yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

新墾(にひはり)の丘

2008-09-29 11:09:56 | 文学

私が愛唱する歌の一つです。<o:p></o:p>

   <o:p></o:p>

新墾(にひはり)の此の丘の上<o:p></o:p>

移り来し二歳(ふたとせ)の春<o:p></o:p>

緑なす真理(まこと)欣求()めつつ<o:p></o:p>

萬巻書(よろづふみ)索(さぐ)るも空し<o:p></o:p>

永久(とこしへ)の昏迷(まよひ)抱きて<o:p></o:p>

向陵(をか)を去る日の近きかな<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

   追憶(おもひで<o:p></o:p>

一、旗薄(はたすすき)野邊(のべ)に靡(なび)きて <o:p></o:p>

片割れの夕月落ちぬ<o:p></o:p>

燦(きら)めきの星は語らひ微香る(ほのかほる)大地囁(つちささや)けど<o:p></o:p>

玉の緒は繋(つな)ぎもあへず <o:p></o:p>

ひたぶるの男()の子の苦悩(なやみ<o:p></o:p>

三(みつ)の城燈()も消えゆけば <o:p></o:p>

逝きし友そぞろ偲ばる<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

二、ひた寄する沈淪(ほろび)の中を<o:p></o:p>

甦生(たちかへ)る制覇の戦<o:p></o:p>

祝(ほぎ)歌ふ若人の頬()に<o:p></o:p>

一條(ひとすぢ)の涙滴(しづく)す<o:p></o:p>

望月の盈()つれば虧()くる<o:p></o:p>

嘆きにも橄欖オリブ)の梢<o:p></o:p>

仰ぎつつ光栄(はえ)ある城を<o:p></o:p>

動揺(ゆるぎ)なく守()り行かんかな<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

三、理智咲くけるラインのほとり<o:p></o:p>

藝術(たくみ)生()すローマの丘に<o:p></o:p>

東帝国(ひんがし)の精神(こころ)の文化(ひかり<o:p></o:p>

見よ今し流れ出づるを<o:p></o:p>

柏蔭に憩ひし男の子<o:p></o:p>

立て歩め光の中を<o:p></o:p>

国民(くにたみ)の重き責任(せめ)負ひ<o:p></o:p>

五大州(あめつち)に雄叫びせんか<o:p></o:p>

四、霞立つ紫の丘<o:p></o:p>

公孫樹(いてふ)道黄葉(もみ)づる下を<o:p></o:p>

彷徨(さまよ)ひし嘆きの胸に<o:p></o:p>

久遠(とことは)の思索(おもひ)はひそむ<o:p></o:p>

失はじ我等か矜持(ほこり<o:p></o:p>

護り来し傳統(つたへ)の法火(ともし<o:p></o:p>

浄らかに燃え盛る時<o:p></o:p>

継ぎゆかな来ん若人に<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

   <o:p></o:p>

思出は盡(つき)ず湧きくれ<o:p></o:p>

逼り来ぬ別離(わかれ)の時は<o:p></o:p>

玉蜻(かぎろひ)の夕さり来れば<o:p></o:p>

暮れ残る時計台(うてな)めぐりて<o:p></o:p>

集ひ寄る和魂(にぎたま)の群<o:p></o:p>

壽(ことほぎ)の酒掬()まんかな<o:p></o:p>

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昭和10年に一高が本郷から駒場、新墾(にいはり)の丘に移転しましたが、その2年後、昭和12年に作られた紀年祭寮歌で、永く歌い継がれて来ました。<o:p></o:p>

戦争の靴音が次第に高くなる時代にあたった青年の苦悩と感慨が歌われています。<o:p></o:p>

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沸いた 抜いた

2008-09-24 06:57:50 | 文化

「沸いた」「抜いた」とは何のことかお分かりですか。江戸風の洒落(しゃれ)です。風呂屋の入り口に置いてある板で表に「わ」の字、裏に「ぬ」の字が書いてあります。<o:p></o:p>

表をみると「わ板」すなわち「沸いた」ですから営業中。<o:p></o:p>

裏を見ると「ぬ板」すなわち「抜いた」ですから準備中を意味します。<o:p></o:p>

このような粋な表示が今もあるのは千住の湯屋(風呂屋)だそうです。<o:p></o:p>

千住は、現在、東京都の荒川区にありますが、江戸時代には日光街道の起点であり、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅が始まった所です。<o:p></o:p>

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  行く春や鳥啼()き魚(うを)の目は泪(なみだ<o:p></o:p>

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また、見送りに来た弟子達を鮎の子に見立てて次の句も作りました。<o:p></o:p>

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鮎の子の白魚送る別れかな<o:p></o:p>

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「奥の細道」の「矢立の句」としては、「行く春や」の句のほうが格調高いと芭蕉は考えたのでしょう。「奥の細道」にはこちらが採られています。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

