yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

八田與一

2009-07-31 07:00:53 | 歴史
八田與一(1886-1942)は台湾に烏山頭(うさんとう)ダムを建設した土木技術者です。金沢に生まれ旧制第四高等学校(金沢)から東京帝国大学進み、1910年に土木科を卒業しました。同じく東京帝大で学び、パナマ運河の開削に貢献した先輩、青山士(あきら)の行動に触発されて台湾赴任を決意し、台湾総督府で技術者として勤務しました。31歳の時、金沢生まれの米山外代樹(とよき)と結婚しました。台湾南部、台南県の嘉南平野は当時、水の便が悪く、飲料水、農業用水、工業用水が常時不足しており、伝染病も多い状態でした。八田は大規模な土木工事を実施しました。まず、嘉南平野の上流にダムを建設して珊瑚譚(さんごたん)の水を引いてダムを満水にしました。ついで嘉南平野を縦横に走る水路を造りました。この水路はサイフォンの原理などを応用して、大変な苦労の末に作られたもので、総延長は16,000kmにも及び、万里の長城を遙かに凌ぐ長さでした。これは嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれています。與一は公務員の地位を捨ててまでこの水利事業を推進し、水に関わる問題を一挙に解決することに成功しました。その結果、不毛の地であった嘉南平野は台湾第一の農業地帯に変貌したのです。八田技師のこの快挙は台湾の歴史教科書にも載っているとのことで、彼の知名度は日本におけるより、台湾において大きいとのことです。なお恩を感じた地元農民が中心となって1946年には八田夫妻の墓をダムの畔に作り、與一の命日の5月8日には墓前祭が毎年かかさず行われているとのことであり、現職の台湾総統も訪れるそうです。建墓の後には、烏山頭ダムを見下ろす丘に木々の緑に囲まれて、技師姿の與一の銅像も建てられました。
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お礼

2009-07-30 06:44:32 | 近況
いつも、私のブログをご覧いただきありがとうございます。
お蔭さまで、昨日、アクセス数が55,000に到達いたしました。
平成18年の3月に書き始めてから3年余りになりました。
この間に55,000アクセスは、望外のハイペースではないかと思っております。
引き続き、ご愛読いただければ、有り難く存じます。なお、折々にコメントを頂戴できれば大変、励みになると存じます。
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奈良の宿 日吉館

2009-07-26 07:51:21 | 文化
   「日吉館」は奈良の有名な宿です。奈良国立博物館の北側、東大寺の南西の一等地にありました。創業は1914年と古く、多くの学者、学生を格安の料金で泊めてきましたが、老朽化したため1995年に廃業し、三年後に名物女将、田村ヨシノさんが他界したこともあり、去る6月22日から取り壊されました。
宿帳に残る著名人は会津八一、久松潜一、和辻哲郎、志賀直哉、広津和郎、堀辰雄、亀井勝一郎、小林秀雄、水原秋桜子、平山郁夫、土門拳など際限がありません。戦前、戦中、戦後を通じて日本の文化と学問を支えてきた人々が、奈良に日本古来の文化や芸術の根源を探ろうとした時、「日吉館」を宿にしてきました。そして彼等の薫陶を受けた弟子、学生達もここに泊りました。採算などにこだわらない女将が、低料金で運営しており、早寝、早起きを客にも励行させ、テレビは学究の徒には要らないという主義を貫いた質素な宿でしたが、夕食にはしばしば肉がふんだんに入ったスキヤキが振舞われました。
玄関には会津八一が「旅舎 日吉館」と揮毫した堂々たる看板がありました。また平山郁夫(元 芸大学長)の絵の原点は奈良であると言われ、ここから中国、シルクロードを経て中央アジアにまで伸びて行っています。氏は「日吉館」を最後まで見つめ続けていました。

  さて、新薬師寺は「日吉館」の位置よりやや山側の、高畑という所にあり
ます。ここを亀井勝一郎は「高畑の道」という文で次のように描写していま
す。

新薬師寺を訪れた人は、途中の高畑の道に一度は必ず心ひかれるにちがいない。はじめて通った日の印象は、いまなお私の心に一幅の絵のごとく止まっている。山奥へ通ずるそのゆるやかな登り道は、両側の民家もしずかに古さび、崩れた築地に蔦葛のからみついている荒廃の様が一種の情趣を添えている。古都の余香がほのかに漂っている感じであった。

  昔「日吉館」を識らなかった私は、この高畑の道のほとりにあった奈良学
芸大(現 奈良教育大学)の桜寮に只同然の料金で泊めてもらい、連日、奈
良、大和路を歩き回りました。この寮は若草山に隣接して建っていましたの
で、朝方には庭に鹿がやってくる、まことにのどかな旅舎でした。
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皆既日食

