yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

「別歳」 蘇東坡

2010-12-29 06:05:44 | 文学
宋の詩人、蘇東坡(蘇軾1036~1101)は歳末を題材にして、詩「歳晩三首」を賦しています。その中の第二首、「別歳(べつさい)」を紹介します。

別歳

故人適千里     故人千里ニ適(ゆ)ク  
臨別尚遅遅     別(わかれ)ニ臨ミテ尚ホ遅遅(ちち)タリ
人行猶可復     人ノ行クハ猶ホ復(か)ヘル可シ
歳行那可追     歳ノ行クハ那ンゾ追フ可ケン
問歳安所之     歳ニ問フ安(いづ)クニカ之(ゆ)ク所ゾ
遠在天一涯     遠ク天ノ一涯ニ在リ
已逐東流水     已(すで)ニ東流ノ水ヲ逐(お)ヒ
赴海帰無時     海ニ赴ヒテ帰ヘル時無シ
東隣酒初熟     東隣ノ酒初メテ熟シ
西舎豕亦肥     西舎ノ豕(こぶた)亦タ肥ユ
且為一日歓     且(しばら)ク一日(いちじつ)ノ歓ヲ為シ
慰此窮年悲     此ノ窮年ノ悲シミヲ慰メン
勿嗟舊歳別     嗟スル勿(なか)レ舊歳ノ別レ
行與新歳辭     行クユク新歳ト辭セン
去去勿回顧     去去回顧スル勿レ
還君老與衰     君ニ老ト衰ヲ還(かへ)サン

日本語訳
友人が遠い旅に出る時、いよいよ別れ際になっても、なお歩みは遅遅として捗らない。
しかし人は旅立って行っても、帰って来られるのに、年が行ってしまうのはどうして追いかけることができよう。
年よ、あなたに問う。「いったいどこへ行くのですか。」
「それは遠い遠い大空の彼方なのです。一旦、あの東へ東へと流れる川の流れにのって大海原へ出たら最後、もう帰ってくることはないのですよ。」
東側のお隣で、ちょうどお酒がうまく醸された頃だろう。西側のうちの豚小屋に子豚がまるまる太ったことだろう。
ともかく酒肴をそろえて一日の歓を尽し、この押し迫った年の瀬の悲しみを慰めようではないか。
古い年との別れを嘆くまい。いずれ新しい年とも別れる時が来るのだ。年よ、あなたはどんどん去って行って、後を振り返りなさるな。
君に老いと衰えをお返しするから、さっさと持って行ってくれたまえ。

大詩人、蘇東坡は、時を擬人化して呼びかけ、老や衰にめげることなく楽天的に賦しています。
         近藤光男 「漢詩大系17 蘇東坡」 集英社 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

降る雪や明治は遠くなりにけり

2010-12-27 06:22:22 | 文学
中村草田男(1901-1983)の有名な句です。昭和6年(1931年)の大雪の日に自分が学んだ赤坂の青南小学校を訪れた時、降る雪の向こうに小学校の建物が見えた時の感慨を詠んだといわれます。当時、草田男は高浜虚子が主宰している「ホトトギス」に投句していましたが、自分の句作に悩んでいたそうです。
門外漢の不肖私にも、この句は平明で良い句に思われます。一つの句の中に切れ字の「や」と「けり」の二つがある代表的な句とも言われています。最後の「けり」(詠嘆の助動詞)がぴったりしていますから、切れ字二つという瑕は問題ないのでしょう。

さて、このところ厳しい寒波が到来して、北国の郷里は大雪に見舞われています。
私も草田男の句に因んで

降る雪や昭和は遠くなりにけり

を思い浮かべました。平成も20数年を数え、私が人生の大半を過ごした「良き昭和」という時代も、いつの間にか遠くなりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三下り半

