yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

養生の三傑

2011-09-28 06:03:12 | 文化
我が国の養生の三傑といえば、貝原益軒(1630-1714) 84歳、白隠慧鶴(はくおんえかく、1685-1768) 83歳、佐藤一斎(1772-1859) 87歳が挙げられます。三人とも江戸時代に80歳を越える長寿を全うしています。それだけに言うことに説得力があります。さらに共通するところは、いずれ劣らぬ健筆家です。益軒の「養生訓」、白隠の「夜船閑話(やせんかんな)」、一斎の「言志四録」といずれも後世に残る名著です。貝原益軒に至っては71歳から84歳の間に、なんと30冊もの著作をしております。健筆を揮う際の「ときめき」が彼等の養生の根幹をなしていたことは想像に難くありません。(以上は帯津良一医学博士より)。私が敬愛する故・佐貫亦男教授は大学を退官されてから、なんと50冊余りの著述をされました。テーマはご専門の「飛行機」「宇宙」に加えて、「道具」「アルプ」「スイス」「チロル」「ドイツ」「旅」「発想法」と多岐に亘っています。享年89歳。また、私の親戚に当年104歳の老人がおりますが、百歳まで著述を続けておられました。佐藤一斎先生は「言志四録」の内のひとつ「言志晩録」の中で、「老いて学べば、則ち死して朽ちず」という味わいのある言葉を書いておられます。
なおこの一連には「少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。」という文もあります。
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漢字は難しい クイズ解答付き

2011-09-25 06:18:27 | 文学
9月23日に掲載したブログ「漢字は難しい」の中に、次のクイズを出題しました。

  「月・糸・口」を組み合わせたらどんな漢字になるでしょうか?
 
 答は「絹」と思います。
 9月23日のブログに、逸速くI氏からコメントが寄せられており、silk と書いてありました。答に到達した方はほかにもいらっしゃる事と思います。

I氏は「何とか解けた」と、ご謙遜のようでしたが、私には難しい問題でした。

問題が「糸・口・月」を組み合わせたらどんな漢字になるでしょうか、と順序を変えて出題されていたら、もっと解き易かったのではないか、という意見もありました。
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漢字は難しい

2011-09-23 07:43:14 | 文化
日本では、漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字と四種類の文字が使い分けられており、世界で最も複雑な文字体系をもっているといわれています。日本語を覚えるのは大変なことであり、外国人が日本語を覚えるのに大きい障害となっているようです。文字を思い浮かべる時に、無意識に指が動くのを「空書現象」といいます。

 ここでクイズを出題します。
  「月・糸・口」を組み合わせたらどんな漢字になるでしょうか?
       (答は次回のブログに書きます。)

日本や中国など漢字文化圏の人の8割は、空中や手のひらに指で書いて考えるそうです。この空書を禁じると正解率が落ちるそうです。無意識に手や目などを使ったイメージで漢字を覚えていて、その字を思い浮かべる人が多いそうです。
さて、クイズの答ですが、私は、なかなかわからなかったので、手間をかけ
てようやく答に到達しました。
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お礼

2011-09-22 05:54:54 | 近況
いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。
お蔭さまで、9月18日に、アクセス数が16万になりました。
平成18年の3月に書き始めてから約5年半になりました。
これからも書き続けるつもりですのでご愛読いただければ、有り難く存じます。なお、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。

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漢詩 震災

2011-09-20 06:03:54 | 文学
恩師 石川忠久先生作 震災の漢詩を紹介します。

東日本大震災 其一 狂濤

平成辛卯春三月
乾墜坤崩旋げつこつ
東海奔濤萬里来
生民流散盡湮沒


平成辛卯(しんぼう)春三月
乾(けん)ハ墜(お)チ坤(こん)ハ崩レテ旋(たちまち)げつこつ
東海ノ奔濤(ほんとう)萬里ニ来リ
生民ハ流散(るさん)シテ盡(ことごと)ク湮(いん)沒ス

