yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

高適 除夜の作 霜鬢明朝又一年

2009-12-31 11:24:47 | 文学
毎年、大晦日になると決まって想い起こす漢詩、除夜の作(高適)です。

旅館の寒燈獨り眠らず 
客心何事ぞ轉た凄然
故郷今夜千里を思ふ 
霜鬢明朝又一年

詩人 高適(こうせき)は四川省成都に流浪して来た杜甫を温かく援助し親交を結びました。晩年は不遇でした.

結句 霜鬢明朝又一年    
白髪に又 一年がむなしく加わる、にしみじみとしたものを感じます。
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谷根千(やねせん)界隈

2009-12-29 19:46:48 | 文化
  谷根千とは谷中・根津・千駄木の頭文字を取った言葉で、東京都の文京区と台東区に属します。東京23区のほぼ中心に位置し、いわゆる「山の手」の一角でありながら、今なお昔の下町の風情を残す歴史と情緒に溢れる地域です。この辺りは関東大震災や東京大空襲の際にも火災を免れたので、江戸時代はともかく、明治・大正の古き良き時代の雰囲気を今もふんだんに残しています。
 谷中には殊に寺が多く、ここの霊園には15代将軍・徳川慶喜や日本画の横山大観らも眠っています。ところで谷中銀座と呼ばれる商店街のどん詰りにある、だだっ広い石段は「夕焼けだんだん」と言われていますが、ここから本郷の高台越しに見える夕陽がとても美しいことから、この名がつけられたのでしょう。谷中のすぐ隣の根岸には正岡子規が、母と妹に看取られながら息をひきとった子規庵があります。子規の人柄と文学を慕って子規庵には、後に短歌や俳句で日本の中心となった人物が大勢集っていたということです。
この辺から少し北に行くと根津という町があります。東京十社の一つにも数えられている有名な根津神社があり、つつじや桜の名所ともなっています。嘗て私の下宿が根津神社の近くにあったので、谷根千界隈を良く散策したものです。また隣の千駄木には、川端康成、北原白秋、高村光太郎、夏目漱石、森鴎外らの旧居もあり、現在も大学教授が大勢住んでいる文人の町です。ここは高台なので、周りには不忍通りに下る団子坂・動坂など多くの坂があります。団子坂は傾斜が急なため、転ぶと泥団子のようになることからこの名があります。動坂には不動様があったので、昔は不動坂と言われていましたが、今では短縮して動坂と呼ばれています。東京には坂が多く、小さな坂でもそれぞれに名前が付いており、千駄木から南へ本郷の方に行くと真砂坂の先生で有名な真砂坂などもあります。また、赤坂の南部坂(大石内蔵助と謡泉院の南部坂雪の別れ)や千代田区の紀尾井坂(大久保利通、遭難の地)などは歴史的にも有名です。
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たらば蟹

2009-12-23 09:33:01 | 近況
北海海から見事なたらば蟹が到来しました。(写真)旅行に行った娘が現地から冷蔵状態で送って来ました。冷凍状態で送ると解凍したときに味が落ちるので、冷蔵状態で届いたのをそのまま食べるのが美味しく頂くこつだそうです。早速、冬至の夕食の食卓に載せ、活きのいい味を堪能しました。

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きよしこの夜

2009-12-21 07:14:06 | 文化
1818年オーストリア、ザルツブルグ郊外のオーベンドルフという小さな村の教会では、クリスマスを前に、オルガンが壊れていました。そこで司祭のモールは、ミサで皆が歌える歌を創ってくれるようにと親友のフランツ・クサーヴァー・グルーバーに頼みました。グルーバーは、ヨゼフ・モーアが作詞したドイツ語の詩“Stille Nacht”につける曲を愛用のギターを奏でながら懸命に作曲し、24日のミサが始まる1時間前に“きよしこの夜”を完成させました。やがてこの歌はチロルに広まり、更に国境を越えて世界中で歌われるようになりました。今では300を越える言語に訳されているとのことです。一つの歌がこれ程多くの言語に訳されているのは他に例が無いそうです。また、作曲に使ったグルーバーのギターは今も大切に保存されているとのことです。


