yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

詩経の心

2011-01-29 12:05:49 | 文学
ある歌人が講義の中で詩歌を詠む心得を「論語」を引用して述べました。「論語」の「為政篇」に「子曰ク、詩三百、一言以ツテ之ヲ蔽フ、曰ク思ヒ邪無シ」とありますが、これは「詩経の三百篇をただ一言で包みこめば思いに邪(よこしま)がないこと」を意味します。即ち「純な心で詠む大切さ」を作歌の心得とするようにと教えたそうです。
紀元前に中国で書かれた「詩経」「論語」を含む四書五経は後世に伝わり、朝鮮、日本など中国周辺の国家の倫理道徳の形成に多大な影響を与えました。このように、中国三千年の倫理道徳の古典が、今なお私共の心に受け継がれているのです。経済的に超大国となった中国の指導者層は、これらの尊い文化遺産の価値を深く認識し、誇りを持って、邪な思いの無い大国としての役割を果して欲しいものと思います。
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千勝の周辺

2011-01-26 06:47:26 | 将棋
スポーツや囲碁・将棋など、一対一の勝負の世界で千勝を達成出来るのは、その道の達人にのみ可能な事のように思われます。日頃の勝負では一勝するだけでも大変な精進と力量が必要ですから、それを千回続けるのは凄いことなのでしょう。
相撲の魁皇関(当時37才)は昨年の九州場所(5月)で千勝を記録して話題になりました。
この間、約15年かかりましたが、勝率は0.601でした。
将棋の羽生善治(よしはる)名人(当時37才)は、2007年に千勝を記録しましたが、プロになってから、僅かに22年という驚くべきスピードでした。この間の勝率が0.728というのもすばらしい数字です。
囲碁棋士の結城聡(ゆうきさとし・38才)天元(タイトル名)は、現在千勝達成目前であり、勝率も0.729というすばらしいものです。入段から27年というのも羽生さんに近い年数です。
相撲、囲碁、将棋ともに千勝に達する年齢が37才や38才という共通点があります。これは天才的な能力を持った人でもその道の達人になるのには、この程度の年齢までかかるということを示しています。

因みに将棋の加藤一二三(ひふみ)九段には千敗という大記録があります。千敗するためには、長期間に亘って、公式戦に出場できる地位と力を保持する必要があり、相撲、囲碁、将棋界を通じて千敗を記録した例は他に見当たらない程の偉業です。東京都三鷹市に在住し、野良猫達に餌付けしているので近隣の住民との間でトラブルが起きているという報道もありましたが、動物を愛するやさしい人柄なのでしょう。この事とは別に、「千敗を記録した大棋士」という名誉は不滅の金字塔ではないでしょうか。
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江の子供達

2011-01-23 06:41:33 | 歴史
戦国の世に時代に翻弄された女性、江(ごう1573-1626)の生涯がNHKの大河ドラマになって放映されています。江は浅井長政と市(織田信長の妹)の子供、三姉妹の一人で、茶々、初、江(末っ子)の順です。織田家の姫達は美人揃いでしたが、江もその一人でした。徳川家の二代将軍徳川秀忠に嫁ぎ、二男五女をもうけました。
長男家光は三代将軍となりましたが、徳川将軍の生母が先代の将軍の正室であったのは江戸時代、15代の将軍において、江ただ一人でした。こうして浅井長政、織田信長の血統が現在の徳川家まで続いています。
 次男忠長は尾張藩主になりましたが、家光に反抗したため改易され自害に追いこまれました。
 長女千姫は豊臣秀頼に嫁ぎましたが、豊臣家の滅亡の後、江戸城で暮らしました。
 次女珠姫は加賀藩主の前田利常に嫁ぎました。
 三女勝姫は結城秀康(家康の次男、越前藩主)の長男忠直に嫁ぎました。
 四女初姫は京極忠高に嫁ぎました。
 五女和子(まさこ)は後水尾天皇の女御として入内し、109代明正天皇(女帝)を生みまし
たので、江は天皇の母の生母となりました。
以上からわかるように、江は数奇な運命を辿りつつも栄華を極め、その血統は天皇家、将軍家、大大名、公家にいたる広範なものになりました。江(崇源院)は夫秀忠と共に徳川家の墓所、東京都港区芝、増上寺に眠っています。
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一枚の礼状

