yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

知者楽水 仁者愛山

2021-04-29 06:04:20 | 文学
「論語、雍也(ようや)篇 第六」23にあります。

子曰ク
知者ハ、水ヲ楽シム、
 仁者ハ、山ヲ愛ス。
 知者ハ動ク
 仁者ハ静カナリ
 知者ハ楽シミ
 仁者ハ寿(いのちなが)シ

「訳」
 先生はいわれた。智の人は流動的だから水を楽しみ、仁の人は安らかにゆったりしているから山を楽しむ。智の人は動き、仁の人は静かである。智の人は楽しみ、仁の人は長生きをする。

 徳川慶喜公(幼名、七郎丸)が若干6歳の時に揮毫した「楽水」が下の写真であり、茨城県立歴史館に所蔵されています。「渉成園」とある揮毫(下 写真)は、慶喜が幕末に京都の宿舎とした東本願寺の庭園(枳穀)の名前です。
 
    金谷治 訳注「論語」 岩波書店









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THE LONGEST DAY

2021-04-26 06:13:37 | 文学
「THE LONGEST DAY, 最も長い日」とは、第2次世界大戦において連合軍の英米軍が、欧州戦線においてフランスのノルマンジ-海岸に上陸し、独軍に対する反攻を開始した日、即ち1944年6月6日のことです。アメリカを代表する映画制作会社、20世紀FOX社が社運をかけて制作した映画の題名です。43億円の巨費を投じ、ジョン・ウェイン、ヘンり-・フォンダ、ロバ-トミッチャム等、英米の有名俳優総出演という豪華版でした。邦題は20世紀FOX社の日本支社の広報を務めていた故・水野晴郎氏が「史上最大の作戦」と命名しました。戦争という文字を使うことなく、大作映画を予感させる優れたタイトルでした。興業も大成功であったということです。邦題の傑作といえば、「How Green was my valley」や「Gone with the wind」 に、「我が谷は緑なりき」「風とともに去りぬ」という邦題を命名したのも、秀れセンスを感じます。さて、日本にも「日本のいちばん長い日」があります。太平洋戦争の終戦の日、1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送に至る一日を描いたドラマであり、書籍も映画もあります。タイトルの選定にも納得です。作者の半藤一利氏の苦心の産物ともいえます。


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唱歌 花(再掲)

2021-04-23 05:45:17 | 文学
明治時代からある有名な唱歌「花」に意外な出典がありました。作詞、武島羽衣、作曲、瀧廉太郎で、明治33年(1900年)に歌曲集「四季」の第1曲におさめられました。

一、 春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂の滴も花とちる
ながめを何にたとふべき

二、 見ずやあけぼの露あびて
われにもの言ふ桜木を
見ずや夕ぐれ手をのべて
われさしまねく青柳を

三、 錦織りなす長堤に
暮るれば上るおぼろ月
げに一刻も 千金の
ながめを何に たとふべき
 
一番の歌詞には出典があります。「源氏物語 胡蝶の巻」、六条院の宴のところに下記のようにあります。

「春のうららにさして行く舟は棹のしづくも花と散りける」

また、三番の歌詞にも出典があります。南宋の詩人、蘇東坡の「春夜」です。

春宵一刻直(あたい)千金  花に清香あり 月に陰有り、
歌管楼台 声細細  鞦韆院落 夜沈沈

          日本文学大系 「源氏物語 二」岩波書店



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春夜 蘇軾

2021-04-20 06:10:49 | 文学
南宋の詩人 蘇軾(1036~1101)の漢詩 春夜を紹介します。


春夜

春宵一刻直千金
花有清香月有陰
歌管楼台声細細
鞦韆
春宵一刻 直(あたい)千金
花ニ清香有リ 月ニ陰有リ
歌管楼台 声細細(さいさい)
鞦韆院落 夜沈沈(ちんちん)

「訳」
 春の夜はひとときが千金に値するほど。
 花には清らかな香りがただよい、月はおぼろにかすんでいる。
高楼(たかどの)の歌声や管弦の音は、先ほどまでのにぎわいも終わり、今はかぼそく聞こえるだけ。人けのない中庭にひっそりとぶらんこがぶら下がり、夜は静かにふけていく。

