yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

地平天成

2013-07-30 05:50:24 | 文学
元号・「平成」の由来は、漢籍が出典である「地平天成」と「内平外成」の二つの言葉に由来します。どちらも中国、古代、夏王朝の禹の治世をいいます。

「地平天成」は『左伝・文十八』、『書経・大禹謨(ぼ)』にあります。「地平らかに天成る」と読みます。土地がよく治まり、天の運行に乱れがない。天災も地変もなく、自然が穏やか。「成」は完全で欠け目がないことですが、現代は、気候変動や大地震の発生、原発事故など、「地平天成」とはいえないこともあります。

一方の「内平外成」は『史記・五帝紀』にあり、「内平らかに外成る」と読みます。家の中がおだやかに治まり、世間も秩序が整って平和である。「内」は家内・国内、「外」は、地域社会、国外のことです。内乱も外寇もなく社会が平和なことをいいますが、現代にはそのまま当てはまらないことが多いです。
氾濫する黄河の治水を成功させてユートピアを築いたといわれた禹の知恵と夏王朝にあやかりたいものです。
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式年遷宮

2013-07-27 05:17:10 | 文化
今年は、伊勢神宮が20年に一度の遷宮、出雲大社が60年に一度の遷宮が行われる年に当たり二つの遷宮が重なります。神力が十全に発揮されるように、社殿や宝物などを一新し、神様に移っていただく重要な儀式です。天照大御神を祀る伊勢神宮は、690年、持統天皇の御代に第1回の式年遷宮が行われ、今年で1300年余になります。
伊勢神宮では明治37年7月、日露戦争のさなかに、時の芳川内務大臣と田中宮内大臣が参内し、「式年遷宮の古法改正」について上奏しました。両大臣は「遷宮の用材の確保が難しくなっています。今度の遷宮では、柱を土中に建てる古法を改め、柱下に礎石を置き、コンクリートで固めれば200年もちます。その間にヒノキが育って、大材を得るのも楽になります」と、遷宮の一種の合理化策を提案しました。しかし、明治天皇はこれを退けました。天皇が侍従に語られたところでは、天皇は「近年、建築法が進歩し、そういうことを言い出す者が必ず出てくると思っていたが、それは大変な間違いだ。神宮はわが国固有の建て方だ。これを見て建国の古いことを知り、祖先があのような質素な建物で立ち居されたこともわかる。現在のこの建て方は永世不変でなくてはいけない。建築法が進歩したからといって、レンガとかコンクリートで造るべきではない」との判断を伝えたそうです。両大臣は優れた識見を持ち、多くの功績を残した人物でしたが、こと遷宮については明治天皇の理解に及ばなかったようです。両大臣の進歩的進言をいれていれば、むろん今日の遷宮はなかったのです。さて、明治天皇は、さらに注目すべき言葉を残しています。「大材が足らないなら御扉(みとびら、正殿の扉)なども一枚板でなければならないわけでもない。継ぎ合わせて形を整えればよい。それに材はヒノキに限らない、他の木でも差し支えない。そうすれば大材が不足することはない」と語られたそうです。「遷宮の外見より精神が大切」との戒めは、噛み締めるべき認識だと伊藤和史氏は書いています。
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電力の鬼 松永安左エ門

2013-07-24 05:12:35 | 歴史
松永安左エ門は「電力の鬼」と言われ、今日の十電力体制の基を作りました。
太平洋戦争の後、電気事業が再編されることになり、政府は審議会を設け、会社の会長に引退していた松永を起用しました。従来の日本発送電(日発)を分割し、地域独占の民間会社を全国に九つ設立し、競争しあう体制を松永は主張しました。日本製鉄社長の三鬼隆はこれに反対して事実上の日発存続論を展開して鋭く対立しました。審議会は難航し、三鬼案に傾く幹事役の通産省課長が、松永に議事進行を求めると「小僧、退場を命じる」と、松永は言い放ちました。課長が「小僧とはなんですか」と反発しました。すると松永は「悔しかったら、わしより年をとってみろ。」他の委員には「君たちには電気のことはわからぬ。わしがだいたいの骨子をつくるまで黙っていたまえ」と言ったそうです。議論と対立はその後も続きましたが、結論が出ませんでした。一向に進まない電力再編に業を煮やしたGHQは1950年11月に伝家の宝刀である「ボツダム政令」を発して、松永案(九電力体制)による再編を命じました。GHQによる改革でしたが、実際の主役は松永でした。沖縄電力を含む今日の十電力体制の基がこれです。時代は変わり、現在、発電と送配電の分離する案が検討されています。

