yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

不許薫酒入山門

2011-04-30 07:03:21 | 文化
「薫酒山門に入るを許さず」と読みます。禅宗の寺院の門の脇にこの文が書かれた石碑をよく目にします。俗世間と清浄な寺域を区分する場所にありますが、薫とは臭いの強い野菜を言い、他人に不快感を与えることがあり、酒は修行を妨げる元となるので、寺域にはふさわしくないという宣言です。
ところで一方、禅宗で遠ざけられている酒は「百薬の長」でもあり、薫は体に良いとされるものです。薫と呼ばれる野菜には古来、五薫があり、韮(にら)・大蒜(にんにく)・辣韮(らっきょう)・葱・浅葱(あさつき)を指します。葱に含まれる硫化アリルは、玉葱を切った時に目がしみる原因となる物質ですが、体内に入ると毛細血管を拡張させ、血液をさらさらにして体を温める作用があり、身体にとても良いと言われています。大蒜にはアリシンやスコルジニンという物質が含まれ、強壮、疲労回復、新陳代謝促進など万病に効くと言ってもいい程、幅広い効用があります。浅葱は、関東ではあまり一般的ではありませんが、私の郷里の越後では、春先に雪の下から顔を出します。辛みの効いた香りの良い山菜で、私の大好物です。
二年前にこのブログに載せた浅葱の写真を下に再掲します。


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負けた時の振舞い、失意泰然

2011-04-28 05:37:27 | 文化
自分なりにベストを尽しても、勝負に負けたり人生において失意の時は数多ありますが、その時の振舞いには、人それぞれの味が出るようです。

漢籍、明末の崔後渠(さいこうきょ)に「六然(りくぜん)」という教えがあります。
  自処超然   自ら処するに超然
人処藹然   人に処するに藹然(あいぜん)
有事斬然   有事斬然(ざんぜん)
無事澄然   無事澄然(ちょうぜん)
得意澹然   得意澹然(たんぜん)
失意泰然   失意泰然(たいぜん)

意味は、次のようです。
  自分自身を処するには一向に捕われないようにすること。
  他人に対してはなごやかに、のびのび感じさせるように振舞うこと。
  何か事があれば気力を奮って積極的に行動すること
  何事もなければ水のように澄んでいること。
  得意の時はあっさりしていること。
  失意の時もゆったりしていること。
    これが、凡人にはなかなかできません。

以下は現在、進行中の将棋の名人戦と共におこなわれたトークショーにおける名棋士の
言です。(朝日新聞)
「対局で負けた後は?」という質問に対して、
谷川永世名人は
 「すごすご帰って、負けたのは何かの間違いだと信じこむ。」
三浦八段は
 「以前は徹夜で敗戦譜を並べたが身が持たなくなったので、今はすぐに寝る。」
鈴木大介八段は
 「ヤケ酒が基本だが、時には自宅まで夜通しトボトボ歩く。」
名人、強豪と言われる人でも負けた時の失意は大きく、それぞれ個性的に対処しています。
以前、木村一基八段は「勝った時はその気分を持続し、負けた時は忘れる」と語って
いましたが、負けた事にくよくよして落込んだり考え込んで萎縮するよりも、何事もポジティブ指向で楽観的になるほうがいいという意味でした。
  
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日本人の美質

2011-04-25 07:59:01 | 文化
3月16日に書きました「日本人の非常時の行動」と重複する内容もありますが、東日本大震災の後に、はからずも顕著になった日本人特有の美質に気付かされました。その四項目の美質を次に述べます。
第一は日本人は「公」や「公共」を重んじること、地域や国など自分が所属する共同体のために献身的であり、自己犠牲を厭わずに任務や職務を遂行する姿勢を強く持っています。時には自分の家族さえも後回しにします。
  第一の項目を漢字一字で表せば「忠」です。江戸時代における君主への忠ではなくて、公に対する忠であると考えます。
第二に思いやりの心が大きい。他人の不幸、遠隔地の被災者の窮状を我が事と同じように考える思いやりの心があります。
第二の項目を漢字一字で表せば「仁」です。
第三は義侠心(侠気)が強い。筋が通っているならば、弱い者に手を指しのべ、助ける心があり弱者を救援するのに全力を傾けて行動することができます。多くのボランティアの存在と、寄付や支援を申し出る人々が後を絶ちません。100億円を真っ先に拠出した孫正義氏、獲得賞金はすべて支援金として指し出すと宣言した石川亮氏。みな損得を度外視した無償の行為です。
第三の項目を漢字一字で表せば「義」です。
第四は礼節です。未曾有の震災にもかかわらず、略奪や暴動が起きることはありませんでした
しかも私達はそれを当然のことと思っています。
  世界の多くの人々も日本人のこうした礼節を称賛しています。不肖、私も誇りに思います。
父母に対する孝とあわせると「仁義忠孝礼」となりますが、日本人の心のバックボーンである儒教の道と一致しています。
震災後の復興に求められるのは、復興後の社会についての明確な将来像(ビジョン)を描いて、それを粘り強く実施して成し遂げる強いリーダーでしょう。関東大震災の後には後藤新平という強いリーダーが現れ、今日の東京の礎を築きました。東日本大震災後の今日、平成の後藤新平が求められます。必ずしも一人のリーダーである必然性はなく、集団指導体制であってもいいかも知れません。
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旧制高校には夕陽が似合う

