yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

寸進尺退

2011-07-30 06:59:45 | 文学
「寸進尺退(すんしんせきたい)」という言葉があります。出典は「老子」で、意味は字の通り一寸進んで一尺退く。すなわち、わずかばかり進んで、多くを退く。進歩がわずかなことを言います。得るところが少なくて失うところが多いということです。
さて、将棋の原田康夫八段は、現役時代に寸進尺退をもじって「尺進寸退」をモットーとしており、一歩も引かず強烈に攻めるのを得意にしていました。しかし、相手の反撃にあって敗れることも多く、原田の「玉損の攻め」などとも言われました。将棋においては自分の玉将が最も大切ですから玉を損する攻めでは攻め過ぎになってしまいます。下の写真は升田幸三元名人が揮毫した扇子ですが、この右上にも「尺進寸退」の刻印が押してあります。(拡大写真 下)
水前寺清子が歌う「三百六十五歩のマーチ」の中に一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩さがる、とありますが、人生は進んだり退いたりしながら行くものなのでしょう。才能と向上心があり、諦めずに挑戦し続ける人は、運にも恵まれると大輪の華を咲かせます。





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お礼

2011-07-29 06:18:11 | 近況
いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。
お蔭さまで、7月24日に、アクセス数が14万5千になりました。
平成18年の3月に書き始めてから約5年半になりました。
引き続き、ご愛読いただければ、有り難く存じます。なお、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。
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徳は孤ならず

2011-07-27 06:11:19 | 文学
「論語」巻二 里人第四 に次の文があります。
子曰(のたま)わく、徳は孤ならず。必ず隣有り。

孔子が言われました。「徳のある人は孤立しない。きっと親しいなかまができる。」
「正しいこと、人のためになることを黙々とやっていれば、いつの間にか人がついて来るし、支持する人も次第に増えてくる」というような意味だと思います。この度の東日本大震災においても、大変な中、黙々と復興に向けて行動している人々がいますが、彼等の周りにはいつの間にか仲間が集まり、支援する人の輪ができているそうです。「有隣」という言葉の語源なのでしょう。横浜市に「有隣堂書店」という書店もあります。
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なでしこジャパンの横断幕

2011-07-24 05:29:54 | 文化
7月18日の女子サッカーワールドカップの決勝戦において、なでしこジャパンは、今まで一回も勝つことができなかった王者アメリカを相手に、不屈の粘りを見せて本戦、延長戦を戦い、遂にPK戦にまでもつれこんだ末に堂々とこれを破り、世界一に輝きました。
この数日間は日本中で、この快挙の感動と興奮に酔いしれたのではないでしょうか。

なでしこジャパンは、FIFAの許可を得て、各試合終了後にピッチで横断幕を掲げ、日本からの感謝のメッセージを世界に発信しました。そこには英文でこう書いてありました。 (写真 下 NETより)

To Our Friends Around the World
Thank you for Your Support

これは東日本大震災で被災した日本への世界各国からの支援に対して、日本人の感謝の気持ちをとても効果的に世界に伝えることができたと思います。多くの日本人と日本のメディアもこの行為に共感と感謝の意思を表明していました。

 さて、決勝戦の観客席には下記のように書かれたユーモラスなプラカードもありました。

     Marry me
       I am sold

  結婚して、私売り出し中なの




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君子もとより窮す

2011-07-21 05:25:51 | 文学
「論語」巻第八 衛霊公・第十五に次の文があります。
陳に在(いま)して絶つ。従者病みて能く興(た)つこと莫(な)し。子路慍(いか)って見(まみ)えて曰く、君子も亦窮すること有るか。子の曰(のたまわ)く、君子固(もと)より窮す。小人窮すれば斯(ここ)に濫(みだ)る。

孔子が弟子と共に旅をした時のことです。陳の国で食糧がなくなり、お供の人々は疲れはてて起き上がることもできませんでした。子路が腹を立てて孔子にお目みえし、「修養をつんだ君子でも困窮することがあるのですか」と言いました。孔子は言われました。「君子ももちろん困窮する。だが小人は困窮するとでたらめになります。」

翻って東日本大震災に遭った我が日本人には、でたらめをする人がほとんどおりませんでした。わが東北の同胞が孔子の言う「小人」ではないことに、敬意を懐きます。一方世間には、一見君子のようですが、実は小人であるという人もいます。
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祝 魁皇関1047勝達成