2009-07-20 19:41:50 | 科学
7月22日に日本の南部諸島で久しぶりの皆既日食を見ることができます。21世紀で最長、約6分半も続く皆既日食です。宇宙空間において太陽の軌道である黄道と月の軌道である白道の二つの楕円が交差する時に「食」が起こります。月の陰に太陽がすっぽり入る皆既日食は、太陽の視直径が月の視直径の400倍で、地球から太陽までの距離が地球から月まで距離の400倍であるという不思議な偶然によるものです。
また、黄道楕円面と白道楕円面が5度だけ傾いているので両者の周回軌道が交差するのは稀にしか起きない現象なのです。20世紀の皆既日食は1955年、1963年などにありました。次の皆既日食は26年後の2035年です。皆既日食は人類にとっても動物にとっても大変異常な現象でしたので、神話や書物の中にも多く登場します。古代インドのヒンドゥー教の神話や中国の史書にもあります。日本では天照大神が天岩戸に引き籠ったために、豊葦原の瑞穂の国が闇になったという神話があります。源平合戦の最中、1183年にも皆既日食が起きて、戦闘が混乱したことが「平家物語」などに記されています。
一方、皆既日食は科学の進歩や天体観測にも大いに役立ちました。
 アインシュタインは1915年から1916年にかけて一般相対性理論を発表しましたが、この理論は重力と空間の歪みの関係を論じたもので、当時この理論を理解し正しいと信じた人は極めて稀でした。その中にあって、イギリスの天文学者アーサー・エディントン卿は1919年の皆既日食の際に見事な天体観測を行いました。通常、太陽の近くにある恒星は太陽の強い光に邪魔されて観測することができませんが、皆既日食の際にはこういう星が観測できる絶好の機会になります。太陽の近くに見える恒星を観測すると恒星からの光が太陽の重力場を通って来る時に、重力場による空間の歪みの影響で曲ってしまい、ニュートン力学から当然予想される場所ではなく、アインシュタインの理論から計算される位置に見えることをこの時、エディントン卿は確認しました。こうした事もあり、発表されたばかりの一般相対性理論が正しいことが実験的に証明されたのです。
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達磨大師

2009-07-18 09:05:10 | 歴史
達磨(だるま、菩提達磨、ボーディダルマ)はサンスクリット語で「法」を意味します。5世紀後半から6世紀前半の人と言われています。南インドの王国の第三王子として生まれましたが、仏教の修行をした後、中国に行きました。落陽の郊外の嵩山(こうざん)少林寺で壁に向かって座禅すること九年(面壁九年)で悟りを得ました。訪れた梁の国の王の武帝は熱心な仏教信者でした。武帝は達磨に向かって「私は沢山の寺を建て、多くの僧を得度させた。いったいどういう功徳があるだろうか」と訊ねました。これに対する達磨の返事は、白刃のように素っ気ないもので「無功徳」と突っぱねました。武帝は続いて訊ねました。「いかなることか聖諦(しょうたい)第一義」悟りというのはいったい何のことか、という問でした。すると達磨は「廓然無聖(かくねんむしょう)」、がらんとして有難そうなものなど何もない、と答えました。武帝は途方に暮れて「朕に対する者は誰か」と重ねて問いました。返事は「不識」識らず、でした。この問答は禅の極意、「空」の思想を語る問答として語り継がれています。
達磨が武帝を見限って行ってしまった後、武帝の補佐官の大臣誌公が「あの人は観音さまの生まれかわり」と進言しましたので武帝は驚いて国中を探し達磨を連れ戻すように命じましたがうまく行きませんでした。武帝は達磨が亡くなったと聞いた時、自ら追悼の碑文を書いて「ああ、それ、これを見ても見ず、これに逢うて逢はず、これに遇うて遇はず、今も古もこれを怨み、これを恨む」と後悔したとのことです。この話は一番大事な話を聞き逃したり、二度と来ないチャンスを逃してしまうことを戒めています。
  達磨により中国に禅宗が伝えられたので、達磨は禅宗の初祖と言われ、以後、六祖の慧能(えのう)にまでその教えが伝わりました。これが我が国の臨済宗、曹洞宗などの禅宗五家となり、日本の仏教に大きな影響を及ぼしました。
        紀野一義著 『禅』 NHKブックス 
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八幡神社

2009-07-15 06:05:56 | インポート
   八幡神社は日本全国に四万余あると言われています。日本の神社は全部で約11万社ですから八幡神社がいかに多いかがわかります。このため北九州の旧八幡市を始めとして、八幡がつく地名は全国に沢山あります。
八幡神社の中心は大分県宇佐市の宇佐八幡宮です。嘗て宇佐地方を支配していたのは宇佐氏ですが、辛島氏、大神氏(おおがし)が渡来してきたので、宇佐地方の「統合のシンボル」として八幡神が必要になりました。「八幡」は「やはた」つまり八枚の旗のことで、「宇佐託宣集」には「辛国ノ城ニ八旒(りゅう)ノ旗ガ天降ツタ」という記述があります。
八幡神社の祭神は十五代応神天皇(誉田別命、ほむたわけのみこと)、神宮皇后(大帯姫命、おおたらしひめのみこと、応神天皇の母)と十四代仲哀天皇(応神天皇の父)の三体です。応神天皇が九州の熊襲(くまそ)や隼人(はやと)を平定するなど武勇に優れていたことから、八幡神社は武の神様になっています。こうした事もあり、九州の宇佐地方に建てられた宇佐八幡宮は皇室の崇敬も篤く、全国の八幡神社の中心となっています。

