yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

ドーナツ考

2012-10-31 06:21:38 | 文化
NHKの今年の朝ドラ「梅ちゃん先生」に出ていた松岡医師は、「ドーナツの穴はドーナツの一部か」という命題に真剣に取り組んでいました。周囲の人に「はてな?」と思わせる命題です。こういうことを真剣に考えている男性は、「変な人」と女性に思われがちで、ドラマでは中々結婚できないようです。
さて、ドーナツにおける輪の部分は小麦粉などを焼いてできており、主に食べる部分です。穴の部分は空気ですから食べる対象とは言えません。一般には「太い輪がある物」を称して、ドーナツ状と言うこともあります。「ちくわ」や「レンコン」にも穴がありますが、この穴について、それを「ちくわの一部か?」、とか「レンコンの一部か?」とは言わないようです。
ドーナツでは、輪の部分だけを食べて穴のみを残すことはできません。しかも穴の部分だけを食べて輪を残すというようなことも不可能です。
ドーナツは輪も穴も両方があって、はじめて、ドーナツと言えるのではないでしょうか。(松岡医師に言わせると問題の答は自力で見つけなければならないそうです。)

ところで、数学の一分野、トポロジー(位相幾何学)という学問においては、ドーナツとコーヒーカップと人は同類と言われるようです。これらには「穴が1つだけあいている」という共通点があります。ドーナツは、無論、穴が一つ。コーヒーカップも持ち手の穴が一つだけあります。人も、口から始まって尻に至る主要な穴が一つあります。しかしドーナツと人が同類とは、何ともおかしな気分になります。
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弱みは恥ずかしくない

2012-10-28 06:18:55 | 文化
テレビで俳優の武田鉄矢さんが語っていました。 
よく、「私はこういう事ができる。」という人がいます。こういう発言のできる人は、その道(芸能やスポーツ、学問、芸術など)において一流の人に限られますが、それを聞くと一般の人は恐れ入って引かざるを得ません。自然の流れとして、友達や周りの人から敬遠されることが多いのです。
それに比べて、弱みを隠すことなく言える人、例えば「私はゴルフの球がどうも真っ直ぐに飛ばせない」という人には、たちまち、「それはこうすればいいですよ」と、教える人が現れ、広い人の輪や友達が出来るそうです。こうして人生を豊かにするきっかけが生まれるという話でした。人は誰しもできない事、知らない事が沢山あります。しかし、それを恥じることなく、いわば弱みをさらけ出すことによって、多くの友人、先人、達人と近づきになることができます。 弱みのある人を見たら、今度は自分が助けてあげればいいのです。こうして、皆の人生が豊かになる可能性が開かれます。

「正直者は馬鹿を見る」という諺は、よく考えると間違っており、「正直者は馬鹿を見ない」と、言い換えるべきであり、上記はその一例ではないかと感じました。
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飛車・角落ちという将棋

2012-10-25 06:22:56 | 将棋
将棋において、強いほう(上手)が飛車、角なしで戦うのを「2枚落ち」の将棋と言います。「飛車、角のあるほう(下手)はどうやっても勝てるはず」と普通は考えがちです。下手が最善の手を指すことができれば、確かに下手が必勝です。しかし、下手が最善の手を指し続ける事は困難なのです。私の思い違いがあるかも知れませんが、例えば、次のように言われます。