2011-01-21 07:32:50 | 文化
将棋の加藤治郎九段は弟子達に基本的な礼儀作法をしっかり教えました。加藤九段は日本将棋連盟の会長を2期勤めましたが、引退が早かったので弟子は僅かに三人で、木村義徳八段、原田泰夫九段、真部一男九段(追贈)だけです。一般的には、プロの将棋の師匠が弟子に将棋を直接教えることはとても少ないと言われています。入門の時に将棋の力をみるために一局、辞めて郷里に帰る前の餞に一局、合計二局だけなどとよく言われます。この点、早稲田大学出身で大学卒初の専門棋士になった加藤九段は、社会常識に富んでおり、当時、若いプロの棋士が、しっかりとした社会常識を持つべきだという信念があったのでしょう。弟子達に礼儀作法をきっちり教えた当時としては珍しいタイプの師匠でした。例えば、「君たちは職業柄お客さんから酒食の接待にあずかったり、金品を贈与されることが多い。そのような時には帰宅したら直ぐに礼状を書くように。」と教えたそうです。将棋界のプリンスと言われた好青年、真部一男九段は師匠のこの教えを忠実に守り、一枚の礼状も欠かすことがなかったそうです。
礼状一枚を書くことは、社会人として当然のことと思いますが、実行するのは、ともすれば面倒な場合もあります。今は礼状の代わりに電話や電子メールを使っても良いのではないでしょうか。
先般、不肖私も拙い書物を書き、知人・友人に謹呈したことがあります。さすがに小学校から大学まで、ほとんどの学校の先生方からは速い時期にきちんと礼状をいただきました。また、中には耳の痛い感想文をくれた友人もありますが、読む時間も興味も無いのに、一方的に本を送られても有り難くないという人もいるのでしょう。知人・友人の中には「届いた」の連絡もなく、また「ありがとう」の一言も無い人が数人ありました。こうした些細なことにもその人の社会常識の有無と行動力、人間の風韻(人間性)、礼儀作法をわきまえた人かどうかが現れるもののようです。
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お礼

2011-01-20 06:14:20 | 近況
いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。
お蔭さまで、昨日、アクセス数が11万に到達いたしました。
平成18年の3月に書き始めてから約5年になります。
この間に11万アクセスは、望外のハイペースではないかと思っております。
引き続き、ご愛読いただければ、有り難く存じます。なお、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。
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日本の将帥(しょうすい)

