yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

高適 除夜の作 霜鬢明朝又一年 (再掲)

2016-12-29 06:37:12 | 文学
毎年、大晦日になると決まって想い起こす漢詩、除夜の作(高適)です。

旅館の寒燈獨り眠らず 
客心何事ぞ轉た凄然
故郷今夜千里を思ふ 
霜鬢明朝又一年

詩人 高適(こうせき)は四川省成都に流浪して来た杜甫を温かく援助し親交を結びました。晩年は不遇でした.

結句 霜鬢明朝又一年    
白髪に又 一年がむなしく加わる、にしみじみとしたものを感じます。
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小学校の英語教育

2016-12-24 07:27:44 | 文化
小学生からの英語教育に関して、千葉大学 学長の徳久剛史先生は雑誌に、次のように懸念を寄稿されています。

ヒトの大脳の言語中枢が成熟する小学生の時に英語教育を始めることは、英語力の育成という観点から、まことに理に適っていると思う。しかし、この年齢は国語力の育成にも重要な時期となるため、この時期の英語教育の強化は、日本人の基盤言語を日本語から英語に変えることにもつながりかねない。そのため小学校で教科として教える英語は、言語中枢が日本語を基盤として形成された後で行う、これまでの中学校から始める英語教育とは明確に区別されるべきだと思う。 (中略)
第二次世界大戦後の義務教育制度の中で中学校から英語教育を始めても、ノーベル賞を受賞するような世界的な研究者が数多く育っている。(中略)
グローバル化社会で必要とされる英語によるコミュニケーションスキルの習得に向けて、小学校から英語教育を始めることは必要なことだと思う。しかし同時に、日本語で世界最先端の文化や技術を生み出してきている国だからこそ、日本語を基盤言語として維持し続けることも大切であると思う。そのため、小学校で英語が教科化されることに対応した新たな国語教育改革がおこなわれることを強く望んでいる。
不肖は、「小学校において、日本語教育が英語教育に優先する」という見識に敬意を覚えます。

  徳久剛史 「グローバル化社会における言語教育」電気学会誌 2016 Vol.136 No.12
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白頭 華髪 霜鬢

2016-12-17 11:39:23 | 文学
漢詩の中で使われている「白頭・華髪・霜鬢」は何を指しているのでしょうか。
どうも白髪頭のことのようです。

白頭掻ケバ更ニ短ク
渾(す)ベテ簪ニ勝(た)エザラント欲ス      「春望」 杜甫

多情応(まさ)ニ我ヲ笑ウベシ
早(つと)ニ華髪ヲ生ゼシヲ           「念奴橋」 蘇軾

霜鬢明朝又一年                 「除夜作」 高適

日本では、薬缶頭とか坊主頭とか銀髪などと言いますが、漢語のほうが格調が高いようです。
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近江八景 大江敬香

2016-12-14 06:49:09 | 文学
明治・大正時代の漢詩人 大江敬香(1858~1917)七言律詩を紹介します。

近江八景

堅田落雁比良雪
湖上風光此所収
煙罩帰帆矢走渡
風吹嵐翠粟津洲
夜寒唐崎松間雨
月冷石山堂外秋
三井晩鐘瀬田夕
征人容易惹郷愁

堅田ノ落雁 比良ノ雪
湖上ノ風光 此ノ処ニ収マル
煙ハ帰帆ヲ罩(こ)ム 矢走ノ渡(わたし)
風ハ嵐翠ヲ吹ク 粟津ノ洲(しま)
夜ハ寒シ唐崎 松間ノ雨
月ハ冷カナリ 石山堂外ノ秋
三井ノ晩鐘 瀬田ノ夕(ゆうべ)
征人容易ニ郷愁ヲ惹ク

