yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

瓜田ニ履ヲ納レズ 李下ニ冠ヲ正サズ

2016-10-30 07:35:49 | 文学
古楽府」の「君子行」の中に、「君子ハ瓜田(かでん)ニ履(くつ)ヲ納(い)レズ 李下ニ冠ヲ正サズ」と、あります。
すなわち、「瓜の畑で履をはきかえたり、李の林で冠の向きを正しくしたりすると、瓜泥棒や李泥棒と間違えられる恐れがある。君子は疑惑を招くような行動を慎むものである」と言う意味です。
将棋界では、ある棋士が対局中に将棋ソフトを利用したのではないかという疑惑をもたれました。本当に不正があったかどうかは調査中と聞いています。これを踏まえて囲碁界でも将棋界でも疑惑を招く行為が起きないように、対局の実施のルールを新たに定める動きがあるようです。
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段構え

2016-10-27 07:03:44 | 文化
去る10月4日、日本相撲協会は2020年の東京五輪の機運を盛り上げようと、国技館で国際交流イベントを開きました。そこで、日馬富士と鶴竜の両横綱による三段構えの神技の儀式が披露されました。なお、古来三段構えの儀式は最強の力士によってなされる事になっています。 
三段構えの上段は「本然」の型で「開く世は目出度し」、中段は「攻撃」の型で「国土成就」、下段は「防禦」の型で「仰せもっとも有り難し」の意味ともいいます。

1575年の長篠の戦では織田信長の鉄砲部隊が段構えの布陣をして、武田勝頼の騎馬軍団を破ったことがあります。
日露戦争の日本海海戦で日本の連合艦隊は戦艦を七段の段構に配置し、ロシアのバルチック艦隊を撃滅させた例もあります。
 剣道にも段構(大上段、上段、中段、下段)がありますし、段構は日本人が得意とすることのようです。
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祝 大隅教授 ノーベル賞 受賞

2016-10-24 07:50:49 | 文化
去る、10月2日 東京工業大学の大隅良典栄誉教授にノーベル医学生理学賞が与えられることが発表されました。誠におめでたいことであり、日本人として誇りに思います。受賞理由は細胞の「オート・ファジー(自食作用)」の仕組みを発見したことでした。この決定をしたのは、スウェーデンのカロリンスカ医科大学ですが、科学の基礎研究に注目をした高い見識に敬意を覚えます。
大隅先生は、最近、科学の基礎研究が十分にできない日本の現状を憂い、将来、こうした分野において日本人がノーベル賞を取れなくなる恐れがあると警鐘を鳴らしておられます。目前の利益に捕らわれずに長い目で見た高度の研究が進められる社会のあり方が期待されます。
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人類史における戦争

2016-10-21 05:41:13 | 文化
人類史を1日にたとえれば、戦争というものが始まったのは23時間58分58秒からだそうです。実に最後のわずか62秒です。ところで人類史上初の戦争については諸説があります。

5500年前にイラン高原で部族間の戦争があったとする説。
約6000年前にシリアで戦争があったことを示す遺跡が発見されている。など、いくつかの説があります。
それ以前にはずっと戦争がありませんでした。
「全人類が本気になりさえすれば、戦争は必ず絶滅できる。」そう訴えて101歳まで生き続けたジャーナリスト、武野武治氏が先日亡くなりました。彼は戦争の愚や人生の妙を縦横に論じ、味わい深い箴言を残しています。
「終点にはなるだけゆっくり遅く着く。それが人生の旅」「死ぬ時そこが生涯のてっぺん」「1日長く生きれば1日何か感じられる。老いをくよくよ嘆かず人生を楽しもう」と呼びかけています。

今でも、イラン高原周辺やシリアで戦争が続いています。人類の叡智が社会の進歩に役立つことなく、このような愚かな戦争が繰り返されているのは嘆かわしいことです。
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河内国 狭山藩 後北条氏

2016-10-18 05:37:41 | 歴史
北条早雲を祖とする後北条氏は関東一円(伊豆、相模など)を約100年にわたり支配し、四公六民(租税40%)という民に優しい善政を敷きました。しかし、豊臣秀吉の小田原攻めにより、滅亡したと理解していました。ところが、河内国(大阪府)狭山藩1万石1000石として残って江戸時代を存続し、明治時代には北条氏は子爵に列せられ華族となりました。
秀吉の小田原攻めの戦後処理により、4代氏政と、北条氏照は切腹しました。しかし、5代氏直は、許されて高野山に蟄居となりました。その氏直は30歳の若さで病没しました。これにより、北条氏の嫡流は絶えましたが、一族の北条氏規の系統は、江戸時代に狭山藩1万1千石の大名となりました。
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祝 豪栄道 全勝優勝