2011-01-19 06:36:30 | 歴史
日本型リーダーの典型と思われる人達が幕末、明治に活躍しました。西郷隆盛、西郷従道(つぐみち)、大山巌、山本権兵衛(ごんのひょうえ)、東郷平八郎の4人です。皆、薩摩の人。西郷隆盛と西郷従道は兄弟、大山巌は西郷隆盛兄弟のいとこで、この4人は鹿児島城下加治屋町に生まれました。小さな町に4人もの将帥が育ったことは奇跡的なことであり、薩摩という風土や教育や血縁の不思議が思われます。ちなみに大久保利通もこの加治屋町で育ちました。西郷隆盛、西郷従道、大山巌といった将帥は実務に精通していたわけではないのですが、人物が大きいと言われています。「人物が大きい」というのは、いかにも東洋的な表現ですが、明治も終ったある時、外務大臣の私的な宴席で、明治の人物論が話題になりました。「人間が大きいという点では大山巌が最大だろう」と誰かが言うと、「いや同じ薩摩人ながら西郷従道のほうが五倍も大きかった」と別の人が言ったところ、一座のどこからも異論が出なかったそうです。もっとも、その席で西郷隆盛を知っている人が、「その従道でも兄の隆盛にくらべると月と星ほどの違いがあった」と言いましたので、一座の人々は西郷隆盛という人物の巨大さを想像するのに、気が遠くなる思いがしたということです。隆盛と従道は兄弟ですが、大山巌は彼等のいとこにあたります。この血族は異様な血を分け合ったらしいと司馬遼太郎は言っています。 彼等、薩摩型将帥は共通の手法を持っていました。まず、自分の実務の一切を任せることができる優れた実務者をさがします。あとはその実務者のやり易いように広い場を作ってやり、なにもかも任せきってしまう。ただ、場を作る政略だけを担当し、もし実務家が失敗すればさっと腹を切るという覚悟を決めこむ。こうしたやり方でした。つまり実務の達人を部下に持っており、その有能な部下にすべてをまかせ、その部下が実行することをすべて承認して自由にやらせる。周囲からこうした実務家に抵抗があると、これらの将帥はその盾となり、部下が失敗したらすべての責任を取るという潔さを持っていることが共通しています。
将帥の西郷隆盛と江藤新平、西郷従道と山本権兵衛、山本権兵衛と東郷平八郎、東郷平八郎と秋山真之、大山巌と児玉源太郎の関係はすべてこうしたものでした。
西郷隆盛は、明治時代の初期に新政府がめまぐるしく活動していた頃、その中枢にいた江藤新平に実印をすべて渡し、「おいが不在の時はこれを押してよか」と言ったそうです。鋭敏な江藤は「西郷は阿呆ではないか」と思ったそうですが、この実印が原因で問題が起きたということはなかったそうです。西郷に言わせれば、「おいはおはんを信用しておる。責任はおいが取る」という事だったのでしょう。日露戦争は山本権兵衛と大山巌のような将帥と児玉源太郎、東郷平八郎のような優れた実務家のコンビにより日本に勝利をもたらしました。
今日においてはこのような大きな将帥を見出すことができませんが、明確なビジョンを持ってひたすら新しい時代を切り開くような人物が待望されます。
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KY

2011-01-16 07:27:49 | 文化
KYとは何のことでしょうか。
嘗て勤めていた会社では、「危険予知」のことを指し、安全活動において極めて重要な施策の一つでした。危険を予知して事故が起きる前に対策を採って事故を未然に防ぐ活動のことで、大きな効果がありました。昨今、あちこちで起きている事故を知るにつけ、KYをやっておけば防げた事故が多いように思われます。例えば小学校の天井の明かり窓を破って、小学生が屋上から落下する事故や、プールの水流パイプに吸い込まれた事故はKY手法で予測可能であり、事故が起きないように物理的な対策を採っておく事が可能なはずでした。
昨年、流行語にもなったKYは「空気を読む」という意味だそうです。KYができないと仲間はずれになっていじめの対象になったりするそうです。時に空気が読めなくても、良いのではないか、周りのことは気にしないで、吾は吾が道を行くのも良いように思います。
さて過日、新聞紙上に「KYは価格安い」、「大安」(たいあん)は「オー・安い」の事とあり、今時はそういう読み方もあるのかと驚きました。
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遠山金四郎