「飛車角落ちなら、上手に簡単に勝てるはず」と考えるのは、アマ2段以下の人。
「飛車角落ちだと、上手といい勝負ができるかも知れない」と考えるのはアマ3段以下の人。
「飛車角落ちだと、上手には簡単には、とても勝てない」と考えるのがアマ4段と言われます。アマで5段以上の人は、とても少ないのです。
小説家の安部譲二氏(棋力は当時アマ2段程度)が1989年頃にトップ・プロ12人に挑戦しました。戦績は2勝8敗2引分けでした。私から見ても、よく2勝できたと思いました。2勝した相手は大山康晴名人と二上達也・将棋連盟会長でした。私には当時プロの頂点にいた2人が、将棋連盟の企画に協力してくれた安部氏に、勝ちを譲ったようにも見受けられました。プロが本気を出して勝ちにきたら、安部さんは1勝もできなかった事でしょう。
安部氏の奥さんは、谷川名人との対局に出かける旦那に、「あーた、ビビって恥をかくんじゃないよ。名人は素手で、あーたは、日本刀とダイナマイトを持っているんだよ」と激励してくれたそうです。「マイトで吹っ飛ばして、日本刀でコマ切れにしろと言ったのは、飛車と角行のことらしい。」のです。
さて、谷川名人との勝負ですが、ダイナマイトは奪い取られ、日本刀は遂に抜けずに、安部氏は惨敗しました。安部氏が家に帰ると、奥さんが嬉しそうな顔で出迎えて「あーた名人に勝ったんだね」と言われたのですが、「金玉のない女には、金が四つもある将棋のことは何もわからないのだ」と安部氏らしく下品にぼやいたということです。
先日、テレビの企画で「爆笑問題」の太田さんが羽生善治三冠に挑戦していました。羽生さんは王と歩が3枚だけでした。太田さんが「それでいいんですか」と羽生さんに聞くと「ええ、いいんです。」そのやりとりの後、戦が始まり、あっさり羽生さんが勝ちました。これ程、プロは強いのです。
「2枚落ち」で元・升田幸三名人と戦ったあるアマが、敗局の後で升田さんにたずねました。
「先生、私の敗因はどの辺りだったでしょうか?」
答えた升田さんの台詞がふるっていました。
「そうだな、駒を並べ終わった時、すなわち、対局を始める時はあなたが、必勝でした。つまり、駒を並べた時、私には、飛車角が無いのに、あなたには飛車角がある。」「あなたが、私に飛車角落ち将棋を挑んだのが失敗だ」という事なのでしょう。
升田さんならではの言でした。

      安部譲二 「突撃将棋 十二番」 日本将棋連盟
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山中伸弥教授

2012-10-22 06:47:28 | 文化
今年のノーベル医学・生理学賞は山中伸弥教授とイギリスのジョン・ゴードン博士が受賞しました。 受賞理由はiPS細胞の研究でした。受賞の連絡は自宅で洗濯機の修理をしている時に国際電話があり、「サンキュー」と答えているのを隣室の家族がもれ聞いて、ノーベル賞の受賞を察したということです。
その山中教授が直後に語ったのは、「感謝と責任です。速く研究現場に戻って研究を進めたい」という謙虚な研究者の言葉でした。感謝は、家族と研究の同僚達とiPS細胞研究所を支援してくれた国家に向けられたものでした。責任とは、一刻も速く研究生活に戻り、病人を救いたいという意味でした。iPS細胞研究所は政府の特段の支援により設立され、iPS細胞に関わるすべての活動を効率的・効果的に実施できるように配慮されているそうです。そこでは、逸早く世界中に特許出願を行いましたが、それは山中教授によれば、特定の国や団体のみが、人類共通の宝を独占することから防衛することにあり、日本や山中教授の研究所がiPS細胞を独占するというような意図は全くないとのことです。iPC細胞の利用は無限の可能性があり、病気(特に難病)の治療、新薬の製造、病気のしくみの解明につながるなど、医学・生理学の発展のための画期的な人類の成果と言われます。一方、iPS細胞の応用を実現するには、臨床研究、医学倫理、法規制の整備、国民のコンセンサスの形成など、多方面に亘る課題が山積しているそうです。
受賞後のNHKのインタビューで山中教授はこんなことを言いました。「自分は外科手術が下手で、同僚や教官に山中ではなく、「じゃま中」と言われたこともある。一つの成功の蔭に無数の失敗がある。研究者は失敗を恐れてはならない。」また、「プレッシャーを受けてお疲れになることが多いでしょう。そんな時にどうやって気分転換をしますか」というキャスターの問いに「音楽を聴きながらジョギングをします。」「その曲名は?」と重ねて聞かれ「プレッシャーです。」インタビューをしたNHKのキャスターも、思わず吹き出していました。山中教授はご自分を「東大阪のおっさん」と言っていました。その通りで、大阪のおっさんは笑いを取るのがうまい!と思いました。
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春夜洛城に笛を聞く