2016-10-15 05:55:54 | 文化
2016年、大相撲秋場所において、豪栄道関が全勝優勝を果しました。カド番大関が全勝優勝したのは初めての事です。豪栄道関は怪我のために大関らしい成績が挙げられない時期が長く、また、他の大関が注目されることも多く、ずっと悔しい思いをしてきたのではないでしょうか。しかし、豪栄道関は一切言い訳をせず、愚痴をこぼすことなくじっと耐えました。今回は、稽古を積んで自分の特意の型に持ちこんで、前へ前へと進んで勝ち星を重ねました。15日間、見事な相撲を取ってつかんだ優勝でした。
なんと、大阪出身力士の優勝は86年振りで、日本人の全勝優勝は貴乃花以来20年振りです。なお、「豪栄道」という四股名は、本名の澤井豪太郎の「豪」と、高校時代を過ごした埼玉栄高校の「栄」から採ったものだそうです。
「これで終わると、またダメ大関と言われかねないので、今後が大事だ」と語っていました。これからに期待しています。
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雑学 2題

2016-10-12 06:33:07 | 文化
テレビ番組から得た知識、雑学2題を紹介します。「定規と物差しの違い」「あんパンのゴマ」についてです。

「定規と物差しの違い」
「定規」は、線を引くための補助器具です。目盛りが器具の端まであるとは限りません。
一方「物差し」は、長さを測る道具です。目盛りは、器具の端まで付いています。

「餡パンのゴマ」
「あんパン」にはゴマ状の粒々が載っています。何のためでしょうか。これは、中身がクリームやジャムではなく、餡であることを示しているのです。
「黒いゴマ」が載っていると、中身はつぶ餡。「白いケシの実」だと中身はこし餡です。つまり、粒々の色を見ると、中身の餡の種類までわかるようになっています。
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擬人法 俳句

2016-10-09 07:30:29 | 文学
擬人法は、言葉の表現方法の一つです。本来、人格の無い、動植物や無生物を人のように扱う表現法です。意外性があるのですが、安易に用いると、平凡で底の浅い表現、稚拙なものになる恐れがあります。俳句で用いる場合には、慎重に用いることが肝要なようです。

 それにしても、擬人法そのものである「山笑う」(闌春)や、「山装う」(仲秋)などは季語になっています。次は、擬人法を使った俳句の例です。

   松尾芭蕉    五月雨を集めて速し最上川
   高野ムツオ   うしろより来て秋風が乗れと云う

 上記は擬人法であっても、佳句と言えるのでしょう。
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会話は穏やかに

2016-10-06 05:24:37 | 文化
近頃、テレビを見ていると、会話や討論において、大きな声、激しい言葉でやり合っている場面があり、大変見苦しく思います。声が大きい程、説得力は下がるようです。会話や討論は穏やかに、そして静かに進めて欲しいと思います。折しも、新聞紙上に次のような言葉を見つけました。

 言葉には力があります。だからこそ、穏やかに話す人になりましょう。

ほんとうに大事なことは抑え気味の声で話すほうがいいと言われることがある。言葉は意味を伝えるだけではなく、声でふれてゆくから。激しい声は人を圧し、ひるませる。よどむ言葉、ためらいがちの言葉、たどたどしい言葉のほうが、滑らかに流れる言葉より、ときに多くを伝える。国際手話通訳者として活躍する牧師の郡美矢氏の言葉です。

蛇足ながら、意思疎通を滑らかするには、文の主語をきちんと言う事、明瞭に、ゆっくり発音
することが重要です。言語明瞭、意味不明と揶揄された元首相のようなのもいただけませんが。

郡美矢「あなたは見えないところで愛されている」角川書店
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兼好法師の死生観

2016-10-03 05:52:26 | 文学
兼好法師は、「徒然草」の百三十七段、百五十五段、九十三段に、死生観を述べています。

百三十七段
若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期(しご)なり。今日まで逃れ来にけるは、ありがたき不思議なり。暫しも世をのどかには思ひなんや。継子立(ままこだて)といふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、数へ当てて一つを取りぬれば、その外は逃れぬと見れど、またまた数ふれば、かれこれまぬき行くほどに、いづれも逃れざるに似たり。

百五十五段
死は前よりしも来たらず、かねて後に迫れり。人皆死あることを知りて、まつこと、しかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。

九十三段
 されば、人、死を憎まば、生(しょう)を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財(たから)を忘れて、危ふく他の財を貪るには、志、満つ事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実(まこと)の理を得たりといふべし。

百三十七段、百五十五段では、誰にも死は潮が満ちるように刻々と迫ってくることを示しています。
九十三段は、その死を認識した上で、死を憎むのではなく、生を楽しむべしと説いています。

中野孝次 「清貧の思想」 草思社
日本古典文學大系「方丈記 徒然草」岩波書店

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