2011-04-22 06:00:22 | 文化
「記念試合」という佳作に出会いました。なお、この本を基に「北辰斜にさすところ」という映画も作られました。「北辰斜にさすところ」は旧制第七高等学校を代表する寮歌です。
旧制高校は高等学校令(1894年および1918年に制定)に基づいて設置され、1950年まで続いた高等教育を行う学校でした。中学校を卒業した後に旧制高校に入り、3年間修学したあと大学に進みました。また現代の高等学校とは性格が異なり、大学の予科という意味もありました。ナンバースクールというのが次の学校です。
第一高等学校  東京
第二高等学校  仙台
第三高等学校  京都
第四高等学校  金沢
第五高等学校  熊本
第六高等学校  岡山
第七高等学校  鹿児島
第八高等学校  名古屋
上記とならんで、札幌に北大予科がありました。

ナンバースクールのほかに地名をつけたネームスクールがありました、山口、新潟、松本、松山、水戸、山形、佐賀、弘前、松江、浦和、静岡、高知、広島、旅順、富山高等学校などです。
高等学校の多くは全寮制でした。毎年、寮祭(紀念祭)があり、その時に新しい寮歌が発表されました。一高は自治、三高は自由を標榜し、他の旧制高校にも独自の理念があり、青年達は学生時代を謳歌したようです。ストームなどの馬鹿騒ぎもやったのですが、概して街の人達は、将来のエリートである高校生には寛容であったようです。
高校では、「天才的な馬鹿になれ、馬鹿の天才になれ!」とも教えられ、小賢しい秀才は軽蔑され、誇り高い武士道の精神に生きたということです。長じてもストームなどという悪癖を止めない人もいたそうですが。桐島科学技術庁長官に同行して渡欧した本田一氏などは、越中ふんどしでレマン湖に飛び込んだり、赤の広場でふんどし一丁になったところでKGBに逮捕されたというような武勇伝をもっています。
今やこうした旧制高校の最後の卒業生も80歳を越えたと言われています。旧制高校は日本の夕陽、高校生には夕陽が似合う、と回顧する人もいます。
山田博正 「夕陽」   学士會報
室積光  「記念試合」 
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文明の発展とリスク容認の折り合い

