yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

琵琶湖周航の歌

2021-10-31 06:10:10 | 文学
不肖が特に好む歌です。大正六年に小口太郎(おぐちたろう)が作詞しました。第三高等学校の学生が歌い始め、現在まで歌い継がれているロマンと抒情に溢れた名曲です。加藤登紀子の歌唱でヒットしたのは周知のことです。

(一番) われは湖(うみ)の子さすらひの 旅にしあればしみじみと
       昇る狭霧やさざなみの 志賀の都よいざさらば

(二番) 松は緑に砂白き 雄松が里の少女子は
赤い椿の森蔭に はかない恋に泣くとかや

(三番) 波の間に間に漂へば 赤い泊火なつかしみ   
     行方定めぬ浪枕 今日は今津か長濵か
   
(四番) 瑠璃の花園珊瑚の宮 古い傳への竹生島   
     仏の御手に抱かれて ねむれ少女子やすらけく

(五番) 矢の根は深く埋もれて 夏草しげき堀のあと   
     古城にひとり佇めば 比良も伊吹も夢のごと

(六番) 西国十番長命寺 汚れの現世(うつしよ)遠くさりて
     黄金の波にいざこがん 語れ我が友熱き心   
     

大正六年六月、第三高等学校(現京都大学)の二部のクルーは学年末(当時は七月卒業)の慣例によって琵琶湖周航に出ていました。小口太郎ら一行は大津の美保ケ崎を漕ぎ出して一日目は雄松(志賀町近江舞子)に泊まり、二日目の六月二十八日は、今津の湖岸の宿で疲れを癒していました。その夜、クルーの一人が「小口がこんな歌を作った」と同行の漕友に披露し、その詞を、当時彼らの間で流行していた歌の節にのせるとよく合ったので、喜んで合唱したということです。「琵琶湖周航の歌」誕生の瞬間でした。
小口太郎は明治三十年生まれ。長野県岡谷市出身。第三高等学校に学び、後に東京帝国大学物理学科に進みました。「有線および無線多重電信電話法」の特許を取るなど多才でしたが僅か二十六才で他界しました。
ところが驚いたことに最近、平成七年になって、この歌の作曲者は吉田千秋だということが判明しました。吉田千秋は明治二十八年に歴史地理学者吉田東伍の次男として新潟県新津市に生まれました。東京農科大学(現東京農業大学)に入学しましたが体調を崩して一年ほどで退学、その後郷里で療養生活を送りましたが二十四才で他界しました。
大正四年に「音楽界」八月号に琵琶湖周航の歌の原曲となる「ひつじぐさ」を発表しました。ひつじぐさは睡蓮(Water Lily)の和名です。
千秋は音楽や文学に非凡な才能を持っていましたが、この歌が広く歌われていることを知ることもなく病気で夭折してしまいました。惜しいことでした。
作詞が小口太郎 二十才、作曲が吉田千秋 二十才、奇しくも同じ二十才でした。若い二人は青春の一瞬を煌めきましたが、その後二人とも余りに短い生涯を閉じました。しかし、この名曲は百年も愛唱され続けており、今後も歌われることでしょう。
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孝謙女帝、明正女帝

2021-10-28 06:09:08 | 歴史
日本の天皇は男性に限るという古来の決まりはなく、既に7人の女帝がありまし た。歴代125代の天皇の内、女帝は9代7人です。すなわち、推古天皇(33代)、皇極天皇(35代)、斉明天皇(37代、35代皇極天皇が重祚)、持統天皇(41代)、元明天皇(43代)、元正天皇(44代)、孝謙天皇(46代)、称徳天皇(48代、46代孝謙天皇が重祚)、明正天皇(49代)、後桜町天皇(117代)です。
女帝は少数ではありますが、その御代は概ね穏やかで隆盛であったと言われます。
奈良時代、46代孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后の御子であり、後に重祚して48  代称徳天皇になりました。天皇の和歌に下記があります。