「訳」
近江の国の琵琶湖のほとり、堅田におりる雁の影、比良山をおおう雪の夕景、
湖上のすばらしい風光は、みなこのあたりにおさまっている。夕靄が帰りの舟
をつつむ矢橋の渡し場。風が嵐翠をなびかせている粟津の砂浜。夜、寒々と雨に
ぬれている唐崎の松のあたり。月がさえて美しい石山寺の秋の月景色。遠く響いて
いく三井寺の晩鐘。瀬田の夕照など、みなそれぞれに風光の美を誇っている。このあたり
を訪れた旅人は、ともすれば故郷をなつかしむ情にかられるであろう。

「鑑賞」
「万葉集・巻三」には、柿本朝臣人麿が琵琶湖(淡海の海)を詠んだ和歌があります。
  淡海の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば情もしのに古(いにしへ)思ほゆ

また、芭蕉の俳句に次の一句があります
  行く春を近江の人とをしみける  「猿簑」
芭蕉は、この句においては、丹波の人ではなく、「近江の人」でなければならないとしています。「去来抄」
近江には、風光明媚な土地に加えて、天智天皇の近江朝廷の昔からの古い歴史があります。
      
    「吟剣詩舞道漢詩集 律詩・古詩編」日本吟剣詩舞振興会

    

















    









    

     



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山本五十六 「述志」(再掲)

2016-12-11 06:14:55 | 文化
数年前の12月2日の「朝日新聞」の夕刊に、「『述志』の原本 初公開」という記事が載りました。太平洋戦争で連合艦隊司令長官を務めた山本五十六(1884-1943)の遺書として知られる「述志」の原本が、東京都内にある元海軍中将、堀悌吉の孫の家で見つかりました。「述志」の内容は五十六の親友、堀悌吉が戦後、著書で紹介するなどしていましたので広く知られていましたが、原本は所在不明になっていました。この原本は昭和39年に便箋に毛筆で書かれたもので、当時、海軍次官であった山本五十六は三国同盟に反対しており、そのために脅迫や暗殺予告を受けていました。
「誰か至誠一貫俗論を排して斃れて後已むの難きを知らむ」(至誠を貫き、俗論を排した末にやめる困難を誰が知ろうか)と記しています。
 山本元帥は、私の郷里、旧長岡中学の先輩です。欧米との戦争に反対しながらも、皇国の武人として心ならずも真珠湾攻撃を指揮することになった連合艦隊司令長官であり、南方で戦死しました。まさに至誠一筋の人でした。

(補遺)
 真珠湾攻撃の直前に山本は、連合艦隊の各艦長を集めて訓辞しました。「今、戦争回避のために米国と交渉中である。もしその交渉がうまく行ったら、直ちに日本に向けて帰投せよ」と言ったところ、ある艦長が「一旦出撃したら戻れと言われても戻れるものではありません」と咄嗟に不服を申し立てました。山本は大いに怒り「百年、兵を養うは平和を守るためである。もし停戦命令に背いて本国に帰投することができないと考える艦長がいたら、即刻、辞表を出せ。
百年兵を養うは只々、平和を護るためである。」
と命じました。各艦長は山本のこの強い意志を胸に出撃して行ったとのことです。
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モラべックのパラドックス

2016-12-08 06:35:16 | 文化
人工知能技術は21世紀最大の発明ともいわれます。
AI(人工知能)に関する用語の中に、「モラペックのパラドックス」があります。すなわち、「歩く」とか「会話する」というような人間にとっては簡単なことが、AIには難しいことですが、一方、AIは計算や記憶といったことは容易にできます。こうした、人間にとって容易で、AIでは困難な逆転現象は「モラペックのパラドックス」と呼ばれています。
なぜそのようなパラドックスが起きるのでしょうか?理由はいろいろありますが、ざっくり言ってしまえば、人間(動物)とAIは根本的に設計が異なるからだといえます。人間にとって難しいこと(たとえば複雑な数学の問題を解く)を肩代わりしてもらうためにコンピューターが生まれましたが、その延長に今のAIは存在しています。人間(動物)はというと、何が起きるかわからない大自然にうまく適応し生き残っていくために知能を発達させていきました。そもそもスタート地点からしてAIと動物の知能はずいぶん違うのですから、両者の溝が深いのも当然といえます、そのような理由から、いまだに「人間のような心を持った」ロボットはいませんし、人間は自分でシャツにアイロンをかけなければなりません。

