yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

明治維新に活躍した天保六年生まれ

2008-07-27 12:12:48 | 歴史

明治維新の時に大いに活躍した人達が大勢、天保六年(1835)に生まれています。明治維新(1868年)の時には働き盛りの33歳にあたりますが、幕府側、新政府側の両方において特筆される活動をした人材が揃っているのは壮観です。<o:p></o:p>

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下に生まれた日付順に列挙しました。<o:p></o:p>

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2   4日生 前島 密(越後高田藩士)1919年他界<o:p></o:p>

2 12日 五代友厚(薩摩藩士)   1885年他界<o:p></o:p>

2 19日  有栖川宮熾仁親王    1895年他界<o:p></o:p>

2 25日  松方正義(薩摩藩士)   1924年他界<o:p></o:p>

5   5日 土方歳三(新選組副長)  1868年他界<o:p></o:p>

1014日  小松帯刀(薩摩藩士)  1870年他界<o:p></o:p>

1115日  坂本龍馬(土佐藩士)  1867年他界<o:p></o:p>

1219日天院篤姫(徳川家定公正室)1883年他界<o:p></o:p>

1229日 松平容保公(會津藩主) 1893年他界<o:p></o:p>

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前島密は洋学者であり、新政府で駅逓頭(えきていのかみ)となり近代郵便事業の基を築きました。<o:p></o:p>

五代友厚は実業家として活躍し、大阪商法会議所初代会頭となり、大阪の発展に貢献しました。<o:p></o:p>

松方正義は新政府で大蔵卿になり財政の中心人物として日本の資本主義経済の発展に貢献しました。<o:p></o:p>

有栖川宮仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう)は皇女・和宮の許嫁でしたが、孝明天皇の命令で婚約を破棄させられました。和宮は公武合体の証として十四代将軍家茂の正室として降嫁しましたが、後に親王は征東軍大総督として和宮の住む江戸に迫ったという皮肉な運命の持ち主でした。<o:p></o:p>

坂本龍馬は土佐藩を脱藩し、海援隊を設立して海運と貿易に従事し、薩長連合<o:p></o:p>

    を実現させ、公議政体を唱え大政奉還の推進を図りましたが、京都で暗殺されました。<o:p></o:p>

小松帯刀は薩摩に於て桓武平氏の流れを汲む門閥でしたが、身分の垣根を越えて西郷隆盛や大久保利通などの下級藩士とも親しく交わり、彼等に<o:p></o:p>

活躍の場を与えました。藩主島津斉彬、国父久光からの信頼も極めて<o:p></o:p>

厚く、今日までその偉業はあまり知られていませんでしたので、それを次に列挙します。<o:p></o:p>

1.    斉彬の遺志を継ぎ薩摩藩に近代工業を導入<o:p></o:p>

2.    薩摩藩の家老となり、島津藩主忠義、国父久光を助け、帯刀の薩摩<o:p></o:p>

と言われる程になった。<o:p></o:p>

3.    薩長同盟を主導。<o:p></o:p>

4.    パリ万博に薩摩藩として独自参加。<o:p></o:p>

5.    慶喜に大政奉還を決意させた。<o:p></o:p>

6.    新政府で外務大臣として活躍。<o:p></o:p>

これからという時、惜しくも明治3年35歳で病没してしまいました。<o:p></o:p>

松平容保公は會津藩主で、保科正之以来の伝統故に京都守護職を勤める役目を<o:p></o:p>

引き受けざるを得ず、孝明天皇から信頼されながらも、徳川家への忠節を貫いたため朝敵の汚名を着せられることになりました。<o:p></o:p>

土方歳三は佐幕の信念のもとに新選組の副長として近藤勇を助け、京で活動した後、会津・箱館に転戦して五稜郭で戦死しました。戊辰戦争後の時流を見る確かな目を持っていたと言われています。<o:p></o:p>