2010-12-25 07:10:02 | 文化
中世以後、夫が妻に渡す離縁状(去り状という)を「三下り半」とも言います。文例を下記に示しますが、三行半に書くのが慣わしでした。

離縁状
其方事、我等勝手ニ付キ、
此度離縁致シ候フ、然ル上ハ者
向後何方縁付キ候フ共、差シ構ヘ
無ク之候フ、乃而如件

末吉 爪印
寛政五癸丑四月
    たけどの


なお、爪印(そういん)は、爪先に墨や印肉をつけて印鑑の代りに押して証としたものです。

こんな江戸川柳もあります。
無筆は鎌と椀を書き
字を書けない庶民は紙に鎌と椀の絵を描いた書面を去り状としました。
再婚しても「かまわん」という意味です。江戸時代は夫の意思で離婚が比較的容易に成立しましたが、去り状が無いと女性は再婚できないという社会制度であったようです。男性優位の社会でしたが、鎌倉の東慶寺のような縁切り寺もあり、女性がここに駆け込んで離婚を主張することもできました。
もっとも昨今は、女性のほうが強くなったらしく、「三下り半」は妻が夫に書くことが多いそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小蓮華岳 坂の上の雲

2010-12-22 06:28:55 | 文化
小蓮華岳(これんげだけ、2776m)は後立山連峰(長野県北安曇群小谷村)にある山で、大日岳とも呼ばれている信仰の山です。
日本全国には蓮華岳や大日岳という名の山はほかにもありますが、この小蓮華岳は、いかにも日本アルプスの山らしく、雪と岩のある嫋やかな山容をしています。この山はNHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲、第2部」のラストで、ソプラノ歌手の森麻季さんが歌う ”Stand Alone”の美しいメロディとともに映し出されています。
 この「坂の上の雲」は、日露戦争を戦った男達、秋山好古、真之兄弟と正岡子規の物語ですが、「彼等は楽天的といわれた明治時代人の体質で前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それをのみ見詰めて坂をのぼってゆくだろう」という文にふさわしい映像ではないかと思います。司馬遼太郎の「坂の上の雲」という題名もいいですね。ドラマにおける題字も故・司馬遼太郎の自筆だそうです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

科学技術という言葉

2010-12-19 06:22:53 | 文化
「科学技術」と「科学・技術」のどちらがいいかという論争があるそうです。科学はサイエンスの日本語訳であり、学問の一分野で、大学では主として理学部の分野です。技術は人間の生活に役立つもので主として工学部の分野です。「文化文明」と「文化・文明」の違いに類似しているようにも思われます。科学と技術は別の概念ですから、「科学・技術」と書くことは当前のようにも思えますし、「科学・技術」とすると、科学と技術が並列した重みを持つように見えます。
しかし実際のところ、科学と技術は明快に分けることが難しいので、冒頭に書いた論争が後を絶たないのではないでしょうか。学者の総本山である「日本学術会議」では、「科学・技術」を用います。つまり学者は科学の優位性にこだわっているように思われます。数学や理論物理学などは直ちに生活に役立つとは限らず、真理の追究という面が大なのです。学問とは本来こうしたものなのでしょう。
一方、科学技術政策の司令塔である「総合科学技術会議」は再度、科学技術という言い方をしています。言うまでもなく技術は科学が基盤になっていますが、政策を実施する場合、科学と技術を分離して取り扱うのは現実的では無い、という考えに基づいているものと思われます。
余談ながら、ノーベル賞には化学賞と物理学賞はありますが、技術賞というのはありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お礼

2010-12-18 06:34:11 | 近況
いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。
お蔭さまで、昨日、アクセス数が105,000に到達いたしました。
平成18年の3月に書き始めてから約4年半と言うところです。
この間に105,000アクセスは、望外のハイペースではないかと思っております。
引き続き、ご愛読いただければ、有り難く存じます。なお、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ノーベル化学賞受賞 鈴木章教授

