yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

神のような人 秋月悌次郎

2022-09-28 06:20:27 | 歴史
明治時代、熊本の第五高等学校の教授は多士済々でした。
嘉納治五郎は明治24~明治26年まで校長を務め、夏目漱石は明治29~明治33まで在職し、熊本の住み心地は悪くなかったそうです。また、秋月悌次郎・胤永(かずひさ)は明治5年~明治32年、ラフカディオ・ハ-ンは明治27年~明治34年、その他、田丸卓郎(理学者、)厨川白村(英文学)などがいました。祝祭日の行事には正装に身を正して出席を欠かさなかったハ-ンがとくに傾倒していたのは、会津藩の元家老格の公用人、昌平黌で儒学を修めた秋月老人でした。ハ-ンの著書「東の国から・九州の学生とともに」の中で「会津藩士として熾烈な過去をもちながら、常に柔和で生徒の尊敬を集めた人格を高く評価し、神が姿を表すとしたらこの老先生のようだろう」と書いています。
 また、秋月悌次郎に関する次のエピソ-ドもあります。明治26年1月、政府の高官 高崎佐太郎(正風)は熊本に出張した際に秋月邸を訪ね、胤永と一夜、歓談しました。その翌朝。黒い官服に身をつつんで教室にあらわれた胤永は、いつものように登壇して紫色の風呂敷の結び目を解いた。だが、いつになっても講義をはじめようとしなかった。学生たちが小首を傾げたころ、胤永は低い声でいった。「実は昨晩、幕末以来の友人が三十年ぶりに訪ねてきたのでなつかしさのあまり終夜酒を酌み交わしてしまった。そのため、今日の講義の下調べをしてこなかった。それゆえ本日はまことにすまないが、授業はおわる」ついで風呂敷を結び直した胤永は一礼して教室を出ていってしまった。その話を聞いた教授のひとりは、教官控え室に胤永の姿がないのを確かめてから同僚にいった。「それにしても漢学者というのは、融通のきかないものだな。あれほどの大学者なら「論語」など暗誦しておられるだろうに。なんとか講義できなかったものかね。」すると傍で聞いていた法文の末広厳太郎(いずたろう)が反論した。「いやそうじゃないよ。秋月先生のように良心的であって初めて本当の先生になり得るのだ。ぼくは今の話を聞いていて深く反省させられた。秋月先生は偉いとぼくは思うよ。」ただ「休講」と宣言してもよいのに、さらにいえば下調べをせずとも講義することは可能なのに、律儀にこう述べて学生たちに陳謝する、それが秋月胤永という人間なのだということを末広厳太郎はよく知っていた。この高崎佐太郎は元・薩摩藩士ですが、30年前の文久3年(1863)に京都にいた会津藩・公用人の胤永を訪ねて会薩同盟をまとめ、八月十八日の政変の発端を作り、結果として京都から長州派の勢力が追放となりました。

秦郁彦 「旧制高校物語」文春新書
  中村彰彦 「落下は枝に還らずとも 下」 中央公論新社
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チバニアン

2022-09-25 06:16:47 | 文化
国際地質科学連合は去る1月17日、約77万4千~12万9千年前の地質時代を「チバニアン(千葉時代)」と呼ぶことに決めました。千葉県市原市にある地層が、この時代の始まりを明確に示していると判断したからです。人類(ホモ・サピエンス)が登場した頃で、地質年代に日本の地名が付くのは初めてとの事です。
地球の過去46億年の時代は、大きな気候変動や生物の絶滅などで区切られ、
地質年代の名称は欧州の地名に由来するものが多いのです。例えば恐竜がいたジュラ紀はフランスとスイス国境の山脈、カンブリア紀はイギリスの地名から名付けられました。100ほどある時代の境界が最も明瞭に示された地層のある場所は「国際標準模式地」として認定されています。
国立極地研究所や茨城大などの研究チ-ムは、千葉県市原市の地層に、約77万年前に地球のN極とS極が逆転した痕跡がはっきり残っていることを示しました。過去に何度も逆転を繰り返してきた地磁気が、最後に逆転した時の痕跡だそうです。「チバニアン」が地質時代の名前として認められた事について、研究チ-ム代表の茨城大の岡田誠教授は「地球史に日本の名を刻むことができた」と話しました。
千葉県民にとって喜ばしいことです。