2011-07-18 07:11:36 | 文化
まず、なでしこジャパンの世界一をお祝い申し上げます。

大関魁皇関(38歳)が7月14日に千代の富士の持つ史上最多勝星1045勝を抜き、7月16日には1047勝を達成しました。入幕以来、23年間の集大成の快挙でした。今場所も初日から3日間足踏みした後、千代の富士の記録に並んだ時のインタービューで魁皇は語っていました。「自分はいつも、何をやっても思い通りに行かないのが自分の人生。自分らしいと言えば自分らしい。」また千代の富士と比較をする質問に対しては、「現九重親方(元千代の富士)は余力があって引退した。自分は必死こいてやっと並んだ。比べるのも申し訳ない。」こうした謙虚な言葉に感動しました。この偉大な数字は、幾度もの怪我に苦しみ、満身創痍になっても屈することなく、ついに勝ち取った努力の賜ではないでしょうか。多くの人に努力の尊さと勇気を与えてくれる快挙でした。
およそ勝負において1000勝を達成することは偉業と言えます。力量が伯仲する者同士が全力で戦う勝負ですから1勝するだけでも大変なことなのに、それを1000回積み重ねることがいかに難しいかは想像に難くありません。
相撲界で1000勝を達成したのは、相撲の長い歴史において、千代の富士と魁皇だけです。

囲碁界においては今年、結城聡(あきら)天元(38歳)が1000勝を達成しています。囲碁界では14人目です。
将棋界では羽生善治永世名人(37歳)が異例の速さで1000勝を達成しました。将棋界では8人目です。1000勝はその道を究めつつある達人の証ではないかと思います。
野球の安打の数と勝ち星は、やや意味が異なりますが、野球界では今年6月に内川聖一選手(28歳)が1000本安打を達成しました。プロ球界では265人目でした。

7月19日に魁皇関が引退を表明しました。「良い引き際、本当にお疲れ様。」と申し上げます。
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起上がり小法師

2011-07-15 05:32:29 | 文化
会津の民芸品に起上がり小法師という物があります。(下 写真)
震災の後に、会津の復興を支援する「あいづ宅急便」に応募しましたら、その第一便として、上等なさくらんぼう(佐藤錦)、味噌、米、菜種油、寒干し大根、打ち豆などの沢山の名産と共に、起上がり小法師も到来しました。
七転び八起きは、困難にあった時にもそれを撥ねのけて立ち上がろうというメッセージをこめた日本古来の民芸品です。

 会津びとの願ひ籠れる人形は七転び八起きの起上がり小法師 
 一寸の起上がり小法師に描かれし小さき目見(まみ)のきりりと見ゆる   家族作






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信無くんば立たず

2011-07-12 05:17:16 | 文学
「論語」巻第六 顔淵第十二に次の文があります。
子貢、政を問う。子曰(のたまわ)く、食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ。子貢曰く、必ずやむを得ずして去らば、斯(こ)の三者に於て何(いず)れをか先にせん。曰(のたまわ)く、兵を去らん。曰く、必らずやむを得ずして去らば、斯(こ)の二者に於て何(いず)れをか先にせん。曰(のたまわ)く、食を去らん。古(いにし)えより皆死あり、民は信なくんば立たず。

孔子は政治において軍備と食料確保と信が大切であると言いました。この三つの中でやむをえずどれかを捨てるとすれば、軍備である。残る二つの内、やむをえず、先ずどれかを捨てるとすれば食料である。何となれば昔から誰にも死はある。人民に対しては信が無ければ安定しないと言いました。政治において軍備と食よりも信が大切であると言ったのです。

国民に対する信、国家、社会、地域、職務、友人、知人、家族に対する信は人間の基本です。
信頼を築くのには一朝一夕でない長い時間と不断の努力が必要な反面、僅か一度でも失敗すれば直ちに失ってしまう危うい面があります。しかも、一度信頼を失うと回復が極めて困難であるという厄介なものです。但し、もし良好な信頼関係を築くことができたら、それは人生における貴重な宝となります。
昨今、信のない言動が多々見受けられ目を覆うばかりです。
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法学教育の意義とエリートの役割変化

2011-07-09 06:13:15 | 文化
法学者の河合幹雄氏が発表したエッセイの中に気になる文がありました。私には荷が重い課題ですが、概要を紹介させていただきます。

(1)法学部の学生が学ぶべきこと
法学教育の目的の第一は法曹界の元になる人材を供給すること。第二に、国民を啓蒙できるような人材を育成すること、これは言わばエリートの養成にほかなりません。社会人として生活していく上で、あるいは市民として政治に参加し、裁判員制度においてその役割を担えるレベルの知識を身につけることも含まれます。ところが、現実を見ると日本きっての有名大学に入学した法学部生は大学でまず、何を学ぶでしょうか。いきなり、新入生歓迎コンパで、未成年者飲酒の法律違反を犯し、酔いつぶれて醜態をさらします。そのような違法行為も「みんなでやれば大丈夫」ということを習うことで始まります。

(2)日本社会の二重構造
こうした不思議な状況は日本社会の二重構造と呼ばれる現象から説明できます。
つい数十年前までは、非西洋諸国の中で唯一我が国は産業立国に成功しながら、しかも伝統文化も残している不思議な国家でした。表面的には欧米から受け継いだ法制度、憲法の下で民主主義的な装いを纏いながらも、意思決定や人事のメカニズムにおいて日本的な方法が温存されてきました。
法律は遵守しなければならないが、必ずしも守らなくても良いとは、いったいどういうことなのでしょう。