2011-01-13 06:25:10 | 歴史
有名な遠山の金さん、遠山金四郎・景元 (1773-1855)は天保時代に北町奉行や南町奉行を務めました。時は江戸末期、天保の時代、老中・水野忠邦が天保の改革を進めていました。天保の改革は、奢侈の禁止、風俗匡正、棄捐令(きえんれい)など贅沢や娯楽を禁止するような政策が多かったため、庶民には極めて評判が悪く、街は次第に活気を失って行きました。とりわけ、南町奉行の鳥居耀蔵は老中の配下として江戸の庶民世活に対して厳しい態度で臨みました。耀蔵は甲斐守でしたので、その音をもじって「妖怪」と呼ばれたりして庶民に嫌われました。
これに反して北町奉行の遠山金四郎は庶民の気持ちに理解を示し、いわば庶民の味方として鳥居に対抗しました。金四郎は青年期に放蕩をして入れ墨を彫りましたが、これが芝居などで、背中の桜吹雪の入れ墨として有名になり「遠山の金さん」と親しまれて人気があり、庶民のヒーローとなりました。藤沢周平の小説「よろずや平四郎活人剣」全三巻もこの時代を描いています。ここには当時の旗本の二、三男の生活と哀感が、きめ細かく描写されています。
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侠気

2011-01-09 07:02:02 | 文化
侠気(おとこぎ)という言葉は今では死語になってしまいました。残念なことです。強きを
挫き弱きを助ける精神は、日本の武士道では美徳とされてきました。つまり損得勘定を行動の基準にする、理だけで行動することと対極にある言葉が「侠気」です。
 歌人、与謝野鉄幹(1873-1935)は「人を恋ふる歌」(下記)で、侠気を堂々と歌っています。
妻をめとらば才たけて 見目美はしく情ある、
友を選ばば書を読みて 六分の侠気四分の熱
                        (以下略)
明治時代、旧制高校生は侠気に満ちた青春をおくってきました。

  友の憂ひに我は泣き 吾が喜びに友は舞ふ

これは、一高寮歌 第十七回紀年祭(明治40年)寮歌「仇波騒ぐ」の四番にあります。(下記)
  友の憂ひに我は泣き 吾が喜びに友は舞ふ
  人生意気に感じては たぎる血潮の火と燃えて
  染むる護国の旗の色 から紅を見ずや君

さて、私共の身近な、例えばイベントやプロジェクトなどに於いて成功する秘訣は、侠気のある人が大勢参加することではないでしょうか。

一方、外交問題に於いては現代では侠気は望むべくもなく、我が国をとりまく近隣の諸外国を見ても、損得勘定と非礼節の国が目立ち、それが経済大国となっています。今や侠気のある国を見出すことは難しいことです。しかし、アメリカやトルコには、侠気や礼節のある行動が見られます。
明治時代に外務大臣を務めた小村壽太郎のアメリカ観は次のようなものでした。
「米国人は侠気に富んでいる。かれらの精神はわが国の武士に似ている。名誉と義侠の
の念に満ち、弱い者を愛する。」
この小村の言葉にもあるように、日露戦争前にアメリカは、我が国がロシアに対抗する海軍を作ったり、戦術を研究するのに、多くの便宜を計ってくれました。
 また、明治23年に和歌山県沖でトルコの船「エルトールル号」の難破事故があり、その時に多くの日本人が献身的に救助にあたったことがありました。トルコの人達はこの恩を忘れることなく、今日に至るまで親日的です。
例えば1980年から8年間続いたイラン・イラク戦争の際、イランはテヘラン上空に来る飛行機はミサイルで撃ち落とすと言明していました。日本人がテヘランから飛行機で脱出するのは余りに危険度が高いので、日本政府は救援機を出すのを躊躇っていました。その時、危険を覚悟の上でトルコは日本人のためにテヘランまで救援機を飛ばして、日本人を間一髪で救援してくれました。トルコの人にはこのような侠気がありました。
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文運長久

2011-01-07 06:10:27 | 文化
自慢話のような文を大変失礼いたします。私の漢文の師、石川忠久先生から賀状をいただきました。
(部分写真、下)
年頭に賦された漢詩のほかに添え書きに「文運長久」とあり、私には過分の激励のお言葉を頂戴し感激いたしました。「継続は力なり」を信じて精進したいと存じます。
先生は要職を務められるかたわらで、「岳堂」と号されて、春夏秋冬いつも詩作をされています。

  
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