yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

鵯(ひよどり)の子育て

2009-08-29 08:34:06 | 近況
 我が家の庭にはよく鵯(ひよどり)が訪れます。正月に実を付ける千両や万両の赤い実
を一つ残さず啄むのには閉口しましたが、その来訪には心が癒されます。
1.巣造り
去る7月22日の午後、その鵯の動きが慌しくなりました。庭の隠れ蓑の木の中の平坦になっている場所にビニールの切れ端を敷いたり、枯れ枝をせっせと集めて来ては、笊のような形のこんもりした見事な巣を造りました。暗くなるまでひたすら巣造りの作業に没頭してやっと造ったものです。この巣は隠れ蓑の大きい葉に上手に隠される位置に造られており、上からも横からも簡単には見えないようになっていました。上手に天敵から隠すようにしてあるのです。

2.産卵
 卵を何時産んだかは定かではありませんでしたが、10日位の間、鵯は巣に入ってじっとうずくまって動きませんでしたので、卵を温めているようでした。しかし時折、巣にいないこともありましたので食事のために何処かに行っていたのでしょうが、すぐに戻って来ました。豪雨や暑熱が襲ってきたこともありましたがじっとしていました。右を向いたり、左を向いたりいろいろと姿勢を変えることもありましたが動きは少ないようです。偶々、家の中にいる私のほうを見ている時に手を振ったり、呼びかけて気を引いてみたのですがプイと横を向いてしまうこともありました。大家さん(私)にしてみればちょっと小憎らしいものでした。8月に入ると虫などの餌を取りに行くことが多くなりましたのできっと雛が誕生したものと思われました。
3.子育て
 気が付くとこの母鳥のほかに、これより大きい父鳥が次々にかまきりや昆虫などの餌を運んできて雛に与えていました。(写真 下)4羽の雛は黄色の口をおもいきり開けて餌をねだっていました。朝などには皆が口を天に向かって開いて親が餌を運んで来るのを待っています。口の中は最初、黄色に見えましたが、次第に嘴はだいだい色に変わってきました。

4.巣立ち
 8月20日、雛の動きが激しくなりました。ふと気づくと3羽が巣立って別の木の枝に留まっていました。近くに母鳥がいて巣立った鳥を見守っています。子鳥は枝のあちこちに飛び
移って飛び立つ練習をしていました。しかし最後の一羽の末っ子鳥は巣の中に残っていて飛び立つことができません。母鳥、父鳥が代る代る見に来ます。そして日が落ちる頃、末っ子鳥も巣立って行きました。
 親が巣造りを始めてからたった1か月という短い期間の後に4羽の雛は巣立って行きました。小鳥の成長の早さと鳥のたくましい生存の営みは驚きの連続でした。雛が巣立ってしまい、庭には空の巣だけが残りました。家族が減ったような寂しい気分ですが、いつか親鳥も子鳥もこの庭に戻ってくるのを心待ちにしています。

    


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御母衣(みぼろ)ダムと荘川桜(しょうかわざくら)

