yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

白虎隊士 伊東悌次郎

2009-05-31 06:21:04 | 歴史
  

伊東悌次郎(1854-1868)は会津藩士 伊東左太夫の次男として生まれました。伊東家の近所に会津藩の砲術師範山本家があったことから、悌次郎は小さい頃から山本八重に砲術を学んでいました。(この事は「山本八重とスペンサー銃」の項でも述べました。)悌次郎は「お八重様 また射撃の稽古をつけて下さりませ」と言っては山本家を訪ねて来ます。八重はゲベール銃を取り出してきて、機織り内職をしながら「用意、立ち撃ち、構え、照準、撃て」と号令をかけます。引き金を引く時に強い力がいるので悌次郎がつい右目を閉じますと、「まだ駄目、臆病、臆病」と叱ります。また照準の際に悌次郎の前髪が邪魔なのに気付いた八重は、さっさと鋏でそれを切り落としてしまいました。八重の母親はこれを見てびっくり仰天し、「伊東様は厳格な家風ですから、ことわりもなく断髪するのは乱暴です」とたしなめました。<o:p></o:p>

さて、悌次郎は戊辰の年の3月に白虎・士中二番隊に編入されていました。ある日、君主の松平喜徳(のぶのり)公に従って安積(あさか)郡福浦村に出陣しました。数日後、戦場の悌次郎から父に手紙が届きました。「今回の出陣に際しては、嘗て日新館に通学の時に用いた刀を差してまいりましたが、このたびは主君をお守りする大切な出陣、是非とも良い刀鍛冶が鍛えた刀を頂戴したい」と、いうものでした。これを見た両親は心を打たれ、蓄財を傾けて備前兼光の大小刀を買いました。しかし、これが届く前に悌次郎は喜徳公とともに鶴ケ城に戻っていました。父より刀を贈られた悌次郎は大変喜んで、何度もお礼を言った後、「この刀により必ずや国家(藩)ために報いてみせます。誓って父上の恩情を無駄にするようなことはございません」ときっぱり言いました。悌次郎は8月22日にこの刀を帯びて松平容保(かたもり)公に従って滝沢村に向かい、さらにそこから進んで戸ノ口原で戦いましたが、戦は利あらず、白虎隊は本隊からはぐれて彷徨った後、同志と共に惜しくも戦死してしまいました。享年若干15歳でした。<o:p></o:p>

中村彰彦『会津のこころ』 日新報道<o:p></o:p>

星 亮一『白虎隊と会津武士道』 平凡社<o:p></o:p>

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「よな抜き音階」とスコットランド民謡

2009-05-26 16:44:50 | 文化
  

「よな(4と7)抜き音階」とは、短音階「ラシドレミファソラ」において第4音の「レ」と第7音の「ソ」を抜いた「ラシドミファラ」という5音階のことです。叙情性のある音階で、江戸時代以後の日本の歌曲の多くがこの音階でできています。また、箏曲などに用いられてきた陰音階とも似ています。明治時代以降、叙情歌として親しまれてきた唱歌や童謡はこの音階の曲が多く、日本人の好みに合っていると思われます。演歌も多くがこの音階です。<o:p></o:p>

 ちなみに明治以後に日本に紹介され、親しまれてきたスコットランドの歌曲や民謡もこの音階です。<o:p></o:p>

 「アニー・ローリー、蛍の光、マイ・ボニー、ジョニーがいなくてがっかり、故郷の空(原題、麦畑)、スコットランドの釣鐘草、ロッホローモンド、仰げば尊し、バーバラ・アレン」など実に沢山あります。「庭の千草、春の日の花と輝く、ダニーボーイ」はアイルランド民謡です。<o:p></o:p>

 このことは、日本人の音の琴線に触れる歌曲が、遠いスコットランドやアイルランドで生まれて、日本の音楽に影響を与えて来たことを示しています。<o:p></o:p>

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お礼

2009-05-24 07:08:36 | 近況
  

いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。<o:p></o:p>

お蔭さまで、昨日、アクセス数が45,000に到達いたしました。<o:p></o:p>

平成18年の3月に書き始めてから3年余りになりました。<o:p></o:p>

この間に45,000アクセスは、望外のハイペースではないかと思っております。<o:p></o:p>

引き続き、ご愛読いただければ、有り難く存じます。なお、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。<o:p></o:p>