院篤姫は島津家の分家、今泉島津家の長女として鹿児島で生まれました。島津本家の斉彬の養女となった後、13代将軍家定の正室となり、大奥3000人を束ねる立場になりました。しかし父忠剛(ただたけ)、養父斉彬、将軍家定に相次いで先立たれてしまいます。将軍の跡継ぎも斉彬からの要請に沿えず、14代将軍は家茂(いえもち)になりました。その後、将軍家茂に皇女和宮を迎え、当初は万事都風を押し通す和宮と対立しました。家茂の後見役(母役)も勤めましたが、間もなくその家茂も大阪城で帰らぬ人となってしまいます。1868年、鳥羽伏見の戦いで敗れた15代将軍慶喜は江戸に戻りました。徳川家の危機に際し、天璋院は和宮(静寛院宮)と力を合わせ、征東軍大総督有栖川宮仁親王と薩摩の西郷隆盛に対して徳川家の存続と江戸城を守る嘆願をしました。篤姫が西郷にあてた嘆願書は「私事一命にかけて(わたくしごと一命にかけて)」という言葉を含む3000字に及ぶものでした。その功もあり、遂に江戸城の無血開城が実現しました。<o:p></o:p>

     その後篤姫は生き延びた徳川家の血筋、第16代家達(いえさと)の成長を見守る事に余生を捧げ、明治16年に東京千駄ヶ谷の徳川邸で生涯を閉じました。繁栄を約束された島津家よりも没落しようとする婚家徳川家を守る姿勢を貫いた篤姫の行動に、日本人の至誠の姿を見、感銘を受けます。天璋院の位牌は、今も田安徳川家に大切に保管されており、当主の徳川宗英(むねふさ)氏が守っておられます。

               原口泉著『小松帯刀』グラフ社

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照姫の和歌 その2

2008-07-23 10:07:14 | 歴史

照姫は2000首もの和歌を詠んでいます。それは、春、夏、秋、冬、恋、雑の部に分類されており、会津若松市の渡邊明氏により大切に保存されています。<o:p></o:p>

容保公25歳のときの喜びの歌<o:p></o:p>

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   はたちあまり五とせにならせ給ふをことほぎ侍りて<o:p></o:p>

  ことしより君がかさねん万代をしるくもこたふともづるのこゑ<o:p></o:p>

  すゑとほき君にひかれてわか松もいく十かへりの春むかふらん<o:p></o:p>

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容保公は桜田門外の変の事後処理に奔走し、その功により、1860年に左近衛権中将に昇進しました。照子は早速喜びの歌を贈りました。<o:p></o:p>

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少将の君中将の御位に登らせ給ふを祝し参らせて<o:p></o:p>

  松がえにむれゐる鶴も此君のみをことほぎて千よよはふらん<o:p></o:p>

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明治6年、照子がわが子のように慈しんでいた喜徳(のぶのり、第十代會津藩主)が実家水戸家に帰り、明治9年にフランスに留学する折には、次の餞別の歌を贈りました。<o:p></o:p>

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  よに広くふみ学びえて久方の雲ゐに高く名をばあげてよ<o:p></o:p>

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 この頃ようやく行動の自由を取りもどした照子は歌を詠んでは、人々ととり交わし、琴を弾き、笛を吹いて平穏な日々を過ごしました。<o:p></o:p>

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時代は下り、明治17年に波乱の生涯を閉じた照子の13回忌が行われ折、実弟保科正益(まさあり)の妻で歌人である保科節子によって鎮魂の歌集が編まれました。その歌集には御歌所長官・高崎正風により「かつらのしづく」という題がつけられました。<o:p></o:p>

そこには北白川宮能久(よしひさ)親王妃・富子、近衛篤麿ご夫妻、鍋島直大・栄子ご夫妻、前田利継・郎子(さえこ)ご夫妻らが歌を寄せております。<o:p></o:p>

照子のもっとも身近な人であった松平容保公は、この時明治26年には病没しており追悼歌がありませんが、ご子息松平健雄氏が父に替わって追悼歌を贈っています。<o:p></o:p>

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  今更に返らぬものと知りながらかへしてしがな君ましつ世に<o:p></o:p>

