yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

六義園

2010-03-30 10:11:59 | 文化
  東京都文京区本駒込に六義園(りくぎえん)という庭園があります。元禄時代に五代将軍 徳川綱吉の側用人として有名な柳沢吉保が下屋敷内に築き、小石川の後楽園とともに、江戸の二大庭園と言われました。その後、荒廃していたのを、明治時代に三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎が購入して東京市に寄贈して今日に至り、現在は一般に公開されています。今は桜が見頃を迎え、夜にはライトアップされて見事なしだれ桜が都民に親しまれています。
六義の由来は、「詩経」の中に詩形を分類する言葉、「風、雅、頌、賦、比、興(きょう)」のことです。紀貫之が「古今和歌集」の序文の中で「詩経」の六義を和歌にあてはめましたので、柳沢吉保は和歌を庭園で再現しようとしました。また、六義は「むくさ」とも言いますので、「六義園」の別名を「むくさのその」と言います。その「むくさの薫(た)き物」は香料植物として広く親しまれています。すなわち、黒方(くろぼう)、梅花(ばいか)、果葉(かよう)、菊花(きっか)、落葉(らくよう)、侍従(じじゅう)のことです。
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日本の経済指標

2010-03-27 07:00:03 | 文化
先日、今年度の国家予算、一般会計総額92兆円(過去最高額)が成立しました。
経済については私は不得手ですが、自分なりに日本の経済指標をまとめてみました。

まず、2010年の日本の税収の見込み額は37兆円。
2010年の新規国債の発行額は44兆円。

国債(つまり国の借金)が税収(国の収入)を上回るのは1946年以来、初めてのことです。ご承知の通り1946年(昭和21年)は太平洋戦争の敗戦により、日本は経済的に崩壊状態にありました。その時と現在を単純に比較することはできませんが、借金が税収を上回るという点では同じであることを認識しなくてはなりません。

さて、国の債務は、約900兆円 (2010年3月末における推定値)
また、地方自治体の債務は 約 200兆円。
 国の人口は、約1.3億人(2010年)。
 国の世帯数 約5000万世帯。
従って、上記の債務は国民1人当たり847万円になります。
(900兆+200兆)÷1.3億=847万
一方、国内総生産は 525兆円。 (2009年度の内閣府の推計)
2010年の3月には中国に抜かれ、今までアメリカに続いていた世界第2位の座を追われる見通しです。
国の債務が国内総生産の約2倍というのは驚くべき事です。

また、国の債権は 約226兆円 (2008年末)。
過去においては、日本は世界最大の債権国と言われていましたが、その債権額は減少傾向にあります。
 国の資産は約500兆円。この中には、売却が難しい国有地、国有林、港湾、飛行場などを含んでいます。
貿易収支の黒字は1兆円弱です。
国内個人金融資産は1400兆円ですが、この中には、担保価値の無い住宅ローン、保険年金準備金など、400兆円が含まれますのでこれを差し引くと約1000兆円です。これは国民1人当たり770万円に相当し、国民1人当たりの債務847万円よりやや少ない値です。

嘗て日本は金持ち国家でしたが、その時代は終わりました。それに、天然資源も国有資産も少ない国です。有るのは、巨額の債務です。上記の経済指標は重く受け止めるべきであり、将来の日本の経済にとっては大きい懸念材料と思われます。
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荘子 逍遙遊篇

2010-03-23 08:36:17 | 文学
「逍遙遊」とはこころまかせに遊ぶ、すなわち、何ものにも束縛されることのない絶対的に自由な人間の生活という意味です。荘子は、絶対自由の生活をもつ人間を、究極的な人間という意味で「至人」とよび、また人間を超越した人間という意味で「神人」ともよんでいます。逍遙遊篇は、この至人または神人のとらわれなき生活、自由無碍の境地を、荘子独特の奇想天外な比喩と機知縦横な筆によって描いたものです。
有名な最初の部分を紹介します。

北ノ冥(うみ)ニ魚有リ。其ノ名ヲ鯤(こん)ト為(い)フ。鯤ノ大イサ、其ノ幾千里ナルヲ知ラズ
化シテ鳥ト為ルトキ、其ノ名ヲ鵬と為(い)フ。鵬ノ背(そびら)、其ノ幾千里ナルヲ知ラズ。
怒(ふるいた)チテ飛ベバ、其ノ翼ハ天(そら)垂(み)ツ雲ノ若シ。是ノ鳥ハ、海ノ運(うご)クトキ、将ニ南ノ冥(うみ)ニ徒(うつ)ラントス。南ノ冥トハ天ノナセル池ナリ。

