yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

山中 諸生ニ示ス 王守仁

2016-11-29 09:21:37 | 文学
明の学者、王守仁(号は陽明、陽明学の祖)の五言絶句を紹介します。王陽明の陽明学は、「知行合一」を説き、江戸時代の日本人に大きい影響を与えました。

山中示諸生活

渓辺座流水
水流心共閑
不知山月上
松影落衣斑

渓辺流水ニ座ス
水流レテ心共ニ閑ナリ
知ラズ山月ノ上ルヲ
松影衣ニ落チテ斑(まだら)ナリ

「訳」
 谷川の流れのほとりに腰をおろすと、谷川の流れは、わが心と同じようにのどかだ。そのまましばらく谷川の流れと対するうちに、時が経って夕暮れとなり、いつのまにか、月が山
の端にかかっている。ふと見ると松の影が、わが衣服にまだらに映っていた。

この詩は王維の「竹里館」の漢詩を思わせ、幽玄の世界そのものであり、陽明先生が門人に示した典型的な叙景詩です。「竹里館」を次に示します。

    独座ス幽篁ノ裏(うち)
    弾琴復タ長嘯
    深林人知ラズ
明月来ツテ相照ラス


「吟剣詩舞道漢詩集 続 絶句編」 日本吟剣詩舞振興会
「漢詩」阿部吉雄著 学灯社


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新選組 斎藤一

2016-11-26 06:51:10 | 歴史
新選組は京都の町の警護を担当しましたが、10班の編成より成り、各班にはそれぞれ5~6人の隊士がいました。
1番隊長  沖田総司
2番隊長  永倉新八
3番隊長  斎藤一(さいとうはじめ)
10番隊長  原田左之助

隊長は、いずれも強い剣客でした。新選組には、他に、近藤勇、土方歳三、山南敬助といった剣豪がいました。隊長の中でも、沖田総司は猛剣、斎藤一(1844~1915)は無敵剣と言われる程の腕前であったそうです。斎藤一は会津の娘と結婚し、明治以後は、斗南藩にも移りましたが、警視庁の警察官になったり、西南戦争にも従軍しました。また、剣道師範としても活躍し、高等師範学校にも勤務しました。最近、確認された写真を見ると端正で面長な好男子です。墓は会津若松市にあります。また、永倉新八(1839~1915)は元・松前藩士でしたが、ある時期から、新選組を離れ、明治以後は小樽でひっそり暮らし、75歳で他界しました。
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「ら抜き」言葉

2016-11-23 07:27:47 | 文学
近頃、「ら抜き」言葉が優勢だということです。「見られる」を「見れる」という使い方は、私には違和感がありますが、現在は「ら抜き」言葉を使っている人が多数派だそうです。これは日本語の乱れの一端ではないでしょうか。
文化庁の2015年度「国語に関する世論調査」によれば、「今年は初日が見れた」が48.4%で、「見られた」の44.6%を上回り、「早く出れる」が45.1%、「出られる」は44.3%だったそうです。
「られる」という助動詞は、本来、自発・尊敬・受身・可能などの意味がありました。「見れる」、「出れる」ですと、「可能」の意味に限定されるというメリットもあるということですが、私は「ら抜き」言葉には賛成できません。
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石黒忠悳

2016-11-20 06:34:08 | 歴史
幕末に日蘭関係が次第に細ってゆく時代に、石黒忠悳(いしぐろ ただのり、1845~1941)という史上さほど知名でない人物が登場する。生れは福島県だが、越後・片貝の人である。彼が幕末に江戸に出て来た時は、オランダ医学といっても特異なものではなくなっていた。
 幕府も時代にあわせて、安政5年(1858)、江戸に蘭方の官立医学校を起こした。当初、西洋医学所と称したりしたが、西洋人教授がいたわけではなく、日本化されたオランダ医学を日本人が教える学校だった。
 最初の頭取(学長)は大坂から呼ばれた緒方洪庵で、後に単に医学所と改称されるようになって、ポンペの弟子である松本良順が頭取になった。
 石黒はのちに官界に入って陸軍軍医総監になった人物である。彼の生涯の特徴は、昭和16
年に死ぬまで96歳の長寿を得たことと、回想録を書いたことである。その回想録「懐旧九十年」
は、彼の体験を通して浮かび上がらせた幕末・明治の実景で、価値は小さくない。
 越後人にしばしば見られる型で、気骨と処世という相反するものが一つになったような人物
である。才人でありながら軽薄ではなかった。

