yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

篤姫の母の教え

2008-10-29 08:37:13 | 歴史

テレビドラマ「篤姫」を楽しく見ております。<o:p></o:p>

篤姫は薩摩島津氏の分家である今泉島津家、島津忠剛(ただたけ)幸(ゆき)の長女として生まれ、島津本家 斉彬(なりあきら)の養女となった後、十三代将軍家定に嫁ぎました。破格の出世をしましたが、時代のうねりに翻弄されて数奇な運命を辿りました。<o:p></o:p>

しかし、この縁組みこそ、維新の混乱の中で江戸と徳川家を救う陰の功労の基となったのでした。<o:p></o:p>

篤姫は、女性ながら、一生自分の信念をまげることなく、また自分らしさを失うことなく、強く生きた、聡明で天晴れな女性でした。それは、そのような娘に育てた両親の愛情と養育の賜物であったのではないかと思います。<o:p></o:p>

父、島津忠剛は(長塚京三が好演しました)典型的な薩摩の古武士で、藩と藩主に忠節を尽し剛直に生きた人物でした。樋口可南子が演じている母、幸は溢れるような愛情を娘にそそぎ、娘が生家を離れる際には次のように教えました。<o:p></o:p>

「あなたは人の上に立ち、判断に迷うような場面に度々遭遇することでしょう。そういう時には考えるのを止めて、感じなさい。そして、あなたがいいと感じる道を選びなさい。」いわば、自身の感性と感を信じなさいと諭したのでした。これは現代でも通用する教えではないかと思います。<o:p></o:p>

 篤姫は御台様(みだいさま)として、味方が少ない中で江戸城大奥を束ね、徳川家の人となり、薩摩の人脈をも頼りながら徳川宗家を守り抜き、十六代家達(いえさと)の成長を見届けた後、他界しました。その篤姫の数少ない遺品、「桜島と薩摩の生家」を描いたと思われる一幅の画軸は、今も徳川記念財団に大切に保存されているとのことです。<o:p></o:p>

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素粒子論

2008-10-24 13:14:54 | 文化

南部陽一郎氏、益川俊秀氏、小林誠氏にノーベル物理学賞の受賞が決まったというニュースがありました。湯川秀樹氏、朝永振一郎氏に続く受賞であり、これは、日本の素粒子物理学の研究が世界のトップレベルにあることが世に示されたことであり、誠に喜ばしいことです。<o:p></o:p>

中学校では物質を構成する元素は、陽子、中性子、電子から成り立っていることを学習しましたが、それらの粒子がクォークという素粒子からできている<o:p></o:p>

というのは夢みたいな話で、ピンと来ないというのが普通ではないでしょうか。<o:p></o:p>

 益川氏と小林氏は、1973年にクォークは全部で6種類であろうと予言する論文を書き、21世紀に入って、それが実験的に証明されつつあるというから驚きです。<o:p></o:p>

 6種のクォークとは、u(アップ)、d(ダウン)、c(チャーム)、s(ストレンジ)、t(トップ)、b(ボトム)です。<o:p></o:p>

 これら6種類のクォークにより、自発的CP対称性の破れが説明できるようになり、益川、小林理論は今や標準理論として認められています。<o:p></o:p>

  Cは荷電共役変換(Charge Conjugation)の略で、粒子を反粒子に反転することを意味します。<o:p></o:p>

  PはParity変換の略でParity物理系の鏡像を作ることを意味します。<o:p></o:p>

  CPはこの二つの演算子の積のことです。<o:p></o:p>

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素粒子の生立ちについてイギリスのホーキング博士は次のように書いています。宇宙創成のビッグバンの瞬間では、宇宙の大きさはゼロですから、非常に<o:p></o:p>

高温のはずです。しかし宇宙が膨張するにつれて、放射により温度は下がっていきます。ビッグバンの1秒後には、温度は100億度程度に下がっているでしょう。それは太陽の中心温度の約1000倍ですが、水素爆弾が破裂するとこれと同じくらいの高温になります。この時点での宇宙は、主に光子と電子、中性微子(ニュートリノ)とその反粒子、それに陽子と中性子でできています。<o:p></o:p>

 更に宇宙が膨脹し温度が下がり続けるにつれて、電子と電子対が衝突する率は、対消滅によって破壊される率よりも下がっていきます。そのため大半の電子と反電子は対消滅して、さらに多くの光子を作り出し、後にわずかな電子だけが残ります。<o:p></o:p>

 ビッグバンの約100秒後には、温度が高い所でも10億度に下がり、陽子と<o:p></o:p>

中性子が結合して重水素の原子核を作り始めます。やがて、それは陽子と中性子を結合させてもっと重い元素が次々に生まれていきます。近年、大型加速器を使ってこうした素粒子の研究が着々と進み、真実が解き明かされているとのことです。未だに発展途上の研究分野ですが、基礎科学の未知の部分を探求することは、多くの人を魅きつけます。こうした地味な仕事にノーベル賞が与えられたことは、後進に夢を与えてくれます。<o:p></o:p>