2009-08-23 09:41:31 | 歴史
御母衣(みぼろ)ダムは20世紀の中頃、岐阜県白川村の庄川の最上流部に電源開発(株)により建設されました。ダムは石と岩石と土を積みあげて堰を作るロックフィルという形式で、高さは130mにもなり、日本では最大規模のものでした。工事は1957年から1961年まで6年の歳月を要する大工事でした。しかも電源開発(株)では初めての水力発電専用のダムでした。このダムの建設により荘川村は水没することになるため、住民を中心にしてダムの建設を阻止しようと激しい反対運動が起こりました。
ところで、この村の光輪寺と照蓮寺にはそれぞれ立派な桜(エドヒガン)の巨木がありました。どちらも樹齢約400年の巨樹でした。電源開発の初代総裁であった高崎達之助はこの桜が水没することを忍びず、移植することを決意しました。そこで桜研究家として知られた笹部新太郎の協力を仰いで今までに例のない巨木の移植にとりかかりました。光輪寺の桜は35トン、照蓮寺の桜は38トンもあり、これを200m上の山腹にまで持ち揚げ、さらに、やがて湖岸になる高台まで水平に1500mも移動させると言う、途方もない作業でした。また運搬の都合上、枝の先や根の先はほとんど切られましたので、移植はしたものの、はたして桜が冬を越えて無事に根付き、花を咲かせるかどうか大変不安がありました。しかし翌年の春、桜は小さな芽を吹き、わずかばかりですが花を咲かせました。桜は生きていましたが、まだ安心はできません。桜が完全に蘇生するかどうかは、夏の間にどれだけ葉を広げ、枝を増やせるかにかかっていました。秋が過ぎ、長い冬も過ぎて、ようやく二年目の遅い春がめぐって来ました。下界の桜前線がとっくに北へ行ってしまった頃、御母衣ダムの湖畔に二本の桜が満開の花をつけました。この桜の無事を確かめようと、遠隔地に散っていた旧村人や工事関係者が集まって来ました。その人々を優しく包みこむように桜は大きく枝を広げ、誇らしげに咲いていました。その花を仰いで、集まった人たちは誰もが涙を流して喜びを分かちあったということです。天然記念物、荘川桜の移植の成功は世界植物史上の奇跡と言われています。桜の移植の成功と電源開発(株)の誠意ある説得が功を奏して、ダム建設反対者の態度もようやく軟化し、ダムの建設は軌道に乗ったということです。この荘川桜は今も毎年見事な花を咲かせています。
 なお、この荘川桜の話は映画化されたり、NHKの「プロジェクトX」に採りあげられたりしました。
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鉄道唱歌

2009-08-20 06:21:53 | 文化
   汽笛一声新橋を
   はや我が汽車は離れたり
   愛宕の山に入りのこる
   月を旅路の友として

   窓より近く品川の
   台場も見えて波白く
   海のあなたにうすがすむ
   山は上総(かずさ)か房州(ぼうしゅう)か

誰もが知っている鉄道唱歌です。上記の歌詞は東海道本線編の一番と三番です。       
鉄道唱歌の正式名称は「地理教育鐵道唱歌」と言い、明治33年に愛媛県宇和島市出身の国文学者 大和田建樹(おおわだたけき)が作詞したものです。

  第一集 東海道編
  第二集 山陽・九州編
  第三集 奥州・磐城編
  第四集 北陸編
  第五集 関西・参宮・南海編

の全五集から成っています。七五調の歌詞には沿線のすばらしい風景や史跡の紹介が巧みに詠みこまれており、教育的にもよくできています。曲の多くは多梅稚(おおの・うめわか)が作曲しました。
音階は日本人に馴染み深い「ヨナ抜き長音階(ファとシの無い長音階)」であり、マーチ
風の4分の2拍子との組み合わせもよく、広く国民に親しまれて来ました。全部で334番もあり、長い間、最も番数の多い歌でした。
なお、続編として「北海道唱歌」や「伊予鉄道唱歌」なども作られているということです。
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捕雷役電、渋沢元治先生

2009-08-14 06:39:23 | 科学
東京大学の電気工学科の会議室に「捕雷役電」という木彫りの額が掲げられています(写真下)。これは、明治44年に渋沢先生が博士の学位を授与された時、孝子夫人の父で法学者の穂積陳重(ほづみのぶしげ)教授が渋沢元治(もとじ)先生に贈った額ですが、後の昭和15年、先生から電気工学科に再度、寄贈されました。これは電気を社会の役に立てる事を祈念されての言葉です。実際には、雷の電気は数100万ボルトの高電圧ですが、継続時間が僅かに数10マイクロ秒なので、仮に雷を捕まえたとしても、電力としては数100kW程度にしかならず、実用に供する程の量ではありません。しかし雷の性質を把握して、雷の位置の標定をしたり、雷からの防御方法や電気設備の耐雷設計手法を研究することは、ベンジャミン・フランクリンの凧上げ実験の時代(1752年)から今日に至るまで250年以上に亘って重要研究課題であり、幸い私もこうした研究の一端に関わることができました。
「捕雷役電」は鳳誠三郎教授によれば「雷電ヲ捕役ス」と読むのが正しいのだそうです。下の写真にありますように、雨かんむりの下に田を三つ書くのが雷
の本来の字です。これは回転する様子を表現したものでゴロゴロと鳴る音のことだそうです。また電の旧字は雨かんむりの下に申と書きますが、申の縦棒は稲妻のことを示しているのだそうです。従って雷の音と稲妻を併せて雷電と使うのが正しいようです。雷のことは「いかづち」とも言い、「震」や「霆」や「霹靂」とも書きます。「震」は大地や空気を震わせながら雷が落ちてくる様を、「霆」は主として雷のとどろきのことを言います。青天の霹靂に使う「霹靂」は稀に起きる激しい雷現象というような意味だそうです。