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山本八重とスペンサー銃

2009-05-21 06:35:14 | 歴史
  

山本八重は会津藩の砲術師範 山本権八(ごんぱち)の長女です。会津戦争が始まる前、山本家の長男の山本覚馬は、京都で捕えられ、薩摩藩邸に幽閉され、処刑されたらしいと会津では言われていました。弟の三郎は鳥羽伏見の戦で戦死していました。山本家は武田信玄の軍師であった山本勘助につながる家柄です。男まさりの八重は、西軍の会津侵攻に備えて白虎隊の伊東悌次郎らの少年にゲベール銃の撃ち方を指南していました。1868年に西軍が鶴ケ城に迫ると、八重は兄弟の弔い合戦の積もりで弟 三郎の形見の衣服を着用し、男装して城内に入りました。八重が手にしていたのは、1860年にアメリカで発明されたばかりの、当時最新式のスペンサー銃で、これは元込め七連発のライフル銃です。重さ4kg、長さ94cm、射程が820mもあり、熟練者が使うと命中率が高かったということです。さて甲賀町通りから本丸を目指した西軍は、城の北出丸に行手を阻まれて右往左往していました。この時、八重は北出丸の銃丸にスペンサー銃を差し込み、迎撃の態勢を取りました。北出丸の銃丸から堀端までは約55mでした。八重は堀端に集結した土佐藩兵への狙撃を始め、藩兵を次々に撃ち倒しましたので土佐藩兵はたまらずに退却しました。代わって前線に出て来たのが薩摩藩砲隊隊長、大山弥助(後の元帥、大山巌)でした。ところが彼も狙い撃ちされ右大腿部に貫通銃創を負い、江戸に移送されて手当を受けました。この大山を撃ったのは山本八重のスペンサー銃であった可能性が高かったと言われています。また、八重は会津藩の四斤山砲(大砲の一種)を北出丸に据えさせ、砲兵を指導して西軍を砲撃しました。また、夜になると町に出撃して西軍を奇襲する活躍をしましたので、城内で八重を知らない人はいなかったそうです。籠城隊の中には山川家の一家、山川咲子(当時8歳)もおり、山川姉妹は籠城戦に参加して懸命に働きました。この山川咲子が、後に大山巌と結婚した大山捨松です。この事も、思えば運命の不思議と言えます。<o:p></o:p>

さて会津戦争の後、八重は、赦免されて京都にいた長兄の覚馬を頼って上京し、新島襄と結婚して同志社大学の運営に生涯を捧げました。アメリカ帰りの新島襄は日頃、万事につけて西洋風であり、妻の八重を大切にし、八重とも対等の振る舞いをしていました。そこで八重も自然に夫を「襄」と呼び、車には先に乗ったりしました。また、和服に靴を履いたりしましたので、こうした行動が旧い日本的な考え方に固まっていた熊本出身の学生、徳富猪一郎、蘆花兄弟などの反感を買い、八重は彼等に「京都の鵺(ぬえ)」などと言われて公然と非難されたこともありました。しかし八重は泰然として全く意に介することがなかったそうです。八重は後年、日本赤十字社に入り篤志看護婦人会の一員として日清、日露両戦争に従軍し、戦争負傷者の看護にあたったりしました。その功により、勲六等を賜り、女性として初めての従軍記章を授けられました。この篤志看護婦人会こそ、アメリカ・ニューヘイブン看護婦養成学校で看護婦資格を取って帰朝した大山捨松が創設したものです。これは共に鶴ケ城の籠城戦を経験した二人の会津女性が、明治の看護活動に尽力したことを示すものです。<o:p></o:p>

中村彰彦『会津のこころ』 日新報道<o:p></o:p>

早乙女貢『明治の兄妹』  新人物往来社<o:p></o:p>

久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』 中央公論社<o:p></o:p>

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「志」と佐藤昌介

2009-05-16 06:29:47 | 人生
   

現代では「志を持つ」とか「志を立てる」という言葉は死語になった感があります。思えば明治の初年、開校間もない札幌農学校の生徒達に、「少年よ大志を懐け」と、声高らかに語ったクラーク博士は偉大な師でありました。<o:p></o:p>

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クラーク博士が語った言葉の全文を以下に記します。<o:p></o:p>

Boys be ambitious. not for money or for selfish aggrandizement, not for<o:p></o:p>

that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment<o:p></o:p>

of all that a man ought to be.<o:p></o:p>

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青年よ大望を持て。金銭や利己的誇負(こふ)の為ならず。世の人々の名誉と称するその実 虚しきことの為ならず。人として当(まさ)にかくあるべきあらゆることを達成せんとする大望をもつべし<o:p></o:p>