     この里は継ぎて霜や置く夏の野に吾が見し草はもみぢたりけり

この里にはいつも霜が降るのか、夏の野に私が見た草は、モミジのように黄葉していたよ

752年の作で『万葉集』にもあります。ヒヨドリバナという植物がウイルスに感染し、黄色の斑文が浮かんだ様を詠まれたそうです。「植物のウイルス病を詠んだ詩文としては世界最古とされています」と大阪府立大学准教授の望月知史氏は言います。孝謙天皇は歴史に名高い女帝でありましたが、ウイルスという概念すらなかった時代に詠んだ和歌が1200年もの時を経てウイルス研究者の関心を呼ぶとは思わなかった事でしょう。
時代が下って、明正天皇(めいしょうてんのう)は江戸時代の女帝(1624~1696)です。後水尾天皇の第二皇女で、母は徳川2代将軍秀忠と江与の娘、和子(まさこ、東福門院)です。明正の2文字は元明天皇と元正天皇から採ったといわれます。徳川3代将軍の時代であり、公武合体した隆盛の時代といわれます。

現代の日本では、明治22年に制定された「旧皇室典範」により男子が天皇になると定められています。しかし皇位継承者を確保するためにも、この見直しを考慮する動きもあると聞きます。

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唱歌 「冬景色」 

2021-10-26 06:12:17 | 文学
「冬景色」(ふゆげしき)は1913年に発表された文部省唱歌です。作詞、作曲ともに不詳。尋常小学校5学年の教科書に載りました。
歌詞は美しい日本の古文で書かれています。
1、
さ霧消ゆる湊江(みなとえ)の
舟に白し朝の霜
ただ水鳥の声はして
いまだ覚めず岸の家
2,
烏(からす)啼(な)きて木に高く
人は畑(はた)に麦を踏む
げに小春日ののどけしや
かへり咲きの花も見ゆ
3,
嵐吹きて雲は落ち
時雨(しぐれ)降りて日は暮れぬ
若(も)し灯(ともしび)の漏れ来(こ)ずば
それと分かじ野辺(のべ)の里











 


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良い友、悪い友

2021-10-22 06:22:01 | 文学
兼好法師は「徒然草 第117段」に友人について述べています。
 
友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人、四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵。六つには、虚言する人。七つには、欲深き人。
よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師。三つには、智恵ある友。
    吉田兼好(1283~1352)は鎌倉時代末期の人ですが、「徒然草」の内容は
    現代人にも共感されます。 
    
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青葉の笛

2021-10-19 06:17:13 | 文学
青葉の笛は、平氏の公達、平敦盛が所持した笛です。敦盛は源平盛衰の戦、一ノ谷の合戦で落命した悲劇の人でした。物語、詩、能、歌舞伎の題材になり、のちの人々に哀惜されています。江戸時代の詩人、松口月城の漢詩、「青葉の笛」を紹介します。

  青葉之笛

一谷軍営遂不支
平家末路使人悲
戦雲収處有残月
塞上笛哀吹者誰

一ノ谷ノ軍営 遂ニ支エズ
平家ノ末路 人ヲシテ悲シマシム
戦雲収マル處 残月有リ
塞上笛ハ哀シ 吹キシ者ハ誰ゾ

 「訳」
 一の谷の合戦で、平家の軍勢は源氏に押されて、結局さ支えきれずに敗走するに至った。その哀れな末路は、聞く人を悲しませずにおかない。さて、この争いも、源氏の勝利に終わってみれば、明け方の空には残月がかかっていて、平家の陣営のほうから聞こえてくる笛の音が、いかにももの悲しい。激しい戦いの場にあって、かくも見事に笛を吹く者は、いったい誰であろうか。

