yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

江南逢李亀年 杜甫

2015-11-29 05:11:59 | 文学
詩聖 杜甫の七言絶句です。

江南 逢李亀

岐王宅裏尋常見
崔九堂前幾度聞
正是江南好風景
落花時節又逢君

江南ニテ李亀年に逢フ

岐王ノ宅裏 尋常ニ見
崔九ノ堂前 幾度カ聞ク
正ニ是レ 江南ノ好風景
落花ノ時節 又君ニ逢フ

「訳」

  昔、岐王様の館でしょっちゅうお目にかかりましたし、
  崔九様の座敷の前では 何度もあなたの歌を聞きました。
  今はちょうど、都から遠く離れた江南地方の晩春の好風景の中にいる。
 はらはらと花びらの散るこの時節に、またあなたに出会うとは思いもかけないことでした。
「鑑賞」
770年春の作、この時、杜甫59歳、安禄山の乱後、家族ともども足かけ十二年の遍歴を
つづけ、潭州(湖北省長沙市)に滞在していました。ここで催された宴会の席上、久々に玄宗に愛された名歌手李亀年の歌を聞いて作られた詩です。前半二句では、安禄山の乱以前のはなやかだった長安時代をふりかえり、今をときめく皇族や貴族の邸宅で、すばらしい歌声を披露し、栄光の絶頂にあった李亀年の姿が会葬されました。後半二句は一転して、時移りやむなくドサまわりの歌手となった李亀年と、地方の有力者の宴席で再会した驚きが歌われます。目前にあるのは長安ならぬ江南の美しい自然、ここではらはらと花が舞い落ちる季節に、又きみに逢うとは、と。古来、論者がつとに指摘するように、末句のこの「又」という字が詩全体に無限の磁力をおよぼしています。李亀年のイメージに、転変を繰り返した作者自身の姿を重ねたこの哀切な詩は、まさに人の心をうつ絶唱です。ちなみに、杜甫はこの詩を作った数か月後、この世を去りました。

  井波律子 「中国名詩集」岩波書店
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流行遅れ

2015-11-26 06:40:44 | 文学
「徒然草」の七十八段に、兼好法師は、流行を追う軽薄を嘆いています。

今様の事どもの珍らしきを、言ひ廣め、もてなすこそ、またうけられね。世にこと古(ふ)りたるまで知らぬ人は、心にくし。いまさらの人などのある時、ここもとに言ひつけたることくさ、物の名など、心得たるどち、片端言ひ交し、目見あはせ、笑ひなどして、心知らぬ人に心得ず思はする事、世なれず、よからぬ人の、必ずある事なり。

アイルランド発祥といわれるハロウィンの日本での騒ぎも、流行に踊るだけの風潮のように思われます。不肖は流行に鈍感なヘソ曲がりのほうですので、流行作家の作品もあまり手に取りません。

    「方丈記・徒然草」 「日本古典文學大系」 岩波書店
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「王将と玉将」 内舘牧子氏に爆笑

2015-11-23 05:31:14 | 将棋
ご承知の通り、将棋の駒には王将と玉将があります。
作家で愛棋家の内舘牧子氏は将棋を習った日から、ずっと「講義ノート」をつけているそうです。過日、雑誌に次のようなエッセイを載せていました。

今、第1冊の第1ページを開いてみたのだが、「あらア!こんなことも知らなかったのね」と驚く、何しろ、将棋連盟の米長邦雄会長(当時)に言ってしまったのだ。
「駒を買ったんですけど、「王」のひとつが「玉」(私はタマと言った)になってたんです。お店に言えば、取りかえてもらえますよね?」米長会長は呆気にとられ、しばし固まっていらした。そして、
「タマ?!イーヒッヒ、ヒヒッヒッ、タマ?!」と笑いやまないのである。私といえば、どうしてこんなに笑われるのか、まったく理解できずにいた。

上品な読者の方は理解に苦しまれるかも知れません。私は上品ではないので直ぐに気付き、爆笑しました。

    内舘牧子 「将棋世界、大好きな将棋」 2015年 12月号
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念奴橋 赤壁懐古 蘇軾