2010-12-16 06:27:23 | 文化
この度、鈴木章(あきら)教授と根岸英一教授がノーベル化学賞を受賞したことは誠に慶ばしいことです。ストックホルムで受賞記念講演をした鈴木教授が、受賞理由となったクロス・カップリング反応の説明の中で、この反応を使うことにより、生活において極めて役に立つ物質の合成が可能になると話しました。そして自分はこの特許を取っているわけではないので、多くの方々が自由に使って欲しいと結びました。
一般の企業などに勤務する者が、研究などの職務を遂行する過程で得た発明は、職務発明といわれています。こうした発明については、通常、企業は業績の大きさに見合った対価を発明者に支払いますが、その額が著しく少ないことも多く、不公平感があると、訴訟を起こす人もいます。これに対して大学教授の発明は発明者個人に帰属する、というのが最近の法律になっています。
大学における教授の職務の定義範囲は広いので、どこまでが職務を遂行する過程で生まれた特許であるかを明確に限定することは難しい、というのが最近の法解釈のようです。クロス・カップリングの特許が成立していないとすれば、この技術は世界で自由に使うことができます。鈴木教授は人類の役に立つことであれば世界中で大いに利用して欲しいというおおらかな考えをお持ちなのだと思います。
また、東大の坂村健教授が指導するグループは、以前からTRONプロジェクトを立ち上げて、TRONという優れたコンピューター・ソフトを開発し、世界中で広く利用されています。坂村教授はコンピューター・ソフトは人類共有の知的財産であるから、特許を取らないという方針を採っておられます。もし、この特許を取っていたら、マイクロソフトのビル・ゲイツと並ぶ富豪になれた、と坂村教授は語ったといわれています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韜光養晦(とうこうようかい)

2010-12-11 11:06:37 | 文化
韜光養晦(とうこうようかい)とは、光を韜(つつ)み養(やしな)い晦(かく)すの意です。要するに日本で言う「能ある鷹は爪を隠す」というような意味です。先日、NHKの「ニュースウォッチ9」で大越健介キャスターが紹介しておりましたが、氏の博識に驚きました。「鄧小平語録」の中などにあるので有名な言葉です。鄧小平は20年以上前の中国の指導者ですが、「中国は国力の無いうちは、国際社会で目立った行動をせずに、じっくり力を蓄えておこう」という「韜光養晦」を政策の基本方針としました。近年の中国の行動を見ると、いったい韜光養晦という思想は何処にいってしまったのかと思います。
ところで韜光養晦(とうこうようかい)の出展は唐の歴史書です。才能や野心を隠して、周囲を油断させて、力を蓄えていくという処世の姿勢です。歴史上有名な事例では「三国志」における「青梅、酒を煮て英雄を論ず」の故事です。曹操と劉備玄徳が梅園で梅の実を肴に天下の英雄を論じた時のことです。突然、雷が鳴りひびきました。玄徳は雷におびえた様子で机の下にもぐりこんで震えながら怖がり、いかにも小心者を装いました。曹操はこれを見て、玄徳は大した人物ではないと見てしまったということです。ほどなく、玄徳は油断した曹操の下から脱出すると天下三分の計を実現して三国鼎立の時代を開きました。我が国でも戦国時代の覇者となった織田信長や徳川家康に類似の行動がありました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

門跡尼寺

2010-12-09 06:46:59 | 文化
門跡(もんぜき)とは、皇族や貴族に相承される特定の称号であり、また、皇族や貴族が住職を務める寺、門跡寺院という寺格があります。門跡が尼の場合が門跡尼寺です。「寂光院」のように、元は尼寺ですが、現在の住職は男性の場合もあります。「寂光院」は聖徳太子が御父、用明天皇の菩提を弔うために建立したと伝えられています。「平家物語」の「大原御幸」で有名で、第八十代、高倉天皇の中宮であった建礼門院、平徳子が隠棲して晩年を過ごし、平氏一門の菩提を弔った尼寺です。
「中宮寺」は聖徳太子の御母、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとひめみこ)の宮殿であり、法隆寺の境内に建てられたと伝えられています。ここにある弥勒菩薩半跏思惟像は見事な仏像です。モナ・リザ、スフィンクスと共に世界三大スマイルともいわれますが、飛鳥時代のこの像の微笑みの深さと気高さは、世界一ではないかと思います。

