yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

高須四兄弟

2010-06-28 10:03:25 | 歴史
徳川家の親藩、美濃国高須藩の藩主、松平義達(よしたつ)公は子福者で十人の男子を設けました。長男と四男と九男は夭折しましたが、他の男子は幕末に活躍しました。次男慶勝(よしかつ、1824-1883)は尾張藩六十一万石を継ぎ、五男茂徳(もちなが、1831-1884))は十六代将軍となった慶喜の一橋家を継ぎました。六男容保(かたもり、1831-1884)は会津二十三万石の藩主となり、後に京都守護職を勤めました。八男定敬(さだあき、1847-1908)は桑名十一万石藩主となり京都所司代となりました。

 次男慶勝は幕末に尾張藩の藩主になると、藩財政を建て直すなどの目覚ましい功績を挙げました。また、第一次長州征伐の総督となって出陣しましたが、長州が恭順したので寛大な処置をとって凱旋しました。その後は政治の表舞台に出ることなく維新を迎えました。六男容保は京都守護職となり、また、京都所司代になった八男定敬とともに京都の治安の維持に当たりましたが、鳥羽伏見の戦に敗れた後、会津若松城で籠城戦をしましたが、惜しくも敗れました。八男定敬も越後や蝦夷を転戦した後、敗れました。
次男の慶勝は、戊辰戦争で朝敵となったこれらの弟達、茂徳、容保、定敬の助命にも奔走しました。また、写真を趣味にしていた慶勝は、名古屋城の金のシャチホコや、落城後の会津鶴ケ城の写真など約1000点の写真を遺しましたが、それらは今日、すべて重要な歴史資料になっています。このように高須四兄弟は幕末、維新の激動の時代を生き、時には重要な役目を担いながらも、時代に翻弄された生涯を送りました。
明治11年(1878)には皆で再会できましたが(東京銀座)、再び会うことはなく、その5年後、最年長の慶勝は他界しました。そして茂徳、容保も相ついで他界致しました。
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杉原千畝

2010-06-21 06:28:26 | 歴史
杉原千畝(ちうね)の名前は、以前はあまり知られていなかったかも知れませんが、ナチスドイツの時代に約六千名ものユダヤ人の命を救った世界に誇るべき外交官です。杉原は1900年に岐阜県に生まれました。医者にしたいと願った父親の反対を押し切って彼は上京し、早稲田大学に入学しました。予科を終了した後、外務省からロシア語留学生として選ばれ、ハルピン学院に学びました。
そのハルピン学院には、建学の精神として「自治三決」がありました。
第一 人の世話になるな。
第二 人の世話をしなさい。
第三 絶対に報いを求めてはいけない。
重要なことは、人の世話をしなさい。そしてその報いを求めてはならないということでしたが、杉原は一生、この精神を人生の指針としました。

さてハルピン学院を卒業した後、杉原は外務省の書記生に採用され、満州国外交部に勤務して対ロシア交渉に手腕を発揮しました。そして1935年帰国した時に菊池幸子と結婚しました。後、フィンランド勤務を経てリトアニア国の首都カウナスの日本領事館に移り、リトアニア代理領事になりました。
この頃に、ポーランドから多数のユダヤ人難民が命からがらカウナスに逃げて来て、1940年7月31日の早朝から日本領事館に終結して、日本経由で外国に行くビザの発給を求めました。杉原は日本の外務省に繰り返し発給認可を求めましたが、当時、日独伊三国同盟が結ばれており、ドイツの意向に反する行為に対して本国からの許可は降りませんでした。杉原は悩み抜いた末に、妻に言いました。「幸子、私は外務省に背いて領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」杉原は外務省を辞めさせられることも覚悟していました。文官服務規程で本省の指示に反して行動すれば昇進停止か馘首が待ち受けているのです。杉原は建物の外に出て、ユダヤ人難民の群に向かって鉄柵越しに「ビザを発行すると」告げました。その時、人々の表情は電気が走ったようになり、その後どよめき、抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親など、皆が喜びを表現したということです。それから杉原は、朝9時から午後5時まで昼食も取らずに毎日ビザを発行し続けました。ソ連からは領事館を退去するよう何回も命令がありましたが一か月の間休むひまも無くビザを書き続けました。しかし遂にカウナスから退去させられる日がきました。彼は行先のベルリンに向かう発車間近の汽車の中でも書き続け、窓からビザを手渡しましたが、とうとう汽車が走り出してビザを手渡すことができなくなりました。杉原は「許してください。私には書けない。みなさんのご無事を祈っています」と苦しそうに言うとホームに立つユダヤ人に深々と頭を下げました。この杉原ビザは六千枚にのぼり、六千名の命が救われたのです。     幸子が詠んだ短歌