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柴桂子著『会津藩の女たち』恒文社<o:p></o:p>

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松平容保公を支えた高貴な女性 照姫

2008-07-13 21:02:46 | 歴史

照姫は1832年に會津松平家の支藩である上総飯野藩(木更津)藩主・保科正丕(まさもと)の三女として生まれ、1842年10歳にして第八代會津藩主・松平容敬(かたたか)の養女となりました。18歳の時、豊前中津藩主・奥平昌服(まさもと)に嫁いだものの子が生まれぬまま離縁となったため、1854年に江戸の會津藩邸に戻りました。この時、既に養父容敬は他界しており、九代藩主容保公は、容敬の娘の敏姫を正室としていました。しかし1861年に敏姫はわずか19歳で他界してしまいました。<o:p></o:p>

照姫は次の詞書きとともに哀悼の歌を詠んでいます。<o:p></o:p>

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明くれなつかしく、むつまじくうちかたらひたる君のはかなくならせ給へるに、ただ夢とのみ思はれていと哀しさのままに<o:p></o:p>

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  千とせとも祈れる人のはかなくもさらぬ別れになるぞ哀しき<o:p></o:p>

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美貌の照姫は十代にして早くも、書道、茶道、礼法、香道に通じ、ことに和歌や琴を好む聡明な女性でした。敏姫亡き後は會津松平家の奥向きを担っていました。<o:p></o:p>

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 また、容保公が1862年に京都守護職を拝命し上洛が決まった時には、次の歌を詠んでいます。<o:p></o:p>

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  きてかへる頃さへゆかし都ぢの錦を君が袖にかさねて<o:p></o:p>

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 この歌には、公が京都でのお役目を無事に果たし、錦を着てお帰りになるのが楽しみです、という安寧祈願の思いが込められているのではないかと思います。<o:p></o:p>

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また、1862年には容保公は孝明天皇から忠誠の心を愛でられ、異例なことに、純緋の衣を下賜されました。容保公はこの衣で仕立てた陣羽織を着用し、天覧<o:p></o:p>

の馬揃えに臨みました。馬揃えを見事に指揮した公はその時の武者ぶりを写真に撮らせて江戸の照姫に送ったということです。<o:p></o:p>

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 少将の君より写真焼といへるものを送り給へるに、久々にて気近ふ大命給はる心地して、猶平らかに勇ましうわたらせ給ふ御姿に、いとうれしくおはすればかたじけなくて、<o:p></o:p>

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  御心のくもらぬ色も明らかに写す鏡のかげぞただしき<o:p></o:p>

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さて鳥羽伏見の戦いに敗れた直後、容保公は大阪から東帰した将軍慶喜に江戸退去を命じられ、全藩士を従えて会津への帰国の途につきました。照姫は容保公より一足早く鶴ケ城を目指して旅立ちました。江戸育ちの照姫にとって会津は未知の土地でした。その思いを次の和歌に託しています。<o:p></o:p>

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  おもひきやわが身の上としら河の関路をやがて越えぬべしとは<o:p></o:p>

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 照姫は1869年の春に会津鶴ケ城に入りました。8月23日から9月22日まで続いた籠城戦においては会津藩の婦女500人余を指揮して負傷者の看護、炊事、洗濯、消火活動、弾丸の始末、製造にもあたり、獅子奮迅の働きをしました。<o:p></o:p>

鶴ケ城開城式の後、容保公は滝沢村の妙国寺に謹慎することとなり、照姫もそれに従いました。そこで古寺嵐と題する歌を詠んでいます。<o:p></o:p>

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 荒はてし野寺の鐘もつくづくと身にしみまさる夜嵐の声<o:p></o:p>

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 翌年、新政府は會津藩に対して戊辰戦争の首謀者三家老の首を差し出せとの命令を発しました。田中土佐、神保内蔵助は若松城下で既に自刃していたので、席次からいって萱野権兵衛を「斬に処す」との命令が下りました。皮肉なことに、その執行は會津松平家の支藩である飯野藩主保科正益(まさあり、照姫の弟)に申し渡されました。それを知った照姫は、一死をもって會津藩を救おうとする忠臣・萱野権兵衛に次の歌を寄せて切ない胸の内を伝えました。<o:p></o:p>