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続いて、この話には決まって札幌農学校二期生の内村鑑三と新渡戸稲造の名が挙がります。実はこの二人はクラーク博士から直接に薫陶を受けたという事実が無いにもかかわらず、何故か直接に教育を受けたという誤った説が多く見受けられます。この二人の二期生が農学校に入学した時には、クラーク博士は八ケ月半の札幌での仕事を終えて、既にアメリカに帰国していたのです。内村等は、クラーク博士のことを、直接教育を受けた一期生の佐藤昌介や大島正健を通して知ったのでした。これを思うと、クラーク博士から受けた教えと感動を二期生以降の生徒に伝えた佐藤昌介等の功績は大きいといわねばなりません。後に大島正健は母校を去り、佐藤昌介は残って後進の指導に当たり、北海道帝国大学の総長にまで昇った他、新渡戸稲造と共に東京女子大学の創立にも関わりました。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

さて、孔子は「吾十有五にして學に志し、三十にして立つ」と、言っています。また、広く親しまれている名歌「ふるさと」の歌詞の中にも「志」についての一節があります。<o:p></o:p>

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1.兎追ひし かの山 小鮒釣りし かの川<o:p></o:p>

夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷<o:p></o:p>

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2.いかに在ます父母 恙なしや友がき<o:p></o:p>

雨に風につけても 思ひ出づる故郷<o:p></o:p>

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3.志を果たして 何時の日にか帰らん<o:p></o:p>

山は青き故郷 水は清き故郷<o:p></o:p>

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この歌詞を読むと、旧い時代の若者にとっては、志を果たしてふるさとに帰ることが自然な願いであったことを教えてくれます。<o:p></o:p>

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大山綱夫『佐藤昌介と大島正健』 学士会<o:p></o:p>

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青山常運歩

2009-05-09 06:37:54 | 文学
  

将棋の羽生善治名人に「青山常運歩」(せいざんじょううんぽ)と揮毫した扇子があります。<o:p></o:p>

棋士はよく扇子に揮毫します。口の悪い 故・芹澤博文九段は、後輩の中原誠十六世名人や内藤国雄九段が若い頃、「残心」とか「無心」とかを使っているのを聞いて「無と心の間」や「残と心の間」には空間を空けておくようにアドバイスしたという話があります。その心は、この空間に「今」という字を書き足せるようにしておく、と言うことでした。君達は将棋に負けて「残念」「無念」と悔やむのが似合うよ、というブラックユーモアでした。<o:p></o:p>

しかし、羽生名人が「青山常運歩」と書くと何やら有難そうに見えます。NHKの将棋講座で講師を担当している橋本崇載(たかのり)七段が、この扇子を見て「へーっ、羽生名人はいつも青山を散歩しているんですね」は巧まざるユーモアでした。橋本さんが言うと、とぼけた味があり好感が持てました。<o:p></o:p>

さて「青山常運歩」は仏教の教えを示す含蓄のある言葉です。字面を追っただけでは意味がよくつかめませんでしたので、調べてみました。中国の宋の芙蓉道楷和尚が語ったとされ、道元禅師が「正法眼蔵」に採り入れました。山は動かないものの代名詞になっていますが、山は山のままで仏法を説き仏道を示す。あますところなく私達を包みこむように仏法を説きつつ眼前にせまって来る清浄身つまり仏様。山は人間が歩行するようではありませんが、常に広大無辺青山から運歩して来ることを疑う事があってはならない。<o:p></o:p>

 と先哲は言っています。<o:p></o:p>

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青山と言うと、幕末の勤皇僧 月性の次の漢詩が思い起こされます。<o:p></o:p>

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   壁に題す<o:p></o:p>

  男児志を立てて郷関を出づ<o:p></o:p>

  學若し成る無くんば死すとも環(かへ)らず<o:p></o:p>

  骨を埋むる、何ぞ期せん墳墓の地<o:p></o:p>

  人間(じんかん)到る青山有り<o:p></o:p>

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「青山」は文字通り、骨を埋めるにふさわしい「青々とした山」のことです。故郷の墳墓でなくてもいいから、いたるところにある青山に骨を埋める覚悟を持って勉学に励むようにと諭しています。若者に対して強烈に訴えかける悲壮な詩です。<o:p></o:p>