  「鑑賞」
宋代は、印刷術が普及し、詩は、より身近なものになりました。唐詩に見られた雄渾な風格や力のあふれた構成、するどいひらめきなどはうすれはしましたが、日常の中に新しい詩材を見いだしたり、理知的な叙述、こまやかな感情をうたうという特徴が芽ばえました。この詩は春の夜のわずか一刻(約15分)に、千金の価値があるという句で有名。蘇東坡が宮中で宿直をしていたときの作でしょう。昼間の華やぎのあとに訪れた静かな高楼の情景が、しみじみと伝わってきます。中庭にぶら下がっているぶらんこ(鞦韆)をつつんで、春の夜は沈々とふけていく。



 。

石川忠久 「漢詩紀行 二」 NHK出版

  



   


 
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漱石が貸した拾円

2021-04-17 05:13:26 | 文学
明治時代に夏目漱石が正岡子規に拾円を貸したという話です。当時、松山で中学教師をしていた漱石の下宿「愚陀仏庵」に正岡子規は居候しながら病気療養をしていました。子規は故郷松山で過ごす間に病気が小康を得たので、奈良を経由して東京根岸に帰りました。この時、漱石は子規に旅費として拾円を貸したそうです。間もなく漱石は子規に拾円を貸したことも忘れ、子規も急いで返すつもりもなかったと思われます。当時の拾円の価値が現在どれくらいかはよくわかりませんが、当時、餡パン一個が1銭程度だったので、現在それが200円と仮定すると、当時の拾円は現在の二万円程度と推定されます。しかし、素寒貧の子規が身分不相応にも奈良では屈指の名旅館、對山楼を宿として三日間、奈良を楽しんだことを思うと、子規にとってはそれ以上の価値があったのかも知れません。

   柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
   奈良の宿御所柿くへば鹿の鳴く
   渋柿やあら壁つづく奈良の町
   柿くふも今年ばかりと思ひけり   (亡くなる前年、明治三十年作)
などは、いかにも柿好きの子規らしい俳句です。

 以下は、漱石のご令孫、半藤末利子(はんどうまりこ)著の「漱石の長襦袢」に書いてあった話です。
「最近、奈良在住の正岡明氏から柿が到来しました。中に見事な柿が入っていたのですが、封筒が添えてあり、その中にさらに小さいピンクの袋があって十円玉が入っていました。
  手紙には「百二十年前に御祖父漱石様から子規がお借りした拾円が気になって仕方がないのです。せめて元金だけはお返しせねばならぬと思い同封しました。利子だけは柿でお許し願えられそうなのでほっとしているところでございます。本当にありがとうございました。祖父になり代わりまして厚くお礼申し上げます。」
正岡明氏は子規の妹、律の孫にあたります。「何とまあ、明氏は義理堅く律儀なお方であろうか」と末利子氏は書いています。近いうちに雑司ヶ谷の漱石の墓に「確かに返していただきました」と報告に行こうと思っていると結んでありました。

 120年以前の祖母の兄の借金10円を返す律儀な方に感心しますが、現代、身内の高々400万円の借金を返すことなく、28枚もの長過ぎる文書を公表して自説を主張する人もいます。そのような文書を書く時間があったら、まず、自分で400万円を工面し、返済を実行するのが、社会人の第一歩ではないでしょうか。
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捕雷役電、澁澤元治先生(再掲)