ところで昭和40年の正月、90歳の松永は次の1句をつくりました。

  初夢や若き娘に抱きつけり

大宅壮一が松永に、「ふりかえってみて90年というと長いですか短いですか」と問うと
「長いですねえ。もうこれ以上生きたって馬鹿らしいという気がせんでもない」と答えたそうです。
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千駄木57番地

2013-07-21 05:56:20 | 文学
夏目漱石の住居のあったのが千駄木57番地です。泉鏡花が「千駄木の森の夏ぞ昼も暗き」と書いたほど、周囲を樹木が取り巻き、鬱蒼としていました。当時は本郷区 駒込 千駄木(せんだぎ)でしたが、この場所は現在、文京区向丘2―20―7です。漱石は、明治36年に千駄木57番地に居を移しました。同じ時期に鴎外は千駄木21番地に住んでいました。漱石は東京帝国大学で英文学を教えるために、ここから約15分歩いて大学に通勤しました。漱石のこの家には、かつて明治23年から25年まで森鴎外が住んだことがあります。千駄木には、現在でも大学教授の住居が沢山あります。漱石は千駄木を「駒込の奧」と表現しましたが、彼は牛込に生まれたことから、「牛」が「駒」に替ったことを連想したのでしょう。有名な「我が輩は猫である」は千駄木での日常生活を描いています。漱石と鴎外は同じ時代の文士であり、正岡子規の家の句会で会ったこともありますが、親密な交際はしないながらも、文名の高い隣人を互いに評価していたということです。
 漱石は大正5年に逝去しました。葬儀の受付をしていたのは芥川龍之介でした。立派な風貌の紳士が会葬にみえたので、龍之介が名詞を見たら「森林太郎」(鴎外の本名)と書いてあったというエピソードがあります。因みに鴎外は漱石より5歳年上でした。 文豪、漱石と鴎外の共通点は色々あるでしょうが、あまり知られていない共通点が二つあるそうです。一つ目は、二人とも子供を一人ずつ亡くしているということです。鴎外は百日咳で「不律」という子を亡くしました。漱石はかわいがっていた「ひな子」という五女を亡くしました。二つ目の共通点は、二人の文豪の妻が、タイプは違いますが、揃って悪妻と言われていることです。しかし、作家の森まゆみさんは二人の夫人をとても魅力的な人だと評しています。漱石夫人は鷹揚な気前の良い人で、弟子たちから散々借金を申し込まれた時にも、たっぷり貸してあげたのに、その弟子達からひどい言われ方しているのは、何とも気の毒だと書いています。

  森まゆみ 「千駄木の漱石」學士會会報 2013―Ⅳ


        
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半夜 良寛

2013-07-18 07:07:21 | 文学
良寛(1758―1832)は江戸末期の僧侶、越後・出雲崎の人。備中玉島の円通寺で国仙和尚に学び、良寛または大愚となのりました。諸国を行脚した後、帰国して越後の国上山の五合庵に入り、47歳から13年間ここに住みました。俳諧をよくしました。

良寛の漢詩、七言絶句を紹介します。

半夜

回首五十有余年
人間是非一夢中
山房五月黄梅雨
半夜蕭蕭灑虚窓

首ヲ回ラセバ五十有余年
人間(じんかん)ノ是非ハ一夢ノ中
山房五月黄梅ノ雨
半夜蕭々トシテ虚窓ニ灑グ

「訳」

過ぎし五十余年の生涯を顧みるとき、人間社会のことは、自分ひとりのことに限らず、是も非も、善も悪も、すべて夢の中のことのようにしか感じられない。夜中にただひとりこの山の庵に座して物思いにふけっていると、五月雨がさびしく窓に降り注ぐことである。

黄梅雨は、梅の実が黄色になる頃、降る雨です。山房は五合庵です。虚窓は、誰もいない寂しい部屋のことです

この漢詩は、良寛の天衣無縫の性格のごとく、韻も平仄も無視した破格の作品です。しかし、良寛の詩には一種の諦観にも似た心境があらわされており、時勢や世代の違いを超えて何人の心にも共感を呼ぶものがあります。

吟剣詩舞振興会 「吟剣詩舞道漢詩集 続・絶句編」

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憲法における矛盾

2013-07-15 06:05:51 | 文化
日本には革命がなかったと思われがちですが、憲法学会ではあったという説が有力です。「8月革命」と言われるものだそうです。「六法全書」で日本国憲法の頁を開くと、冒頭に「昭和天皇の上諭」があります。
「朕は、日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」