「訳」
世界の北の果て、波も冥(くら)く遙かにたゆとう北極の海。その冥く遙かな波の上に幾千里あるともしれぬ巨体を横たえている鯤という名の魚。やがて、
この巨大な鯤が七色なす極光の神秘に歳月をへて、大いなる転身の時を迎える
と、背(せな)の広さ幾千里あるともしらぬ巨大な鳥に変化する。「怒(ふるいた)チテ飛ベバ、其ノ翼ハ天(そら)垂(み)ツ雲ノ若シ」この鵬とよばれる巨大な鳥が、一たび満身の力を奮って大空に飛びたてばその翼の大きさは、
青空を掩う雲かと見まがうばかりである。

 荘子は、書の始めに、まず、人間の思惟と想像力のみすぼらしさをあざわらうかのように、常識の世界を超えて無限の時間と空間を飛翔する鵬・鯤の話をもち出して読者の度肝を抜くのです。

 荘子の郷国である宋は現在の河南省東部にあり、古くから「四戦の地」すなわち四方に敵があって戦にあけくれた土地でした。実際、戦国時代を通じて
しばしば戦乱の中心となり、周囲の強国に踏みにじられた弱小国でした。
宋の民は弱国の悲哀と苦渋、侮辱と屈辱の中で、飢餓と流亡の過酷な生活を強いられ、人間として不自由の極限状態にありました。荘子も痩せこけ、顔は黄ばみ、破れ靴につぎはぎだらけの衣服を身につけた貧窮の生活を送りました。
こうした極限状況の中で、荘子にとって自由とは、「自己がそれぞれの自己として、己が直面する極限状況の中にあっても不屈に生きてゆくこと」を意味しました。古代アジア的専制支配下にあって人間としての現実的な在り方を極限状況の中で追求した自由でした。荘子はまず、弱小な人間と社会にくらべて、想像を遙かに絶する巨大な鵬と鯤から話を起こしていくのです。奔放で壮大な精神的飛翔のすばらしさが感じられます。

         福永光司 「荘子 内篇」朝日新聞社

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25%削減目標の意味

2010-03-17 07:07:38 | 科学
鳩山首相が昨年9月の国連首脳会議の席上で温室効果ガス削減の2020年目標として1990年比で25%減という大胆な提案をしました。これ以後、政府はすべての主要国の公平かつ実効性のある参加を条件に一貫してこの目標を主張しています。続いてCOP15でコペンハーゲン合意が確認され、先進国は2020年目標を提案することが要請されました。
まず、25%という数字の根拠を紹介いたします。
この分野ではIPCC(政府の定めた専門家パネル)の第四次報告書が重視されていますが、その中に、安定化温室効果ガス濃度450ppmのケースのシナリオが記されています。このケースにおいては、産業革命以前の自然のレベルから地球の温度が最終的にはほぼ2度上昇するのに相当します。このシナリオでは、2020年の先進国の温室効果ガス排出が1990年比で25~40%と記されています。各国が削減目標として25~40%を提案しているのもこのシナリオと整合しています。さて、2度を目標にするというのは合理性があります。すなわち、非可逆的影響の代表例であるグリーンランドの氷床融解について、気温が1.9~2.0度上昇というのが氷床融解を防ぐ限界の温度とされており、これ以上気温が上昇すると氷が融解して海面が7m上昇に向かう破滅的リスクがあります。これを回避する重要な一線が2度なのです。

 わが国で25%程度の削減量を達成するには、次のような方策が代表的なものです。
1. 10~15%程度の削減量を海外排出権取引と従来の森林吸収で賄う。
2. 車の燃費、建物断熱、家電品のエネルギー効率等について企業側ないし購入側に何らかの規制を導入する。
3. 1~2万円/CO2トン程度の環境税を導入する。
4. 総量規制と排出量取引システムの導入に際しては、鉄鋼・セメント・化学・紙パルプ
等の重工業への総量規制は大きな国内生産の低減を引き起こさないよう配慮する。

25%削減の実現は容易ではありませんが、これを本当に実現するためには、首相は目標数値を連呼するだけではなくて、上記の政策手段を定量的に検討してタイミングよく実行に移すべきであると茅教授は、鳩山首相に提言されています。

