徳川家の親藩、美濃国高須藩の藩主、松平義達(よしたつ)公は子福者で十人の男子を設けました。長男と四男と九男は夭折しましたが、他の男子は幕末に活躍しました。次男慶勝(よしかつ、1824-1883)は尾張藩六十一万石を継ぎ、五男茂徳(もちなが、1831-1884))は十六代将軍となった慶喜の一橋家を継ぎました。六男容保(かたもり、1831-1884)は会津二十三万石の藩主となり、後に京都守護職を勤めました。八男定敬(さだあき、1847-1908)は桑名十一万石藩主となり京都所司代となりました。
次男慶勝は幕末に尾張藩の藩主になると、藩財政を建て直すなどの目覚ましい功績を挙げました。また、第一次長州征伐の総督となって出陣しましたが、長州が恭順したので寛大な処置をとって凱旋しました。その後は政治の表舞台に出ることなく維新を迎えました。六男容保は京都守護職となり、また、京都所司代になった八男定敬とともに京都の治安の維持に当たりましたが、鳥羽伏見の戦に敗れた後、会津若松城で籠城戦をしましたが、惜しくも敗れました。八男定敬も越後や蝦夷を転戦した後、敗れました。
次男の慶勝は、戊辰戦争で朝敵となったこれらの弟達、茂徳、容保、定敬の助命にも奔走しました。また、写真を趣味にしていた慶勝は、名古屋城の金のシャチホコや、落城後の会津鶴ケ城の写真など約1000点の写真を遺しましたが、それらは今日、すべて重要な歴史資料になっています。このように高須四兄弟は幕末、維新の激動の時代を生き、時には重要な役目を担いながらも、時代に翻弄された生涯を送りました。
明治11年(1878)には皆で再会できましたが(東京銀座)、再び会うことはなく、その5年後、最年長の慶勝は他界しました。そして茂徳、容保も相ついで他界致しました。
次男慶勝は幕末に尾張藩の藩主になると、藩財政を建て直すなどの目覚ましい功績を挙げました。また、第一次長州征伐の総督となって出陣しましたが、長州が恭順したので寛大な処置をとって凱旋しました。その後は政治の表舞台に出ることなく維新を迎えました。六男容保は京都守護職となり、また、京都所司代になった八男定敬とともに京都の治安の維持に当たりましたが、鳥羽伏見の戦に敗れた後、会津若松城で籠城戦をしましたが、惜しくも敗れました。八男定敬も越後や蝦夷を転戦した後、敗れました。
次男の慶勝は、戊辰戦争で朝敵となったこれらの弟達、茂徳、容保、定敬の助命にも奔走しました。また、写真を趣味にしていた慶勝は、名古屋城の金のシャチホコや、落城後の会津鶴ケ城の写真など約1000点の写真を遺しましたが、それらは今日、すべて重要な歴史資料になっています。このように高須四兄弟は幕末、維新の激動の時代を生き、時には重要な役目を担いながらも、時代に翻弄された生涯を送りました。
明治11年(1878)には皆で再会できましたが(東京銀座)、再び会うことはなく、その5年後、最年長の慶勝は他界しました。そして茂徳、容保も相ついで他界致しました。