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また、詩仙 李白の次の有名な漢詩もあります。<o:p></o:p>

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   友人を送る<o:p></o:p>

 青山北郭に横たはり 白水東城を遶(めぐ)る<o:p></o:p>

 此の地一たび別れを為して 孤蓬萬里に征()く<o:p></o:p>

 浮雲遊子の意 落日故人の情<o:p></o:p>

 手を揮(ふる)つてここ)より去る 蕭蕭として班馬鳴く<o:p></o:p>

  <o:p></o:p>

  ここにある青山は街の北側の城郭の向こうに横たわる青々とした山の<o:p></o:p>

ことですが遠方に旅立つ友人を憶う寂寥感が見事に表現されています。<o:p></o:p>

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島崎藤村もこの詩を借用して、小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ と<o:p></o:p>

歌っています。<o:p></o:p>

コメント (3)
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地球の大きさと伊能忠敬

2009-05-03 09:35:40 | 科学
  

地球の大きさを世界で初めて求めたのはギリシャのエラトステネス(BC276-BC196)です。エラトステネスは数学・天文学・地理学者です。当時、ギリシャでは既に地球は丸く、球であることが認識されていたということは驚ろくべきことです。紀元前230年頃、まず、エラストテネスはアレクサンドリアからシエネまでの距離を歩幅と歩数から500スタジアであることを求めておりました。1スタジアは当時のギリシャにおける長さの単位です。人が2分間に歩く距離で約180mに当たります。次にアレクサンドリアとシエネの両地における太陽の南中高度の差、7.2度から500X(360/7.2)=25,000スタジアと計算しました。この距離は、今日で言う45,000kmです。この値は現在、知られている、地球の周囲の長さ40,000kmに比べて、誤差は僅かに約10%ですから、すばらしい成果だと言えます。<o:p></o:p>

 地球の周囲の長さが40,000kmというのは学校で学びましたが、これは、1mという長さの根拠になっています。フランス革命の頃、パリを通る経線に沿って、<o:p></o:p>

赤道から北極の距離、10,000kmの1千万分の1を1mとすることが決められました。<o:p></o:p>

 実際の地球は真球ではなく、赤道半径(地球の中心から赤道面までの距離)は6378.4km、極半径(地球の中心から極までの距離)は6356.9kmであり、極半径の方が若干短いという事は、真球よりやや扁平につぶれた形をしているということです。ところで世界の長さの基準となるメートル原器という物が、長い間パリに保管されて来ました。しかし、あらゆる物質は経年変化をするので、現在では物理現象から長さや時間の基準が定められています。<o:p></o:p>

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 さて、日本で最初に地球の大きさを決めたのは、幕末の頃の伊能忠敬です。<o:p></o:p>

 伊能忠敬(1745-1818)の生家は漁師でしたが、長じて下総佐原の造り酒屋を継ぎ、財をなしました。50歳で隠居して、家督を子供に譲ったあと江戸に上り、幕府の天文方暦局に入って学問に没頭し、幼い頃からの夢であった天文学の研究にも携わりました。彼は当初、暦局がある浅草と自分の家がある深川から北極星を観測して、緯度の差が0.1度であることを求め、浅草と深川の間の距離が2kmあったことから地球の円周を計算しました。ところがその値は誤差が大きくて信頼できないと、天文方の上司に一笑に付されてしまいました。そして「せめて、江戸と蝦夷くらいに離れた場所で観測しなければ正確な値が得られないであろう」と言われました。そこで忠敬は日本地図を作成するための測量をしながら、江戸から蝦夷地まで行くことを思いたち、56歳から測量の旅を始めました。それから蝦夷まで行って観測を続けて緯度1度が111kmであることを求め、これから地球の大きさを39,960kmと計算しました。現在知られている40,000kmに対しての誤差は、僅かに1/1000という驚異的な結果でした。<o:p></o:p>

忠敬は71歳で、ほぼ地図を完成させましたが、これが「大日本沿海輿地全図」であり、その後昭和の時代まで100年に亘って使用された、いわゆる「伊能図」です。しかもこの図は彩色された美しいものでした。これを完成させるまでに忠敬が歩いた長さは、奇しくも地球1周分でありました。幼い頃の夢を生涯持ち続け、日本地図に結実させた熱意と努力は誠に偉大であったと思います。<o:p></o:p>

コメント (2)
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