yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

松平容保公を支えた高貴な女性 照姫

2008-07-13 21:02:46 | 歴史

照姫は1832年に會津松平家の支藩である上総飯野藩(木更津)藩主・保科正丕(まさもと)の三女として生まれ、1842年10歳にして第八代會津藩主・松平容敬(かたたか)の養女となりました。18歳の時、豊前中津藩主・奥平昌服(まさもと)に嫁いだものの子が生まれぬまま離縁となったため、1854年に江戸の會津藩邸に戻りました。この時、既に養父容敬は他界しており、九代藩主容保公は、容敬の娘の敏姫を正室としていました。しかし1861年に敏姫はわずか19歳で他界してしまいました。<o:p></o:p>

照姫は次の詞書きとともに哀悼の歌を詠んでいます。<o:p></o:p>

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明くれなつかしく、むつまじくうちかたらひたる君のはかなくならせ給へるに、ただ夢とのみ思はれていと哀しさのままに<o:p></o:p>

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  千とせとも祈れる人のはかなくもさらぬ別れになるぞ哀しき<o:p></o:p>

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美貌の照姫は十代にして早くも、書道、茶道、礼法、香道に通じ、ことに和歌や琴を好む聡明な女性でした。敏姫亡き後は會津松平家の奥向きを担っていました。<o:p></o:p>

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 また、容保公が1862年に京都守護職を拝命し上洛が決まった時には、次の歌を詠んでいます。<o:p></o:p>

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  きてかへる頃さへゆかし都ぢの錦を君が袖にかさねて<o:p></o:p>

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 この歌には、公が京都でのお役目を無事に果たし、錦を着てお帰りになるのが楽しみです、という安寧祈願の思いが込められているのではないかと思います。<o:p></o:p>

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また、1862年には容保公は孝明天皇から忠誠の心を愛でられ、異例なことに、純緋の衣を下賜されました。容保公はこの衣で仕立てた陣羽織を着用し、天覧<o:p></o:p>

の馬揃えに臨みました。馬揃えを見事に指揮した公はその時の武者ぶりを写真に撮らせて江戸の照姫に送ったということです。<o:p></o:p>

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 少将の君より写真焼といへるものを送り給へるに、久々にて気近ふ大命給はる心地して、猶平らかに勇ましうわたらせ給ふ御姿に、いとうれしくおはすればかたじけなくて、<o:p></o:p>

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  御心のくもらぬ色も明らかに写す鏡のかげぞただしき<o:p></o:p>

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さて鳥羽伏見の戦いに敗れた直後、容保公は大阪から東帰した将軍慶喜に江戸退去を命じられ、全藩士を従えて会津への帰国の途につきました。照姫は容保公より一足早く鶴ケ城を目指して旅立ちました。江戸育ちの照姫にとって会津は未知の土地でした。その思いを次の和歌に託しています。<o:p></o:p>

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  おもひきやわが身の上としら河の関路をやがて越えぬべしとは<o:p></o:p>

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 照姫は1869年の春に会津鶴ケ城に入りました。8月23日から9月22日まで続いた籠城戦においては会津藩の婦女500人余を指揮して負傷者の看護、炊事、洗濯、消火活動、弾丸の始末、製造にもあたり、獅子奮迅の働きをしました。<o:p></o:p>

鶴ケ城開城式の後、容保公は滝沢村の妙国寺に謹慎することとなり、照姫もそれに従いました。そこで古寺嵐と題する歌を詠んでいます。<o:p></o:p>

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 荒はてし野寺の鐘もつくづくと身にしみまさる夜嵐の声<o:p></o:p>

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 翌年、新政府は會津藩に対して戊辰戦争の首謀者三家老の首を差し出せとの命令を発しました。田中土佐、神保内蔵助は若松城下で既に自刃していたので、席次からいって萱野権兵衛を「斬に処す」との命令が下りました。皮肉なことに、その執行は會津松平家の支藩である飯野藩主保科正益(まさあり、照姫の弟)に申し渡されました。それを知った照姫は、一死をもって會津藩を救おうとする忠臣・萱野権兵衛に次の歌を寄せて切ない胸の内を伝えました。<o:p></o:p>