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  夢うつつ思ひも分かす惜しむそよまことある名は世に残るとも<o:p></o:p>

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 保科家では表向きには斬首と言いながらも秘かに切腹の形を取らせ、萱野権野兵衛に武士としての体面を全うさせました。小藩故に戊辰戦争において進退を悩み続けた保科正益は、ようやくこのような方法を以て會津松平家の末家の当主として新政府に一矢を報いたのでした。<o:p></o:p>

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その年も師走に入ってから飯野藩邸で照姫が詠んだ歌<o:p></o:p>

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  このゆふへ虫の音なからふり出でてさらに身にしむ秋の雨かな<o:p></o:p>

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正益は照姫の孤独な心を哀れみ竹芝の海を一望できる場所に高殿を建ててやりました。以後、竹芝の海は照姫にとって、何にも代えがたい心の慰めとなりました。<o:p></o:p>

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  色かへぬ浜松枝(はままつがえ)にあかねさす夕日も長き波のかけはし<o:p></o:p>

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また、明治13年会津を再訪した際に東山温泉の「向滝」に泊まり、次のように詠みました。<o:p></o:p>

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  岩くだく滝のひびきに哀れそのむかしの事もおもひいでつつ<o:p></o:p>

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「むかしの事」の中には、鶴ケ城で命懸けで容保公と共に戦った籠城戦のことが含まれていたことでしょう。<o:p></o:p>

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 照姫は明治17年2月28日、東京小石川の保科邸で波乱の生涯を閉じました。享年55歳でした。法名を照桂院と言います。書、和歌を能くし、容保公にも手ほどきをしたと言われています。<o:p></o:p>

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激動の時代に容保公を支えて生きたこの高貴な女性は、今、保科家の墓所ではなく、養父、松平容敬公(かたたか、八代藩主)や容保公とともに会津若松の松平家の墓所に眠っています。<o:p></o:p>

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中村彰彦著『会津武士道』PHP研究所<o:p></o:p>

中村彰彦著『名剣士と照姫さま』徳間書店

早川喜代次著『写真で見る会津戦争』新人物往来社

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                          照姫肖像画

 

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池上四郎と秋篠宮妃殿下

2008-07-04 10:28:15 | 歴史

保科正之公が養育された信州高遠に池上一族がおり、10家程があって栄えていました。保科正之公が高遠3万石から山形20万石、ついで会津23万石と再度転封するのに従って池上家は若松に移り住みました。高遠と会津若松の両方に池上性が多いのはこうした理由によります。池上一族の一つの当主に池上武輔がいました。武輔は会津戊辰戦争に出撃して負傷しますが生き永らえると斗南に移住し厳しい境遇を生き抜きました。武輔の四男を池上四郎と言います。武輔は子供達に、<o:p></o:p>

「お前たちは会津の日新館で安部井政治先生らに説かれたことを基礎として<o:p></o:p>

勉学するのだ。武士の道は刻苦、忍耐と魂の錬磨である。」<o:p></o:p>

池上四郎は苦労を重ねた末に大正2年に大阪市長となり、住民の福祉を第一とする政策を実施し、3期10年を勤めて、「不世出の名市長」とい言われ尊敬を集めました。<o:p></o:p>

さて、この池上四郎の娘を紀子(いとこ)と言い、内閣統計局長などを歴任<o:p></o:p>

した川嶋孝彦氏に嫁ぎ川嶋性に変わりました。その令孫は川嶋紀子(きこ)様で秋篠宮妃殿下となられ皇孫、悠仁親王(ひさひとしんのう)殿下をご出産あそばされました。会津藩士の血縁からの親王殿下の御誕生は、会津の人々にとっても誠に喜ばしい慶事であると思われます。<o:p></o:p>

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中村彰彦著『会津武士道』PHP研究所<o:p></o:p>

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