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 益川教授は毎晩9時36分に入浴されるのが日課との事であり、入浴中にすばらしい着想を得ておられるのにあやかり、私も夜の定刻に入浴することを試みていますが、我が凡庸の頭脳には何も閃くものがありません。<o:p></o:p>

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   スティーブン・ホーキング著 『宇宙の始まりと終わり』 青志社<o:p></o:p>

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五目ならべ

2008-10-20 15:30:56 | 文化

篤姫が十三代将軍家定と五目ならべをして遊んでいる場面がテレビで放映されていました。五目ならべは江戸時代からある手軽な娯楽で、囲碁、将棋とともに愛好されています。囲碁は政治、将棋は戦争、五目ならべは真剣勝負になぞらえることもあります。<o:p></o:p>

 現代の日本には、連珠を統括する日本連珠社という団体があり、名人制度や段位もあります。<o:p></o:p>

 連珠は、先手が黒石、後手は白石を使って戦います。普通に戦うと先手の勝率があまりに高いので、黒番に対するハンディキャップとして、次のような三つの禁じ手が設けられています。<o:p></o:p>

1,黒は三三を打ってはならない。<o:p></o:p>

2,黒は四四を打ってはならない。<o:p></o:p>

3,黒は長連を打ってはならない。(六目以上並べた形を作ること禁止)<o:p></o:p>

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三三禁はよく知られていますが、四四禁、長連の禁を知らない人は多いようです。白が四連を作った時、それを止めるために、上記の禁じ手を打つことが<o:p></o:p>

できません。これを利用して白は勝つこともできます。<o:p></o:p>

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五目ならべは単純な遊びのようですが、大変、奥深いものがあります。筆者も嘗て、形を選んで(雲月の形)必勝法を懸命に研究しましたが、挫折しました。<o:p></o:p>

連珠では黒1手、白2手、黒3手目を打った場面で21の形が決められており、新月、雲月、名月、明星、瑞星などの風雅な名が付けられています。また、正式な連珠盤は縦横15路で、囲碁盤の縦横19路に比べて小振りです。連珠の試合に囲碁の盤を代用することは、問題ありませんが縦横15路の中で戦うのが正式な打ち方です。<o:p></o:p>

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言うまでもなく、五連(縦か横か斜めのいずれか5つ並べること)を先に作れば勝です。通常はその前段階の四三を作って勝ちを決めます。<o:p></o:p>

次の2手目に2ケ所のどちらかに、四三を作る手を2手四三の手と言います。2手四三の手で勝つのが美しい勝ち方です。<o:p></o:p>

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直江兼続と伊達政宗

2008-10-16 08:02:12 | 歴史

直江兼続(かねつぐ)は、五大老の一人、上杉景勝公を当主とする上杉家の家老でした。兼続は豊臣家から見れば陪臣(家来のまた家来)であるにもかかわらず、秀吉から領地をもらっており、豊臣家の直臣とみなされていました。<o:p></o:p>

兼続は慶長三年(1598年)の一月から三月まで主君、上杉景勝公と共に伏見城に出仕するうちにその見識の高さを諸大名に知られるようになりました。そのある日、独眼竜と渾名(あだな)された奥州58万石の伊達政宗公が大名たちの集まる一室にやってきた時のことです。正宗公が新たに鋳造されたばかりの小判を懐中から取り出して披露におよびました。しかし、兼続だけは正宗公の手元を見ようともしませんでした。その意味するところを気付かない政宗公は、兼続の前にやって来ると、「よくご覧あれ」と、ばかりに小判を彼に手渡そうとしました。うるさく感じた兼続は、持っていた扇を開いて受け取り、続いてぽんと撥ね上げて小判の裏面も見ました。「いや手にとって見ても構わぬが」と言うやその言に反して、次の瞬間には扇を一閃して小判を政宗公に投げ返していました。次いで政宗公に対して凛とした声で次のように言いました。<o:p></o:p>

「身は不肖たりといえど、上杉家先代・不識庵様(謙信)の世より、先鋒の任を受けたまわる身でござる。されば、今日、馬上全軍に采配をふるうこの手で、阿堵物(あと)などに触れはいたさぬ。」<o:p></o:p>

武家には金銭にこだわることを卑しむ伝統がありました。当時、阿堵物とは、不浄のもの、金銭のことを指すことが多かったようです。居あわせた諸大名が沈黙して静まりかえるなか、政宗公は恥じ入って別室に去ったということです。<o:p></o:p>

「伊達58万石など眼中にあらず」という気概を見せた直江兼続の令名はここに<o:p></o:p>

定まったのでした。<o:p></o:p>

<o:p>      </o:p>中村彰彦著『われ千里を思う』文芸春秋社<o:p></o:p>

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小松帯刀と祇園の名妓 お琴

2008-10-10 09:08:18 | 歴史

小松帯刀は幕末維新の頃に、維新の三傑と言われている薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長州の木戸孝允と並ぶ活躍をしましたが、明治の初期に病没したため、その功績の大きさがあまり知られていません。例えば大政奉還を徳川慶喜に承諾させたことにも大きく影響を与えたと言われており、身分の低い西郷隆盛や大久保利通に活躍する場を与えたことも功績の一つと言えましょう。<o:p></o:p>