五木田和也 「コンピューターで脳がつくれるか」 技術評論社
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七高 北辰斜めにさす所

2016-12-05 06:56:39 | 文化
私は旧制高校世代ではありませんが、若い頃、七高(第七高等学校、薩摩造士館の流れを汲む、現・鹿児島大学)の寮歌、「北辰斜めに指す所」を愛唱しました。この寮歌は巻頭言から始まります。
   巻頭言      大正15年 小野宏 作詩

流星落ちて住む處
橄攬(かんらん)の實の熟るゝ郷(さと)
あくがれの南(みんなみ)の國に
つどひにし三年(みとせ)の夢短しと
結びも終へぬこの幸を
或ひは饗宴(うたげ)の庭に
或ひは星夜の窓の下(もと)に
若い高らう感情の旋律をもて
思ひのままに歌ひ給へ
歌は悲しき時の母ともなり
うれしき時の友ともなれば
いざや歌はんかな北辰斜め

アイン ツバイ ドライ

 一、
北辰斜めにさす所
 大瀛の水洋々乎
  春花かをる神州の
 正氣はこもる白鶴城
 芳英とはにくちせねば 
  歴史もふりぬ四百年

二、
紫さむる黎明(しののめ)の
  静けきに波に星かぞえ
  荒涼の気に咽ぶとき
  微吟消え行く薩摩潟

三、
悲歌に耳藉(か)す人もなく
  沈み濁れる末の世の
  驂鸞(さんらん)の夢よそにして
  疾風迅雨に色さびし
  古城の風に嘯ける
  健児七百意気高し

四、
南の翼この郷(さと)に
  三年(みとせ)とゞまる鵬の影
  前途(ゆくて)は萬里雲わきて
  雄圖もゆる天つ日や
  かどでの昔叫びにし
  理想の空に長躯せん

五、
ああ若き日の光栄は
  ことし十四の記念祭
  祝うもうれし向上の
  旅の衣にちりかかる
  楠の下露清らけく
  今日南明の秋にして
     作詩 梁田勝三郎 作曲 須川政太郎   大正4年

この「北辰斜め」は、寮歌蔡において、唯一、巻頭言から始めることが認められました。歌は太鼓に合わせて、足を踏みならしながら歌うのが通例です。

作詞者の梁田勝三郎氏は、長い間、消息不明でしたが、共に作詩をした親友の証言から、在学中に千葉県で病没したことが分かり、七高名簿に復帰したということです。
  














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柳生新陰流

2016-12-02 06:22:27 | 歴史
愛洲移香斎(あいす いこうさい)が創始した愛洲陰流を学んだ上泉伊勢守信綱(かみいずみ いせのかみのぶつな)は新陰流を起しました。新陰流一世、伊勢守は大和国柳生で柳生宗厳(やぎゅうむねよし、石舟斎)に剣を教え、「無刀取り」の公案を課して去りました。宗厳は、この公案を解いて新境地を開き印可を得て新陰流二世となりました。「無刀取り」とは剣を使うことなく相手を倒す術です。宗厳の系統を柳生新陰流ともいいます。五男の宗矩と共に徳川将軍家に仕えました。柳生流は人を活かす、活人剣とも言われます。宗矩は出世して、大名にまでなりました。宗厳の長男の子供、兵庫助利厳(としよし)は天才的剣士で、尾張徳川家につかえ、新陰流三世となりました。
柳生宗矩の長男が十兵衛、三厳(みつよし)です。尾張柳生、柳生利厳の三男に天才剣士、柳生連也斎厳包(としかね)がおり、柳生新陰流を完成させました。柳生家は、武の名門ですが、「文」あるいは「学問」の本家と見られる菅原道真の後裔だというのは面白いことです。
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