2012-10-19 06:34:36 | 文学
盛唐の詩人「李白」の漢詩です。

春夜洛城聞笛

誰家玉笛暗飛聲
散入春風満洛城
此夜曲中聞折柳
何人不起故園情


誰ガ家ノ玉笛カ 暗ニ聲ヲ飛バス
散ジテ春風ニ入リテ 洛城ニ満ツ
此ノ夜曲中折柳ヲ聞ク
何人カ故園ノ情ヲ起コサザランヤ

「訳」

どこからともなく笛の音が聞こえてくるが、一体誰の家で吹いているのであろう。
春風のまにまに流れてこの洛陽の町にしみ渡ってゆくようだ。
うつつともなく聞くうちに、あの折楊柳の曲が聞えて来たが、
さてあの曲を聞くと、遠く家族に別れて来た時のことが偲ばれてならぬ。
こうした曲を聞いては、誰とて故郷を思い出さぬものがあろうか、ありはすまい。

「聲を飛ばす」は李白ならではの表現です。
「折楊柳」は笛の曲の一つで、別離の情を述べる曲です。

阿部吉雄著 「漢詩」學燈文庫
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敵に塩を送る

2012-10-16 06:09:45 | 文化
「敵に塩を送る」は戦国武将、上杉謙信の故事に因んだ言葉です。先日の国際通貨基金(IMF)・世界銀行年次総会(於・仙台)の本会合に於いて、IMFのラガルド専務理事が冒頭の挨拶でこの言葉を引用しました。「塩を送る」という日本の故事を引いて、欧州の政府債務(借金)危機などを克服するため、各国の協調が必要だと指摘しました。ラガルド氏はIMFによる学生のエッセー・コンテストで「敵に塩を送る」という故事を知ったということです。
さて、「敵に塩を送る」とは、通常、利敵行為のことですが、上杉謙信も時空を越えて国際的に有名になったものです。
戦国時代、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は何度も合戦を繰り返して敵対関係にありました。ある時、隣国の今川氏と北条氏が、武田領内への「塩留め」(経済封鎖)を行いましたので、海の無い甲斐の領民は塩を得ることができず、大変苦しみました。
「義」を重んじる上杉謙信は、武田領民の苦しみを見過ごすことができず、越後から信濃(武田領)に塩を送ることを決意しました。また、越後と甲斐で取引される塩が高価にならないように配慮したということです。越後から送られた塩が松本に到着したのが永禄11年(1568)1月11日。この事に感謝の意をこめて、現在でも松本市では、毎年1月11日に「塩市」が開かれています。戦国の雄、上杉謙信の「義」の精神と行動に感動します。自己の利益だけを追求するような品格の無い国家、国民にはなりたくないと思います。
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いぶし銀の味

2012-10-13 05:27:25 | 文化
渋い味があることを「いぶし銀」のような味があるとよく言います。華やかさに欠けますが実力が抜群で、枯れた渋い味わいのあるベテランや、その作品、芸を賞賛する言葉が「いぶし銀」でしょう。銀をいぶすと艶が失われ味わいのある灰色になることから「いぶし銀」の味といわれます。私が愛読する藤沢周平の作品には「いぶし銀」がぴったりの味わいがあります。
去る10月2日に逝去した俳優の大滝秀治さん、あらゆる役を演じた名脇役でした。本人によれば、「いぶし銀」のような演技をすると言われるのはお好きでなかったようです。生涯、現役として元気一杯に活躍されたかったのだと思います。将棋の桐山清澄九段(64歳)もよく「いぶし銀」のような棋風をもつといわれますが、桐山九段も「いぶし銀」と評されるのをお好みでないかも知れません。今も現役で活躍されています。
落語界のいぶし銀は、例えば桂歌丸師匠(76歳)。
歌舞伎界のいぶし銀は、例えば、故・五代目中村富十郎といわれます。

