることがありませんでした。その質量は目に見える物質の約10倍もあり、宇宙の中に大量に存在しているので、銀河系の運動にも強い影響を与えます。銀河系の運動の解析が、ダークマターの存在を予想するきっかけとなりました。ダークマターは宇宙創生の頃に、世に知られている原子や分子と同時に生まれ、ニュートリノの一種ではないかとも言われています。
 現在、ダークマターを確認する研究が、スイスのCERN(欧州原子核研究機構)やアメリカなど世界中でなされています。特に日本の岐阜県神岡にある東大神岡宇宙素粒子研究施設にあるXMASS検出器は、直径約1mの60面体で、不活性ガスのキセノンに暗黒物質が衝突する時に発生する粒子を多数の光電子増倍管を装備した装置で検出するもので、その感度が極めて高いことから、日本で初のダークマターの確認に期待が集まっているようです。ダークマターの存在を確認することは宇宙の誕生を説明する物理学の発展にも当然役立つということです。
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内藤國雄九段

2010-09-25 07:09:38 | 将棋
将棋の内藤國雄九段(現在70歳)の話です。昭和14年(1939年)神戸市生まれ。昭和51年に弦哲也のデビュー曲である「おゆき」を歌い歌謡界にデビューしました。「おゆき」は弦哲也の最初のヒット曲となり、昭和51年から52年にかけてミリオンセラーになりました。弦哲也は、その後、2000曲以上の作曲をして歌謡曲界の大作曲家になりました。
 内藤さんは、「棋士の中で最も歌がうまく、歌手の中で最も将棋が強い人物」と言われました。神吉広充七段は「将棋も指せるタレント」とも言われていますが、神吉さんは内藤九段の将棋の弟子です。内藤九段のように二足の草鞋が成功した例は珍しく、余程才能に恵まれた方なのだと思います。その上、人柄もさわやかで、かつ包容力のある方です。
 「歌唱も将棋の対局も、ただ一回限りの真剣勝負という点では同じ」と、以前、語っていらっしゃったのを記憶しています。
 9月21日のNHKの「歌謡コンサート」には弦哲也、石川さゆり、都はるみ、水森かおり、山本譲二さんなどの一流の歌手と共に出演して、「おゆき」を見事に歌っていました。
 内藤さんの棋歴は、1958年に四段、1967年に八段、1974年に九段ときわめて順調に昇段しました。有名な坂田三吉の孫弟子にあたり、坂田譲りの奔放な棋風は自在流と呼ばれ、飛車角が躍動する空中戦法の名手です。棋聖、王位、王座、棋王、NHK杯戦などで13回優勝し、2000年には千勝を達成して大棋士の仲間入りをしました。関西棋界では総帥とされています。また、詰将棋作家としても有名です。

下の図は優れた詰将棋に与えられる最も価値のある看寿賞(特別賞)を受賞した作品です。ご覽の通り、攻め方の形が駒を並べた時の初形という趣向を凝らした図であり、非凡な作品です。この図には40枚の駒が、すべて盤上にあるという難度の高い趣向も加わっています。


8六馬、9四玉、9五馬、同玉から始まり73手で詰みます。
蛇足になりますが、日本将棋連盟からいただいた私の将棋の免状には羽生善治名人と内藤國雄九段の直筆署名があります。
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李賀の漢詩

2010-09-23 06:27:13 | 文学
李賀(791-817)は中国、中唐の詩人です。才能があり、出自にも期するところがあったにもかかわらず、いわれの無い中傷にあったため科挙に合格できず、重要なポストが与えられず、悶々とした日々を過ごす生涯でした。しかし、従来にない独特の詩風を持ち、後に杜牧が「李賀は創作にあたっては古来から踏みならされた道筋をことごとく無視した」と評しています。伝統的な漢詩は写実をもって良しとされましたが、李賀の作品には幻想を志向するものがあり、後世の李商隠、皮日休などに影響を与えました。李賀は28歳の短い生涯に240余の詩を残しました。その中から「南山田中行」を紹介します。