 會津八一はこの中宮寺のみ仏を次のように詠んでいます。
   みほとけの あごとひぢとに あまでらの あさのひかりの ともしきろかも
「ともし」は「羨し」と書き、ここでは「心惹かれる」というような意味でしょう。

内田康夫氏は自著の巻末には、必ず「本書はフィクションです。実在する個人、企業、団体とは一切関係ありません」と書きます。時には、読んでいると明らかにモデルとなっている人物が推測できる場合もあります。ここで採り上げた「風のなかの櫻香(さくらこ)」も例外ではなく、「本書はフィクションであり、、、」の但し書きがありますが、「あとがき」の中に、「この作品はひとえに奈良中宮寺の日野西光尊御門跡の一方ならぬご厚情のお蔭によって誕生したことを申し上げなければなりません。お読みになってお分かりのとおり、「尊宮寺」と名称だけは変えていますが、モデルになったお寺が、かの有名な門跡尼寺・中宮寺であることは明らかです。(中略)光尊御門跡の秘書役を務めている秋山妙蓮さんも実在し、浅見光彦倶楽部の会員でもあります。」と異例の報告と謝辞を書いています。

内田康夫著 「風のなかの櫻香」 徳間書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤沢周平

2010-12-06 06:04:57 | 文学
私が好きな作家です。1927年に山形県鶴岡市に生まれました。山形師範学校(現・山形大学)を卒業した後、中学校で国語と社会を教えましたが、肺結核に罹っていることがわかり、療養、休職を余儀なくされました。1971年に「暗殺の年輪」で直木賞を受賞した後、本格的な執筆活動に入り、作品数約80、単行本数72と多くの著作を残しました。分野は、庶民の暮らしを書いた市井物、武家物、剣客物、捕り物物、歴史物と多彩です。市井(しせい)という言葉は、中国の古代に、井や井田(周代の田制)のある所に人が集ったことに語源を持ち、転じて人家の集る所、町や物の市を指すようになったと言います。武家物の多くは海坂藩という東北の小藩が舞台になっていますが、庄内藩酒井家がモデルになっています。余談ながら、鶴岡の酒井家の当主は今でも「殿様」と呼ばれて、町の人に敬愛されているということです。
ところで海坂藩は創作された藩ですが、周平が若い頃、俳句を投句していた雑誌「海坂」を借用したということです。小藩の下級武士が登場しますが、「武家勤めも、辛いからの」というのが周平の思想の根底にあります。剣客物では、無限流、雲弘流、空鈍流、無外流など多彩な流派を創造しただけでなく、剣の決闘の描写は具体性と迫真性が秀逸で、他の追随を許さないものがあります。捕り物においても時代考証が的確です。江戸文化の泰斗(たいと)である三田村鳶魚(えんぎょ)の著作をよく研究しており、描写に間違いがありません。なお、大佛次郎や島崎藤村は、史実に対して無知や軽視をさらけ出している点を、鳶魚に厳しく指摘されています。捕り物において、岡っ引きや目明かしが、同心の指図なしに罪人を縛ることなどはできなかったのですが、周平はこうしたことで間違いをおかすことが、皆無であったそうです。    周平の文体はいつも誇張がなく静かに抑制されて整っており、弱者への、しっとりした労りに満ちており、読者に安堵を与えてくれているように思います。1997年に69歳で他界しました。鶴岡市には市立藤沢周平記念館があるということです。

向井敏 「海坂藩の侍たち」文芸春秋
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする