yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

三伏

2010-07-28 09:58:46 | 文学
  このところ猛暑に見舞われていますが、夏の酷暑の期間を三伏(さんぷく)と言います。 ここでは杜荀鶴(とじゅんかく)の「夏日 悟空上人の院に題す」という漢詩を紹介します。杜荀鶴(846~904)は晩唐の詩人であり、翰林学士でした。杜牧の末子とも言われ、琴や詩に優れた風流人でした。

夏日題悟空上人院

三伏門を閉ざして一衲(いちのう)を被(き)る
兼ねて松竹の房廊を蔭(おお)ふ無し
安禅必ずしも山水を須(もち)ひず
心頭滅却すれば火も亦た涼し

酷暑の三伏に門を閉ざして衣を被(き)ている。
涼しそうな木陰も無い。
安らかな禅の境地に入るのに、必ずしも静かな山水を必要としない。
無念無想の境地に至れば火さえも涼しく感じられるものである。

第四句は大変名高く、禅宗では「偈(げ)」として伝えられています。
そしてこの言葉は「座禅はどこでもできる」ということの例として「碧巌録」にもあります。


さて戦国時代(1582年)甲斐の恵林寺の快川禅師は、その徳を慕う織田信長の招聘を受けましたが、自分は「武田家からの厚恩がある」と言いきっぱり断りました。これに怒った織田信長は恵林寺を攻めて火をつけました。この時、禅師は法衣を着て、扇子を持って端座し、この句を口ずさみつつ従容として焼死したと言うことです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有吉道夫九段

2010-07-24 05:56:51 | 将棋
先日引退した将棋の有吉道夫九段(現在75歳)の話です。有吉さんは昭和10年(1935年)に岡山県備前市に生まれ、15歳で倉敷市に住む大山康晴(後に十五世名人)に弟子入りしました。プロ棋士の番号は66です。棋士のトップクラスのA級に在位21期、棋聖位獲得のほか、いくつもタイトル戦に出場し、2001年には史上6番目に公式戦1000勝を達成し、名棋士の仲間入りをしました。この間、関西本部に所属し、内藤國雄九段、谷川浩司元名人等と共に関西の将棋界を牽引してきました。棋風は「火の玉流」と言われ、玉を囲った後、猛烈に攻める攻め将棋でした。
有吉さんは、孫にあたるような年齢の棋士と戦い、コロコロと負かされることがありました。それでも何故指し続けるのか、と不思議に思う人もいたそうです。「将棋において負けるということは、すべてを否定されるということ。体も精神もフラフラ、誇りも踏みにじられます。この辛さは本人にしか分からない、そして努力して耐えてきた。」と言われました。
日本将棋連盟の規程により、「今年の3月31日付けで引退」するはずでした。しかし、NHK杯戦で勝ち続けていたので、この棋戦で負けた日をもって引退となりました。将棋連盟は有吉さんのために、規程を変更したと思われます。最後の対局は5月23日の高橋道夫九段との一戦でした。私もこの対局をテレビで観ましたが、有吉さんは、いつものように積極的に戦って敗れました。
 昔から棋士は30代が最も強く、50歳でほぼ終わりというイメージがあり、一般のサラリーマンに比べて10歳程度早いと思われます。そういう中で75歳まで現役を勤めたというのは凄いことではないでしょうか。
 有吉さんは1000勝を達成して歴代名人と同様の実績を残しました。その有吉さん曰く、「私は天才的なところは一つも無い、平凡な人間です、それでも一生懸命努力すれば60歳までA級を維持でき、74歳まで将棋が指せる。そのことを示せたと思っているんです。だって、30歳、40歳で引退を余儀なくされるようなら、どうやってその後、家族と生活していくのでしょう。」木村義雄十四世名人は、晩年、「年配者は若者に無いものを持っているはず。
自分はおのれを生かす方法はないかと考えている。」と言いました。有吉さんは、「自分は
木村名人の十分の一の才能も無いけれど、せめて、その心持ちだけは、と負かされても、
負かされても、ね。そんな棋士人生も若い人への贈りものなんです。」
 引退まで全力を尽くした名棋士の言葉には重みがあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金星探査

2010-07-21 09:23:12 | 科学
宵の明星、明けの明星で親しまれている金星は、欧米では美の女神に因み「ビーナス」という優雅な名で呼ばれます。しかし、その素顔は毎秒100mの暴風が吹き荒れる苛烈な環境の星です。金星の大きさは地球とほぼ同じで、太陽からの距離も地球とほぼ同じなので太陽系では地球の姉妹星と呼ばれています。大きい違いは大気です。地球の大気は主に窒素と酸素ですが、金星の大気の殆どは二酸化炭素で、その量が多いため金星の地表の気圧は地球の90倍もあります。上空45~70kmには硫酸でできた分厚い雲が覆っていますので、太陽の熱を80%も跳ね返していますが、二酸化炭素が熱を閉じこめるため地表の温度は60度と高温です。
この金星の謎の解明に挑む金星探査機「あかつき」が5月21日に宇宙開発機構の種子島宇宙センターから打ち上げられました。これは3億kmを越す旅を経て今年の12月に金星に到着する予定で、金星上空から金星を観測する計画だということです。