きよしこの夜 星は光り
救ひのみ子はみ母の胸に
ねむり給ふ 夢やすく

きよしこの夜 み子の笑みに
めぐみのみ代の朝(あした)の光
輝けり ほがらかに

日本では、牧師の由木康(ゆうき こう)が日本語訳をして1909年に賛美歌集に加えました。クリスマスには決ってこの曲が流れ、子供の頃から親しんでいますが、心に安らぎを与えてくれる良い歌です。
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地上の星/ヘッドライト・テールライト

2009-12-19 07:35:38 | 文化
ご承知の通り、NHKの「プロジェクトX-挑戦者たち」の主題曲が「地上の星」、エンディングソングが「ヘッドライト・テールライト」で2000年に中島みゆきが作詞、作曲しました。第53回のNHK紅白歌合戦(2002年)では極寒の黒部川第4発電所の地下道から生放送があり、中島みゆきが「地上の星」を熱唱しました。この場面の視聴率は記録的であり、私もその時の感動を今も忘れることができません。当時は中島みゆきがテレビに出演すること自体がニュースになっていて、この時に「彼女が歌う映像」を初めて見たという人が沢山いたということです。私がいつも興味深く見ていた番組「プロジェクトX」と共にこれらの歌には大いに共鳴する所があり、今でもCDで楽しんでいます。
中島みゆき(本名 美雪)は札幌市生まれ、我が国を代表するシンガーソングライターでレコード大賞、作詞賞などの数々の音楽賞に輝きました。溢れる才能は作詞と作曲と歌唱力を合わせ持つ歌姫を生み出しました。斬新な感性から発する言葉のフレーズをあやつって魅力ある作品を次々に生み出しました。彼女の多くの才能の中でも作詞の天分が最も優れているのではないかと思います。以下に「地上の星」と「ヘッドライト・テールライト」の歌詞の全文を記します。

地上の星
1. 風の中のすばる
砂の中の銀河
みんな何処へ行った 見送られることもなく
草原のペガサス
街角のヴィーナス  
みんな何処へ行った 見守られることもなく
地上にある星を誰も覚えていない
人は空ばかり見てる
つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を
つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう

2. 崖の上のジュピター
水底のシリウス
みんな何処へ行った 見守られることもなく
名立たるものを追って 輝くものを追って
人は氷ばかり掴む
つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を
つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう

3. 名立だるものを追って 輝くものを追って
  人は氷ばかり掴む
  風の中のすばる
  砂の中の銀河
  みんな何処へ行った 見送られることもなく
つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を
つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう

ヘッドライト・テールライト
1. 語り継ぐ人もなく
吹きすさぶ風の中へ
紛れ散らばる星の名は
忘れられても
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない

2. 足跡は降る雨と
降る時の中に消えて
称える歌は
英雄のために過ぎても
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない

3. 行く先を照らすのは
まだ咲かぬ見果てぬ夢
遙か後ろを照らすのは
あどけない夢
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない

ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終らない
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皇帝ダリア

2009-12-17 06:52:21 | 近況
皇帝ダリアは11月から12月に開花する花で、隣家の庭にも今を盛りと咲いています。
(写真下)歩いていると、結構あちこちにあるのですが、高い所に花を付けているのでうっかり見過ごしてしまうことがあります。
この花はメキシコ原産の多年草で、草丈が3-4mにもなり、赤や白やピンクの花を付けます。まことに孤高で堂々としており、ダリアの王様、皇帝ダリアの名にふさわしい花です。花言葉は、華麗、優雅、威厳、移り気、不安定、乙女の真心、乙女の純潔です。

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お礼

2009-12-16 07:02:08 | 近況
いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。
お蔭さまで、昨日、アクセス数が6万5千に到達いたしました。
平成18年の3月に書き始めてから約4年になりました。
この間に65,000アクセスは、望外のハイペースではないかと思っております。
引き続き、ご愛読いただければ、有り難く存じます。なお、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。
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本日天気晴朗なれども波高し

