千葉市の郊外ふるさと村にある登録有形文化財。東京広尾にあった旧スイス大使館を移築したものです。今の季節はサツキが美しい枯山水の庭園が見事です。
秋月悌次郎は自分を西門豹になぞらえていましたが、ある日「韓非子」に「西門豹の性は急也、ゆえに韋(い)を佩びて己を緩くす」とあるのを読み、それ以後は常に韋を懐中か袖の袂に入れておき、激怒しそうになるとその韋を撫でて心を静める習慣をつけました。韋はなめし皮の紐でやわらかく緩やかな物の象徴です。悌次郎の号「韋軒」の謂われでもありましょう。激動の時代を生きた悌次郎ですが、生涯、他人と激しく争うことがなかったと言われています。中村彰彦著「落花は枝に還らずとも」の中にありました。
茂原牡丹園(千葉)です。古い民家に牡丹が咲きそろいました。
農家の母屋は享保年間(1730) 長屋門は天保8年(1837)の建造で国の有形文化財に登録されています。250種2500株の牡丹が植えられています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/0b/ee040152fe05e4d8b4aba2208a1f30ea.jpg)
京都守護職始末の一連のブログの最後にあたり、「七年史」とそれを編輯した北原雅長に触れます。
「七年史」は幕末、維新の歴史資料です。文久2年(1862年)から明治元年(1868年)までの7年間の歴史事実を編年体で記述してあり、會津藩の勤王の立場を知ることができます。
この本は明治33年に出版されたもので編輯者、北原雅長(會津藩家老神保内蔵助の次男)は 後に異境の地 長崎の市長となりました。
ここで、北原雅長の生家、神保家に関して述べます。
神保内蔵助: 雅長の父は會津若松の戦いに敗れ、同じく家老の田中土佐と城下の屋敷で共に自決しました。
神保修理: 内蔵助の嫡男、藩の嘱望を集めた人材で、容保公の
側近となって京都にありましたが、鳥羽伏見の敗戦の責任を取る形でj自刃した悲劇の藩士です。
神保雪子: 修理の妻、會津武士の妻の矜持を胸に、自ら命を絶ちました。
下の写真は「七年史」の表題と雅長が書いた序文の一部です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/18/d64d534bcd44136a967a57ca9122a006.jpg)
最寄りの郵便局で発見しました。
土井晩翠 自筆の荒城の月の額。
春高楼の花の宴、、、、、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/70/85b75831a3aeead0963cac11b9d4782d.jpg)
星落秋風五丈原 も見つけたくなりました。
祁山悲秋の風更けて、、、、、
土井晩翠 自筆の荒城の月の額。
春高楼の花の宴、、、、、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/70/85b75831a3aeead0963cac11b9d4782d.jpg)
星落秋風五丈原 も見つけたくなりました。
祁山悲秋の風更けて、、、、、