 「鑑賞」
 昔から伝えられている「青葉の笛」にまつわる敦盛の哀話を漢詩に詠じたもの。起句・承句で、平家の軍勢が、源氏の大將義経の奇襲を受けて、海上に逃がれ、壇の浦に全滅するあわれな末路を懐古し、転句で、戦い終わって、軍船に乗り遅れた平敦盛が浜辺で吹く笛が哀しく響くさまを詠じている。平易な語句を用いて、哀話をそのままに詠じているところが松口月城らしいところ。吟詠家のみでなく、剣詩舞道家にも広く愛されている。

また、織田信長が好んだという幸若舞の「敦盛」の一節に下記があります。
  人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享けて滅せぬもののあるべきか。

 また、明治39年に大和田建樹が作詞した唱歌「青葉の笛」もあります。

   一の谷の 軍(いくさ)破れ
   討たれし平家の 公達あわれ
   暁寒き 須磨の嵐に
   聞えしはこれか 青葉の笛

   更くる夜半に 門を敲き
   わが師に託せし 言の葉あわれ
   今わの際まで 持ちし箙(えびら)に
   残れるは「花や 今宵」の歌

 「花や今宵」の歌は、平忠度(ただのり)が戦地に向かう途中から京に戻って歌の師である藤原俊成に自分の戦死を予感して、自作の歌集を託した故事、「千載和歌集」にある次の歌です。 

行(ゆき)くれて木(こ)の下かげをやどとせば
花やこよひのあるじならまし


  石川忠久「吟剣詩舞道漢詩集(続絶句編)」 日本吟剣詩舞振興会








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報道の自由度 世界ランキング

2021-10-16 06:15:16 | 文化
国際ジャ-ナリスト、「国境なき記者団(RSF)」は、去る4月に世界の報道自由度ランキング2021年版を発表し、世界180カ国を順位付けました。

 ノルウェ-  1位
 ドイツ   13位
 カナダ   14位
 イギリス  33位
 フランス  34位
 イタリア  41位
 アメリカ  44位
 日本    71位
        
 我が国は、言論と表現の自由が保証された国と思っていましたが、G7諸国の最下位、
 しかも、71位に低迷している事に驚きました。

 報道の自由度が少ない国は以下の通りであり、すべてが独裁政権の下にあります。

    フィリピン    138位
    ロシア      148位
    中国       176位
    シリア      177位
    トルクメニスタン 178位
    北朝鮮      179位
    エリトリア    180位

    エリトリアは北東アフリカにある国です。

    日本の順位が下になっている理由は下記の要因によるといわれます。

1. 特定秘密保護法の存在
2. 報道の自由の環境活動の改善に対する無策
3. フリ-ランスの記者や外国人記者を差別している
4. NHKの報道に対する、政府からの一種の介入
   
 報道の自由を確保するためには、国民ひとりひとりの自覚と不断の努力が必要だと、識者は指摘しています。因みに、今年のノ-ベル平和賞は、フィリピンとロシアで権力者を批判して報道の自由のために戦った人、マリア・レッサとドミトリ-・ムラ-トフが選ばれました。 
                      
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唱歌 「箱根八里」

2021-10-13 06:02:02 | 文学
唱歌「箱根八里」は明治34年(1901)に発行された「中学唱歌」に載った歌です。鳥居忱(とりいまこと)作詞、瀧廉太郎の作曲によります。
鳥居忱は下野国壬生藩士の子弟、瀧廉太郎は豊後の日出藩(ひじ)藩士の子弟です。
 題名の「箱根八里」とは、旧東海道で小田原宿から箱根宿までの四里と、箱根宿から三島宿までの四里をあわせたもので、大井川とともに難所として知られていました。
歌詞は2連で、1番に「昔の箱根」、2番に「いまの箱根」という副題がつけられていました。 李白の漢詩「蜀道難」の一節「一夫當關 萬夫莫開」が歌詞に織り込まれるなど、漢籍にみられる故事、古典、歴史に由来する事項が多く盛り込まれています。
歌詞に登場する「函谷関」は、中国の長安と洛陽の間、長安のある関中の地への入り口を扼する関所で、王朝の死命を制する要衝として有名であり、『史記』における漢の劉邦と楚の項羽の攻防や孟嘗君の故事などで知られています。また「蜀の桟道」は蜀の地、すなわち四川盆地を守るに堅い要害としている山中の難所で、やはり劉邦の天下取りへの備えとなった故事があります。いずれも箱根の関所のある山道の険しさを、漢籍古典に名だたる難所要害にたとえているものです。