  参考  「朝日新聞」 


 


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漢字 4文字で読む

2022-09-22 06:27:44 | 文学
 テレビのクイズ番組を見ていましたら、新しいタイプの設問として、「漢字を平仮名4文字で読む」というものがありました。不肖にはかなり難解でしたが、いかがでしょうか。下に紹介します。答は末尾に書きました。なお、文語短歌などで使う雅語が多いようです。

問題

 鉄 銅 銀
 武 兵 士
 署 団 弁
 永 数 経
 尺 械 閂
 酣 熱 風
 胡 窟 駕
 対 遖 頑
 倒 篁 褌
 餞 某 閥
 蘭 蛇 獺
 雷 嘴 鬣
 牲 邪 俤
 柵 鎹 皇
 階 陵 叢
 
解答

 くろがね あかがね しろがね
  もののふ つわもの さむらい
  やくわり かたまり はなびら
  とこしえ しばしば たていと
  ものさし からくり かんぬき
  たけなわ ほとぼり ならわし
  でたらめ ほらあな のりもの
  つれあい あっぱれ かたくな
  さかさま たかむら ふんどし
  はなむけ それがし いえがら
  あららぎ くちなわ かわうそ
  いかずち くちばし たてがみ

  いけにえ よこしま おもかげ
  しがらみ かすがい すめらぎ
  きざはし みささぎ くさむら 

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月明らかに星稀に

2022-09-19 06:14:36 | 文学
1082年に成立した蘇軾の「前赤壁賦」の中ほどに「月明らかに星稀に」の句があります。
  客曰ク
  月明ラカニ星稀ニ
  烏鵲(うじゃく)南ニ飛ブトハ
  是レ曹孟徳(そうもうとく)ノ詩ニ非ズヤ
  西ノカタ夏口ヲ望ミ 東ノカタ武昌ヲ望メバ
山川相纏(まと)ヒ 鬱乎(うっこ)トシテ蒼蒼タリ
此レ孟徳ノ周郎ニ困(くる)シメラレシ者(ところ)ニ非ズヤ 
   
      「赤壁の戦」(208年)で、魏軍が呉軍に敗北した場面を述べています。
一方、「曹孟徳ノ詩」とは魏の武帝、曹孟徳の「短歌行」という詩のことです。この「短歌行」の中に、次のようにあります。

   月明星稀
   烏鵲南飛
   繞樹三匝
   何枝可依
   山不厭高
   海不厭深
   周公哺吐
   天下帰心

       「読み方」

   月明ラカニ星稀ニ
   烏鵲(うじゃく)南ニ飛ブ
   樹(き)ヲ繞(めぐ)ルコト三匝(さんそう)
   何(いず)レノ枝ニカ依ルベキ
   山 高キヲ厭ハズ
   海 深キヲ厭ハズ
   周公 哺(ほ)ヲ吐キ
   天下 心ヲ帰ス

   「訳」
  月が明るく輝いて星影が薄れるころ、烏鵲(かささぎ)は南をさして飛んでゆく。高い木のまわりを三度もめぐり、止まるべき枝をさがしている。山はいくら高くなっても厭わないし、海は水がいくら深くなってもかまわない。いにしえの周公は一食に三回も食べかけの物を吐き出す熱心さで賢才に接したからこそ、天下の人びとの心が彼につき従ったのである。
曹操もそれを羨んだのです。

       石川忠久 「NHK漢詩紀行 三」NHK出版
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高祖父 玄孫

