yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

免許の腕前

2012-03-29 06:05:10 | 文化
安岡正篤の「百朝集」に次のような文があります。

剣術の免許を取りたりといふは人に斬らるゝ程の腕前になりたるなりと心得べし。この上一段刻苦修行せば万一の際人に斬られざる境地に達すべし。
元来免許にも至らぬ者は身の及ばざるを知るが故に人に斬らるゝが如き事をなさず。是を以て免許を得し程の者乃ち人に斬らるゝなり。

これは、水戸の名剣士、三浦平内が門下の小宮山楓軒に免許を与えた時に訓戒した言葉だそうですが、「真に道を得た人の言葉だ」と安岡は述べています。

一生稽古、一生修養に勉めることが大切であることを教えています。

安岡正篤著 「百朝集」 福村出版
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ヒッグス粒子

2012-03-26 05:54:13 | 科学
重力の元になるヒッグス粒子が実験的に発見される可能性があるという事です。ヒッグス粒子は、エディンバラ大学のピーター・ウェア・ヒッグスが1964年に提唱したヒッグス場理論の中に、ヒッグス・ボソン(Higgs boson)として予言されていました。(ボソンは素粒子の一種です。)
最近スイスのCERNは、山手線とほぼ同じサイズの加速器を使ってヒッグス粒子を出現させて、これを確認しようとする実験を進めています。その実験の重要部分であるヒッグス粒子を観測するセンサーの提供などに、日本も貢献しているそうです。
もともと、ヒッグス粒子は宇宙空間に満ちており、素粒子が通過する際には、ヒッグス粒子
の間をすり抜ける必要があり、ヒッグス粒子が通過に対する抵抗体になっているので、これが
素粒子の質量に相当する、という考え方だそうです。ヒッグス粒子が確認されると宇宙創生の様子がより詳しく把握できるということです。

 不肖、私は素人的な下記の疑問を持ちました。
1. ヒッグス粒子が確認されると、具体的にどんな新しいことが可能になるのでしょうか。どのように役立つのでしょうか
2. アインシュタインは「一般相対性理論」の中で重力を論じていますが、この理論とはどのように整合するのでしょうか。
     アインシュタインは1916年に一般相対性理論を発表し、「重力は空間のゆがみに
よって生ずる」という美しい理論を展開しました。
一般相対性理論では、重力場の方程式を提示しています。これは十元連立方程式
であり、かつ非線形偏微分方程式という数学的にも極めて難解なものです。まず、空間の数学、リーマン幾何学をよく理解することが必要です。この式の中には光速が定数として使われています。
天才、アインシュタイン自身が「生涯最高のひらめき」と言った理論です。
3.なぜ、光子(光)と重力波のみが光速で伝わるのでしょうか。

1895年にレントゲンによりX線が発見された時にも、多くの人はそれがいったい何の役に立つのかと疑問に思ったそうですが、今日では医療分野において、X線は日常的に使われるようになりました。
ヒッグス粒子は、その確認が極めて難しく、かつ宇宙創生を説明するための鍵となる粒子であることから、マスコミにより「神の粒子」と呼ばれたりしています。しかし、多くの物理学者は、「ヒッグス粒子が発見されても、宇宙の究極の起源に対しての答にならない。宗教とも関係がない。」という理由で「神の粒子」という呼び方に疑問を抱いているようです。
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沖縄と琉球という呼称

2012-03-23 06:29:12 | 文化
現在、沖縄県のある地域は沖縄と呼ばれていますが、古くは琉球でした。これらの呼び方の歴史を紹介します。沖縄の人々は自らを「ウチナーチュ」といいます。「ウチナー」は「オキナハ」、「チュ」は「人」を言い、「オキナハ(沖縄)」という呼称にかなり執着している一方で、「琉球」という名称にも深い愛着を持っているそうです。
「おきなわ」は和名で、この表記は「平家物語」の「長門本」(1300年頃成立)に出ており、俊寛らが鬼界ケ島に流されることになった時、その地を説明する文の中に、「ゑらぶ、おきなは、きかいが嶋」と出ているそうです。1609年には薩摩藩が琉球侵攻を行い、明治維新まで支配して来ました。
一方、「琉球」という呼称ですが、中国の隋書や唐代の「北史」、宋・元の地歴書などには「流求国」として書かれており、他にもいろいろな漢字が当てられました。14世紀の半ばに中国が初めて沖縄を琉球国と名づけ、沖縄側も、これを自国名として使うようになりました。
沖縄は嘗て中国や日本の侵攻を受けましたが、古来の文化を守って独立を保ってきました。

小玉正任 「學士會会報」

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部長刑事と刑事部長はどちらが偉い?