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  夢うつつ思ひも分かす惜しむそよまことある名は世に残るとも<o:p></o:p>

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 保科家では表向きには斬首と言いながらも秘かに切腹の形を取らせ、萱野権野兵衛に武士としての体面を全うさせました。小藩故に戊辰戦争において進退を悩み続けた保科正益は、ようやくこのような方法を以て會津松平家の末家の当主として新政府に一矢を報いたのでした。<o:p></o:p>

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その年も師走に入ってから飯野藩邸で照姫が詠んだ歌<o:p></o:p>

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  このゆふへ虫の音なからふり出でてさらに身にしむ秋の雨かな<o:p></o:p>

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正益は照姫の孤独な心を哀れみ竹芝の海を一望できる場所に高殿を建ててやりました。以後、竹芝の海は照姫にとって、何にも代えがたい心の慰めとなりました。<o:p></o:p>

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  色かへぬ浜松枝(はままつがえ)にあかねさす夕日も長き波のかけはし<o:p></o:p>

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また、明治13年会津を再訪した際に東山温泉の「向滝」に泊まり、次のように詠みました。<o:p></o:p>

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  岩くだく滝のひびきに哀れそのむかしの事もおもひいでつつ<o:p></o:p>

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「むかしの事」の中には、鶴ケ城で命懸けで容保公と共に戦った籠城戦のことが含まれていたことでしょう。<o:p></o:p>

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 照姫は明治17年2月28日、東京小石川の保科邸で波乱の生涯を閉じました。享年55歳でした。法名を照桂院と言います。書、和歌を能くし、容保公にも手ほどきをしたと言われています。<o:p></o:p>

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激動の時代に容保公を支えて生きたこの高貴な女性は、今、保科家の墓所ではなく、養父、松平容敬公(かたたか、八代藩主)や容保公とともに会津若松の松平家の墓所に眠っています。<o:p></o:p>

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中村彰彦著『会津武士道』PHP研究所<o:p></o:p>

中村彰彦著『名剣士と照姫さま』徳間書店

早川喜代次著『写真で見る会津戦争』新人物往来社

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                          照姫肖像画

 

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コメント (6)    この記事についてブログを書く
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6 コメント

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Unknown (とし3578)
2013-01-19 13:52:34
情操教育や道徳教育の大切さを感じました。
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Unknown (yosh)
2013-01-19 16:12:56
とし様

コメントをありがとうございました。
照姫は、格調の高いすばらしい和歌を詠まれますね。優れた歌人です。
NHKの今年の大河ドラマでは、稲森いずみさんが演じられますが、ピッタリではないかと思います。
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Unknown (ねこ)
2013-03-02 10:46:37
白虎隊らドラマ以来、久しぶりに会津藩のことを調べるようになりました。

照姫は、とても高貴で思慮深く、また愛情深い方なのですね。

見習いたいです!
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Unknown (ばんび)
2013-03-03 19:42:01
大河ドラマで、稲森さんが演じてる照姫これから、鶴が城の籠城の際重要な働きを、するようで、楽しみにしてます。大変聡明なお姫さまのようですね
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Unknown (極楽浄土)
2013-03-03 20:59:17
会津の事は今まで興味がなく幕末と言えば薩摩、長州の事しか知りませんでした。

照姫の事を知り、篤姫などと同様、幕末に生きた女性の苦労を知りました。
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照姫の画像 (岸波靖彦)
2021-03-12 13:23:04
私、福島県立医科大学同窓会の岸波と申します。このページに掲載されている松平照の肖像画の画像について、新聞コラムに使用させていただきたいと考えています。

この件についてメールにてご連絡をお待ちしています。
kishi8@fmu.ac.jp
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