(3)知識人が法を理解していない
日本では、エリートでもあるリーダー格の人々が、それぞれの分野を治める一方、ジェネラリストとして全体のことに対して関心を示すことなく、発言もしない傾向があります。哲学者、文学者および自然科学者と、政治、経済、法律といった社会科学系の専門家にわけて考えてみます。いずれの分野の人も高校までは国英数理社の五つの基礎科目を学んだ後、大学の教養課程を経て専門教育課程に進みます。非社会科学系の専門家たちは、大学の教養課程でわずかに学びますが、中学高校で学んだ公民の知識がベースです。なんたることでしょうか。しかも実践においては、学級会、部活動など全てが日本的運用であり、大学の教授会までが、典型的に日本的意思決定機関であるとの指摘があります。知識人と思われている人々が集まった会議でさえ日本的意思決定を行っているのです。国民の啓蒙が問題なのではなく、まず知識人の無知を克服することが問題であり、さらに、より根本的な問題、二重構造の解消こそが課題なのです。

(4)二重構造の成立
二重構造が成立したのは、「旧来の日本的なやり方」と法が抵触した時に、古い部分を法によって崩さなかったからです。例えば、企業から政治家への資金提供、公共事業と談合の関係など、全てを検挙すると大混乱が生じ、国益を損なうということで、断固たる処置が取られませんでした。司法もマスコミも政治のトップも二重構造を維持するために「腐敗」に目をつぶってきました。マスコミは国民に真実を伝えないという誤りを冒してきました。また法科大学院と新司法試験の導入は、二十一歳で難関の旧司法試験に合格できる者、トップレベルの人材は不要とする改革の一つです。

(5)エリート教育の不在の解消
若くして司法試験に合格するような最高の人材はこれからどこに行くのか、どの分野に配置するべきなのかは、国が決めるべき決断です。そもそも、日本には、エリート養成のしくみが欠如していると批判されてきました。これには理由がありました。エリートの仕事は、社会の二重構造を維持することであると国民に説明できなかったからです。日本におけるエリ-トが誰なのかさえ国民に伏せられてきました。官僚が日本を支えてきたと漠然と言われてきましたが、少年少女にとっての具体的な目標として示されることはありませんでした。国民にとって、知らないままに信じるというお任せ民主主義から脱却することは、エリートコースの明確化をもたらすでしょう。
河合幹雄 「法学教育の見直しとエリートの役割変化」 学士會報
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大奥筆頭御年寄 瀧山

2011-07-06 05:48:03 | 歴史
瀧山は文化二年(西暦1805年)、武家 大岡権左衛門の長女として生まれました。名は多喜でした。16歳の時に江戸城大奥に上がり、13代将軍家定公、14代家茂公、15代慶喜公と三代の将軍に仕えました。30年間の忠勤を経て46歳で御年寄になり、58歳で筆頭御年寄に昇進しました。大奥における筆頭御年寄は、将軍の正室、御台所に次ぐ地位であり、大奥一千人を統率する重役であり、臣下としては大奥の最高の地位に昇りました。NHKの大河ドラマ「篤姫」では稲森いずみが好演していました。慶応二年八月に十四代将軍家茂公が逝去した時に瀧山は、靜寛院和宮(家茂公の正室)に大奥から下がることを願い出ました。和宮は強く翻意を促しましたが瀧山の決心は固く、とうとう引き留めることができず、翌年十月になってようやく瀧山の宿下がりが実現しました。瀧山62歳、女の幸せを全て擲って将軍家のために励んだ忠烈な人生でした。その瀧山の宿下がりの行列は盛大なものであったそうです。その時乗った朱色の駕籠は今も保存されています。その後、瀧山は武蔵国川口に落ち着きましたが、大奥から退去して僅か半年後の慶応四年四月に、江戸城無血開城により大奥は終焉を迎えました。瀧山が大奥の幕引きを見守ったという話も伝わっています。(確か、大河ドラマ「篤姫」でもそのようになっていました。)瀧山は川口で、「人生でやり残した」と考えたことを実行しています。養女みね(五歳)をもらい受け、後に結婚させて瀧山家を創家しました。その子孫の瀧山宣宏氏(五代目)は川口市に今もご健在です。瀧山は、明治九年に71歳で他界しました。墓は、真言宗の名刹、錫杖寺にあります(写真下・参照)。なぜか錫杖寺の紋は徳川家と同じ葵です。
瀧山の戒名は「瀧音院殿響誉松月祐山法尼」であり、墓の裏面には次のように刻まれております。

東京府士族 東京南伊賀町住 七代目主 大岡権左衛門長女 徳川家大奥老女 俗稱
瀧山 行年七十一歳。

下の錫杖寺の写真は、さいたま市に住む知人のKさんから提供していただきました。

    




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