伊東悌次郎(1854-1868)は会津藩士 伊東左太夫の次男として生まれました。伊東家の近所に会津藩の砲術師範山本家があったことから、悌次郎は小さい頃から山本八重に砲術を学んでいました。(この事は「山本八重とスペンサー銃」の項でも述べました。)悌次郎は「お八重様 また射撃の稽古をつけて下さりませ」と言っては山本家を訪ねて来ます。八重はゲベール銃を取り出してきて、機織り内職をしながら「用意、立ち撃ち、構え、照準、撃て」と号令をかけます。引き金を引く時に強い力がいるので悌次郎がつい右目を閉じますと、「まだ駄目、臆病、臆病」と叱ります。また照準の際に悌次郎の前髪が邪魔なのに気付いた八重は、さっさと鋏でそれを切り落としてしまいました。八重の母親はこれを見てびっくり仰天し、「伊東様は厳格な家風ですから、ことわりもなく断髪するのは乱暴です」とたしなめました。<o:p></o:p>
さて、悌次郎は戊辰の年の3月に白虎・士中二番隊に編入されていました。ある日、君主の松平喜徳(のぶのり)公に従って安積(あさか)郡福浦村に出陣しました。数日後、戦場の悌次郎から父に手紙が届きました。「今回の出陣に際しては、嘗て日新館に通学の時に用いた刀を差してまいりましたが、このたびは主君をお守りする大切な出陣、是非とも良い刀鍛冶が鍛えた刀を頂戴したい」と、いうものでした。これを見た両親は心を打たれ、蓄財を傾けて備前兼光の大小刀を買いました。しかし、これが届く前に悌次郎は喜徳公とともに鶴ケ城に戻っていました。父より刀を贈られた悌次郎は大変喜んで、何度もお礼を言った後、「この刀により必ずや国家(藩)ために報いてみせます。誓って父上の恩情を無駄にするようなことはございません」ときっぱり言いました。悌次郎は8月22日にこの刀を帯びて松平容保(かたもり)公に従って滝沢村に向かい、さらにそこから進んで戸ノ口原で戦いましたが、戦は利あらず、白虎隊は本隊からはぐれて彷徨った後、同志と共に惜しくも戦死してしまいました。享年若干15歳でした。<o:p></o:p>
中村彰彦『会津のこころ』 日新報道<o:p></o:p>
星 亮一『白虎隊と会津武士道』 平凡社<o:p></o:p>
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