 渋沢先生(1876-1975)は埼玉県生まれで、有名な実業家渋沢栄一の甥にあたりますが栄一にとっては実の息子同然の存在でした。彼は大学を卒業した後、一旦は日本の企業に勤めましたが、自分の欲する道とは異なると考えていました。彼の目標は日本の産業と社会を電力により発展させ、全ての人に電気の恩恵を行き渡らせることでした。そこで退社して後にヨーロッパに渡り、ドイツのシーメンス社やスイスのチューリッヒ工科大学に留学し、スイスの水力発電を学んだりしました。次いでアメリカのGE社の訪問も果した上で帰朝しました。
その成果を生かして渋沢は日本の水力発電の開発に注力し、また逓信省の技師として活動していましたが、東京大学の鳳秀太郎(ひでたろう)教授(電気工学の泰斗であり、与謝野晶子の実兄)の薦めで東京大学の電気工学科に招聘され、大学での研究教育活動に携わりました。それと共に電気界、電力界に多大の貢献をされました。その功績を記念して渋沢賞などの制度も設けられました。また電気学会の会長を務める他、名古屋帝国大学の初代の総長にもなりました。
 渋沢先生は、常々「和ヲ以ツテ尊シト為ス」と言われた温厚な指導者でした。

コメント (2)
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青山士(あきら)

2009-08-06 06:16:14 | 歴史
   青山士(1878-1963)はパナマ運河の建設に貢献した日本の唯一人の土木技術者です。彼は静岡県の磐田市に生まれ旧制第一高等学校に進みました。一高時代に内村鑑三の講演を聴いて感銘を受け、直ちに門下生になりました。「私利私欲のためではなく後世の人類のためになる仕事をする」という信念をこの時に抱いたと言われています。その後、東京帝国大学工学部土木科に進み、内村と同じ札幌農学校二期生であった広井勇教授の指導を受けて卒業しました。卒業の後、アメリカに渡り、熱病と闘いながらパナマ運河の開削に大いに貢献しましたが、止むを得ない事情で、完成を目前にして無念の帰国をしました。帰国後は新潟の大河津分水(信濃川の分水路)の開削や荒川と隅田川を仕切る岩淵水門(東京都北区)を建設するなど相次いで大きい事業を成し遂げました。一方その頃は太平洋戦争が激化しており、海軍からパナマ運河を爆破する計画を持ちこまれ、資料提供などを迫られましたが、彼は技術者の良心に従って断固として拒絶しました。
結局パナマ運河爆破は実行されることなく日本は敗戦を迎え、青山士も昭和38年に他界しました。妻 むつは亡き夫の記念にと夫が設計工事をした荒川放水路岩淵水門の近くに、夫が終生好んだアメリカ花水木6本を植樹しました。白とピンクの可憐な花水木は夫の青春の象徴だったのです。むつはこの後も大河津分水記念碑の近くに花水木を植樹しました。パナマやアメリカは夫が青春と生命を賭けたすべてでした。
 大河津分水記念碑には日本文とエスペラント語で青山直筆の文字で下記の言葉が刻まれています。
 
  万象に天意を覚(さと)る者は幸いなり
  人類ノ為メ 国ノ為メ

さて、パナマ運河の工事の難しさは、太平洋と大西洋の水面に約80cmの高低差があり、全長80kmの運河の途中にあるガトゥン湖に、一旦、船を持ち上げるのに多くの水門を作る必要があったことによります。また熱帯にあったため、マラリアのような風土病が蔓延していたこともありました。
 ところで何故、太平洋の水面は大西洋より高いのでしょうか。それは太平洋の沿岸の地域は雨量が多いので大量の水が太平洋に流れこむこと、また大西洋のほうが海水の塩分濃度が高いため海水の比重が大きく、そのために水面が下がってしまうと言われています。ちなみに太平洋の水はベーリング海峡を北極海に向かって流れ、北大西洋に向かっているとのことです。
三宅雅子著 『熱い河』 講談社
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