福島第一原発の事故の責任について大前研一氏は次のような指摘をしていました。
世界中の原子炉の設計者とオペレーターが考えても見なかった現象が、実は簡単に起り、極めて深刻な事態に至るのだ。
反省すべきは日本人ではなく、そもそも商業用原子炉を開発した米GE(ジェネラル・エレクトリック)社や米ウェスチングハウス社であり、その根底となっていた安全思想や安全設計に重大な落ち度があった、ということである。
組織や人の問題は設計段階の重大な欠陥を乗り越える力がなかった、という点で確かに問題ではあるが、それは本質ではない。そのことを突きつめていけば、東電の問題というよりは設計者の問題であり、その設計段階における重大な瑕疵を見抜けなかった世界中の規制当局の問題でもある。
原発に対する安全神話を盲信したことや規制当局や東電の油断という意見がよく聞かれる中で、私には大前氏の指摘は新鮮に感じられました。良く考えてみると、世間一般では普通、大前氏のように考えるのではないかと思います。例えば、車の欠陥に起因する事故が起きた時、その車がトヨタ製ならば、「事故の責任は、ほとんどトヨタにある」とされるのは、常識ではないでしょうか。このように「メーカーの責任は極めて重いものであること」をメーカーに勤務してきた私は身にしみて理解しています。
世界中の原子炉の設計者とオペレーターが考えても見なかった現象が、実は簡単に起り、極めて深刻な事態に至るのだ。
反省すべきは日本人ではなく、そもそも商業用原子炉を開発した米GE(ジェネラル・エレクトリック)社や米ウェスチングハウス社であり、その根底となっていた安全思想や安全設計に重大な落ち度があった、ということである。
組織や人の問題は設計段階の重大な欠陥を乗り越える力がなかった、という点で確かに問題ではあるが、それは本質ではない。そのことを突きつめていけば、東電の問題というよりは設計者の問題であり、その設計段階における重大な瑕疵を見抜けなかった世界中の規制当局の問題でもある。
原発に対する安全神話を盲信したことや規制当局や東電の油断という意見がよく聞かれる中で、私には大前氏の指摘は新鮮に感じられました。良く考えてみると、世間一般では普通、大前氏のように考えるのではないかと思います。例えば、車の欠陥に起因する事故が起きた時、その車がトヨタ製ならば、「事故の責任は、ほとんどトヨタにある」とされるのは、常識ではないでしょうか。このように「メーカーの責任は極めて重いものであること」をメーカーに勤務してきた私は身にしみて理解しています。