お蔭さまで、昨日、アクセス数が55,000に到達いたしました。
平成18年の3月に書き始めてから3年余りになりました。
この間に55,000アクセスは、望外のハイペースではないかと思っております。
引き続き、ご愛読いただければ、有り難く存じます。なお、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。
宿帳に残る著名人は会津八一、久松潜一、和辻哲郎、志賀直哉、広津和郎、堀辰雄、亀井勝一郎、小林秀雄、水原秋桜子、平山郁夫、土門拳など際限がありません。戦前、戦中、戦後を通じて日本の文化と学問を支えてきた人々が、奈良に日本古来の文化や芸術の根源を探ろうとした時、「日吉館」を宿にしてきました。そして彼等の薫陶を受けた弟子、学生達もここに泊りました。採算などにこだわらない女将が、低料金で運営しており、早寝、早起きを客にも励行させ、テレビは学究の徒には要らないという主義を貫いた質素な宿でしたが、夕食にはしばしば肉がふんだんに入ったスキヤキが振舞われました。
玄関には会津八一が「旅舎 日吉館」と揮毫した堂々たる看板がありました。また平山郁夫(元 芸大学長)の絵の原点は奈良であると言われ、ここから中国、シルクロードを経て中央アジアにまで伸びて行っています。氏は「日吉館」を最後まで見つめ続けていました。
さて、新薬師寺は「日吉館」の位置よりやや山側の、高畑という所にあり
ます。ここを亀井勝一郎は「高畑の道」という文で次のように描写していま
す。
新薬師寺を訪れた人は、途中の高畑の道に一度は必ず心ひかれるにちがいない。はじめて通った日の印象は、いまなお私の心に一幅の絵のごとく止まっている。山奥へ通ずるそのゆるやかな登り道は、両側の民家もしずかに古さび、崩れた築地に蔦葛のからみついている荒廃の様が一種の情趣を添えている。古都の余香がほのかに漂っている感じであった。
昔「日吉館」を識らなかった私は、この高畑の道のほとりにあった奈良学
芸大(現 奈良教育大学)の桜寮に只同然の料金で泊めてもらい、連日、奈
良、大和路を歩き回りました。この寮は若草山に隣接して建っていましたの
で、朝方には庭に鹿がやってくる、まことにのどかな旅舎でした。
また、黄道楕円面と白道楕円面が5度だけ傾いているので両者の周回軌道が交差するのは稀にしか起きない現象なのです。20世紀の皆既日食は1955年、1963年などにありました。次の皆既日食は26年後の2035年です。皆既日食は人類にとっても動物にとっても大変異常な現象でしたので、神話や書物の中にも多く登場します。古代インドのヒンドゥー教の神話や中国の史書にもあります。日本では天照大神が天岩戸に引き籠ったために、豊葦原の瑞穂の国が闇になったという神話があります。源平合戦の最中、1183年にも皆既日食が起きて、戦闘が混乱したことが「平家物語」などに記されています。
一方、皆既日食は科学の進歩や天体観測にも大いに役立ちました。
アインシュタインは1915年から1916年にかけて一般相対性理論を発表しましたが、この理論は重力と空間の歪みの関係を論じたもので、当時この理論を理解し正しいと信じた人は極めて稀でした。その中にあって、イギリスの天文学者アーサー・エディントン卿は1919年の皆既日食の際に見事な天体観測を行いました。通常、太陽の近くにある恒星は太陽の強い光に邪魔されて観測することができませんが、皆既日食の際にはこういう星が観測できる絶好の機会になります。太陽の近くに見える恒星を観測すると恒星からの光が太陽の重力場を通って来る時に、重力場による空間の歪みの影響で曲ってしまい、ニュートン力学から当然予想される場所ではなく、アインシュタインの理論から計算される位置に見えることをこの時、エディントン卿は確認しました。こうした事もあり、発表されたばかりの一般相対性理論が正しいことが実験的に証明されたのです。
達磨が武帝を見限って行ってしまった後、武帝の補佐官の大臣誌公が「あの人は観音さまの生まれかわり」と進言しましたので武帝は驚いて国中を探し達磨を連れ戻すように命じましたがうまく行きませんでした。武帝は達磨が亡くなったと聞いた時、自ら追悼の碑文を書いて「ああ、それ、これを見ても見ず、これに逢うて逢はず、これに遇うて遇はず、今も古もこれを怨み、これを恨む」と後悔したとのことです。この話は一番大事な話を聞き逃したり、二度と来ないチャンスを逃してしまうことを戒めています。
達磨により中国に禅宗が伝えられたので、達磨は禅宗の初祖と言われ、以後、六祖の慧能(えのう)にまでその教えが伝わりました。これが我が国の臨済宗、曹洞宗などの禅宗五家となり、日本の仏教に大きな影響を及ぼしました。
紀野一義著 『禅』 NHKブックス
八幡神社の中心は大分県宇佐市の宇佐八幡宮です。嘗て宇佐地方を支配していたのは宇佐氏ですが、辛島氏、大神氏(おおがし)が渡来してきたので、宇佐地方の「統合のシンボル」として八幡神が必要になりました。「八幡」は「やはた」つまり八枚の旗のことで、「宇佐託宣集」には「辛国ノ城ニ八旒(りゅう)ノ旗ガ天降ツタ」という記述があります。
八幡神社の祭神は十五代応神天皇(誉田別命、ほむたわけのみこと)、神宮皇后(大帯姫命、おおたらしひめのみこと、応神天皇の母)と十四代仲哀天皇(応神天皇の父)の三体です。応神天皇が九州の熊襲(くまそ)や隼人(はやと)を平定するなど武勇に優れていたことから、八幡神社は武の神様になっています。こうした事もあり、九州の宇佐地方に建てられた宇佐八幡宮は皇室の崇敬も篤く、全国の八幡神社の中心となっています。
さて、八幡神社は武家の棟梁である源氏の守護神でもあります。その理由
は源氏が元々、五十六代清和天皇の子孫であることと、武人として名高い八幡太郎 源義家が石清水八幡宮で元服したことによります。また鎌倉の鶴岡八幡宮も源頼朝と深い縁があります。
熊本市の北、約30kmに菊池市があります。現在、人口が約三万人でここが菊池氏一族の発祥の地です。土地は肥沃で温泉もあります。<o:p></o:p>
菊池氏の祖先は藤原氏北家太宰権帥(だざいごんのそち)藤原隆家でその孫 藤原則隆が肥後国に下り土着したのが始まりです。支族に米良氏(めらし)、西郷氏、赤星氏があります。ところで桓武天皇の皇子の舎人親王から五代目が清原深養父(ふかやぶ)で、その孫を清原元輔と言い、清少納言の父に当たります。この清原深養父の兄弟である海雄の子孫の女性が菊池氏初代の藤原規隆の妻になりました。こうしたことから、清少納言と西郷隆盛は縁続きということを言う人もいます。<o:p></o:p>
さて、菊池氏を形容するのに、しばしば、正義武断、忠義武烈という言葉が使われます。自分の損得を度外視した根っからの勤皇派で、正義感が強く、損を承知で戦い、武士の意地を通して来ました。六代隆直公は源平の合戦の際、平家方について戦い、安徳天皇に殉じました。また「承久の変」では後鳥羽上皇に従って奮戦して敗れ、北条氏に所領を没収されました。十二代、菊池武時公は後醍醐天皇の綸旨(りんじ)を奉じて鎮西探題、北条英時と博多で戦い敗れました。武時公の二人の子も南朝に忠誠を尽くしました。また、十五代武光公も南朝の下で九州を平定しました。このように代々の菊池氏は常に天皇方について勇戦しましたが、多くは損ばかりしていました。遂に二十四代武包(かね)公の時、戦で大敗して菊池城を捨てざるを得なくなり、463年に亘り続いた肥後菊池家の正統は断絶し、子孫は日本中に四散したということです。<o:p></o:p>
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損得抜きで節義に生きる、凄い一族がいたものです。<o:p></o:p>
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