2022-09-15 06:20:23 | 歴史
父の父が祖父、祖父の父が曾祖父、曾祖父の父が高祖父。つまり高祖父は4代上の父です。父という字の替りが母であってもいいのです。高祖父より上の代になると名称がありません。
子の子が孫、孫の子が曾孫、曾孫の子が玄孫(やしゃご)です。
つまり4代下の子供です。5代下が来孫(らいそん)、6代下が昆孫、7代下が仍(じょう)孫、8代下が雲孫(うんそん)です。これより下の名称はないそうです。人の寿命による制約のために高祖父と玄孫が実際に対面できるのは、難しいといわれています。
江戸幕府の8代将軍の座を争ったのは、紀州藩5代藩主・吉宗と、尾張藩6代藩主・継友ですが、両者は徳川家康の玄孫同士でした。結局、吉宗が勝って8代将軍になりました。一方、高祖父の二人が総理大臣というすごい家系の人もいます。元フィギュア-・スケ-ト選手の八木沼純子さんです。八木沼さんの母方の高祖父の松方正義は4代と6代の総理。また同じく母方の高祖父の山本権兵衛は16代と22代の総理大臣です。
また、鎌倉時代後期には、足利尊氏と新田義貞というライバルがいて日本の覇権を争いました。二人共、清和天皇の子孫の源義国の雲孫(8代下の子)でした。兄弟は勿論、子孫同士がライバルになることはよくあるようです。

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長岡 花火

2022-09-12 06:08:28 | 歴史
新潟県長岡市の花火大会は不肖の郷里の行事ですが、太平洋戦争の直後、戦没者の鎮魂と慰霊を願って昭和22年(1947)に始まりました。長岡は昭和21年8月1日に米軍の空襲により灰燼に帰し、多くの犠牲者を出しました。広島、長崎に原爆が投下される直前でした。長岡も原爆の標的の候補地であったという説もありますが、不肖が今日あるのは、幸運にも長岡に原爆が投下されなかったからです。この長岡が空襲を受けたのは、わが中学(今日の長岡高校)の先輩、山本五十六元帥の真珠湾奇襲作戦に対する報復だと信じられています。その高校の校歌、第一番は下記です。

我が中学のその位置は構は八文字浮島の兜の城と名も高き旧城跡を前に見て峨々たる嶮峰鋸は其の東面に天を指し本島一の大河なる信濃川は其の西に汪洋広野を浸しつつ北海さして流れゆく。

長岡は河井継之助の下で戊辰の北越戦争(1868)を戦い、西軍に敗れて焼土になった事もあり、市民は不屈の復興魂を持っています。正三尺玉(下 写真)を始め、趣向をこらした現代花火はテレビでもよく放映されています。驚いたことに、長岡市が、昔の敵国アメリカのハワイのホノルルと姉妹都市になって、花火師がハワイに渡って友好の花火を打ちあげているという話もあります。 

  
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THE LONGEST DAY

2022-09-09 06:15:31 | 文学
「THE LONGEST DAY, 最も長い日」とは、第2次世界大戦において連合軍の英米軍が、欧州戦線においてフランスのノルマンジ-海岸に上陸し、独軍に対する反攻を開始した日、即ち1944年6月6日のことです。アメリカを代表する映画制作会社、20世紀FOX社が社運をかけて制作した映画の題名です。43億円の巨費を投じ、ジョン・ウェイン、ヘンり-・フォンダ、ロバ-トミッチャム等、英米の有名俳優総出演という豪華版でした。邦題は20世紀FOX社の日本支社の広報を務めていた故・水野晴郎氏が「史上最大の作戦」と命名しました。戦争という文字を使うことなく、大作映画を予感させる優れたタイトルでした。興業も大成功であったということです。邦題の傑作といえば、「How Green was my valley」や「Gone with the wind」 に、「我が谷は緑なりき」「風とともに去りぬ」という邦題を命名したのも、秀れセンスを感じます。さて、日本にも「日本のいちばん長い日」があります。太平洋戦争の終戦の日、1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送に至る一日を描いたドラマであり、書籍も映画もあります。タイトルの選定にも納得です。作者の半藤一利氏の苦心の産物ともいえます。
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アルプスの谷 アルプスの村