南山田中行
   秋野明 秋風白
   塘水漻漻蟲嘖嘖
   雲根苔蘚山上石
   冷紅泣露嬌啼色
   荒畦九月稻叉牙
   蟄螢低飛隴徑斜
   石脈水流泉滴沙
   鬼燈如漆點松花
読み方
   秋野明るく 秋風白し
   塘水漻漻(とうすいりょうりょう)蟲嘖嘖(むしさくさく)
   雲根(うんこん)の苔蘚(たいせん)山上の石
   冷紅露に泣いて嬌啼(きょうてい)の色
   荒畦(こうけい)九月稻叉牙(さが)たり
   蟄螢(ちっけい)低く飛んで隴徑(ろうけい)斜めなり
   石脈水流泉沙(すな)に滴(したた)る
   鬼燈(きとう)漆のごとく松花に點ず
 和訳の例
    月に明るい秋の野 白く乾いた秋の風
    深く澄んだ池の端
    チリリと鳴く秋の虫
    苔むした磐が転がり
    そこに咲くなまめいた紅い花が
    冷えきった身体に涙の露をまとう
    実りの九月に放り置かれた田は
    野放図に稲を実らせ
    闇夜に生きる蛍が世に乱れ飛ぶ
    破壊された獣道が斜めに走る街
    岩のすきまに沁み出した水流が
    泉を作り乾いた砂漠がひろがる
    漆の光沢が放つ鬼火が
    季節を忘れた桜花をまもる

秋の風を白いと表現するなど独特の感覚で賦しています。
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斉明天皇

2010-09-18 07:40:35 | 歴史
先日、奈良県の牽牛子塚古墳(けんごしつかこふん)の発掘調査により、ここが斉明天皇の墓とほぼ断定されました。斉明女帝は舒明(じょめい)天皇妃であり、「大化の改新」を行った天智天皇とその弟の天武天皇の母で、女性ながら軍勢を率いて九州方面に出征されたこともあります。その途次に額田王(ぬかたのおおきみ)が詠んだ歌は有名です。

熟田津 ( にきたつ) に 船 ( ふな ) 乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

この歌は熟田津で潮待ちしていた船団が、いざ出航という時に随行していた宮廷歌人の額田王が詠んだ歌で「万葉集」に採られました。天皇が全軍を鼓舞することを意図した歌と言われています。斉明天皇は、朝鮮の百済救済のために九州に赴き、太宰府の近くの朝倉で倭軍の指揮をされましたが、彼の地で崩御されました。なお斉明天皇は激動の「大化の改新」の時代を乗り切られた偉大な天皇であったと思われます。
歴代125代の天皇の内、女帝は10代8人です。すなわち、
 推古天皇(33代)、皇極天皇(35代)、斉明天皇(37代、35代皇極天皇が重祚)、
持統天皇(41代)、元明天皇(43代)、元正天皇(44代)、孝謙天皇(46代)、称徳天皇(48代、46代孝謙天皇が重祚)、明正天皇(49代)、後桜町天皇(117代)です。
女性天皇は少数ですが、推古天皇(この御世の摂政は聖徳太子)や斉明天皇、持統天皇などは、歴史上大きな存在感のあった女帝でした。

奈良県明日香村にある牽牛子塚古墳(けんごしつかこふん)の調査により、当時の天皇家に特有の八角形墳であることが確認されました。高さ4.5m、対辺の長さ22mで三段構成の石組みの壮大さが、天皇家の権威を誇示していることから、斉明天皇(594-661)の陵墓と考えられると言うことです。しかし、宮内庁は、以前から奈良県高取町にある車木けんのう古墳を斉明天皇陵に指定しており、墓誌などの明らかな証拠が出ないかぎり指定を変更しないということです。

さて、現代のヨーロッパの王国を見ますと、イギリスのエリザベス女王をはじめ、デンマークのマルグレーテ2世、オランダのベアトリクス女王、ベルギーのエリザベート王女(将来、女王になられる予定)などの女帝がいらっしゃいます。古来、王位継承を巡る争いが絶えないので、男女にかかわらず長子をもって次の王とする慣習が最近定着しているそうです。一方、日本には、明治22年に制定された「旧皇室典範」により男子が天皇になると定められています。しかし皇位継承者を確保するためにも、この見直しを考慮する動きもあると聞きます。
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ホーキング博士