2021-04-14 07:08:02 | 科学
東京大学の工学部、電気工学科の会議室に「捕雷役電」という木彫りの額が掲げられています(写真下)。これは、明治44年に澁澤先生が博士の学位を授与された時、孝子夫人の父で法学者の穂積陳重(ほづみのぶしげ)教授が澁澤元治(もとじ)先生に贈った額ですが、後の昭和15年、先生から電気工学科に再度、寄贈されました。これは電気を社会の役に立てる事を祈念されての言葉です。実際には、雷の電気は数100万ボルトの高電圧ですが、継続時間が僅かに数10マイクロ秒なので、仮に雷を捕まえたとしても、電力としては数kWh程度にしかならず、実用に供する程の量ではありません。しかし雷の性質を把握して、雷の位置の標定をしたり、雷からの防御方法や電気設備の耐雷設計手法を研究することは、ベンジャミン・フランクリンの凧上げ実験の時代(1752年)から今日に至るまで250年以上に亘って重要研究課題であり、幸い私もこうした研究の一端に関わることができました。
「捕雷役電」は鳳誠三郎教授によれば「雷電ヲ捕役ス」と読むのが正しいのだそうです。下の写真にありますように、雨かんむりの下に田を三つ書くのが雷
の本来の字です。これは回転する様子を表現したものでゴロゴロと鳴る音のことだそうです。また電の旧字は雨かんむりの下に申と書きますが、申の縦棒は稲妻のことを示しているのだそうです。従って雷の音と稲妻を併せて雷電と使うのが正しいようです。雷のことは「いかづち」とも言い、「震」や「霆」や「霹靂」とも書きます。「震」は大地や空気を震わせながら雷が落ちてくる様を、「霆」は主として雷のとどろきのことを言います。青天の霹靂に使う「霹靂」は稀に起きる激しい雷現象というような意味だそうです。

 渋沢先生(1876-1975)は埼玉県生まれで、有名な実業家澁澤栄一の甥にあたりますが栄一にとっては実の息子同然の存在でした。彼は大学を卒業した後、一旦は日本の企業に勤めましたが、自分の欲する道とは異なると考えていました。彼の目標は日本の産業と社会を電力により発展させ、全ての人に電気の恩恵を行き渡らせることでした。そこで退社して後にヨーロッパに渡り、ドイツのシーメンス社やスイスのチューリッヒ工科大学に留学し、スイスの水力発電を学んだりしました。次いでアメリカのGE社の訪問も果した上で帰朝しました。
その成果を生かして渋沢は日本の水力発電の開発に注力し、また逓信省の技師として活動していましたが、東京大学の鳳秀太郎(ひでたろう)教授(電気工学の泰斗であり、与謝野晶子の実兄)の薦めで東京大学の電気工学科に招聘され、大学での研究教育活動に携わりました。それと共に電気界、電力界に多大の貢献をされました。その功績を記念して渋沢賞などの制度も設けられました。また電気学会の会長を務める他、名古屋帝国大学の初代の総長にもなりました。
 渋沢先生は、常々「和ヲ以ツテ尊シト為ス」と言われた温厚な指導者でした。



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心得之条 井上ひさし

2021-04-11 06:11:42 | 文学
作家の故井上ひさし氏が物書きに示した4箇条心得があり、よく色紙に残したそうです。(下 写真)

むずかしいことをやさしく
やさしいことをふかく
ふかいことをゆかいに
ゆかいなことをきまじめに書くこと




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お国言葉 半藤一利

2021-04-08 06:02:09 | 文学
「春雨だ濡れて行こう」の季節、時候の挨拶のお国言葉を半藤一利氏が紹介しています。氏と若干縁のある越後なら、行き交う人に「春らの、あったかくなったのう」という挨拶になります。越後生まれの不肖は、少しも違和感なく理解します。

これが鹿児島だと「春でごわす、ぬくうなりもした」となり、北九州「春やね-、ぬくうなったね」。大分「ばされえぬくうなったのあや」。松山「春ぞなもし」。京都にくると「ほんまにええ陽気どすなあ」。長野「春でやすない、ぬくとくなったねも」。そして宇都宮「春だんべ一」。仙台「春だっちゃね一」。秋田は「あったげなったべな」となるのだそうな。ただし、みな一時代前の言葉である。いまは日本全国どこへいっても同じテレビ的標準語で、味気ないことおびただしい。ところで、わたくしは生まれも育ちも東京は向島。いわゆる隅田川の向こう側、場末の下町ッ子である。「クソッ、やっと春になりゃがったな」ぐらいの乱暴きわまる東京言葉で老骨になるまでやってきた。わが故郷はどう考えても言語的にはほめられない環境というしかなかった。