2012-03-20 06:30:36 | 文化
私達一般市民は警察組織の階級や職名には不案内なのが普通ですが、警察内では階級や職名に特に敏感であると言われています。旧軍や官僚組織にも似たところがあるかも知れません。
一般人は、部長刑事と刑事部長ではどちらが偉いかなどについては、よくわからないのではないでしょうか。実は部長刑事と刑事部長には大きな階級差があります。刑事部長がはるかに上位です。
警察組織は内閣総理大臣を頂点としたピラミッド官僚組織です。総理大臣、国家公安委員会、警察庁と続きます。その警察庁では、長官の下に刑事局などの刑事警察機構があります。刑事局、県警(本部長は警視監)、警視長、警視正、警視(警察署長を務める)、警部、警部補、巡査の順になります。
また県警には刑事部があり、ここの部長が刑事部長で階級は警視長です。事件の捜査の実務者は刑事と呼ばれる人で、普通、階級の低い「デカ」と通称される人、すなわち、巡査部長、巡査長、巡査です。なお巡査部長には「デカ長」と呼ばれる俗称があり、事件捜査の練達者ですが階級は低いようです。

私が愛読する内田康夫氏の探偵小説の主人公は浅見光彦という一介のルポライターですが、事件に首をつっこんでは、デカ長にしばしば逮捕されます。鉄格子の嵌った殺風景な取調べ室に入れられて、そこで厳しい尋問が行われます。まず、免許証を提示させられて家族関係の取り調べから始まります。
「兄の職業は?」のデカ長の問いに、光彦が「公務員」と答えると、「公務員と言うがどういう役所だ?」「警察です」と答えたあたりから、デカ長は不安になってきます。「あんたの兄さんの年齢だと警視あたりであろうか」とデカ長に聞かれ、光彦が「もっと上かな」と答えると、デカ長は怒り始め、まずいことになって来たと思い始めます。
「その上というと警視長や警視監になるが?」「もっと上」と光彦が仕草で示します。そばで、取調べの記録を取っている若い巡査が恐る恐るデカ長に、「よく国会で答弁している刑事局長殿が確か浅見さんと言われるようです」と言うに至って、とうとうデカ長は「小便、小便」と言って慌てて逃げ出します。その頃には運転免許証の住所から東京、浅見邸の当主の素性が判明して大騒ぎになっています。取調べ室の外がにわかに騒がしくなり、その警察署の署長以下の幹部が勢揃いして、浅見光彦は取調べ室から応接室に直ちに移動するということになります。刑事局長の実弟を逮捕するというのは、警察の中では、はなはだ具合が悪いことのようです。なにしろ、刑事局長は全国の刑事警察機構のトップなのですから。
例えば、水戸黄門の弟を牢獄に入れたりすると、その藩の藩主はまことに具合が悪いのに良く似ています。

さて、階級に敏感な軍隊を思い起してみますと、明治政府が欧米に留学させた秋山真之・廣瀬武夫は、若いながらも大尉で、廣瀬武夫は後に戦死して中佐になりました。
「007」のジェームズ・ボンドは海軍中佐。
 小説の主人公の人物設定において、中尉や助教授が、高からず、低からずなので適当という話もあります。
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諸橋轍次

2012-03-17 06:22:27 | 文学
諸橋轍次(もろはしてつじ、1883-1982)は「大漢和辞典」を作った漢字研究の泰斗です。
新潟県南蒲原郡森町村(現・三条市)に生まれ、東京高等師範学校を卒業。青年時代に中国に留学しましたが、その時に満足できる辞書がなかったことが、後の「大漢和辞典」の作成に繋がったということです。ちなみに「大漢和辞典」は現在でも中国で使われているそうです。
 彼は1928年に「大漢和辞典」の本格的な作成に着手し、1943年に第1巻が完成しました。ところが、1945年の東京大空襲により大修館が罹災し、組み上がっていた印刷用の版がすべて溶けてなくなってしまいました。轍次の落胆はさぞ大きかったことと思います。
 しかし気をとり直し、戦後、今まで完成していた巻と校正刷をもとに再スタートをしました。が、間もなく長年の無理が祟って、1946年には右目を失明してしまい、左目もようやく明暗がわかる程度であったということです。その後、手術を行って視力を回復させ、1948年には国學院大學文学部の教授に就任しましたが、翌年退任しました。
 1960年、ついに「大漢和辞典」全13巻が完成。この功績により、文化勲章を受章しました。
 現在では大きな図書館にはどこにも置いてあるらしいですが、私が住む千葉市ではすべての図書館分館にあるわけではありません。幸い近くの図書館分館にはありますが、1巻だけでも大変重い辞書です。
 このような正確で緻密な辞書を作成した諸橋轍次の学識は驚嘆に値しますが、それのみならず、作成過程で原版を消失するという不幸を乗りこえた、彼の不屈の精神と忍耐強さには只々敬服いたします。新潟県人の美質の結実と言うべきでしょう。郷里の先輩として誇りに思います。
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欲に翻弄されると道を誤る

2012-03-14 07:33:07 | 文学
田口佳史氏は『老子の無言』の中で次のように書いています。

『老子道教』の「檢欲 第十二」の中で老子は、人が欲にくらむ状態をこう表現しています。

五色は人の目をして盲ならしむ。五音(ごいん)は人の耳をして聾ならしむ。五味は人の口をして病ましめ、馳てい田りょう(ちていでんりょう)は人の心をして發狂(くる)はしむ。得難きの貨(たから)は人の行いをして妨げしむ。

色々な色の紙を見せられても目移りして、心を落ち着けてその色が味わえない。色々な音を聞かされても、何も聞こえないのと同じだ。色々な味の料理を食べさせられても、口に爽快
さがなくなって何の味かわからなくなってしまう。そんなふうに私たちは五感に惑わされ、真実を見失っていないか、ということです。さらに、狩をする人が獲物を見つけて、長い時間をかけて追い詰めて仕留めることで欲望を満たすと、いつしか人は心を狂わせてしまう。手に入りにくい珍しい物を欲しがると、人は行動を誤ってしまう。 (中略)

では、聖人はどうかと言うと

聖人は腹の為にして目の為にせず。故に彼を去りて此を取る。

内を守りて外に誘われず、故に彼(外誘)を去りて此(自己)を取る。それが聖人であると、老子は言っています。

         田口佳史   「老子の無言」 光文社
         武内義雄訳註 「老子」  岩波書店
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先人の知恵

2012-03-11 06:52:10 | 文化
ラムネという飲物があります。ビー玉の入った瓶に甘い炭酸飲料を入れた飲物で、あの独特の形をした瓶は、現在製造中止になっています。しかし、最近、ダーツ喫茶店などを始めとして人気が出ているらしく、瓶は古い物を洗浄して再利用しているそうです。ところで、ガラス瓶の中にどうやってビー玉を入れるのか、長年私は不思議に思っていました。調べてみますと、まず広口のガラス瓶を作り、ビー玉を入れてから、上部を成形して完成した瓶の形に仕上げるそうです。続いて、瓶の中に炭酸飲料を入れて逆さにした後、瓶を垂直に戻しますと、炭酸ガスの圧力でビー玉が上部に押し上げられて、ピッタリ上部ガラスに接触します。密閉状態は完全なので、数ヶ月間、中の飲料は変質することがないそうです。

さて、地下鉄の電車車両はどうやって地下に入れるのでしょう。昔、漫才のネタにもなっていました。この不思議を考えていると夜も眠れないとその漫才師は言っていました。私も不思議に思っていました。先日、東京の各所を紹介するテレビ番組(ブラタモリ)を見ていましたら答がわかりました。東京で最も古い地下鉄、銀座線の場合、上野の近くの地上に線路があり、銀座線と接続しているのです。この地点から車両を入れることができると分かりました。また、丸の内線の場合、本郷と後楽園の間は、地中ではなくて一部高架橋の上を電車が走行しています。この場所の地上に車両を運んできてクレーン車で持ち上げれば、丸の内線を走る地下鉄車両にすることができます。

さて、都心を走る中央線ですが、新宿から東京まで踏切というものが一つもないそうです。どうしてこういうことが実現できたのでしょう。この路線はすべて江戸城の外堀の上に建設されたので、このような離れ技が出来たのです。江戸城が壮大であったことに驚くと共に、この外堀を利用して踏切のない線路を建設した先人の知恵に感嘆しました。

ここで、ふと、かつて愛唱した寮歌の一節を思いおこしました。
  嗚呼、先人の血と汗の 歴史の栄(はえ)の傳へなる、、、 (1935年作)
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桂林荘雑詠示諸生

2012-03-08 06:44:16 | 文学
江戸時代の広瀬淡窓(1782-1856)の有名な詩です。
広瀬淡窓は豊後、日田の人です。18歳まで筑前の亀井南溟について学んだ後、独学で大成し、大学者になりました。日田にあった私塾の桂林荘には全国から俊秀が集まったといわれています。 
彼はこの塾生に、次の詩をもって激励しました。

桂林荘雑詠示諸生

休道他郷多苦辛
同袍有友自相親
柴扉暁出霜如雪
君汲川流我拾薪

桂林荘雑詠諸生に示す

道(い)ふを休(や)めよ他郷苦辛多しと
同袍友有り自から相親しむ
柴扉(さいひ)暁に出づれば霜雪の如し
君は川流を汲め我は薪を拾はん

故郷を離れて不自由な他郷の学塾で、学友と共に清貧な生活をしながら修養を積んだ若者達と、それを励ます師、江戸時代の好風景が伝わってきます。袍は着物の意。同袍は着物を貸しあうことです。後に内閣総理大臣、伯爵になった清浦奎吾は、桂林荘の最後の塾生でした。

さて、現代の若者に目を移すと、学力や意欲の低下が目立ちます。低下というより、衰弱であるという識者もいます。この詩は、青雲の志をもって学問と修養に励んだ、昔の純粋な師弟の姿を思い起こさせるのではないでしょうか。

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クレマンソーの言葉

2012-03-05 06:58:20 | 文化
先日の「朝日新聞」の天声人語に次のような文がありました。
20世紀初めのフランスの首相クレマンソーが、同時代の政治家2人を評して言ったそうだ。「ポアンカレは何でも知っているが、何も分からない。ブリアンは何も知らないが、何でも分かる。(中略)何も知らない、何も分からない、が最悪なのは言うまでもない。」

クレマンソー(1841-1929)はフランスの政治家。急進社会主義代議士として辛辣な雄弁により与党から「虎」と恐れられました。第一次世界大戦でフランスが不利になった時、首相となって戦争を勝利に導きました。
ポアンカレは文相、蔵相を歴任したそうですし、何でも知っている博覧強記の学者のような人物だったのではないでしょうか。多分、政見はクレマンソーと異なっていたのでしょう。
ブリアンは、クレマンソーと同じ急進社会党に属していましたが、クレマンソーは、実務的なブリアンを物足りないと思ったことがあったのでしょう。
何でも知っている、該博な知識を持つことは凡人には難しいことですし、知識だけがあっても、それを政治に生かすには、高い見識と将来に対するビジョンが必要な気がします。知識は一級でなくても、政治家が見識を持っていること、実行力があることは、とても重要なことだと思われます。
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漢詩 二題

2012-03-02 07:06:40 | 文学
春にちなんだ漢詩を二つ紹介します。

尋胡隠君    高啓

渡水復渡水
看花還看花
春風江上路
不覚到君家

胡隠君を尋ぬ

水を渡り 復た水を渡り
花を看(み)還た花を看る
春風江上の路
覚えず 君が家に到る

作者の高啓(1332-1370、こうけい)は明朝の詩人です。「詩は唐風あり」と、いわれ、明朝第一の評価を得ていました。
「春風の吹く川辺の路、知らず知らずにあなたの家に着きました。」こういう尋ねかたの中に隠者の雰囲気が出ています。


絶句   杜甫

杜甫(712―770)は盛唐の詩人、「詩聖」といわれました。
安禄山の乱の後、地方暮らしとなりました。

江碧鳥逾白
山青花欲然
今春看又過
何日是帰年

江碧(みどり)にして鳥逾(いよいよ)白く
山青くして花然(も)えんと欲す
今春看(みすみす)又過ぐ
何(いず)れの日か是れ帰年

蜀の川は深緑に澄み、飛ぶ水鳥はますます白く見える。
山は青々と茂り、花は燃えたつように赤く咲いている。
今年の春も、たちまち過ぎようとしている。
帰郷できるのはいつの日であろうか。

この詩の詩眼は「看」。この一字に千鈞の重みがあります。

石川忠久 「漢詩のこころ」 時事通信社
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