2015-11-20 05:17:01 | 文学
北宋の詩人、蘇軾の漢詩です。

念奴橋 赤壁懐古

大江東去
浪淘尽 千古風流人物
故累西辺
人道是 三国周郎赤壁
乱石崩雲
驚濤裂岸
江山如画
一時多少豪傑

遥想公謹当年
小喬初稼了
雄姿英発
羽扇綸巾
談笑間 強虜灰燼飛煙滅
故国神遊
多情応笑我
早生華髪
人間如夢
一尊還酹江月

大江東ニ去リ
浪ハ淘尽ス 千古風流ノ人物ヲ
故累ノ西辺
人ハ道フ是レ 三国ノ周郎ノ赤壁ナリト
乱石ハ雲ヲ崩シ
驚濤ハ岸ヲ裂キ
江山ハ画ケルが如シ
一時多少ノ豪傑ゾ

遥カニ想フ公謹ノ当年
小喬ハ初メテ稼シ了ハリ
雄姿英発ナリシヲ
羽扇綸巾
談笑の間ニ 強虜ハ灰ト飛ビ煙ト滅ビヌ
故国ニ神ハ遊ブ
多情応ニ我ヲ笑フべシ
早ニ華髪ヲ生ゼシヲ
人間ハ夢ノ如シ
一尊還タ江月に酹ガン

「訳」

大江は東へと流れ去り、波は千載のいにしえよりこのかた、この世にあらわれた英雄をことごとく洗い流してしまった。古い砦の西のあたりを、人は、三国の雄、呉の周郎の戦った赤
壁だという。赤壁の遺跡のあたりは、大小ふぞろいな岩が雲をつきくずすほどに高くするどく、さかまく波が岸を裂き、まるで、うずたかく積もった雪をまきあげるかのよう。
江山は絵さながらのたたずまい。かつてここの群がった豪傑は、いったいどれほどいたことであろうか。
想いをめぐらせば、赤壁の戦いのその昔、公謹(周ゆ)は小喬が嫁入りしてきたばかりで、雄々しい姿に才知があふれていた。羽扇を手にとり、頭巾をかぶり、にこやかに談笑している間に、強敵・魏の水軍は灰のように飛び、煙のように滅びてしまった。こころは、かく赤壁の
故地をめぐる。多情なわが身のおかしさよ。それゆえに憂い多く、はや髪も真っ白なのだ。人の世は夢のごとし。またひと樽の酒を地にそそいで、江上の月に祈りをささげよう。

    「鑑賞」
建安十三年(208)冬12月、魏の曹操は数千の船団と数十万の大軍を率いて長江を下り、孫権・劉備の呉蜀連合軍と赤壁で遭遇する。迎え討つは、呉の周愈と蜀の知将孔明。長江北岸の烏林
に軍船をつないで陣を構えた曹操軍を「苦肉の計」「火攻めの計」によって撃破し、曹操の野望
をうちくだいた。
 赤壁の戦は、天下統一の執念のぶつかり合いであり、三国鼎立のきっかけとなった決戦であったが、その英雄たちの面影に古戦場の景を重ねて、蘇東坡は「人間は夢の如し」と詠懐した。
石川忠久「NHK 漢詩紀行 三」 日本放送出版協会
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仏教遺跡