辛卯は今年の十干十二支「かのと・う」の事です。
「乾ハ墜(お)チ坤ハ崩レテ」は「乾坤(けんこん)は墜崩して」と同じで、「天地が崩れ落ちる」という意味です。
「げつこつ」は難しい漢字なので出力できませんでした。「動揺していて不安定で危うい様」を言います。「湮沒」は「沈み埋もれる」という意味です。

続いて、其二、其三、其四がありましたが、ここでは省略しました。

漢詩は、まず単語の理解から始まりますので、意味をつかむのに時間がかかりますが、
短い詩形の中に多くの意味が込められていることも多いようです。

         「学士會会報」 2011―Ⅴ
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東福門院 和子

2011-09-16 06:30:37 | 歴史
東福門院、徳川和子(1607-1678、まさこ)は徳川二代将軍秀忠と江与との第五女ですが、入内して百八代後水尾天皇の中宮となりました。公武融和のための初の武家出身の国母でした。嫁して天皇との間に七人の子供をもうけ、長女は百九代の明正天皇(めいしょう天皇、女帝)になりました。母の江与(江)は、秀忠との間に二男五女をもうけました。長女の千姫は大姫と呼ばれ豊臣秀頼に嫁ぎましたが、豊臣氏滅亡の折、戦火の中を助けられ、江戸城に戻りました。五女の和子(まさこ)は、江与にとっては珍しい難産の末、ようやく誕生したということです。生まれると同時にえもいえぬ香りを漂わせ、やがて江戸の街も馥郁たる香りに包まれたという話もあります。和子は長女の大姫(千姫)と区別するために乙姫と呼ばれましたが、後に駿府の家康公より和子(まさこ)の名を賜ったそうです。既に家康には朝廷に入内させる腹積りがあり、和子は将来入内することを前提にして大切に育てられました。僅か14歳で入内した和子は、前述の通り後水尾天皇との間に二男五女をもうけました。つまり母親の江与と同じく多くの御子に恵まれた事になります。しかし二人の親王は早世し、長女の興子(おきこ)が後水尾天皇を継ぎ第百九代の女帝、明正天皇になりました。奈良時代の元明女帝から明(めい)の字をいただき、また同じく元正女帝から正(しょう)の字をいただいた大変由緒あるお名前でした。ここに徳川秀忠と江与は天皇の外祖父母ということになりました。その後、紫衣事件の件で憤慨された後水尾天皇は譲位して上皇となり、和子も後水尾上皇より「東福門院」の御名を賜りました。上皇は「東より福来る、という意味じゃ」と仰せられたそうです。以後、東福門院は御所に住まわれましたが、朝廷と武家、関東と京では諸事に亘って様式が異なり、御意に沿わないことが数多あったにもかかわらず、明るく穏やかなご性格をもって万事に対処されたということです。実家の徳川将軍家の勢威が非常に高い時期でもあり、陰に陽に和子中宮への援助も大きかった事でしょう。かくして69歳の天寿を全うされました。
余談ながら、1634年、東福門院は徳川家光将軍に随行して参内した保科正之公(會津藩の鼻祖)に対面しています。二人とも自分の兄弟でしたが、保科正之公とは初対面でした。この時、既に父母の秀忠と江与は薨去していましたが、自分が知らない妾腹の弟(正之)がいたことに驚愕したということです。そして、秀忠公が江与には正之公のことをあからさまに知らせていなかった事を知り「母上はお幸せであった」と述懐したそうです。東福門院は、後に正室を失った正之公に、自分に仕えていた女官を継室として紹介しております。

   宮尾登美子 「東福門院 和子の涙」 講談社
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MC

2011-09-13 05:59:19 | 文化
近頃、MCという言葉をよく聞きます。不肖、私は最近になってようやくその意味を知りました。2005年頃から使われているそうです。放送や音楽の分野で、従来の「司会」あるいは「進行役」という呼称に変わり、MC(master of ceremonyの略)という言葉が用いられるようになりました。テレビの報道や、情報番組の場合はキャスターと呼ばれる人が番組の主役であり、スーツを着用していることが多いようです。教育番組の場合には、お姉さん、お兄さん、先生と呼ばれます。バラエティ番組の司会もMCと呼ばれるそうです。
TBSの長寿クイズ番組「世界不思議発見」の草野仁アナウンサーもその一人でしょう。