さて、八幡神社は武家の棟梁である源氏の守護神でもあります。その理由
は源氏が元々、五十六代清和天皇の子孫であることと、武人として名高い八幡太郎 源義家が石清水八幡宮で元服したことによります。また鎌倉の鶴岡八幡宮も源頼朝と深い縁があります。
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会津人 伊東正義

2009-07-10 20:30:46 | 歴史
伊東正義(1913-1994)は中央政界で活躍した数少ない会津人です。福島県から総理大臣は出ていませんが、伊東正義は承諾をすれば総理になることができた只一人の福島県人です。会津藩に伊東家は四家ありました。本家は代々、藩校日新館の教授を勤めた家柄で、正義の家はその分家です。正義の父は長い間、会津中学(現会津高校)で教職にあり、名物教師として有名だったとのことです。また山本八重から鉄砲を習い、戊辰戦争に出陣して討死した白虎隊士伊東悌次郎も伊東一門の一人でした。正義は会津中学の時、会津の大先輩、山川健次郎(元東京帝国大学総長)と柴五郎陸軍大将の講演を聴きました。そこで山川健次郎は「権勢富貴何するものぞ」と言い、柴大将は「会津の青年よ奮起せよ」と語ったのですが、この頃から正義は「己の信ずる道を進む」という決意を固めたものと思われます。後の人生において信念をもって主張し、行動したので「竹を割ったような人」とも評されました。その後、中学を4年で終了し、浦和高等学校から東京帝国大学法学部に進み、卒業した後、農林省に入り官僚の道を歩みました。彼が後々まで腰に手ぬぐいをぶら下げて執務したのは今でも語り草になっていますが、これは旧制高校時代のバンカラスタイルの名残です。正義は農林次官を経験した後、1963年に衆議院議員に当選して政界に入りました。党内では調整役として力を発揮し、外務大臣にもなりました。竹下総理の後、党の総裁になるように懇望されましたが、「本の表紙だけを変えても中身が変わらなければだめだ」と言って、総理就任を固辞しました。会津の居宅も東京の家も雨漏りがするような質素なもので、とても大臣経験者の邸宅とは思えないような有様でしたが、意に介することはありませんでした。また伊東正義は業者から資金集めをしたり、利益を受けることは全くありませんでした。政治には金がかかるという問題を看過してはならないと言い、「青臭い子供のような議論だ」と批判されると、「政治家の中に私みたいなのがいてもいいではないか」と言って、名前通り正義に基づいて、清貧で清潔な生涯を送りました。
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菊池氏

2009-07-03 09:27:09 | 歴史
   

熊本市の北、約30kmに菊池市があります。現在、人口が約三万人でここが菊池氏一族の発祥の地です。土地は肥沃で温泉もあります。<o:p></o:p>

菊池氏の祖先は藤原氏北家太宰権帥(だざいごんのそち)藤原隆家でその孫 藤原則隆が肥後国に下り土着したのが始まりです。支族に米良氏(めらし)、西郷氏、赤星氏があります。ところで桓武天皇の皇子の舎人親王から五代目が清原深養父(ふかやぶ)で、その孫を清原元輔と言い、清少納言の父に当たります。この清原深養父の兄弟である海雄の子孫の女性が菊池氏初代の藤原規隆の妻になりました。こうしたことから、清少納言と西郷隆盛は縁続きということを言う人もいます。<o:p></o:p>

 さて、菊池氏を形容するのに、しばしば、正義武断、忠義武烈という言葉が使われます。自分の損得を度外視した根っからの勤皇派で、正義感が強く、損を承知で戦い、武士の意地を通して来ました。六代隆直公は源平の合戦の際、平家方について戦い、安徳天皇に殉じました。また「承久の変」では後鳥羽上皇に従って奮戦して敗れ、北条氏に所領を没収されました。十二代、菊池武時公は後醍醐天皇の綸旨(りんじ)を奉じて鎮西探題、北条英時と博多で戦い敗れました。武時公の二人の子も南朝に忠誠を尽くしました。また、十五代武光公も南朝の下で九州を平定しました。このように代々の菊池氏は常に天皇方について勇戦しましたが、多くは損ばかりしていました。遂に二十四代武包(かね)公の時、戦で大敗して菊池城を捨てざるを得なくなり、463年に亘り続いた肥後菊池家の正統は断絶し、子孫は日本中に四散したということです。<o:p></o:p>

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損得抜きで節義に生きる、凄い一族がいたものです。<o:p></o:p>

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