2009-12-14 07:21:31 | 歴史
明治38年(1905年)に日露戦争の勝敗を決定的にした日本海海戦がありました。
世界史の歴史家がレパント海戦(1571)、トラファルガル海戦(1805)と共に日本海海戦
を世界三大海戦に挙げているのは、東洋の小国が西洋の大国ロシアを破った画期的な出来事だったからです。
当時、ロシアからインド洋を回ってウラジオストックに向かうバルチック艦隊が日本近海のどこを通るかは、日本の迎撃作戦上の大きな問題でした。九州南西部で信濃丸がバルチック艦隊を発見して追跡を続け、ロシア艦隊が対馬海峡方面に向かった事を確認した時、聯合艦隊司令長官の東郷平八郎は、旗艦「三笠」から日本の大本営に当てて電文を打ちました。それが、
「敵艦見ユトノ警報ニ接ツシ聯合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃沈滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
でした。(写真)
電文の草稿は作戦参謀、秋山真之(さねゆき)によるものでした。真之の幕僚が作った案文
「敵艦見ユトノ警報ニ接ツシ聯合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃沈滅セントス」とあるのを、真之が確認して「よろしい」とうなずきましたので、幕僚はすぐに上官に届けるべく駆け出そうとしました。その時、真之は「待て」と停め、鉛筆を握ると先の案文に「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と加筆しました。この時、一個の作戦連絡の文章が文学にまで昇華したといわれています。前半は作戦行動の簡潔な報告文ですが「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」を加えることにより完璧な文になりました。「天気が晴朗」だと敵艦の目視が確実にでき、艦砲射撃の精度が上がること、「波が高い」と連係水雷作戦が困難であることも言外に伝えています。正岡子規の親友であった秋山真之の文学センスの良さが今日まで讃えられている所以です。
 そして13時55分に東郷平八郎は聯合艦隊旗艦「三笠」にZ旗の掲揚を指示して全艦隊に知らしめ戦闘を開始しました。Z旗の意味は、「皇国ノ興廃、此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」と言うものでした。

艦隊決戦は、東郷指令長官と秋山参謀が日清戦争の教訓を生かして、かねてから用意していた戦術が採用されました。艦隊決戦の常識に反する破天荒な敵前大回頭、T字戦法、有名なトーゴーターンでした。この戦法で東郷艦隊はバルチック艦隊の先頭艦から逐次、敵艦を集中砲撃して大半の艦船を沈め、海戦では希有といわれる一方的な勝利をおさめました。

後に秋山真之は海軍大学で海戦の戦術を講義しました。最近、判明したのですが講義録の冒頭に「これから教える戦術は将来通用しない」と宣言しているのです。
「人知ノ発達ト機械ノ進歩ハ、江戸・長崎ノ行軍時間ヲ東京・ロンドン間ノ行軍時間ト同一ニスルコトヲ忘ルベカラズ」でした。その予言の通り、それから速やかに艦船の替わりに飛行機と潜水艦が現れ、秋山の思想の後継者が無くなった頃に太平洋戦争が起こり、日本はアメリカに大敗したのでした。秋山は文明開化を体験した世代の一人であり、時間の大切さと怖さが骨身にしみていました。しかし、服装などには無頓着で東郷長官の前にボタンをかけ違えたまま現れたこともあったということです。

秋山兄弟と正岡子規らを描いた司馬遼太郎の「坂の上の雲」はテレビドラマになって放映されています。このドラマでは秋山真之の兄の秋山好古(よしふる)は弟にはとても恐い兄貴として描かれています。彼を阿部寛が好演しています。
秋山好古は晩年を郷里の松山で過ごし、6年余りを北予中学の校長として勤務して無遅刻、無欠席であったとのことです。通学途中で道草を食っている生徒を見かけると「はよ走っておゆき」とやさしく声をかけ生徒を叱ることがなかったそうです。この元陸軍大将の中学校長は教育界の名物男だったということです。

司馬遼太郎「司馬遼太郎全集24,25,26」文藝春秋社


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追分

2009-12-10 09:08:57 | 歴史
小諸出てみろ浅間にヨー
今朝も煙が三筋立つ
碓氷峠のあの石車ヨー
誰を待つやらくるくると
浅間山さんなぜ焼けしゃんすヨー
裾に三宿(追分)持ちながら、、、以下略