昔、パック旅行に添乗員と言う人が随行していたこととがありましたが、最近では、この役割の人をツアー・コンダクターと言うのと、MCという呼称に変わったことと、どこか類似しているように思われます。

余談ながら、上記のMCとは関係ありませんが、スコットランドとアイルランド系の人にMc の付く苗字が沢山あります。

McArthur
McCoy
McDonald
McKinley
McIntosh など。

北欧系の人の苗字にソンやセンが付くのと似ています。いずれも誰々の息子という意味であったと思います。
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「切る」「見切る」考

2011-09-10 05:52:46 | 文化
「切る」という言葉は、連結・結合しているものを刃物などで断つ、または離す意味に使います。
よく使われる言葉ですが、種々の分野でそれぞれ独特の使用法と意味があります。
医療分野: 手術をすること、患部を取り去ること
歌舞伎界: 「みえを切る」という独特の使用法があります。
種々の集団において: 重要な人物を排除するという意味に使います。
          ここには冷徹な措置という響きがあります。
トランプにおいて: カードの順をバラバラにすることや、大事なカードを捨てること。
将棋において: 飛車または角という大駒を捨てて弱い駒を取る時にのみに使います。

この他、似た言葉に「見切る」という言葉があります。見極める、見定める、見かぎる、見かぎって安く売る、というような意味です。
野球では: フォアボールを見極めること
剣術では: 相手との間合いを冷静に観察・判断し、捨て身の攻撃に出て、己の肉を切らせて相手の骨を断つ場合に使うようです。「間合いを見切る」のは剣の流派の奥義によくあるそうです。

「切る」も「見切る」も、ぎりぎりの場面で決断をして最強の手段に出る場合に用いるようです。
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飛行機の機体材料の進歩

2011-09-07 06:29:24 | 文化
ご承知の通り、比重とは常温における1立方センチメートル当たりの重さのことです。水の比重が1.0です。今回は物質の比重から見た飛行機の機体材料の変遷を述べます。

子供の頃に作った模型飛行機の材料は、紙、竹、木でした。これらの材料の比重を下に示します。
   木:      杉  0.38、  松   0.43
   竹:      孟宗竹   1.24
   紙       0.7~0.9    (種類、品質により異なります。)
これらは日本では古来建築材料として使われて来た物で、軽くて腐食しないという特長がありますが、実用の飛行機の材料としては機械強度が不足しています。

さて、1903年にアメリカのライト兄弟は、自作したライトフライヤー号で、人類初の有人動力飛行を果しました。最大速度は48km/時ということです。機体は木製の骨組みに羽布張りという軽量構造で、ガソリンエンジンを動力としました。
1927年にはアメリカのチャールズ・リンドバーグが、スピリット・オブ・セントルイス号という単葉単発のプロペラ機で、大西洋を33時間で横断。ニューヨーク・パリ間を単独、無着陸飛行することに成功しました。着陸直前に「翼よあれがパリの灯だ!」と叫んだという話は有名になりましたが、実際に着陸したリンドバーグが最初に会った人に発した言葉は「だれか英語が話せる人はいないか」であったそうです。機体は木材金属混合であったそうです。
その後、飛行機は長足の進歩を遂げ、第一次、第二次世界大戦では戦闘の主役を演じました。機体は鋼材(比重 7.7)からより軽いアルミ合金(比重2.8)になりました。
また近年はボーイング787ドリームライナーが開発され、来年あたりから日本でも営業運転に入る予定です。この機体には日本の技術が多く使われています。主要な機体材料は、三菱重工業などが開発したカーボン繊維強化プラスチックであり、比重はわずかに1.7。軽量なため、長距離を無着陸で飛ぶことができ、利便性が大幅に拡大すると期待されています。
 このように文明の発展の基礎には、広汎な材料技術の進歩があることを感じます。