落語の枕ではあるまいし、「クソッ、やっと春になりゃがったな」は乱暴ですね。

 半藤一利「歴史探偵忘れ残りの記」文春文庫


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酔後の吟 榎本武揚

2021-04-05 06:18:33 | 文学
幕末、新政府に反抗して函館戦争を戦った榎本武揚の七言絶句、酔後の吟を紹介します。

 酔後の吟

五稜郭畔 望江城
天涯流落孤客情
約有明年 鏖逆賊
満城春色 調千兵

五稜郭ノ畔 江城ヲ望ム
天涯流落ス 孤客ノ情
約有リ 明年 逆賊ヲ鏖(みなごろ)シ、
満城ノ春色 千兵ヲ調セン


酔った後に賦した詩

五稜郭のほとりから遠く江戸の方角を望み見れば
地の果てで落ちぶれた孤独なよそ者としてのさびしい思いがこみあげてくる
だが私は仲間と誓っている。来年になったら薩長の逆賊どもを皆殺しにして江戸を奪還し、
街いっぱいにあふれる春景色の中で、何千もの我が軍の兵を訓練することを。

このように榎本は最初、意気軒昂でしたが、頼みの軍艦「開陽丸」を失ってから次第に劣勢に陥りました。

      




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忠犬ハチ号 半藤一利

2021-04-02 05:59:02 | 文化
去る1月に、歴史探偵を自称する昭和史の語り部、半藤一利氏(下 写真)が逝去されました。心よりお悔やみ申し上げます。半藤氏は東京向島育ちでしたが、東京大空襲で被災し、長岡市(新潟県)に疎開し、長岡中学に通い、長岡で終戦をむかえました。氏は長岡を大変気に入り、「我が長岡藩の河井継之助」と発言するまでになりました。以下は、著書「歴史探偵忘れ残りの記」の中の本物のハチ号の話です。なお。銅像は「忠犬ハチ公」といわれていますが、犬の本名はハチ号です。

忠犬ハチ公の銅像の周りは、いついっても、人でいっぱいである。いまのは二代目らしいが、わたくしは初代のハチ公の銅像の足をなでた記憶がある。「B面昭和史」でいっぺん書いたことである。満4歳の腕白坊主のとき、昭和9年(1934)4月初代銅像ができたということで、完成披露の除幕式の盛大な様子が新聞で報じられて、東京中の少年たちの大そうな話題になった。隅田川の向こう側の下町生まれのわたくしは、どうしても見たいと大人にせがんで、はるばると出かけていったと覚えている。そしてびっくりしたこともまざまざと思いだせる。銅像のすぐ脇に本物のハチ公がチョコンと前足をそろえて座っていたのである。何だ、お前もいたのかと、カステラのかけらを与えたら、パクンと。やたらにでっかい犬であったように感じられた。彼の本名はハチ号であることや、翌10年3月に13歳でこの世を去った、ということも記憶にあるけれど、そうすると、一年間も本物と銅像はならんで見物人たちを迎えていた、ということになるのであろうか。(中略)いま、黒山の人でハチ公の銅像をとっくり眺めることもしないが、本物のハチ号の死んだとき、昭和10年3月13日付けの東京日日新聞(現、毎日新聞)夕刊の記事の写しが今も手もとにあって、ときどきなつかしく眺めている。「花輪廿五、生花二百、手紙や電報百八十通、短冊十五枚、色紙三枚、書六枚、学童の綴方廿、清酒四斗樽一本、四日間のお賽銭二百余円という豪勢さであった。」そのほか付近の商店では、ハチ公せんべい、ハチ公そば、ハチ公焼き鳥、ハチ公丼などを売り出して大いに稼ぎまくったという。ハチ公人気がどれほどのものであったかがよくわかる。まさか翌年に二・二六事件、さらにその翌年に日中戦争が起こるなどと予測しているものはいなかった。「世はなべて事もなし」と国民はまだ浮かれていたのである。それにしてもハチ公の葬式は豪勢だったな、いまさらのように感服する。

 半藤一利「歴史探偵忘れ残りの記」文春文庫




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