2011-04-19 06:48:20 | 文化
レベル7という高度に危険な福島原発事故が発生している現在、原発の存続の是非が議論されています。電力の利便性を享受している現代人に対して、環境問題と放射線の地球規模のリスクを冒してまで人類は文明の発展を求めていいのかという重い課題がつきつけられています。嘗てあった「日本の原発は安全」という主張は千年に一度という地震と津波の到来により一瞬にしてその根拠を失ってしまいました。これは利便性のみを追求してきた我々の強欲な生活様式に対する警鐘であるという見方もあります。生活に必須ではないのに、大電力を消費しているパチンコ店や乱立する自動販売機は電力使用を縮減すべきである、と言った石原都知事の指摘もあります。また、節電対策として「回転寿司は寿司の回転を止めて、人が回って寿司を取りに行けば良い」というビートたけしの笑えるアイデアもあります。しかし電力は産業の根幹
で、日本の経済を支える重要な要素です。従って計画停電や電力不足が長期的に続くと製造業は海外に移転せざるを得なくなり、国内の雇用が無くなり、失業者が増え、結果として日本が衰退する恐れがあります。
福島原発の事故は全世界が注目しており、ドイツは逸早く「原発推進」から「脱原発」に政策を転換しました。電力の8割を原発に頼っているフランスは、世論が反原発に向かうのを押さえ込むのに躍起になっているということです。しかし現実には福島原発が停止すると東電管内の夏場の電力需要に対応できないことが懸念されています。現在の供給能力5500万kWに対して不足分は約1000万kWと言うことです。
さてこれらのことを勘案して、私達電力使用者はどのように対応すればいいのでしょうか。
個人や家庭でできることは限られていますが、まず節電の習慣を身につけ節電ライフを習慣にすること。しかし、これだけでは到底不足であり、1000万kWに見合う効果は得られないことでしょう。
地域ぐるみの対策としては
1. 企業、工場、オフィス、公共施設、大学、学校など首都圏から移転可能な施設は、移転すること。
2. サマータイムの導入、これは既に欧米では実施しています。1日のライフサイクルを1時間早めることは、あまり費用をかけることなく実施可能な対策ではないかと思います。
一度手にした文明の利便性は容易に捨てることができないと思われますが、しかし国家的な規模で長期的な観点からは、原発依存から少しずつ脱却することも考慮しなくてはなりません。そこで自然エネルギーの利用をもっと進める必要があります。新築の住宅や公共施設には太陽光発電パネルの設置を義務付け、これに補助金を出して推進する必要があります。
本来なら、例えば東京都で使う電力は自地域でまかなうべきで、東京湾を埋め立てて原発を10基程度建設する位のことはしなくてはならないのかもしれません。そうすれば我々は福島県民の痛みが少しは身にしみてわかるでしょう。東京湾がだめなら、離島(八丈島や小笠原諸島など)に発電基地を建設して、電力ケーブルで電力を本島に送電することも考えられます。もちろん、これらの離島の住民の住居や職場は、たとえば首都圏に確保することが前提になります。
さて、エネルギー問題は単に首都圏だけの問題ではないので、日本全域を網羅している電力連係系統を利用して相互に電力を融通すること。更にはロシア、韓国、中国を巻き込んだ東アジア電力連係網を建設することも対策の一つとなります。
 未だに日本には福島の他にも多くの原発が存在していますから、これらの安全性を十分に高め、しかも原発にだけ依存する体質を改め、一日も速く代替エネルギーの導入を進めることが大切です。しかし当面は原発も必要とされますからそのリスクをよく認識した上で、それを容認する態度も必要なのではないでしょうか。
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お礼

2011-04-18 06:25:53 | 近況
いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。
お蔭さまで、この先日、アクセス数が12万5千に到達いたしました。
平成18年の3月に書き始めてから5年を少し過ぎました。
引き続き、ご愛読いただければ、有り難く存じます。なお、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。
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利尻島 会津藩士の墓

2011-04-16 06:43:15 | 歴史
我が国が鎖国をしていた江戸時代の1804年、ロシアの使節レザノフは長崎に入港して幕府に通商を求めました。しかし、彼は拒絶をされると憤然と退去したという事件がありました。その後、レザノフは部下をして樺太やエトロフ方面に襲来させました。そこで幕府は1807年(文化4年)から1809年にかけて会津藩に命じ、樺太に出兵させました。会津藩は総勢1558名が宗谷岬、利尻島、樺太に駐留し、北辺の防備にあたりました。しかし樺太からの帰路、嵐に遭い、会津藩の船は難破しました。この時の死者を弔うために、宗谷岬の北端には会津藩士の墓と句碑、利尻島と焼尻島には会津藩士の墓があります。(利尻島の墓 写真下)

石川忠久先生は「學士會報」に次の五言古詩を寄せられています。

利尻島會津藩士墓     岳堂 石川忠久
四海風雲急    四海風雲急に
外夷窺北彊    外夷北彊を窺う
雄藩派兵出    雄藩兵を派して出で
壮士戌邊防    壮士邊を戌(まも)りて防ぐ
世収星霜古    世収まりて星霜古り
人亡名譽長    人亡びて名譽長し
樹碑孤島上    碑を樹つ孤島の上
永為對汪洋    永く為に汪洋に對す
        