  走り出づる列車の窓に縋(すが)りくる手に渡さるる命のビザは
 
終戦の後、7年間収容所生活を送ったのち、1947年に帰国した杉原は神奈川県鵠沼に居を構えました。まもなく勤務先の外務省に行きましたが、明確な説明も無いまま、「既に役職が無い」という理由で復職できませんでした。しかしその後、彼は持ち前の優れた語学力を生かして商事会社に勤務し、活躍しました。

 彼の崇高な業績は程なく世に知られることとなり
1985年にはイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞。
 1989年にはADL財団ニューヨーク本部において「勇気ある人」賞を受賞。
 1992年に、日本政府は国会で正式に杉原千畝の名誉を回復し、宮沢総理が杉原の功績を称え
ました。

 杉原は1986年に86歳で永眠しましたが、杉原が生まれた岐阜県八百津につくられた「人道の丘公園」には記念碑が建立されています。また、リトアニアの現在の首都ヴィリニュスには杉原の功績を称えて「スギハラ通り」があり、記念碑が建てられています。一方、命が助かったユダヤ人は、その恩を決して忘れることはなく、豊かな人は杉原の家族を世界中から支援し、殆どの人が杉原ビザを今も大切に保存しているということです。

       杉原幸子著 「六千人の命のビザ」大正出版
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羽生名人語録

2010-06-19 09:50:04 | 将棋
先日、将棋名人戦において羽生善治名人が挑戦者の三浦弘行八段を四連勝で退けて名人位を防衛しました。羽生名人は、既に永世名人を名のる資格を獲得しています。挑戦者は、現役のプロ棋士の中で最も強く元気のいい三浦八段ですから、結果として防衛戦は4対0の大差になったものの、すべての戦が僅差の勝負でした。戦いが終わって暫くして、今年四十歳になる羽生名人は今後の意気込みを次のように語りました。
「長丁場の勝負では、諦めれば終わり。持続する気持ちがあれば色々な可能性が出てくる。将棋の戦は泥臭いものですから、地を這うように粘り強く地道に続けることが大切。知らないうちに保守的になりやすい時期だと思うので、今まで築いた遺産だけでやらない姿勢を大事にしたい。」
棋界の第一人者にして、「地を這うように地道に続ける」という謙虚な姿勢に敬服しました。
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断崖の女王

2010-06-14 06:24:28 | 近況
あまり、お馴染みでないと思いますが、ご近所の玄関先で「断崖の女王」(写真の中で下側の鉢植え)という花を育てているのを見つけました。これは、別名をブラジリアン・エーデルワイスと言います。大きい球茎(球根)を持つ植物で赤い可憐な花を咲かせます。まだ開花前でしたが、珍しいのでご紹介します。良い香りがするとのことでした。


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ガロア

2010-06-11 06:21:25 | 科学
ガロア(1811~1832)はフランスの天才的な数学者で、10代で一生の業績となる数学の
理論をほぼ完成しましたが、惜しいことに決闘の傷が元で、21歳の若さで他界しました。
 ご承知の通り、一次方程式はax=b の形ですが、この解は、x=―b/a です。また、二次
方程式 ax2+bx+c=0 の解も、バビロニア王朝の時代(紀元前2000~1100年)から既に知られていました。ところが三次方程式の解は、それから約3000年も経った1545年になって、ようやくイタリアのカルダノの「大いなる技法」という本の中で発表されました。続いてカルダノの弟子のフェラーリ(1522~1565)が四次方程式の解の公式を発表しました。三次、四次方程式の解が続いて発見されたので、この調子ならば五次も六次も直ぐに解けると期待されました。ところが予想に反して100年経ってもそれらは発見されませんでした。そしてなんと約300年後の1824年、ノルウェーの天才アーベル(1802~1829)は論文を発表し、その中で五次以上の方程式の解の代数公式は存在しないことを、他の人に先駆けて証明してしまいました。
ところでガロアもこの難題に挑みましたが、その課程でガロア群と呼ばれる群論を展開しました。そして五次以上の方程式でも、方程式の係数から成り立っているガロア群において、特定の条件が満たされれば、代数的に解ける場合がある事を示すことが出来ました。この証明はアーベルの証明を上回るもので、より一般性が高いと評価されています。
 群論は数学の一分野です。二つの数字群の間の関係を対称性や直交性、結合法則や恒等変換・逆変換といった概念で統合して考察する分野です。アインシュタインの相対性理論、ハイゼンベルクの量子力学、リーマンのリーマン幾何学など現代物理学の発展に大きく寄与した学問です。こうした群論の基礎となる概念を20歳前に想起したガロアの天才的頭脳には驚かされます。