1.
箱根の山は、天下の嶮(けん)
函谷關(かんこくかん)も ものならず
萬丈(ばんじょう)の山、千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え、後方(しりへ)にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小徑(しょうけい)は苔(こけ)滑らか
一夫關に当たるや、萬夫も開くなし
天下に旅する剛氣の武士(もののふ)
大刀腰に足駄がけ
八里の碞根(いはね)踏みならす、
かくこそありしか、往時の武士

2.
箱根の山は天下の岨
蜀の桟道數ならず
萬丈の山、千仞の谷
前に聳え、後方にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
羊腸の小徑は、苔滑らか
一夫關にあたるや、萬夫も開くなし
山野に狩りする剛毅のますらを(益荒男)
猟銃肩に草鞋(わらぢ)がけ
八里の碞根踏み破る
かくこそあるなれ、当時のますらを
※なお原詞では、最後の行は「かくこそありけれ、近時のますらを」である。






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数字クイズ

2021-10-10 06:09:05 | 文化
数字を提示して、その意味を質問する形式のクイズ問題があります。
ある人気のテレビクイズ番組を参考にしました。

46755 単位m2(平方メ-トル)をつけて考えると、東京ド-ムの広さになり、東京ドーム何個分の面積というように良く使われます。
23.9944  単位は時間です。1日の長さです。普通24時間と覚えてい
ますが天文学的にはこれが正しいそうです。23時間56分6秒、これを366倍すると1年の長さになります。地球は1年に366回自転しているのです。
9460730472580800 単位はメ-トル。意味は1光年の距離。光が1年間に進
   む距離です。
147800 単位は点。ピカソが生涯に書いた絵の点数です。
 0.013 単位は秒。「刹那」という僅かな時間の長さで、75分の
 1秒と同じです。

220,000,000,000 単位はユーロ。1917年に提示されたサッカーのネイマ-ルの移籍金の金額です。
219355   単位は人。東京タワ-の工事に携わった人の数です。

上記の問題は、一般正解率0%から数%の難問です。こうした難問をほとんど瞬時に、または数秒で解くクイズの達人がいることにビックリします。

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「星落秋風五丈原」 土井晩翠

2021-10-08 06:00:01 | 文学
三国時代、蜀の軍師、諸葛孔明(181~234)は、魏との戦のさなかに五丈原で陣没しましたが、至誠尽忠の人として後々まで語り継がれ敬愛されています。土井晩翠は「星落秋風五丈原」という長詩を詠み、孔明を悼んでいます。

 祁山(きざん)悲愁の風更(ふ)けて
 陣雲暗し五丈原
 零露(れいろ)の文は繁くして
 草枯れ馬は肥ゆれども
 蜀軍の旗光無く 鼓角の音も今しづか
承相(じようしやう)病あつかりき

 



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大儀 息災

2021-10-04 06:04:15 | 歴史
新政府に出仕するにあたり、澁澤榮一が静岡に暮らす主君の徳川慶喜公に
報告と許可を求めた後、別れる時に、慶喜公が澁澤にかけた言葉が、「澁澤榮一、大儀であった、息災を祈る」であったようです。第15代将軍が家来にかけた言葉としては破格の配慮と感謝と万感の想いが籠められていたと感じました。
もし、織田信長公が木下藤吉郎に言葉をかけたとしたら、「であるか、サル、大儀、励め」であったろうと思うのです。仮に一般人である不肖が目下の人に声をかける場合があるとしたら「ありがとう、達者でな」かと思います。
時と場合により、使う言葉は変わるでしょうが、平凡であっても誠実に言葉をかける事は大切だろうと思います。

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