さて、食事処だと「商い中」とか「準備中」という表示が一般的ですが、「沸いた」「抜いた」は湯屋にだけ使用できる面白い表示です。落語で言えば、よく考えて「はた」と分かる「考え落ち」のような趣があります。<o:p></o:p>

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軍神

2008-09-18 06:16:06 | 歴史

軍神といえば、まず思い浮かぶのは、ギリシャ・ローマ神話のマルスです。March(三月)の語源でもあります。ところで、近代日本の「軍神」となると、ニュアンスが異なってきます。日本の軍神第一号は広瀬武雄(1868-1904)と言われています。広瀬武雄中佐は大日本帝国海軍軍人で、日露戦争における旅順港閉塞作戦の任務遂行の際に命を落としました。<o:p></o:p>

軍神は軍の命令に忠実に従って戦死した人を讃えると同時に、国民を戦争に駆り立てる美名として利用されたとも思われ、国策を押しつける虚名のように感じられます。東郷平八郎や乃木希典が神格化して祀られている事とも類似しています。<o:p></o:p>

また、九軍神と呼ばれた軍神もありました。1941年12月8日の日米開戦の時、真珠湾攻撃において、5隻の小型特殊潜航艇に合計10人が乗りこんで真珠湾の奥深くに潜入して魚雷攻撃を行いましたが、9人は生還できませんでした。この人達は九軍神として讃えられました。しかし、この時、1隻の潜航艇は座礁してしまい、自爆を試みましたが果たせず、海に飛び込みましたが意識を失い、米兵に捕えられ、心ならずも日本人捕虜第一号となった人がいました。その方は1940年に海軍兵学校を卒業した酒巻和男さんと言い、言わば軍神になれなかった人です。当時の日本は「生きて虜囚の辱めを受けず、罪禍の汚名を残すことなかれ」という戦陣訓が謳歌されている戦時体制の時代でしたから、軍神は英雄でしたが捕虜の家族は「非国民」と非難されました。<o:p></o:p>

捕虜となった酒巻さんも自決をしようとしましたが思い直し、生きる道を選びました。彼は同じように捕虜になった日本兵が自決しようとするのを止め、多くの日本兵の命を救いました。彼の捕虜としての態度は立派なものであり、アメリカの軍人にも感銘を与えたとのことです。酒巻さんは収容所生活を経て帰国した後は企業人として立派に勤めを果し、1999年に他界しました。彼は著書「捕虜第一号」の中で「潔く死を選ぶのが正道だとも考えた」「捕虜になったからといって何の理由をもって非国民と呼ばれ死ななければならないと言い得るであろうか」と、その苦悩を記しています。<o:p></o:p>

特攻隊員に選ばれていましたが終戦になり、生き残った方が知人におります。また、飛行機の事故などで、突撃ができずに死に遅れた兵士もいます。言わば軍神になれなかった人ですが、そのような人々は戦陣に散った人の痛みを誰よりもよく理解しており、生き残った命を大切にして、見事な人生を送られているように思われます。<o:p></o:p>

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電気学会 創立120周年

2008-09-13 07:57:18 | 文化

私が所属しております社団法人電気学会は、今年120周年を迎えました。<o:p></o:p>

この学会は工学系の学会としては、我が国で歴史が最も古いのではないかと思います。<o:p></o:p>

電気学会 1888年創立<o:p></o:p>

機械学会 1897年創立<o:p></o:p>

土木学会 1914年創立<o:p></o:p>

日本化学会1878年創立<o:p></o:p>

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イギリスの電気学会 IEE(The Institution of Electrical Engineering)<o:p></o:p>

の創立が1871年<o:p></o:p>

アメリカの電気学会 AIEE(American Institute of Electrical Engineers)の創立が1884年であることと比較しても、我が国が世界の主要な先進国に伍して早くからその重要性に目覚め、この会を中心にして電気の学術の発展に尽力したことが伺われます。それが今日の電気系学術の隆盛の基礎となったことは疑いのないことと思います。<o:p></o:p>

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志田林三郎博士ら先賢の努力により、明治21年6月25日京橋の学協会会館で電気学会の創立の通常会が開催される運びとなりました。<o:p></o:p>

そこで初代会長の子爵 榎本武揚は、電気の重要性を多くの事例を挙げて述べたあと、次のように結ぶ演説をしました。<o:p></o:p>

「以上開陳したる所に依りて之を考えれば、本会会務の範囲は甚だ広大にして、会員諸君が或は学理の蘊奥に叩き、或は実験の成績に照し、詮索考究すべき事項は決して少々にあらず。因って余は会員諸君の熱心協力に依りて他日、本会の目的を達し、此電気学会なるものは、本邦世運の開達、人生の幸福を増進するに於いて必要欠くべからざるの一大利器となり、果して会長演述の旨意に背かざらんことを熱望に堪えざるなり」<o:p></o:p>