2015-11-17 05:27:07 | 文化
仏教はインドで生まれて東アジアに広がりました。従って東アジアには、多くの仏教遺跡があります。カンボジアのアンコールワット、ジャワのボロブドゥールは特に有名ですが、ミャンマーのバガンも大きい遺跡です。ミャンマーのマンダレー地方域、約104平方キロメートルにあり、イラワジ川中流域一帯に大小さまざまな仏教遺跡が林立しています。ここはミャンマー屈指の仏教聖地です。ここのアーナンダ寺院やダマヤンジン寺院などに、3000を越える仏塔(パゴダ)があります。11世紀から13世紀に亘って王と民衆が仏教の功徳を得ることを願って黙々と建立しました。平和な時代でもあったのでしょう。インドで生まれた仏教は、東と北に伝わって行きましたが、インドの北に位置する高昌国(460-640)、現在の中国・新疆ウイグル自治区・トルファン地区にあり、唐の時代にはインドを目指した玄奘三蔵を歓待したことでも有名です。現在でも「高昌故城」が残っています。仏教は、さらにシルクロードを通り、敦煌、雲崗・竜門から日本の東大寺・法隆寺にまで到達しました。
また、仏教はインドから東に向かい、カンボジアやタイやジャワ島にも伝わり、有名な仏教遺跡が建設されました。その外にもチベットやネパールにも伝わりました。
仏教は殺生と争いを戒め、同胞・家族を慈しみ、社会の平和と安らぎを尊んだ寛容と慈悲の宗教です。

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ナンセンスな主張

2015-11-14 04:56:14 | 文化
某大国が南沙諸島(英語名、スプラトリー諸島)について、「唐、宋、明の時代から自国の領土だ」という主張をしています。こういうのを「ナンセンスな主張」というのではないでしょうか。
某大国が根拠にしたのは下記の話なのかも知れません。

明代の『鄭和航海図』に記された「万生石塘嶼」とは今日の南沙諸島のこと。1716年の『大清中外天下全図』、1817年の『大清一統天下全図』では「万里石塘」として南沙諸島が版図に組み込まれています。

しかし、13,14世紀に、モンゴル帝国はロシアの大部分と中国を支配しました。一時中国も支配され元(1271~1368)という国になりました。しかし現代のモンゴル人は、中国を自分の国の一部だとは主張していません。

西ローマ帝国(395~476)はヨーロッパのほぼ全域を支配しましたが、現代のイタリア人は、ヨーロッパ全土が自国の領土だとは言っていません。

長い歴史の中の一時期の事象を抜き出して、現代にも通用すると強弁し、これを基に権利を主張するのはナンセンスなことです。

そもそも、南沙諸島は明治・大正・昭和の時代、1945年まで、日本の支配下にありました。太平洋戦争が終結し、戦後処理を決める1952年のサンフランシスコ講話条約で、日本はこの地域の主権を放棄しました。この時、南沙諸島のその後の主権国が決定されなかったそうです。つまり、現在は公海というべき地域ではないでしょうか。現在、中国、台湾、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイが領有を主張しています。中国には特段の優先権はなく、南沙諸島に最も近い、ベトナムとフィリピンに優先権があると言ってもいいのかもしれません。

ついでに書き加えれば、中国が言う「抗日戦勝70年記念式典(2015年9月3日)は事実の誤認ではないでしょうか。太平洋戦争で、日本は、主に中国国民党(蒋介石)と戦いましたが、中国共産党とは、あまり戦っていません。日本に勝利したのは、アメリカやイギリスです。太平洋戦争の終結により、中国には、日本からの解放が転げこんできたのであり、日本に勝利したと言うのは事実と異なるのではないでしょうか。
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九月九日憶山中兄弟 王維

2015-11-11 05:05:26 | 文学
初唐の詩人、王維の漢詩です。

九月九日憶山中兄弟

独在異郷為異客
毎逢佳節倍思親
遥知兄弟登高処
編挿茱萸少一人

九月九日山中ノ兄弟(けいてい)ヲ憶(おも)フ

独リ在郷ニ在リテ異客ト為ル
佳節ニ逢フ毎ニ倍(ますま)ス親ヲ思フ
遥カニ知ル兄弟高キニ登ル処
編(あまね)ク茱萸(しゅゆ)ヲ挿シテ一人ヲ少(か)クヲ


「訳」

自分ひとりが故郷を離れ、異境の旅人となっている。めでたい節句に出会うたびに、親兄弟を懐かしく思う気持ちはひとしおである。今日もはるかに思いやる、兄弟たちが高台に登り、皆そろってはじかみを頭に刺している中に、自分一人が欠けている情景を。