2022-09-06 06:18:29 | 文学
故・新田次郎氏が1964年にこのタイトルの本を書きました。1961年の夏、ヨーロッパに出張中であった佐貫亦男教授が案内役となり、新田次郎氏に同行してヨーロッパ・アルプスを巡りました。
佐貫先生と新田次郎氏は気象庁において同僚の間柄でしたが、佐貫先生は東大に転出して航空学科の教授になっており、新田次郎氏は文筆活動を始めていて、作家への道を歩んでおられました。この旅の紀行文から「アルプスの谷アルプスの村」が生まれましたが、私もこの本をスイス・アルプスの入門書として愛読して来ました。
新田次郎氏はグリンデルワルドに着く直前に目に入ったアイガーを仰いで「これで死んでもよい」とつぶやいたそうです。不肖私も1992年にグリンデルワルドを訪れた際に、アイガー北壁ののしかかって来るような迫力に圧倒されたことを憶えています。新田次郎氏は自分の故郷の信州の山々とあまりに異なる山容に感極まったとのこと。次いで、ヨーロッパ・アルプスと日本アルプスでは、岩肌の色も肉づきも骨格も違い、人種が異なる、いや山種が異なると感じたとのことです。こうした感動とヨーロッパ・アルプスの旅の経験がこの後の新田次郎氏の山岳文学の基になったようです。また、このようなきっかけを作ってあげることができ、案内役であった佐貫先生も安堵されたようです。
 新田氏のような優れた作家の友人を持つと、有り難いことに、佐貫先生ご本人も驚く程の人物として、大いに持ち上げて描写してくれたのだそうです。例えば「佐貫先生は、ドイツ語、英語、フランス語、イタリア語がペラペラ」などと。確かに、登山電車の中でドイツの子供達が騒ぐのを懇々と説諭した場面も紹介されていましたから、ドイツ語ペラペラは事実でありましょう。
なお佐貫先生は別の本の中でも、スイス・アルプスを歩くのに、ドイツ語、フランス語、イタリア語は必要、英語は不要と書いておられました。

新田次郎『アルプスの谷アルプスの村』 新潮社
佐貫亦男『佐貫亦男の旅の回想―アルプスとドイツを旅して50年』 
グリーンアロー出版社
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友人との交流 良寛

2022-09-03 06:17:31 | 文学
良寛は、孤独で孤高な生涯を送ったと思われがちですが、越後の国の内外から良寛の文学や仁徳を慕って、知名の士が、ぼつぼつ五合庵を訪れました。
 江戸中期の漢学者、亀田鵬斎や鈴木文台もそうした人達でした。良寛は彼等を友人として迎え彼等との交流を大切にしました。良寛が鵬斎のことを詠んだ漢詩があります。

  鵬斎倜儻士
何由此地来
  昨日閙市裡
  携手笑眙々

 「読み方」

  鵬斎ハ倜儻(てきとう)ノ士ナリ
何ニ由リテカ此ノ地ニ来タル
  昨日閙市(どうし)ノ裡(うち)
  手ヲ携ヘテ手笑ヒテ眙々(かいかい)

  「訳」
鵬斎は才気すぐれて、何物にも拘束されない自由の士である。
どんな理由があってこの越後の地に来たのか。昨日も騒がしい街中で逢って、
互いに手を取り合って高笑いしたことであった。

越後西蒲原郡粟生津村の旧家の医師であった鈴木隆造と、その弟の鈴木文台(陳造・漢学者)も、しばしば良寛を訪れています。良寛は文台に次の漢詩を贈っています。

  贈鈴木陳造

     草庵風雪裡
     一投相思詩
     不知何以報
     含翰愧所思
     
      「読み方」

草庵風雪ノ裡
     一タビ投ズ相思ノ詩
     知ラズ何ヲ以ツテカ報イン
     翰ヲ含ンデ所思ニ愧ズ

 「訳」
風雪の激しい日に草庵に立て籠っていたら、思いがけず相思の詩をもらった。しかし何をもってそれに報いたら良いか分からない。筆を噛んでみたが思うことを述べられないでいる。

渡邊三省 「人間 良寛」風濤社
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