   茅陽一 「學士會報」No. 881 
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慶應義塾塾歌

2010-03-13 07:21:14 | 文化
校歌には連帯感と団結を強め、気持ちを高揚させる良い歌が多いですが、とりわけ慶応義塾の塾歌は格調が高く旋律もすばらしいと思います。ご承知の通り慶応義塾は福沢諭吉が1858年に築地の鉄砲州にあった、中津藩の中屋敷内に開いた「蘭学塾」を起源としています。1868年(慶応4年)に芝の新銭座に移転し、「慶応義塾」と改称して今日に至っており、2008年には150周年を迎えました。神宮球場にもよく鳴り響いたその塾歌を以下に紹介します。

一、 見よ
風に鳴る わが旗を 新潮(にいじお)寄するあかつきの
嵐の中に はためきて 文化の護りたからかに
貫き樹(た)てし 誇りあり
樹てんかな この旗を
強く雄々しく樹てんかな
ああ わが義塾
慶応 慶応 慶応

二、 往け
限りなきこの道を 究めていよよ 遠くとも
わが手に執れる 炬火(かがりび)は 叡智の光 あきらかに
ゆくて正しく照らすなり
往かんかな この道を
遠く遙けく 往かんかな
ああ わが義塾
慶応 慶応 慶応

三、  起て
 日はめぐる丘の上
春秋(はるあき)ふかめ 揺ぎなき 学びの城を 承け嗣ぎて
執る筆かざす わが額(ぬか)の 徴章(しるし)の誉 世に布かん
生きんかな この丘に 
高く新たに 生きんかな
ああ わが義塾
慶応 慶応 慶応

旧い塾歌を改めて、上記の塾歌が昭和15年11月に富田正文作詞、信時清作曲で作られました。慶応義塾の学歌ともいうべき歌であり、厳粛に扱われています。応援の際には、直立不動で歌うことと決められており、また決して飲み会で歌ってはいけない歌だそうです。今でも学生と卒業生に愛されていて、事あるごとに歌われています。
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日本の電話のさきがけ

2010-03-09 07:05:25 | 文化
明治時代、日本に電話機が導入されるきっかけを作ったのは、アメリカに留学した二人の日本人留学生でした。それは金子堅太郎と伊沢修二でした。
電話機はアメリカのベルが1876年に発明しました。当時、ハーバード大学で学んでいた
日本人留学生、金子堅太郎と伊沢修二は二人だけでそれを試みに使ってみました。その結果
日本語の会話ができることを確認して大変感動しました。そこで早速、明治政府にそれを報告しました。この情報を受けて工部省は翌1877年にベル電話機を2台輸入し、通話実験を行って性能を確かめ、早速、電信局製作所で国産第一号の電話機を作り、実用化に踏みだしました。そして早くも1890年には東京、横浜間で電話サービスが開始され、1899年には東京、大阪間の長距離市外通話が始まりました。このように、アメリカで発明された電話をいち早く実用化したのは日本が最初でした。そのきっかけを作った二人の日本人留学生の活動も特筆すべきものでした。このような素早い対応に明治時代の気分がうかがえます。

ところで金子堅太郎(1853-1942)は元福岡藩士で、維新後、岩倉具視の欧米使節団に随行してアメリカに渡り、ハーバード大学で学び、帰国後、伊藤博文内閣で農相、法相などを勤めました。またセオドール・ルーズベルト大統領とは大学で同窓であったため、日露戦争当時に対米外交に当たり、アメリカを動かして日本に有利な対ロシア講和条約を結ぶのに尽力しました。
伊沢修二(1851-1917)は高遠藩士の父を持ち、秀才の誉れ高く、上京して大学南校(現、東京大学)に学び、その後、文部省に出仕してアメリカに留学しました。マサチューセッツ州の師範学校で音楽教育法を学び、帰国すると日本の近代音楽教育を指導し、東京音楽学校(現、東京芸大)の初代校長も勤めました。卒業式の定番として有名な「仰げば尊し」は彼の作詞、作曲と言われています。
高田達雄 「電磁波のすばらしい世界」 電気学会
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パクス・トクガワーナ