2010-09-14 08:27:57 | 科学
イギリスの著名な理論物理学者、スティーブン・ホーキング博士は、最近書いた宇宙論の本
「The Grand Design」の中で「宇宙の誕生に神を必要としない」と主張しているそうです。
宇宙は無の状態から自然発生的に生まれたとするもので、量子力学と重力理論を組み合わせた研究成果から生まれた主張です。
 かつてニュートンは「宇宙は神によって精妙にデザインされたものであるから、いわゆる「出来すぎ」と考えたそうです。
 ホーキング博士は、「以前には宇宙の創生が出来すぎに見えたことは、創造主の存在なしでも説明可能であり、宇宙誕生の大爆発(ビッグバン)も神に点火してもらう必要はない」としました。
 これに対して創造主の存在を前提とするキリスト教の指導者から批判も出ているそうです。
英国教会を指導するカンタベリー大主教のローワン・ウィリアムズ氏は、
 「宇宙の中を説明するために人は神を信じるわけではない。一方、物理学は物事が存在する理由を説明できていない」という趣旨の反論をしました。
また、同教会の指導者であるスウィンドン・レイフィールド氏は
 「ホーキング博士は、ビッグバンについての彼の理解を理由に、神の存在を信じることが不可能であると言っているわけではない」と述べています。このように現代の教会は冷静な反応をしているのではないかと思います。
もともと、科学と宗教は別のものですが、何やら地動説を唱えたガリレオに対する1616年の苛烈な宗教裁判の話が想起されます。私のような「不信心のばちあたり」は、ガリレオやホーキング博士などの物理学者の主張のほうが、より説得力があるように思います。しかし、
何故137億年前という絶妙の時刻に宇宙が誕生し、「出来すぎ」の過程を経て地球や生命と人が存在するようになったかについては、未だ現代の物理学では解明出来ていないようです。
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英語公用語化

2010-09-11 10:51:01 | 文化
  英語が世界の共通語になろうとしています。世界の言語とそれを話す人口は英語の14.5億人が1位、中国語の9億人が2位、スペイン語の4億人が3位、続いてヒンディー語1.2億人が5位、アラビア語、1億人が6位、フランス語、0.9億人などとなっています。ほぼ4人に1人が英語を話すこということでもあり、ビジネスがグローバル化した今日、英語が世界の共通語になろうとするのは避け難い傾向と言えます。ヨーロッパの事情に詳しいビジネスマンが見ても、その趨勢に長い間、敵対していたフランス語も最近、英語に優位の座を奪われつつあるそうです。
 日本でも、ユニクロを展開するファーストリテイリング社や楽天のように、社内で使う言語は英語に統一するという会社が現れてきました。そうはいっても、日本人だけの社内会議や食事や雑談の時間までも、英語で話すとすれば不自然なことと思われます。
英語公用語化の動きの中で、小学校から英語を必修にしよう、との議論も進んでいますが、教師の確保が直ぐにできない等の理由により、完全実施には、まだ時間がかかるようです。そもそも日本文学に代表される日本の文化を英語化するのは無理なことです。しかし、科学・技術は世界に普遍性のある分野ですから、これに関する論文は英語で書かないと、広く世界の人に読んでもらうことが適いません。従って、英語論文以外の資料価値は極端に下がるようです。
次に、私の愚見を述べます。
私は小学校から英語を学ぶより、もっと先に学ばなければならない事があるように思います。まず、国語です。他人の考えを聞いたり読んだりして理解し、日本語で自分の考えをまとめ、他人に対して自分の考えを的確に発言し発表できるようになること。このためには国語の学習が必須であると考えます。そして歴史を含む社会科を学ぶこと。「賢者は歴史に学び、愚者は経験から学ぶ」という言葉もあります。それに加えて人の道を学ぶこと。これは学校だけが背負うのではなく家庭の役目でもあります。人の道を教え、かつ学ぶのは簡単なことではありません。「言うは易く行うは難いこと」で「人の道」を子供達の心に浸透させるのはとても大切なことではないかと思います。例えば、古今東西の優れた人物の話や、今でも多くの人々に感銘を与えてくれるような事蹟を知らせることが、「人の道」を教える一つの方法になるのではないかと考えます。
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名前の話

