明治38年(1905年)に日露戦争の勝敗を決定的にした日本海海戦がありました。
世界史の歴史家がレパント海戦(1571)、トラファルガル海戦(1805)と共に日本海海戦
を世界三大海戦に挙げているのは、東洋の小国が西洋の大国ロシアを破った画期的な出来事だったからです。
当時、ロシアからインド洋を回ってウラジオストックに向かうバルチック艦隊が日本近海のどこを通るかは、日本の迎撃作戦上の大きな問題でした。九州南西部で信濃丸がバルチック艦隊を発見して追跡を続け、ロシア艦隊が対馬海峡方面に向かった事を確認した時、聯合艦隊司令長官の東郷平八郎は、旗艦「三笠」から日本の大本営に当てて電文を打ちました。それが、
「敵艦見ユトノ警報ニ接ツシ聯合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃沈滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
でした。(写真)
電文の草稿は作戦参謀、秋山真之(さねゆき)によるものでした。真之の幕僚が作った案文
「敵艦見ユトノ警報ニ接ツシ聯合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃沈滅セントス」とあるのを、真之が確認して「よろしい」とうなずきましたので、幕僚はすぐに上官に届けるべく駆け出そうとしました。その時、真之は「待て」と停め、鉛筆を握ると先の案文に「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と加筆しました。この時、一個の作戦連絡の文章が文学にまで昇華したといわれています。前半は作戦行動の簡潔な報告文ですが「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」を加えることにより完璧な文になりました。「天気が晴朗」だと敵艦の目視が確実にでき、艦砲射撃の精度が上がること、「波が高い」と連係水雷作戦が困難であることも言外に伝えています。正岡子規の親友であった秋山真之の文学センスの良さが今日まで讃えられている所以です。
そして13時55分に東郷平八郎は聯合艦隊旗艦「三笠」にZ旗の掲揚を指示して全艦隊に知らしめ戦闘を開始しました。Z旗の意味は、「皇国ノ興廃、此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」と言うものでした。
艦隊決戦は、東郷指令長官と秋山参謀が日清戦争の教訓を生かして、かねてから用意していた戦術が採用されました。艦隊決戦の常識に反する破天荒な敵前大回頭、T字戦法、有名なトーゴーターンでした。この戦法で東郷艦隊はバルチック艦隊の先頭艦から逐次、敵艦を集中砲撃して大半の艦船を沈め、海戦では希有といわれる一方的な勝利をおさめました。
後に秋山真之は海軍大学で海戦の戦術を講義しました。最近、判明したのですが講義録の冒頭に「これから教える戦術は将来通用しない」と宣言しているのです。
「人知ノ発達ト機械ノ進歩ハ、江戸・長崎ノ行軍時間ヲ東京・ロンドン間ノ行軍時間ト同一ニスルコトヲ忘ルベカラズ」でした。その予言の通り、それから速やかに艦船の替わりに飛行機と潜水艦が現れ、秋山の思想の後継者が無くなった頃に太平洋戦争が起こり、日本はアメリカに大敗したのでした。秋山は文明開化を体験した世代の一人であり、時間の大切さと怖さが骨身にしみていました。しかし、服装などには無頓着で東郷長官の前にボタンをかけ違えたまま現れたこともあったということです。
秋山兄弟と正岡子規らを描いた司馬遼太郎の「坂の上の雲」はテレビドラマになって放映されています。このドラマでは秋山真之の兄の秋山好古(よしふる)は弟にはとても恐い兄貴として描かれています。彼を阿部寛が好演しています。
秋山好古は晩年を郷里の松山で過ごし、6年余りを北予中学の校長として勤務して無遅刻、無欠席であったとのことです。通学途中で道草を食っている生徒を見かけると「はよ走っておゆき」とやさしく声をかけ生徒を叱ることがなかったそうです。この元陸軍大将の中学校長は教育界の名物男だったということです。
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司馬遼太郎「司馬遼太郎全集24,25,26」文藝春秋社