主権者であった昭和天皇が帝国憲法を変更したものを裁可して、公布する、という意味です。この上諭に続いて前文があります。すなわち、

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」

上諭と前文にある言明は、相互に両立不能であると憲法学者は考えるようです。

憲法学の通説によると、日本政府がポツダム宣言を受諾した1945年8月14日に、同宣言の要求通り、主権は天皇から国民に移りました。憲法公布の時点では天皇はもう主権者では
なかったわけです。とはいえ、革命だというのは、この変動が理論的に説明できないことの単なる言い換えです。理論的に説明できない深淵の口がそこに突然開いて、憲法の時間的継続性を分断したわけです。
 
 また、革命は敗戦などという大事件がなくても起こり得ます。たとえば、衆参両院の各々、3分の2の議員の賛成がないと発議さえできないという日本国憲法の改正手続が厳格に過ぎるので思い通りの改正ができない。まずは、この手続を変えてしまおうという議論があります。しかし、ある想定の下では、この改正手続の改正は理論的に説明できないという点で革命と同じだと言う考え方があります。

長谷川恭男「憲法と時間的継続性」 「淡青」 東京大学
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江戸っ子

2013-07-12 15:57:26 | 文化
  江戸落語の「八っさん、熊さん」に代表される江戸の下町の庶民を江戸っ子というようです。漱石の小説「坊ちゃん」の主人公も江戸っ子気質の持ち主です。
「気前がいい」、「見栄っ張り」「腹に何も無い」というわけで、「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し」(口は悪いが腹にこだわりがなく気性がさっぱりしている。口先だけで意気地がない意)などとも言われます。将棋の第14世名人、木村義雄も江戸っ子の父、下町の下駄職人に育てられました。生粋の江戸っ子と言っていいでしょう。以下は木村さんと彼の父のエピソードです。

下町住人の倫理では、義理人情とか意地とか情け深さとかいうことが妙に重んじられました。そうした倫理の枠内で育った木村さんは、父から「男という者は自分の有利になることは言うべきでない」という観念をいつしか植えつけられました。また、よく「手めえの得することは言うない」という調子で子供たちを戒めたということです。後日、将棋の世界で種々の会議があった時などに、木村さんは父の教えを守り、自分が得になるような案を主張することを控えたということです。
ある時、幼い木村少年が囲碁の先生の家で「夕食を食べていけ」と言われました。食卓に座ると麦飯が出ていました。木村少年の家は当時随分貧乏でしたが、父が江戸っ子の職人気質で、飯だけはいつも真っ白でないと気に入らなかったそうです。そこで、木村少年はそれまで麦飯を一度も食べたことがなかったので、先生の家で出された麦飯を食べなかったそうです。先生は大変怒って「俺のところで飯が食べられないようでは弟子にしない」とひどく叱りつけました。木村少年が家に帰ってこのことを父に話すと、父は「子供がイヤなものを食えというのは無茶だ。そんな先生のところはやめちまえ」と怒ったので、木村少年は囲碁をやめることにしました。そういうところが父の職人気質の頑さでした。と木村さんは回顧しています。この後、木村さんは将棋の修行をして名人にまで昇りつめました。囲碁の先生のところで麦飯が出たお陰で、木村さんはその後将棋の道に向かいました。つまり将棋界の発展と大名人の誕生の蔭に麦飯があったという事です。

        木村義雄 「勝負の世界」恒文社
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WASP

2013-07-09 04:30:45 | 文化
WASPは「筋目のアメリカ人」のことです。1620年にメイフラワー号でイギリスからアメリカに渡った人々。White Anglo Saxon Protestantの頭文字を取っています。
以下は司馬遼太郎の「アメリカ素描」からの引用です。

WASPはある程度は日本の外来語の仲間に入っているだろう。筋目のアメリカ人のことである。ワスプなどという語はいやらしい選民意識だという感覚がアメリカ社会にもあるらしく、
いまでは川の本流、支流になぞらえてmainstreamといったりするそうである。
 征服者だったスペイン人をのぞくと、移民として最初にこの大陸にきて、農場や牧場をつくり、法と慣習をつくったのが、ワスプだったから、新入りの諸民族が、先住のひとびとのやり方に従わざるをえず、従わぬまでも規準にせざるをえない。
 しかし、時とともにワスプの輪郭もぼやけてくる。第三十五代大統領J・ケネディの家系はアイルランド系で、カトリックだから、初期的定義でのワスプではない。生前、ケネディの印象が、大統領という以上にミスター・アメリカだったというところに、多様な人種をかかえたアメリカ社会における一段階の成熟がみられたといっていい。連合王国(英国)ではアングロ・サクソンとのあいだに区別のあるスコットランド人は大西洋を越えた途端にワスプになった。だからスコットランド系のマッカーサー元帥はワスプである。アイルランド系の新教徒もまたアメリカにくるとワスプになった。カーター前大統領がそうであるように。ドイツ系やオランダ系、あるいはスカンジナビア系も新教徒もその仲間に入れられた。
 