さて話は代わって、従来の我が家のいぶしの和瓦は大変重く、震度7の地震が来ると屋根の重みで家屋が倒壊する危険があるというので、この夏、撤去の運びとなり、我々住人は「熱いトタン屋根の猫」になりました。いぶしの和瓦の重厚な風格と快適な居住性は失われ、替わった鋼板の屋根は、夏は暑く、冬は寒く、反、省エネ住宅に変わってしまいました。嗚呼、地震大国は住みにくい。
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隠者を送る

2012-10-10 06:14:23 | 文学
晩唐の詩人 杜牧の漢詩です。

送隠者

無媒径路草蕭蕭
自古雲林遠市朝
公道世間惟白髪
貴人頭上不曽饒

無媒(ばい)の径路 草蕭蕭(しょうしょう)
古(いにしへ)自(よ)り雲林は市朝に遠ざかる
公道 世間 惟(た)だ白髪
貴人の頭上 曽(かつ)て饒(ゆる)さず

「訳」

仲立ちするもののない隠者の住処への小道は、草が寂しげに
生い茂っている。
昔から、隠者の住む雲たちこめる森の奥は、人の住む巷と遠く隔たっているもの。
公平なものは、世間では、ただ白髪があるばかり。
白髪は、貴人だろうが誰であろうが区別なく生えてしまう。

最初の「無媒」はこの詩の眼目で、「楚辞」の九章・「抽思」に基づく語です。「抽思」は屈原が左遷された時、都に帰りたかったのですが、仲立ちが無くて帰れない煩悩を詠ったものです。
世の中の不公平に対する批判、「賢者の不遇」を嘆ずる公憤の作品とも言われています。
これは、若くして科挙に及第しましたが、家族のために出世を断念した杜牧自身のことを指しているのかも知れません。

石川忠久 「漢詩のこころ」 時事通信社
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銭湯

2012-10-07 05:59:26 | 文化
銭湯にあまり馴染みでない読者もおられるかも知れませんが、私は学生の頃によく利用しました。大きい湯船の正面の壁には富士山の絵が描いてあり、また、庶民のふれあいの場でもありました。お客さんを相手に、誰彼となく、銭湯のおやじさんが将棋を挑んできました。おやじさんは町の強豪でしたので、つかまってしまうと幾度も負かされました。今は住宅事情が変わりましたから当時と比べると銭湯の数は、大幅に少なくなったのではないかと思います。調べてみました。

東京都内の銭湯の数:
 1965年には、2641軒、2010年には801軒。約3.3分の1になりました。今も減少
傾向にあるそうです。なお、江戸時代でも江戸の町には、約1600軒あったそうです。

一方、入浴料金は、1965年は28円。現在450円。約16倍になりました。
物価の変動にほぼ比例しているとも言えるでしょう。南こうせつが歌った歌謡曲「神田川」の世界とよく似た思い出もあります。
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日下開山

2012-10-04 05:46:33 | インポート
日下開山(ひのしたかいさん又はひのしたかいざん)は大相撲の最高位、横綱のことであり、とりわけ大横綱の名誉・称号です。
日下開山は、元来は仏教語で、寺の開祖を指す言葉です。「開山」は山を開いて寺院を創めた開祖を言います。また「開山」を崇めて「祖師」と言い、その像や位牌を祀ったお堂が「開山堂」です。開祖が転じて最高者を表す称となり、並びなき優れた者を指すようになりました。さらに、「開山」の頭に「日下」をつけ、最高峰の武芸者や芸能者や力士にも用いられるようになりました。「日下」は天ケ下、すなわち天下、世界のことで、江戸時代以後、「天下一」と称えられる者に対して「日下開山」と呼ばれるようになりました。初代横綱とされている明石志賀之助が最初の日下開山といわれ、次いで、谷風梶之助もそのように呼ばれました。昔の横綱の印象を引いているせいか、失礼ながら三重ノ海や大乃国のような二流の横綱を日下開山と呼ぶことはありません。私見ながら、日下開山の称にふさわしい横綱は双葉山、大鵬、千代の富士、白鵬などの大横綱に限られるのではないでしょうか。
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