司馬遼太郎 「オランダ紀行」朝日新聞社
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人工知能の悪用に懸念

2016-11-17 08:25:11 | 文化
今や、人工知能の能力は、チェス・囲碁・将棋などの最強者に迫りつつあります。
こうした、人間の天才に迫っている人工知能が、悪意のある集団の手に渡り、独占的に使用
される事に懸念を覚えます。
 2116年3月には、OpenAI(https://openai.com.blog/)という非営利法人ができました。
設立したのは、テスラ・モーターズやスペースXで有名なイーロン・マスク氏とシリコンバレーのIT企業を支えたYコンビネーターの投資家サム・アルトマン氏というそうそうたるメンバーです。
OrenAIの目的は、特定の組織が人工知能の技術を独占してしまうのを防ぐというものです。マスク氏は「人間レベルの人工知能が生まれたとき、それがどれほど社会に貢献するかを推測するのは難しいが、それが悪用されたときにどれほどの被害を生むのかを推測するのも難しい」と発言しています。たとえば特定の企業が技術を独占してしまったり、独り、テロ組織が人工知能
を使った攻撃をしたり、独裁国家が非人道的な目的で人工知能を使うようなことを監視・阻止
するために、世界レベルでの慎重な議論が必要だと述べています。
 ほかにも、物理学者のスティーブン・ホーキング氏やMicrosoft創業者のビル・ゲイツ氏もまた、人工知能の発達が人類に害をおよぼすのではないかと警鐘を鳴らしています。

     五木田和也 「コンピュータで脳がつくれるか」技術評論社
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講李杜詩後 石川忠久

2016-11-14 06:55:48 | 文学
石川忠久先生が会誌に寄稿された七言絶句を紹介します。

講李杜詩後


李杜高風千載光
由来誰有繼其芳
如今幸得嘗余味
蓬島後昆追慕長

李杜の高風 千載の光
由来誰か其の芳を繼ぐ有らん
如今幸いに余味を嘗め得て
蓬島の後昆 追慕長し

「訳」
李白・杜甫の格調高い詩は千年の光彩がある。
この芳しい詩風を継ぐ者がいるだろうか。
今日、幸いにも、詩の妙味を味わうことができた。
日本の後学は、長きに亘り、李白・杜甫を追慕する

石川先生は、李白・杜甫の唐詩をこよなく愛され、この詩からは今も深く思慕されていることが伝わってきます。

石川忠久 「學士會会報」No.921 2016/11/06 Ⅵ
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勇猛な真田幸村

2016-11-11 10:29:47 | 歴史
慶長20年(1615)大坂夏の陣の5月6日に 道明寺合戦が起こりました。真田幸村のいる茶臼山の東隣の四天王寺には毛利勝永が布陣しました。この時、家康軍は小笠原隊の後方を進軍中でした。徳川諸隊は毛利の猛攻から家康を守るため動きました。この結果、真田隊の前方が手薄になったので、その間隙を衝き、真田隊は家康本陣に三度にわたって突撃を繰り返しました。幸村は家康をあと一歩まで追い詰めたものの、最後は松平忠直隊に阻まれました。
この幸村の戦いぶりを『山下秘録』は、「異国ハシラズ、日本ニハタメシナキ勇士也、不思議ナル弓取ナリ」、『薩摩旧記』は、「真田日本一之兵、いにしえよりの物語にも無きの由」と記し、細川忠興も書状で「古今無之大手柄」と大絶賛しています。