 白人は、このように扱われますが、黒人や有色人種は、簡単には仲間に入れてもらえないかも知れません。それは、オーストラリアやニュージーランドにおいても同じではないかと思われます。
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渋谷

2013-07-06 05:13:12 | 歴史
東京渋谷は、駅ビル商店街、「ヒカリエ」やスクランブル交差点などで有名になっています。金王(こんのう)八幡宮という神社もあり、境内に金王桜があります。渋谷の歴史は大変古く、鎌倉時代に桓武平氏の秩父氏から分かれた相模渋谷氏の領地があったことに由来します。現在も三十六代当主の渋谷重光氏がご壮健です。
ところで、渋谷氏の先祖に渋谷金王丸(こんのうまる)がいました。17歳で源義朝に従い、「保元の乱」に出陣しました。「平治の乱」の後、出家して土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)と名告り、義朝の霊を弔いました。後に源頼朝から義経追討の命を受けて、文治元年(1185)に心ならずも義経の館に討ち入り、勇ましい最期を遂げました。頼朝は金王丸の忠節を偲び、鎌倉から桜を移植して「金王桜」と名づけました。これが今も渋谷金王八幡宮にあるそうです。傍らには松尾芭蕉の句碑もあります。
 しばらくは 花の上なる 月夜かな
金王桜は一つの枝に一重と八重の花が咲く珍しいもので、渋谷区指定の天然記念物になっています。
また、金王丸の忠義の物語は、江戸時代に歌舞伎や浄瑠璃の演目になり、日本中に広まりました。
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インド哲学と時間

2013-07-03 05:54:38 | 文化
高校の英語の恩師(真言宗の名刹の住職でもあった)から、インド哲学は「壮大な大系」と教わりました。今回は、丸井浩教授が説かれたインド哲学における時間について述べます。教授は以下のように書いています。

2年間、インドに留学したが、日々の生活の中でも、旅先でも、ゆったりとした時間の流れをつねに感じた。インドは日本と比べても国土は10倍、歴史も圧倒的に古い。しかしはたしてそれだけの理由なのか。ともあれ仏教を含めてインドの哲学ないし宗教(両者は分かちがたい)では時間をどう捉えているのか、少し考えてみたい。まず特徴的なのは、ユダヤ・キリスト教のように、神が創造した世界が終末に向かって歴史を刻むといった一直線的な時間ではなく、宇宙は生起・存続・消滅を永遠に繰り返し、生類はすべて無限の過去から生まれ変わりながら輪廻している、という円還的、回帰的な時間概念だろう(輪廻転生)。しかも人間の1年(1人年)を神の1日(1神日)とする長大な時間スケールがベースにある。次第に衰退してゆく4つの時代(ユガ)が1大ユガで、1大ユガは12,000神年(4,320,000人年)。1大ユガが1,000集まって1カルパ(43兆2000億人年)となる。宇宙年齢の約3000倍である。なんとこの1カルパが創造主(梵天)の一昼日に相当する。宇宙の消滅は梵天の1昼日の終わりに起こる。一方、諸行無常を説く仏教では、ものごとを固定的、実体的にではなく、たえず変化し移ろいゆく事象として捉える傾向が支配的であり、生者必滅の真実を明察し、執着、とらわれの見方を離れて、覚り、涅槃の境地を目指した。ただし大乗仏教になるとブッダ観は大きく変容する。法華経には永遠なるブッダともいうべき考え方が現れるし、浄土経典に登場する阿弥陀仏には、無量の光と無量の寿命を備えている。時間を超えた絶対神の性格を帯びたブッダ観が生まれた。古来よりインドの哲人は・聖者たちは、この無始以来の生死のサイクルは、その根源をなす無知、あるいは飽くなき欲望を捨てることにより解脱しなければならないと説くが、この教えが現代社会に生きる私たちの心に響くメッセージにはなりにくいだろう。「天地ハ萬物ノ逆旅ニシテ、光陰ハ百代ノ過客ナリ」(李白)と達観することが、かえって「今、ここに生きる」かけがえのない現実を思い起こさせる。この現状を愛おしむ心でいたい。インド思想ないし仏教の伝統に培われた時間概念もまた、現代の生のパラダイム転換につながる一陣の風となるかもしれない。

丸井浩 「インド哲学と時間」淡青 東京大学
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