2010-03-03 10:52:49 | 歴史
  天下分け目の関ヶ原の戦に勝利した徳川家康が1603年に江戸に幕府を開いてから1868年に第15代徳川慶喜が大政奉還をするまでの間の約260年間は江戸時代といわれ、パクス・トクガワーナとも言えます。これは、パクス・ロマーナ(ローマによる平和)やパクス・アメリカーナ(アメリカによる平和)からの連想ですが、徳川将軍家による平和の時代といえましょう。徳川将軍を頂点とする世襲の士農工商の身分制度があり、鎖国までしていましたから、海外との交流も自由にできませんでした。不自由で暗黒な時代であったとの見方が明治以後にもありました。しかし、この時代は約260年もの長い間、内戦も外国との戦争も無かった平和な時代であり、世界史的にみても稀で奇跡的とも言える平和な時代でした。明治維新を「夜明け」と見る小説などもあって、国策により公平な歴史認識が妨げられた傾向があります。島崎藤村の「夜明け前」も結果としてそれを助けました。ところで最近この小説の有名な書き出し部分に出典があることを知りました。

木曽路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。(夜明け前)

木曽路はすべて山の中なり。名にしおふ深山幽谷にて岨づたひに行かけ道多し。―略― 此間左は数十間深き木曽川にー略― 山の尾崎をめぐりて谷へ入る、また先の山の尾先をまはる所多し。(木曽路名所図絵)

道の狭いところには、木を伐って並べ、藤づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。 (夜明け前)
道の狭き所は、木を伐わたして並べ、藤づらにてからめ、街道の狭きを補ふ。 
(木曽路名所図絵)

これらを比べると、藤村は文語を現代語に変えただけのように見えます。

また、大佛次郎の「鞍馬天狗」の中で、鞍馬天狗が少年杉作に「杉作、日本の夜明けは近いのだよ」という科白を言っていますが、これも同じ主旨が見受けられます。
実際のところ、江戸時代は暗い夜の時代ではありませんでした。元禄時代や文化文政の時代などには庶民文化が華を開き、身分制度やいろいろなしがらみの中にあっても、人々はその中で生き生きとして精一杯生きました。何よりも人々が望んだ平和で平穏な生活がありました。
政治は朱子学による文治政治であり、平和で凶悪犯罪の少なく礼節を尊ぶ時代だったのではないでしょうか。また、武士のためには全国各地に藩校や武道場があり、庶民のためには町に寺子屋があり、教育が普及しており、そのレベルもかなり高いものであったということです。
武士も町人も女性も各々の分を守り懸命に生きました。藤沢周平の時代小説にはそうした人々の哀感と愛憎が温かい筆致で描かれています。
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詰将棋のルールに疑問

2010-03-01 08:12:11 | 将棋
伝統ある詰将棋のルールについて私のような一介のアマチュア将棋愛好者が発言するのは不穏当なことかも知れませんが、日頃、詰将棋を解いていて、そのルールに関して疑問を感じておりますので、ここにご紹介したいと思います。将棋や詰将棋に興味の無い方には、どうぞご容赦をお願いします。

詰将棋のルールに「詰め上がった時に攻め方に持ち駒が余っていてはいけない」というルール(駒余り禁止)があります。一般の指し将棋の対戦にはこのようなルールは無く、持ち駒の有無に関係が無く詰めれば勝ちです。「余り駒禁止」は詰将棋特有のルールです。
 さて、下の図面は今回の説明のために私が作った詰将棋の簡単な例題です。
詰め手順は3通り、A,B、Cがあります。
 A,2二金の1手詰 (1三にいる金で2二にある香車を取る)しかし攻め方の持駒に香車が余ったため不正解です。
 B.2三桂、同香、2二金の3手詰  これも持駒に歩兵が余ったため不正解です。
 C.2三桂、同香、1二歩、同角、2二金の5手詰  この手順のみが正解です。

A,Bの手順は1手とか3手で短くて自然な手順ですが持駒が余ったので不正解です。
Cの手順のみが正解です。 
試みに、定評のある市販の「詰将棋解答ソフト」にこの問題を解かせてみましたら2二桂成の1手詰(駒余りの反則)を解答しました。 
A,Bや「詰将棋ソフト」の答のような手順で詰めるという簡明な手順があるにもかかわらず不正解、というのはまことに不自然です。「駒余り禁止」というルールにより、詰将棋がより楽しく高度になるという可能性はほとんど無いように思われるので、「駒余り禁止」というルールは百害有って一利無しではないかと考える次第です。大抵の詰将棋の場合は持駒を全部使ってようやく詰むものです。最近挑戦した長い手順の詰将棋では8個の詰手順を考えましたが、その内の3個の詰手順が「駒余り」で不成立のため、これ以上、正解を考える気力が失せてしまいました。因みに詰碁や詰連珠(五目並べ)の世界においては、詰める時だけ別のルールを設けるという例は無いようです。

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