今回のH2Aロケット打ち上げにはもう一つの大きな目的がありました。燃料無しで光の力だけで進む宇宙帆船の実証機「イカロス」を運ぶことでした。
「イカロス」の帆は開いた時、一辺の長さが14mもある正方形だそうです。「イカロス」は「あかつき」と同じ金星に向かう軌道をたどりつつ、太陽光の圧力を帆に受けて加速推進できることを確かめるということです。成功すれば世界初の快挙となります。宇宙帆船は燃料を必要としないので宇宙の遠くまで行くのに有利な技術です。帆には太陽電池が貼りつけられており、併せてこの性能も確かめます。将来は、太陽電池の電力を使ったイオンエンジンと帆に受ける光の両方を推進力にすることを目指しているそうです。しかし残念ながら、最近「あかつき」との通信ができないというニュースも耳にしました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨潺々

2010-07-16 16:35:43 | 文学
  近頃、日本中の豪雨が報道されています。これは全地球的規模の異常気象によるものであり、海外では中国の長江流域などでも記録的な雨が降っているということです。この雨のように、しぶきを上げて激しく降る雨を「白雨」と言います。確かに降る雨は白く見えます。昔からざあざあ降る雨の様子を表現するのに「沛然(はいぜん)」という言葉もあります。

 さて、中国の唐末の五代十国のうち、南唐の後主の李煜(りいく)が賦した「浪淘沙令(ろうとうされい)」(詞牌の一つ)と言う詩があります。この詩では「雨が潺々(せんせん)と降る」と表現しています。潺々とは、しとしとと降る状態を言います。
この詩を賦した李煜は、亡国の悲哀を味わいました。作詩した時は幽閉軟禁の身でした。

   簾外雨潺潺    れんがいに雨せんせんたり
   春意闌珊      春意らんさんたり
   羅衾不耐五更寒  らきんは耐えず五更の寒きに
   夢裡不知身是客  夢裡に 身はこれ客なるを知らずして
   一餉貪歓      いっしょうの歓をむさぼる
   独自莫凭闌     ひとりみずから闌(おばしま)によるなかれ 
   無限江山      無限の江山
別時容易見時難   別れる時は容易にしてまみゆる時は難し
流水落花春帰去也  流水落花春帰りゆくなり
天上 人間     天上じんかん

結句で天上と人間世界の隔たりを詠嘆しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正岡子規

2010-07-14 06:26:18 | 文学
正岡子規は慶応3年(1867年)に松山に生まれました。幼少より学問を好み、とても学問に優れていたので、後に幼な友達の秋山真之と共に藩より東京に派遣され、東京大学予備門に進みました。秋山真之は海軍に入り日露戦争を勝利に導きましたが、正岡子規は文学をこころざしました。しかし結核や脊椎カリエスを患ったために自在の活動ができませんでした。
「子規」は俳号で、ホトトギスのことです。ホトトギスはのどが赤く、啼くと血を吐くように見えます。血を吐く病に罹った子規は自らを自嘲して子規と号し、現実を直視して受け入れ、文学を続ける気持ちを鼓舞してそれに没頭し、近代の俳句と短歌の礎を築きました。

   春や昔十五万石の城下町

伊豫松山は徳川家の親藩、久松松平家十五万石の城下町でした。古来より、四国には讃岐男に阿波女、伊豫の学者に土佐の鬼侍などと言う言葉があるように、伊豫は学問が盛んな土地柄でした。一方、坂本龍馬や岩崎弥太郎や吉田茂の父が生まれた土佐は、土佐の異骨相(いごっそう)という反骨で、いかつい侍の国でした。

   夏草やベースボールの人遠し
身体の弱い子規でしたが仲間とよく野球に興じました。子規の幼名のぼる(野ボール)を使ってベースボールを野球(野ボール)と翻訳したのは子規でした。因みに打者(バッター)、走者(ランナー)、四球(フォアボール)、直球(ストライク)、飛球(フライボール)、短遮(ショートストップ)も子規による訳語です。ショートストップは後に遊撃手と呼ばれるようになりました。

   柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
有名なこの句は奈良に遊んだ時に作ったものです。この句は、直前に夏目漱石が「愛媛新聞」に投稿した句
   鐘つけば銀杏散るなり建長寺
を模倣したのは明らかです。「柿食へば」の句は奈良旅行の旅費を工面してくれた親友の漱石への返礼だったようです。