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松永安左ヱ衛門

2011-09-04 07:35:12 | 文化
電力の将来が重要課題になっていますが、一民間人でありながら、今日の電力供給体制の基本を創った松永安左ヱ門について述べます。

松永安左ヱ門(1875-1971)は「電力王」「電力の鬼」と言われた財界人で、美術品コレクター、茶人としても知られ、「耳庵」の号を持ちました。
明治8年に長崎県壱岐に生まれ、中学時代、福沢諭吉の「学問のすすめ」に感銘を受け、上京して慶応義塾に入学。在学中に福沢桃介と知り合いました。父親が他界した時、松永は一時帰郷し家督を継ぎましたが、その後、慶應義塾に再入学。しかし後に中退し、福沢桃介の紹介で日本銀行に入行しました。しかしその日本銀行をも辞職し、九州に帰って九州電気を設立。大正6年には衆議院議員に当選。東邦電力の副社長にも就任しました。後に東京電燈(株)の取締役に就任し、昭和2年には「電力統制私見」を発表。民間主導の電力の再編を主張したこともあって、「電力王」と言われました。「戦争に訴えなくとも日本はやって行ける」という成算を持ち、電力の国家管理に反対し続けた松永は、官僚を嫌い、ある講演会の席上、軍閥に追随する官僚達を「人間のクズ」と発言したりして大問題になったことがありました。暗殺者リストに挙がっているというような脅しも受け、遂に新聞に謝罪広告を掲載するはめになりました。
大戦の後、日本発送電会社が電力の独占体制を築こうとしたのに強硬に反対し、現在の九電力体制と電力料金の値上げを実現させました。(現在は沖縄電力を入れて十電力体制です。)電力料金の値上げは、将来の電力需要の拡大を予測したもので、電力事業の財政基盤を盤石にするのに役立ちました。松永はこうした強引さから「電力の鬼」と呼ばれるようになりました。生前から鬼と呼ばれた数少ない人物です。
松永は明るい性格で美男子でもあり、人生のピンチに幾度も遭いましたが、その度に成功のヒントを掴んでピンチをくぐりぬけて行きました。
また、欧米視察の際に知遇を得たアーノルド・トインビーの「歴史の研究」の翻訳・刊行にも尽力しました。1951年には民間初のシンクタンク、電力中央研究所も設立しました。
自身の米寿の時には、自分が設立した電力中央研究所の屋上の祝いの席に、池田勇人総理大臣のみを招くという、奇抜にして質素なものだったそうです。
大戦の後、叙勲制度が復活し、最初の勲一等瑞宝章叙勲者に推薦されました。料亭で池田総理からその話を聞くと、「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と激高して帰ってしまいました。その後、総理から松永の説得を要請された永野重雄(新日鐵社長)に、「あなたが叙勲を受けないと制度がゆきづまり、生きている内に勲章をもらいたい人に迷惑になる」と説得されたため、不本意ながら叙勲を受けたということです。松永が他界した時、佐藤栄作内閣は政府叙勲を即日決定したものの、松永の遺族は故人の意思を尊重してこれも辞退したということです。

彼は90歳の正月に、次の一句を作っています。
 初夢や若き娘に抱きつけり

大宅壮一との対談で、「振り返ってみて90年というと長いですか、短いですか」という問い
に、「長いですねえ。もうこれ以上生きたって馬鹿らしい気がせんでもない。」と答えました。
ある日、庭を散歩中に愛犬にとびつかれて転倒し、骨折したのも原因となって、昭和46年に96歳で眠るように他界しました。
無葬式、無戒名、無叙勲の遺言を残しましたので遺族はその通りにしたということです。
所蔵していた膨大な美術品は、既に大戦の後、所沢から小田原に転居した際に、東京国立博物館に寄贈してあったということです。松永は益田鈍翁、野崎幻庵とともに小田原三茶人の一人とも言われました。
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