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北帰行 秘話

2011-04-13 06:32:36 | 文化
有名な「北帰行」にまつわる話です。この曲は1995年に他界した宇田博氏が作詞、作曲したものです。その宇田氏は1940年に旅順高等学校に入学しました。旧制高校は本来、自由と自治を重んじていましたが、当時は軍の命令で厳しい統制が高校にもおよんでいました。宇田氏は在学中に、「生徒は一流、校舎は二流、校長、教師はみな三流」と寮の壁に落書きしたりしました。彼は一方、この頃既に旅順高等学校で初めての「薫風通ふ春五月」という寮歌を創ったりしています。また講義時間の最中に禁を冒して外出し洋品店の娘とデートしていたのが発覚し、自由主義者としてかねてから監視されていた宇田氏は、最も厳しい退学処分になりました。この時、彼は名曲「北帰行」を創りましたが、そんなわけで高校当局によりこの歌と彼が創った寮歌「薫風通ふ春五月」は封印されてしまいました。宇田氏はその後、一高に入り、本郷追分の近くの追分学寮に入っていたこともあり、この歌は一高生にも広く歌われ、昭和42年に発行された「一高寮歌集」に採録されています。そのため一高寮歌と信じている人もいますが、上記の経緯から旅順高校寮歌というのが妥当なようです。
その後、宇田氏は東大文学部の仏文科を経て東京放送に入社し、報道局長や常務を歴任しました。昭和36年頃、「北帰行」を小林旭が歌って有名になり、一時、「北帰行」の原作者は誰かということが問題になったことがあります。それについては、宇田氏が旅順を去る時に旅順高校時代の親友に贈った本、「若きゲーテ研究」の裏表紙に「北帰行」の歌詞が記されているのが決め手となって、宇田博氏、作詞・作曲が確定しました。宇田氏自身も旅順高校時代のことについては多くを語らぬまま泉下の人となりました。

北帰行

一、 窓は夜露にぬれて 都すでに遠のく
北へ帰る旅人ひとり なみだ流れてやまず

二、 建大一高旅高 追はれ闇を旅ゆく
汲めど酔はぬ恨みの苦杯 嗟嘆ほすに由なし

三、 富も名誉も恋も 遠き憧れの日の
淡きのぞみはかなき心 恩愛我を去りぬ

四、 我が身容るるにせまき 国を去らんとすれば
せめて名残の花の小枝 盡きぬ未練の色か

五、 いまは黙して行かん なにをまた語るべき
さらば祖国わがふるさとよ あすは異郷の旅路

上記の歌詞は、宇田氏の原詩であり、小林旭が歌う聞き慣れた歌詞とは若干異なっています。

宇田氏は亡くなる直前に「葬儀にはこれを」と妻に封筒を手渡しました。中にはカセットテープが入っていました。小林旭、ボニー・ジャックス、加藤登紀子らの歌う「北帰行」が各一曲ずつと、最後に「薫風通ふ春五月」が吹きこまれていました。葬儀場ではこのテープが繰り返し流されたということです。
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殷鑑不遠(いんかんとおからず)

2011-04-11 05:47:58 | 文学
先日、読んでいた本の中に「殷鑑遠からず」という言葉がありました。意味を度忘れしており、一瞬戸惑いました。実はこれは有名な故事で、出典は「詩経」です。「殷鑑遠カラズ夏后ノ世ニアリ」。この意味は、「殷の人が戒めとすべき手本は、遠い過去にあるのではなく、すぐ前代の夏王朝が桀王の暴政によって滅びたことにある。」すなわち、他人の失敗を自分の戒めとすること。また、やはり「詩経」を出典とする「他山之石、以ツテ玉ヲ攻(みが)ク可シ」も、自分にとって参考になるような他人の悪い例(反面教師)を指しています。
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受領名(ずりょうめい)

2011-04-08 06:46:34 | 歴史
羽柴筑前守や大岡越前守における「筑前守」や「越前守」のことを受領名(ずりょうめい)と言います。前近代の日本において、武家の通称として用いられた非公式な官職名のことです。主に室町時代から戦国時代にかけて守護大名、戦国大名が武功や功績のあった家臣に対して授けた非公式な官名です。筑前といえば羽柴秀吉、日向といえば明智光秀(惟任日向守から)を指しました。越前は南町奉行の大岡忠相(ただすけ)、山城といえば直江山城(直江兼続)、上総介は織田信長、上野介は吉良義央、安房は勝海舟、榎本武揚は和泉守でした。上総、下総、上野、下野、常陸の五ケ国は古来、親皇統治領でしたから、長官である守は存在していなくて、補佐官である介がいました。従って、これら五ケ国では上野介や上総介が最高位でした。幕末において肥後守は松平容保公、大膳太夫は毛利敬親公でした。掃部頭は井伊直弼でした。このように、受領名や職名が通称となることも多くありました。
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