                    中村亨 「ガロアの群論」 講談社
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高柳健次郎

2010-06-07 19:46:29 | 文化
高柳健次郎(1899-1990)は静岡県浜松市に生まれ、東京工業大学を卒業後、静岡大学に勤務しました。高柳はテレビの研究に優れた業績を挙げ、「テレビの父」と言われた人です。1926年に世界で初めて、電子式で画像を電送、受像を行う実験に成功し、ブラウン管上に「イ」という画像を映して見せました。その後、NHKなどと共にテレビ技術の開発と普及に大きく貢献しました。高柳が常々肝に銘じていたのは、
先見性が大切なこと。
今はやっていることをやってはいけない。
20年後に大切になる技術を見出してこつこつ勉強する。
幸運は追いかけても捕まえられないが、前から前髪をつかめば捕らえられる。
などでした。こうした精神をもって高柳は一生を工学の研究に捧げ、テレビなどの開発に次々成功しました。

この高柳の語録の中からいくつかを次に記します。
a. 天分に生きる。(人にはそれぞれに才能があり、それを生かし、世のためになるような人として生きること。)
b. 人工天才。(一つの目的に結集した多人数の知恵は、天才的な力を発揮する。)
c. よい科学者・技術者である前によい人間であれ。(工業に携わる者は、人間として優れていることが大切。生活に役立ち、世の中を良くする任務を持っているからです。)

なお高柳の足跡を遺すために、浜松市の静岡大学工学部内に高柳記念未来技術創造館が建てられて公開されています。
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5S

2010-06-04 09:36:23 | 文化
我が家に昨日から工務店が入り、家の保全、修繕作業などをやってもらっておりますが、工務点が立てている看板に、4Sと言う標語が書いてありました。「整理、整頓、清潔、清掃」を徹底するという意味のようです。そこで会社に勤めていた頃を思い出しました。会社では5S活動をしていました。すなわち、「整理、整頓、清潔、清掃、躾け」のことでした。5S活動では、毎週決まった時間に全員で職場とその周辺の清掃と塵拾いをしました。身の周りの5Sは大切なことだと思います。なお5Sに「しっかり」と「しつこく」を加えて7S活動を実施している会社もあるということです。
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GPS

2010-06-01 15:20:56 | 文化
ご承知の通りGPS(Global Positioning System, 全地球測位システム)は米軍が運用しており、高度約2万kmの地球を回る軌道に約30個の衛星があり、ここから電波を発信しています。この電波には衛星の位置情報と正確な原子時計による時刻情報が含まれています。地球上では、多くの衛星のうち、最低4個の衛星からの電波を受信することにより、受信機が存在する位置を約数10cmの誤差で測定することができます。これをカーナビや船舶や飛行機、携帯電話などに装備することにより、正確な位置を知ることができるので、車、船舶、飛行機の移動に欠くことができないものになっています。元々軍事目的に作られたシステムなので1990年から2000年の間にはSA(Selective Availability)という人為的な誤差が付与され、位置精度が約100mに制限されていました。しかし、民生用に大幅に普及が進みましたので他のシステムに対してGPSの優位を保つために2000年5月にSAが廃止されて現在に至っています。ところが最近、衛星が老朽化したり、更新が充分にできていないために、将来、位置測定精度が低下する恐れがあると言われています。
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