有名な「追分馬子唄」ですが信濃追分宿でのみ「追分節」といわれ民謡の一ジャンルとしての地位を保っています。この地で生まれた追分節は、北上して新潟で越後追分、小木追分となり、山形で酒田追分、秋田で本庄追分となり、北前船で北海道松前に渡り、最後に有名な江差追分にまでなって主に北国で盛んに歌われました。
ところで、追分とは道の分岐点のことです。信濃追分宿は江戸から京に向かう中山道と、そこから分かれて越後に向かう北国街道の起点です。ここには、旧本陣「油屋」があり、昔ながらの建物であり立原道造などの文人に愛された宿があります。
私はかつて東京都文京区の本郷通りの近くに住んでいましたが、ここにも本郷追分がありました。江戸から日光東照宮に向かう御成街道と呼ばれた本郷通りと東大農学部前辺りから分かれて北西に向かう中山道の分岐点が本郷追分です。江戸時代には、この辺りに備後の阿部家の屋敷がありました。阿部家は幕末に老中、阿部正弘などを出した名門で学問好きの家でした。地元福山には誠之館(せいしかん)という藩校があったこともあり、現在でも本郷には誠之小学校という、番町小学校と並ぶ東京屈指の名門小学校があります。また、この辺りには八百屋お七の墓もあります。追分から御成街道をさらに300mほど北に行くと東大追分学寮がありました。「窓は夜露に濡れて、、、」と歌う「北帰行」を作詞した宇田博氏も東大文学部時代にはこの寮にいたと言うことです。この追分学寮は老朽化したため2006年に廃止されました。
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全国藩校サミット

2009-12-03 07:15:37 | 歴史
全国藩校サミットという催しが毎年開かれています。2002年に始まったこのイベントは藩校教育と漢文教育を今後の人材育成に生かすことが重要という理念に拠っています。第1回からの開催地と藩校を下に記しました。

 第1回 東京都 湯島聖堂 (2002年 初回として開催)
 第2回 福島県 會津藩 日新館
 第3回 佐賀県 多久藩 東原庠舎(とうげんしょうしゃ)
 第4回 岡山県 高梁藩 有終館
 第5回 長野県 高遠藩 進徳館
 第6回 山形県 庄内藩 致道館
 第7回 熊本県 熊本藩 時習館
 第8回 新潟県 長岡藩 崇徳館
 第9回 島根県 松江藩 文明館 (2010年 開催予定)

江戸時代には約300の藩があり、各藩に学校がありましたから、上記は全藩校の一部です。私の郷里長岡の崇徳館は、あまり知られていないと思いますが、文化5年(1808年)
に長岡藩九代藩主、牧野忠精(ただきよ)公によって開校され、藩士の子弟の教育にあた
ってきました。勿論、河井継之助や小林虎三郎らはここで学びました。今年は崇徳館の
開校から200年に当たることでもあり、去る6月20―21日に牧野忠昌氏を実行委員長として「未来へつなげ!藩校教育と米百俵の精神」というテーマで「第8回全国藩校サミットin長岡」が開催されました。
徳川宗家の当主、徳川恒孝(つねなり)氏を始めとして、全国、北は津軽藩(弘前)から南は薩摩藩(鹿児島)まで51藩の元藩主の子孫が集まりました。これだけ多くのお殿様が一堂に会したのは、最近では極めてめずらしいことでした。徳川恒孝氏(第18代の徳川家の当主)が「江戸時代の人づくり」というテーマで講演され、また漢文教育学会を代表して会長の石川忠久氏(元東大教授、斯文会理事長)が「郷土先人の漢詩にみる長岡の精神」と題する講演を行なわれました。そのほか詩吟あり、書道吟あり見学会ありで大いに盛り上がったとのことです。なお石川先生は小林虎三郎の漢詩を絶賛され、彼を名手と褒め、その漢詩を中国語および日本語で朗々と吟詠されました。
長岡あれこれ情報誌『マイ・スキップ』 2009.07 vol.102
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