    「鑑賞」
 陰暦九月九日は重陽の節句で、邪気払いをする「登高」の日である。この作は、長安にあって独り故郷を懐かしむ少年王維の作。十五歳にして科挙受験のために長安に出てきてあしかけ三年、十七歳の少年にとっては、都も「異境」であり、身は「異客」であったろう。故郷の蒲州(三西省永済県)にいれば、家族揃って登高しているだろうに、去年もおととしも「独り」
ぼっちで重陽の節句を過ごしたと語呂を合わせてうたう中に、肉親への思慕がうかがえる。すでに都に貴顕と交わっている才子であっても、まだ十七歳、華やかなればこそ、かえって寂しさはつのる。少年らしい素直な感情のこもった望郷の詩である。

  王維の漢詩は、率直、平明、自然です。

石川忠久「NHK 漢詩紀行 」 日本放送出版協会
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古賀塾 五訓

2015-11-08 06:05:33 | 文化
柔道の古賀稔彦氏(こがとしひこ、47歳)が、人間育成を目的として川崎市に古賀塾を開いて後進の指導をしています。古賀氏はバルセロナ五輪で金メダル、アトランタ五輪で銀メダルに輝いています。
彼の「古賀塾」には五訓があります。

一、 「はい」と言う          素直な心
一、 「ありがとうございます」と言う  感謝の心
一、 「私がします」と言う       奉仕の心
一、 「すみません」と言う       反省の心
一  「おかげさま」と言う       謙虚な心

柔道本来の教えである「人の役に立つことの大切さ」がこめられているそうです。
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囲碁と将棋 起源と小史

2015-11-05 05:07:24 | 将棋
囲碁と将棋は並び称されることが多いです。以下にその起源と小史を記します。

囲碁の起源:中国で、占星術の一法が変化・洗練されたもの。前漢時代(BC206―AD24)と思われる陶製碁盤が発見されており、「琴棋書画」は士大夫の嗜みとされました。
囲碁の日本への伝来: 遣唐使(8世紀)の吉備真備が唐から日本に伝えたとされます。

将棋の起源: 古代インドのチャトランガである。アレキサンダー大王がインドに東征した時(BC327頃)にチャトランガを目にしたとのことです。
将棋の日本への伝来:6世紀頃に古代インドから直接、日本に伝わったと考えられています。平安時代には五角形の木片に記した駒があったようで、藤原行成の「麒麟抄」(11世紀)には駒文字を書くための心得が書かれています。

囲碁も将棋も起源は古く、日本への伝来もかなり古いことは驚きです。それでは、碁打ちや将棋指しが社会的に認知されたのは、いつかというと、それは比較的新しいようです。徳川幕府草創の頃、1602年に寺社奉行の下に碁所が作られ、本因坊算砂が就任し、50石20人扶を与えられました。1612年にはここから将棋所が独立し、初代大橋宗桂が勤めました。今日のような専門棋士が活躍したのは明治以後のようです。
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青葉の笛 松口月城

2015-11-02 05:40:34 | 文学
漢詩人、松口月城の七言絶句です。

青葉の笛

一谷軍営遂不支
平家末路使人悲
戦雲収処有残月
塞上笛哀吹者誰

一ノ谷ノ軍営 遂ニ支エズ
平家ノ末路 人ヲシテ悲シマシム
戦雲収マル処 残月有リ
塞上笛ハ哀シ 吹キシ者ハ誰ゾ


「訳」

一の谷の合戦で、平家の軍勢は源氏に押されて、けっきょく支えきれずに敗走するに至った。その哀れな末路は聞く人を悲しませずにはおかない。さて、この争いも、源氏の勝利に終わってみれば、明け方の空には残月がかかっていて、平家の陣営のほうから聞こえてくる笛の音が、いかにももの悲しい。激しい戦いの場にあって、かくも見事に笛を吹く者は、いったい、誰であろうか。

「吟剣詩舞道漢詩 続絶句編」 日本吟剣詩舞振興会

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