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 榎本武揚は、果敢に函館戦争を戦い、幕臣の意地を見せましたが、多くの同志を道連れにして敗れてしまい、結果として不幸な結末となりました。<o:p></o:p>

しかし、幕臣としてオランダに留学したこともあり、その地で懸命に欧州の優れた学術を学びましたのでその学識は深く、また当時、一級の外国通でもあったので、許された後に明治新政府において大いに役立つことになりました。(海軍卿、逓相、外相などを歴任)<o:p></o:p>

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終戦の詔勅にまつわる秘話

2008-09-08 07:59:50 | 歴史

昭和20年8月15日に昭和天皇の玉音放送があり、これを以て第2次世界大戦は終結しました。この時、天皇が話された終戦の詔勅にまつわる秘話があります。以下は安岡正篤(まさひろ)の逸話を書いた本からの引用です。<o:p></o:p>

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8月13日夜、内閣書記官が安岡の金鶏学院に自動車で乗りつけて、数枚の原稿を持参しました。「終戦の詔勅」案でした。安岡は原稿に朱を入れて推敲をしました。翌14日午前中の御前会議で終戦の御聖断が下され、その午後、安岡が総理大臣、鈴木貫太郎と話をしていた所、書記官長が詔書の作成で困っているから直ぐに来て欲しいと頼まれました。安岡は詔書に「万世ノタメニ太平ヲ開カムト欲ス」という一節を入れました。これは宋の儒学者、張横渠(ちょうおきょ)の「天地のために心を立つ」から始まる有名な文章の一部で、「天は何十億年という歳月をかけて天地、植物、動物をつくり、最後に人間を作った。その人間は五十万年もかけて精神や理想、文化、文明を発達させてきた。つまり、天地が発して人間の心になったのだ。その天地の心を自らの心として、万世のために太平を実現しよう」という意味です。まさに、「神に対する深い自覚」と通ずるものがあります。<o:p></o:p>

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また、その前には「義命ノ存スル所」という言葉を入れました。義命とは大義名分よりもはるかに重いもので道徳の至上命令に当たります。内心に深く耳を傾ければ、もはや戦争はやめるべきだ、という至上命令が聞こえてくる、というのです。ここにも天や神の声を聴くという姿勢が感じられます。<o:p></o:p>

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 後に、安岡の「万世ノタメニ太平ヲ開カムと欲ス」と「義命ノ存スル所」という添削の意図を聞かれた昭和天皇は深く首肯されたということです。<o:p></o:p>

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しかし、閣議では、「義命ノ存スル所」は分かりにくいという意見が出て「時運ノ赴ク所」に変えられてしまいました。これでは戦況が思わしくないから止める、という「成り行き任せ」の姿勢になってしまいます。後でこれを知った安岡は「国家のことは成り行き任せではいけない」と怒りました。近衛文麿に<o:p></o:p>

代表されるような「神に対する深い自覚」もなく「成り行き任せ」の指導者たちがもたらした結末がこの終戦でありました。       (以上は引用)<o:p></o:p>

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この逸話一つによっても、安岡正篤の深い学識と品格の高い見識を知ることができます。さらに、それを御自身のこととして正確に認識された昭和天皇は誠に偉大な方であったと思います。<o:p></o:p>

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歴史上の人物の名前の読み方

2008-09-05 06:40:57 | 歴史

幕末に旗本の教養が落ちてしまい、徳川家の重臣の井伊掃部頭、酒井雅楽頭をきちんと読める者が少なくなったそうです。有名な井伊直弼は掃部頭であり、かもんのかみと読みます。また、酒井雅楽頭はうたのかみと読みます。それぞれ、御所で設営や清掃を職掌する掃部寮(かもんりょう)の長官、雅楽を担当する雅楽寮の長官の意味ですが、この役職は徳川譜代の重臣、井伊家、酒井家が世襲しました。<o:p></o:p>

河井継之助、永井尚志、伊東甲子太郎はかわいつぎのすけ、ながいなおゆき、<o:p></o:p>

いとうかしたろうが正しい読み方のようです。<o:p></o:p>

かわいはつぐのすけ、永井はなおむね、伊東はきねたろうと、よく間違って<o:p></o:p>

読まれています。(日本歴史学会編 明治維新人名辞典など)<o:p></o:p>

また、河井継之助の出身地の長岡では、専らつぐのすけと呼ばれています。<o:p></o:p>

永井玄蕃守は、幕末に幕府若年寄として京都守護職のもとで奮闘し、後に函館で子息と共に奮戦しましたが戦死しました。<o:p></o:p>

伊東甲子太郎は一時、新選組に属していましたが、御陵衛士として独立したあと、新選組に粛清されました。<o:p></o:p>

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中村彰彦著『東に名臣あり』文藝春秋社<o:p></o:p>

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