 北川央 「真田幸村と大坂の陣」NU7 2016.11 No. 8
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日本だけ心地よい、ではいられない

2016-11-08 05:56:01 | 文化
元国連高等弁務官・元JICA理事長の緒方貞子氏(89歳)は、日本人に次のような警鐘を鳴らしています。まず、
日本社会の特質について
 「私の結論は、日本は人と社会が非常にオーダリー(規律正しい)なんですよ。だれかが仕切ってくれないと動かない。官僚制が強いというのは、日本の社会の内部から来るものではないかしら。経済でも企業を経団連が組織化していく。本来において非常にオーダリーだから、きちっきちっとやる方がカンフォタブルなのですよ。心地よさとか安心感というのかな。」

不肖のコメント
 日本人
は江戸時代の幕藩体制以来、秩序に慣れており、かつ元来、日本は村社会の集合体であったためかと思います。村社会の中にいると心地良いのですが、村の外の社会を見渡す視野に欠けていたり、自由な発想を持った革新的な行動が出来る特異な人が出にくいのではないでしょうか。

日本は内向きではないかという意見について
 「日本がすばらしかったらそれを広めるということが一つの使命です。この国は物がなくなったりもしないし、犯罪もひどいわけじゃない。やや、心地よすぎるのです。だけど、ほかの国も心地よくならないと、いつかは、私たちも心地よくなくなる。それをもう少しはっきり認識することが必要ではないかと思います。いくら島国だって日本だけがカンフォタブルではいられないから。」

不肖のコメント
 緒方氏は、難民や貧しい人達のために、日本人は心地良さを少し犠牲にして、もっと身を切ってそれらの人々のために援助をしなくてはならないと主張されているのだと思います。
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てめーら・この野郎

2016-11-05 06:08:07 | 文化
下品なタイトルで失礼します。決して読者の皆様に喧嘩を売っているわけではありません。
「てめーら・この野郎」は、喧嘩っ早い江戸っ子の言葉のようです。この言葉を使う人は、粗暴で短気、暴力的な人かと思われがちですが、実際には優しくて人情味のある人も多いそうです。
バレーボール全日本女子の新監督に就任した中田久美さんのエピソードがそれです。かつてチームが五輪代表に決まり、テレビに出演した時のこと。選手達ははしゃいでいました。これを見た監督は喜ぶのは五輪でメダルを取ってからにしろ、と苦々しく思ったのでしょう。テレビ収録の後で「てめーら・この野郎」とつぶやいたそうです。
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坂本直寛

2016-11-02 06:27:19 | 歴史
キリシタンを守るという幕末の志士・坂本龍馬の遺志を、龍馬の甥の坂本直寛(なおひろ・1853~1911)が受け継ぎました。直寛は龍馬の一番上の姉・千鶴の息子です。龍馬が暗殺された時、14歳の少年だった直寛は、龍馬の意志を受け継ぐ者として後に自由民権運動に情熱を傾け、差別のない社会を造るべく国家権力とも戦います。しかし1887年、直寛は国家反逆罪の汚名を着せられ、獄につながれてしまいます。その獄中で、すでにキリスト教の洗礼を受けていた直寛は、差し入れられた聖書を通して、どんなに政治体制や法律を整備しても、それらを行う人間そのものが変わらなければ、本当の意味での変革はできないことに気がつくのです。
獄から解放されたあと直寛は、龍馬も夢見ていた北海道開拓を志し、北の大地へ渡ります。そこで牧師としてキリスト教の教えを人々に説いて行きました。愛と赦しの教え、それは本当
の意味での龍馬の志を継ぐことだったのではないでしょうか。

    守部喜雅  「龍馬の夢」  フォレストブックス
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