2010-09-08 17:05:22 | 文化
日本は、もともと姓(苗字)の種類が多く、名の種類も多いようです。
江戸時代はさほどでは無かったのですが、明治以後に増え、太平洋戦争後に更に増えたと言われます。名は親が子供の幸せを祈って心を込めてつけますが、日本はいろいろなしがらみが少なく自由度が大きいようです。
 明治以前には、一人で、姓、字(あざな)、諱(いみな)、号といくつもありました。例えば、有名な西郷さんは姓が西郷、諱は元服の時、隆永、後に隆盛、字(通称)は吉之助、号は南州です。「広辞苑」によれば、諱は死後に言う生前の実名であり、重要です。
 漢字文化圏には実名敬避俗(じつめいけいひぞく)という文化があり、人の実名を呼ぶことは
失礼にあたるという考え方があります。人の名はその人の霊的な人格と結びついたものであり、その実名で呼ぶことは、「その人の霊的人格を支配する」と考えられ、無礼な行為とされました。現代では厳格に守られているわけではありませんが、実名で呼ぶことを避けて、その人の住居がある地域や町を言うことにより、婉曲に呼ぶことはよくおこなわれています。例えば大阪に住む親戚を、名前の代わりに「大阪」と呼んだりします。個人の名前を出すことを憚って、朝廷のことを「京都」と呼んだり、政治の中心のことを「永田町」と呼ぶのもこの類例です。
 さて、古来から大名家などには名前を付ける時には、伝統的なしきたりがありました。甲州の武田家ですと「信」が多く用いられました。戦国武将の信玄はもともと晴信でした。徳川将軍家は家康以来「家」が多く用いられました。織田信長家も「信」を使います。もっとも、信長は子供が多かったので、子供の幼名には奇妙、茶筅、次、坊丸、大洞、小洞、縁などと独創的でやや投げやりとも思える名があります。
 さて、次は名前にまつわるエピソードです。明治初期、太政官が諱を一つだけ申告するようにと布告を出しました。この時、伊藤博文、山縣有朋といった名前が登録されました。西郷さんの場合、同志の吉井友実が西郷さんの父の名前、隆盛を本人の諱と勘違いのまま代理登録したということです。西郷さんの弟の信吾は口頭で申告したのですが諱の「隆興(りゅうこう)」を役人が「じゅうどう」と聞き間違い、従道になってしまい、この後、西郷従道と呼ばれることになりました。この間違いには、後で気付いたのですが大人物の兄弟は些事にこだわらず、「そいで良か」と鷹揚に了承したそうです。初代司法卿の江藤は諱ではなく通称の「新平」と届けました。周囲が「それは安っぽいのではないですか」と言うと「じゃ、ニイヒラとでも訓(よ)んでくれ」と言ったそうです。江藤の平民主義的な気分がうかがえます。福沢諭吉も諱は「範(はん)」でしたが通称の諭吉を選びました。福沢らしくていい、と評価する人もいます。明治十一年生まれの与謝野晶子の戸籍名は「志やう」でしたが、彼女は「ショウ」という音から晶を選び晶子(あきこ)と名告りました。平安時代から「子」はもっぱら貴人の女性につけられて来ましたが、与謝野晶子以来、女性の名に子がつく例が多くなりました。しかし、最近は、必ずしも、子が付くとは限らず多様化しているようです。

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おおスザンナ

2010-09-04 08:29:16 | 文化
有名なアメリカ民謡の「おおスザンナ」の話です。この曲はスティーブン・フォスター(1826-1864)が1849年に作詩・作曲しました。フォスターはアメリカ民謡の父と言われ、「故郷の人々・ケンタッキーのわが家・金髪のジェニー・夢見る人・ネリーブライ・オールドブラックジョー」など数多くの作品を残しました。
ところで「おおスザンナ」を日本に初めて紹介したのは中浜万次郎(通称ジョン万次郎)でした。万次郎は幕末の人で、土佐の漁師でしたが漁に出て嵐で船が難破してしまい、鳥島に漂着していたところをアメリカの捕鯨船に助けられて1843年にアメリカに渡りました。当時、アメリカの西部で金鉱が発見され、ゴールド・ラッシュの最中にあったので、彼も金鉱に行って働き、所謂フォーティーナイナー(1849年組)の一人になりました。そこで資金を貯めて上海行きの船に乗せてもらい、1851年に琉球経由で日本に帰ってきました。それから陸路「おおスザンナ」を歌いながら故郷の土佐の村に戻ったということです。その後、土佐の学者、河田小竜(しょうりょう)にアメリカの話と共に、この歌も伝えたのでその内容が資料として残っています。従って「おおスザンナ」が日本に紹介された初めてのアメリカ民謡という事になります。なお、坂本竜馬は河田小竜に弟子入りしてアメリカや西洋の事情を詳しく聞いたということです。後に竜馬は、軍艦教授所の教授となった中浜万次郎に江戸で再会しています。竜馬が欧米をよく知っていたのは万次郎の影響であると言われています。その中に「アメリカでは大統領が選挙で選ばれ、メイドの給料まで心配している」というようなこともあったそうです。