この後、子規は東京根岸の子規庵で療養を続けましたが、母(八重)と妹(律)が心濃やかに看病しました。子規庵の句会には子規の人柄を慕っていつも多くの人が集っていました。この中に、後に俳句や短歌で一家をなした高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節らもいました。世話好きで気さくな子規はいつも大勢の門弟、友人、知人に囲まれていましたが、惜しくも明治35年に35歳の短い生涯を閉じました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お礼

2010-07-13 06:36:03 | 近況
いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。
お蔭さまで、昨日、アクセス数が85,000に到達いたしました。
平成18年の3月に書き始めてから約4年半と言うところです。
この間に85,000アクセスは、望外のハイペースではないかと思っております。
引き続き、ご愛読いただければ、有り難く存じます。なお、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

剣客 森要蔵と森寅雄

2010-07-10 07:51:48 | 歴史
森要蔵は会津藩の支藩、上総飯野藩 保科家の藩士でした。剣道を好み、江戸で腕を磨き、千葉周作の道場、玄武館の四天王と言われるまでになりました。要蔵は、当時にしては珍しく髭を生やしており、あごから胸まで垂れていました。その関羽ひげが白くなり始めた頃、戊辰戦争が起きました。この時要蔵は主君保科正益(まさあり)と別れ、照姫に従って会津入りをし、若松城籠城戦に参加し、城の郊外にある雷神山の守備隊を指揮しました。西軍の大将は土佐の板垣退助でした。雷神山は西軍にかこまれ、西軍は山麓から大砲を撃ちこみながら山上に攻め登ってきました。大砲には適わず、要蔵は隊員の大半を失いました。あとは山上から駆けおとすように斬りこみをかけるしかありません。その先頭には、常に要蔵と息子の虎尾(森寅雄とは別人)の姿がありました。当時、虎尾はまだ十五、六歳の少年で、白い陣羽織と義経袴をはいていました。父の要蔵が危なくなると、息子の虎尾がかけつけ、息子が包囲されると父がかけつけて囲みをやぶりました。この両人の動きを山麓から見上げると、まるで舞を見るようであった、と後に板垣退助は語ったそうです。板垣は銃撃を止めさせて、せめて父子を銃弾による死からまぬがれさせようとしましたが、しばらく後、松の根元に関羽ひげと白い陣羽織が相かさなって斃れたとのことです。この森父子の奮戦を、後に東大総長になった山川健次郎も見ていたとのことです。後に山川は、森父子の話をするたびに涙をこぼしたそうです。

 さて、森要蔵には「ふゆ」という娘がいましたが、彼女は野間氏と結婚しました。その息子を野間清治と言いました。清治は講談社を興しましたが、彼の一人息子が野間恒(ひさし)でした。清治の妹の子供を寅雄といいます。寅雄の名は先祖の虎尾に因んだものです。清治はこの子をひきとって養育しましたので、恒と寅雄の従兄弟は兄弟のように育ちました。剣の道には血筋があるのでしょうか。野間家の道場で腕を磨いた二人は共に剣道に優れ、天才的な強さであったとのことです。二人は昭和八年の昭和天覧試合に出場し、全国の強豪を破って共に決勝に進出しました。普段は寅雄の方が少し強かったらしいのですが、勝ちを若い恒に譲ったのか、恒が優勝を果たしました。野間恒はその後、惜しくも若くして病没しました。
 剣の天才、森寅雄は、その後アメリカに渡り、養蜂業者の下で働いていましたが、暇をみては棒を振ったりして、剣道のことは片時も忘れることがありませんでした。ある日、アメリカの友人が「アメリカにも剣道と似たものがある。」と言い、ロス・アンジェルスのフェンシング・クラブに寅雄を連れて行ってくれました。最初、フェンシングに慣れていなかった寅雄は負けましたが、工夫をこらして研究し、めきめき上達しました。そしてロス・アンジェルスの選手権大会に出場して優勝し、ついで全米大会でも優勝しました。渡米してから僅か二年足らずでした。寅雄の寅を取った「タイガー・モリ」と言う名は、アメリカのフェンシング界で知らない人がいない程になり、寅雄は昭和11年のベルリン・オリンピックの非公式のコーチに頼まれるまでになりました。太平洋戦争の敗戦の後、彼は日本の剣の道をアメリカに残そうと考え「アメリカ日本剣道連盟」を設立しました。ローマ・オリンピックの時もアメリカのフェンシング・チームの正式コーチとしてローマに渡りました。その後、剣道とフェンシングの普及のために道場をロス・アンジェルスに作り、「ノマ道場」と命名しました。
1969年、寅雄は門人に居合術を教えている最中に剣を抜いた瞬間、心臓発作により絶息しました。まさに剣を抜いたままの姿勢で斃れたということです。享年五十四歳でした。思えば、千葉周作の子息達や野間恒、森寅雄など、剣の天才には早世する人が多いようです。