小松帯刀は若い頃は肝属(きもつき)尚五郎と称していました。平重盛、即ち小松大臣(こまつのおとど)ゆかりの名家小松家の当主は、当時小松清猷(きよみち)であり、薩摩藩主・島津成彬の側近でしたが、琉球に滞在中に病没しました。成彬の命で尚五郎は清猷の妹千賀(ちか)と結ばれ、小松家を相続して小松帯刀清廉(きよかど)となりました。その成彬も間もなく他界しましたが、その後、藩の実権を握ったのは成彬の弟の久光でした。帯刀は久光にも重用され、薩摩藩家老として久光と共に次第に政治の表舞台に出るようになりました。<o:p></o:p>

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祇園の名妓お琴との初めての出会いは文久三年(1863年)久光の娘、貞姫が京都の近衛家に輿入れする祝宴の席でした。この輿入れの準備には帯刀が奔走しました。公卿や諸侯が集まったこの祝宴には祇園の舞妓、芸妓も招かれましたが、お琴の美しさは群を抜いていたと言われます。諸侯の宴席に欠かせなかった当時の祇園の芸妓は、琴・三味線・舞踊は勿論、和歌の手ほどきも受けており、書物や絵画にも通じていました。公家、諸侯や一流の文化人を接遇するのに充分な教養を身につけていました。後に木戸孝允(たかよし)の妻となった幾松もそのような芸妓の一人で、度々、木戸の危難を救ったことがありました。<o:p></o:p>

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さて京都の小松邸では、しばしば公武合体派の人々や勤皇の志士達の会合が開かれましたが、ここを中心に活動をする帯刀を、お琴は公私に渡って支えました。帯刀にすっかり気に入られたお琴は、帯刀にとって無くてはならない存在となりました。こうしてお琴は京都における帯刀の妻妾になりました。帯刀が一時、薩摩に帰国した時、お琴は次のような和歌を詠んで見送っています。<o:p></o:p>

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小松帯刀の帰国のはなむけに火打ちにそえて<o:p></o:p>

うちいづる今日の名残を思ひつつさつまの海も浅しとやせん<o:p></o:p>

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「火打」は旅の無事を祈って火打石を打って清めをすることで「切り火」とも<o:p></o:p>

言うならわしです。<o:p></o:p>

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帯刀は維新直後の働き盛りの35歳、明治三年(1870年)に大阪の病院でお琴に看取られながら病没しました。あまりに早い他界でした。お琴もその4年後の明治七年に帯刀の後を追うように26歳の若さで病死しました。<o:p></o:p>

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鹿児島の名家 小松家の墓域にある小さい墓碑には<o:p></o:p>

琴 仙子<o:p></o:p>

安養院証妙大姉<o:p></o:p>

明治七年八月二十七日死亡<o:p></o:p>

俗名 琴  享年二十六歳<o:p></o:p>

  清廉(きよかど)妾<o:p></o:p>

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と刻まれています。この墓碑は小松帯刀の墓石の近くにありますが、帯刀の正室 千賀夫人の寛大で優しい心根に胸を打たれます。<o:p></o:p>

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原口泉著『龍馬を越えた男 小松帯刀』グラフ社<o:p></o:p>

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加藤家の萱野権兵衛

2008-10-06 08:45:28 | 歴史

豊臣秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦で功があり七本槍の一人として有名な加藤嘉明(よしあき)は、奥州伊達家への備えとして会津を封土としていました。その子息の明成の代に加藤家に不始末があり、加藤家は改易となり、その後に保科正之公(会津藩祖)が信州高遠から出羽を経由して会津に入部して来ました。その加藤家の奉行の一人に萱野権兵衛という武士がいました。<o:p></o:p>

加藤家が改易になったのに伴い、家来の萱野権兵衛もそれについて行きました。その権兵衛が立ち退いた屋敷を検分した正之公の家臣から正之公に次のような報告がありました。<o:p></o:p>

「萱野家の炭壺にはきちんと炭が入れてあり、次に入って来る保科家の家臣がすぐに竈(かまど)に火が熾(おこ)せるように準備してありました。」<o:p></o:p>

これを聞いた正之公は、直ちに加藤家と共に会津を立ち去った萱野権兵衛を探し出して、加藤家の了承の上で萱野権兵衛を譲り受け、会津に連れ戻して保科家の家臣にしました。この人が初代萱野権野兵衛です。萱野家はこの後、會津藩二十八万石の家老にまで登用されて幕末に大いに働きました。正之公の人物を見抜く眼の確かさと、この当時、城下の家屋敷の様子までを報告させるような組織を機能させていたことは驚くべきことです。<o:p></o:p>

その時登用された萱野家の子孫の萱野権兵衛は戊辰戦争のあと、一死をもって会津と会津松平家を救いました。<o:p></o:p>

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中村彰彦著『パックストクガワーナの時代』集英社<o:p></o:p>

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