英語の歌詞(一部のみを下に記しました)
   I had a dream de odder night
When ebery ting was still
I thought I saw Susanna,
A coming down de hill.

The buckwheat cake war in her mouth.

The tear was in her eye,
Oh, Susanna, Oh! don’t you cry for me,
I’ve come from Alabama wid my banjo on my knee

ウェルズ恵子著 「フォークソングのアメリカ」

 上記の英文はとてもくだけた表現になっているように思われます。
 基本的にはナンセンスソングだそうです。

 和訳
  ある晩夢を見た
  静かだった
  スザンナを見たと思った
  丘を下ってくる姿
  そば粉のパンを食べながら
  涙をためていた
  おおスザンナよ私のために泣かないで
  私はアラバマからひざにバンジョーをのせてやって来た
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競争と公平

2010-09-01 07:15:43 | 文化
ある調査によれば、日本は資本主義国の中では例外的に市場競争に対する拒否反応が強いという結果が出ています。競争を容認する人、好まない人のその理由を下に示します。
競争を嫌う人の理由
(1) 公平な競争などあり得ない
(2) 他人と比べられるのが嫌い
(3)競争が嫌い
(4)勝ち負けにこだわるのはつまらない
一方、競争を容認する人の理由
(1) 努力は報われる
(2) 自分の実力が知りたい
(3) 全体の向上が期待できる
(4) 負けるのが嫌い

上記のほかに、幸福度や充実感は他人と比較できるものではない、勝ち負けをはっきりさせることにこだわるのははしたない、競争意識を持っていても表に出さないのが品性の高い大人の態度だと思う、などがあります。

この問題、人生観や価値観が多様ですから、良い悪いを単純に結論づけることはできないでしょう。しかし、競争の無い世界は活性が乏しくなるのではないかと私は感じます。だからといって、競争の無い世界が悪いと直ちに断言できないことも明白です。

 私は、競争の功罪はともかくとして、「公平」ということが、とても大切だと思います。
努力に応じて、報われるのが公平な社会ではないかと思うからです。スポーツや囲碁、将棋
の世界は比較的公平です。これらの世界では、努力すれば誰にでも強くなる機会が与えられています。そして、より上級の試合に出場できるようになります。良い成績をおさめれば、段位やタイトルや賞金が獲得できます。また公平さを支えるためには勝敗が明快に判定できることが重要です。野球やサッカーならば得点、将棋ならば、どちらが王将を詰めたか、ですから明快です。一方、芸能や文芸、絵画、書道、華道、茶道、短歌、俳句のような文化の世界は、力量を客観的に決める普遍的な評価基準が単純明快に決っているわけではないので、公平性を保つのが難しい面があります。これらの世界では努力して才能を磨き、向上し、それが有る程度報われるという社会ではないかと思われます。死後、評価されることもままあるようです。

 詩経に「切磋琢磨」という言葉があります。
 その意味はご承知の通り、学問や修養によって自分を磨きあげる。また、友人どうしが互いに励まし合い、競い合って学問や仕事に励むことです。中国でも孔子の時代から競争しながら、自分を磨くことは意義のあることとしておりますし、これは人生に対する積極的な態度ではないかと思われます。

最後に、米国スタンフォード大学の西義雄教授の話(電気学会誌)を紹介します。「アメリカにはピンからキリの人間がいますが、ピンもキリもその程度が極端な者がいます。日本の青年が、自身では短期の観光程度の経験しか持てない、したがってピンのすごさを体験として知り得ないとしたら大変残念です。ピンの群に混じって燃焼する人生を送ることを選ばないのであったら、いささか安易に過ぎるのではないでしょうか」
 と警鐘を鳴らしておられます。
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