      司馬遼太郎 「余話として」  文藝春秋社
      中村彰彦 「名剣士と照姫さま」 徳間書店
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サムライブルー

2010-07-06 07:13:15 | 文化
サッカー FIFAワールドカップで見られたサムライブルーは、日本のチームカラーです。開催地の南アフリカのピッチにはサムライブルーの選手が走り巡り、大いに健闘しました。サムライブルーは古来、「搗色(かちいろ)」と言われる日本独特の濃紺色です。搗は勝ちにつながることから武士は特にこの色を好み、鎌倉時代以来、鎧の威しによく使用して来ました。

搗色のブルーを着たる選手らのピッチ駆けゆく動きの激し        家内 作

日本チームの最終戦となったパラグァイ戦の最後のペナルティ・キック戦では駒野選手が
蹴ったボールが相手ゴールを割ることができず、惜しくもベスト・エイト進出の夢は破れました。駒野選手は痛恨の失敗をしてしまった失意の気持ちで日本チームの仲間のところに戻りましたが、仲間は温かくそれを迎えました。とても感動的な場面でした。駒野選手と同年代の松井選手は、立ち上がれない駒野選手の肩に手を添え、「おれが蹴っても外していたよ。」と言ったということです。それは岡田監督のもとに結束したサムライジャパンの、絆の固い姿でした。「武士は相身互い」ということを皆がよく知っているのでしょう。
 心配していた駒野選手は堂々と帰国し、笑顔で「これからも前向きにサッカーに取り組みたい」と発言し、周囲を安堵させ、勇気を与えてくれました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祝 はやぶさ帰還

2010-07-02 05:49:25 | 科学
ご承知の通り日本宇宙航空開発機構(JAXA)が打ち上げた小惑星探査機 「はやぶさ」が、七年間に亘る探査を終えて、去る6月13日地球に帰還しました。これは月の石を持ち帰ったソ連のルナ計画、月に人間を送りこんだアメリカのアポロ計画に続く快挙でした。太陽系において、火星と地球の間に軌道を持つ小惑星イトカワの石や砂などのサンプルを地球に持ち帰るという、壮大な計画でした。これらの石や砂を分析することにより、46億年前に太陽系が誕生した時の様子を解明する手がかりが得られると期待されています。小惑星イトカワは、落花生のような形をしており全長は約500mで、日本のロケット開発の父、糸川英夫博士に因んで命名されました。
はやぶさは2003年5月に鹿児島県・内之浦からM5ロケットで打ち上げられ、約20億km
を航行して小惑星イトカワに到着しました。その後、姿勢制御装置の故障や燃料漏れが相次ぎ、新たに開発したイオンエンジンが設計寿命を越えるなど、地球への帰還は何度も絶望視されました。しかし、担当スタッフは諦めず、トラブルが起こる度に粘り強く解決策を見つけました。そして当初の予定から3年遅れ、往復で約60億kmの旅程を経て地球に帰還しました。38万km離れた月以外の天体を往復し、サンプルを持ち帰ったのは世界初の快挙でした。
はやぶさは6月13日の午後11時20分にオーストラリア南部の上空で大気圏に近づきましたが、大気圏突入の約3時間前にイトカワのサンプルを入れたカプセルを分離しました。皆様もテレビでこの美しい映像をご覽になったのではないかと思います。はやぶさ本体はバラバラになりながら燃え尽きて、大きな役目を終えました。カプセルは一際強い光を放ちながら南オーストラリアの砂漠に、予想地点からわずかに1kmの誤差の所に落下しました。この場所はオーストラリアの原住民、アボリジニィの聖地でした。そこで、その地に住むアボリジニィに敬意を表して、カプセルの回収には最初にアボリジニィが当たり、その後日本の回収チームに渡されたということです。カプセルには損傷も無く、直ぐにJAXAに空輸され、現在、内部の調査が行われていますが調査には約半年かかると言うことです。
はやぶさの成功は日本の宇宙航空技術の高さを世界にアピールしました。これは私達の誇りでもあり、子供達や青少年が宇宙や科学に大きく関心を懐くきっかけを与えました。そのお陰か、各地のプラネタリウムはどこも賑わっているそうです。

はやぶさと飛び行く小さきカプセルの直線描く繊(ほそ)き光や

はやぶさの燃え尽くるとも放たれしカプセル還り来ぬこの星の上

                    上記の短歌は家族の作です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする